会主講話の分析

 誰かがアップしてくれた、「会主講話」を大変興味深く読ませてもらった。この会主講話を私なりに分析してみた。

1、テキストの分析
クリックすると会主講話の「です」の多さがよく分かる
 彼がこの講話で述べている内容については論ずるのもバカらしいのでその内容にはあまり触れようとは思わない。講話の内容は一言で言って、”論評に値しない”陳腐なものでしかない。
 この講話をテキスト化した文章は4,452文字(全角)の文章だが、この会主講話は非常に短いセンテンスの継ぎ合わせで文章が構成されている点に特徴がある。
 会主講話が短い文章の継ぎ合わせになっている理由として考えられるのは、会主の言語能力が非常に貧弱であるため、”意味のある長いセンテンスの話”をするだけの頭脳を持ち合わせていないだけなのかもしれない。
 しかしこの講話はセンテンスが短いだけでなく、その短いセンテンスが「です」で終わる頻度が非常に高い。この文章の「です」の多さは尋常ではなく、ひょっとするともっと深い意味があるのかもしれないと考え、以下の分析をしてみた。

 会主講話のテキストをざーっと眺めただけでも「です」の多さにはすぐ気づくが、数量的にどれくらい多いのか数えてみた。
 この文章中、文章の終わりが「です。」となっている部分が41カ所ある。「ですね」とか「ですよ」、「ですから」などと使用している語は除き、語尾が「です。」で終了している箇所が41カ所である。
 会主講話だけを見ていたのでは4,452文字の文章中、「です」で終わる回数が41回という数値が多いのか少ないのか判断できないので、会主講話と同じ「ですます調」で論じられている他の講演記録を数件選びだし、それらの講演記録中文末が「です」で終わる頻度を調べてみた。
”です”の頻度
会主講話・・・41回
比較講演1・・11回
比較講演2・・15回
比較講演3・・14回
比較講演4・・ 3回

 比較対象した講演記録の文字数は会主講話と同じ4,500文字程度とし、計測はそれぞれ複数回行い同じ条件で計測するようにした。その結果各講演中「です。」で文章が終わっている回数は左記の通りであった。
 この結果からも分かる通り、この会主講話では他の一般的な講演の3倍から4倍の頻度で「です」が多用されている。
 ここまで極端に「です」を多用するのは、「です」の連射によって聞いてる者に、”断定暗示”を与える意図があるのではないかとも思われる。
 「です」で終わる文はその内容が、”正しいものである”と読者や聴衆に印象づける効果がある。これほど極端に「です」を多用した例は私はこれまで聞いたことがない。強いてあげるならば、断定的表現で全ての文を締めくくることで有名なアドルフ・ヒトラーの演説が思い浮かぶくらいだ。

 私たちが日常的に人に話をする場合、「です。」と言い切った話し方をするのはよほど持論に自信がある場合か、意図的に相手に自分の考えを押し付けようとする場合だ。
 日本語の文体として「です-ます調 」は「敬体」とされ、別段悪いことではないのだが、それも程度問題で、ここまで「です」を多用するのは異常だ。

 「です」の多用と併せて会主講話には同じような内容を何度も繰り返す、”反復話法”が用いられている点も特徴的だ。
 アメリカ合衆国大統領となったオバマ氏の演説は同じ言葉を3度繰り返すことで聴衆に強い印象を与えていたがあれも反復話法を巧みに採り入れた演説だ。
 内容的には何一つとして得るところがない会主講話であるが、断定暗示と反復話法を採り入れたことにより、聞いている者に、”御霊光はすばらしい”という暗示を与える効果はあったことは確かなようで、実際にこの会場で会主講話を聞いていた者も、「当時は何となくありがたい講話に聞こえた」と述懐している。
 なお、上記で比較対象した講演記録も参考までにアップしてある。  比較講演1  比較講演2  比較講演3  比較講演4


2、音声の分析
音声編集ソフトで解析中の講話

 会主講話の音声も繰り返し聞いてみた。おそらく10回以上は全体を通して聞いただろう。更に音声編集ソフトを使い、気になる部分を数十回反復させてヘッドホンを通して彼のしゃべり方の特徴を分析してみた。
 会主講話をこれほど詳しく何度も聞いた人はあまりいないのではないかと思うくらいよく聞いた。

 その結果思ったこと。
 会主は話がヘタだ。ただヘタなだけではない。自分の話に”自信”を持っていない。
 なぜそのようなことが言えるのか?
 会主の話し方は語頭が弱いため、”何を言ったのか”が不明瞭となっている部分が多い。これだけ語尾に「です」という断定を用いているのだから、本来であれば語頭にもその自信のほどが表れ、語頭から強く発声するのが普通であるが、会主の話は言葉の立ち上がりが不明瞭であるため一度聞いただけではなかなか何を言ったのか判別することができない。
 「御霊光はすばらしい」のHPを作成した者はこの聞き取りにくい会主講話を非常に正確にテキスト化しているが、よほど会主の話し方に精通している人物が作業を行ったのではないかと思われる(まさか会主本人ではないだろうが・・)

 特に会主講話の中で語頭の弱さが目立つのがアザが治ったとする下りだ。本来ならばこの部分は自分自身の体験談なのだからもっと明確に述べることができるはずなのにことさら自信のない話し方になっている。
 極めつけは最後に、「本当のことなんです」と付け加えている点だ。
 実体験を述べるのにわざわざ最後に、「本当のことなんです」と付け加えたりするだろうか? 自分の話に自信がなく、説得力に欠けているという不安があるからこそ、その不安を補うつもりで「本当のことなんです」を付け加えたのではないだろうか。
 このアザが消えた話は他の系列でも違った人物が同様の”体験談”を述べており、ねつ造された奇跡話である可能性が強い。
 会主の子供時代を知る人がいたらすぐに分かることではあるが・・。


3、メラビアンの法則
 会主講話は、”文字情報”として読むと誠につまらないものでしかないが、実際にこの祭典に参加してこの会主講話を眺めていた客は、これを何となく、”ありがたい話”として受けとめていた。
 人間は人の話を聞くとき、「言葉の内容」で理解していると思いがちだが、実際には目と耳から入る、”言葉以外の情報”(ノンバーバルコミュニケーション)によって大半の判断をしている。右記のグラフにあるように判断に占める言葉の割合は非常に低く、7%しかないなどという説もある。
 会主講話を、”文字情報”としてテキストで読むと”言語そのもの”に神経が集中するのでそれ以外のパフォーマンスや語調に影響されることなく文字情報だけから意味を捉えようとする。すると、会主講話に書かれている内容があまりにも陳腐であることにすぐに気づき、「なんだこれは!?」と首を傾げることになる。この文章を目で読んで感銘を受ける者は皆無であろう。
 ところが同じ内容であるのに会主講話をヘッドホンをかけ、音声に集中して聞くとテキストを読んだ時とは随分違った印象を受ける。これは彼の語り口調が一つの”表情”を作り上げるため、聞いている者は文字を読んだ時とは違った印象を受けるのだ。
 この講話を舞台演出され、たくさんの客がじっとその話に聞き入っている会場で聞けば更に受ける印象は変わってくる。本当は内容のないつまらない話でしかないものが、祭典という一見厳かな雰囲気の中で、”神世界の偉い会主様のお話を聞くのだ”という先入観を持って講話を”眺めて”いると、あたかもそれが本当に、”ありがたいお話”のように思えてしまう。これは人間の心理作用を巧みに利用したカルト手法が盛り込まれているからだ。
 つまり会主講話は文字で読ませる内容ではなく、客を、”場の雰囲気に酔わせた状態”にしておき、そうした環境の中で伝えるからこそ、”それらしい話”に思えてくるのだ。
 それはまさにヒトラー演説と同じで、最高に演出された会場の中で、聴衆の心を十分高揚させた状態にしておき、その中で断定的口調で演説をぶてばたいていの人間はその演説に酔わされてしまう。
 会主講話の音声を聞いてみると分かるが、彼の語り口調は一定のリズムを持っており、音声に強弱を付け、それを繰り返している。こうしたリズムで話を聞かされると聞いている者はその”波”に乗せられ、だんだん波長が合ってくるので最終的には、”いい気持ち”にさせられてしまう者も出てくる。
 この手法もオバマ氏の演説に採り入れられている方法だ。演説というのはどこでやっても同じ効果を上げられるものではなく、会場の雰囲気によって聴衆が受ける感銘度は大きく変わる。
 神世界の祭典では会主や取り巻き連中がコスプレまがいの扮装で壇上に登場するが、あれも、”神聖な非日常空間”(らしきもの)を作り上げるための舞台装置の一環であり、聴衆を”その気”にさせるためのパフォーマンスなのだ。
 人間は本人がそれほど意識していなくても言葉以外のそうした”場の雰囲気”によって対象の捉え方が大きく変化する。それが「メラビアンの法則」だ。


4、会主講話の順番
みくに大祭プログラム
 右記は、”みくに大祭”のプログラムだ。プログラムの右から順番に祭典が進行し、会主講話が行われるのは午後から行われる祈願祭の最後だ。
 当日は東京都内だけでなく地方からもたくさんの客が祭典に参加する。前の晩から付近のホテルに宿泊している者もいるが慣れないホテルでの宿泊で寝不足の者も多い。地方から早朝の電車を乗り継いで会場に駆けつけてくる客も多い。
 みくに大祭は11:00から始まるが10:40にはドアクローズとなるので10時頃には大半の客が会場入りしている。
 琴の調べが流れる会場では、壇上で次々と”神様の儀式”が繰り広げられ、入れ替わり立ち替わり祝詞やご挨拶やらが繰り返されていく。1時間少々かかってやっと”みくに大祭”が終わったと思ったら12:10から祈願祭が始まる。またまた午前中と同じ顔ぶれが登場し、似たような儀式が繰り返される。
 疲労感と睡魔が繰り返し襲ってくる。疲労の極致となったところで、「神世界会主様御講話」が始まる。
 会主の話は中身はないが、「です」の繰り返しにより、なにやらそれが正しいことのように感じられてくる。
 話を短いフレーズで区切り、その言葉に一定のリズムをつけ、同じ内容を繰り返し聞かされると人間の脳内にはα波が発生し一種の催眠効果が生じてくる。
 会主講話は全く持って意味不明な内容のない話でしかないのだが、疲れ切った状態で客席のイスに座っている客達の脳裏には、なにやら「ありがたいお話」のように聞こえている。会主講話をプログラムの最後に持ってきたのは単なる偶然ではない。


5、行動の正当化
 更に言えることは、祭典参加者は当日この祭典に参加するために数万円の参加費用を支払い、なにがしかの玉串を捧げ、交通費もかけて式典に参加している。そうした自分がとっている行動が間違いであるとは誰しも思いたくない。自分の行動は正しいと思うのが人間の常であり、正しいと思うからこそ会場に来ているのだ。
 これだけの費用と時間をかけて祭典に参加しているのだから、その祭典で話される内容は意味のある正しい内容でなければならないと考える訳だ。彼らの言葉を借りれば、”天秤の法則”が働き、実際の内容がプアな講話であっても、”すばらしい講話”に思えてしまう仕組みだ。
 人間は心で考え、その考えに従って行動すると思いがちだが、実は、「行動が心を変える」ということに気づいていない人が多い。
 「神世界の祭典に参加した」という自分の行動を「正しい行動だ」と心の中で認識することにより、自分の深層心理にそうした思考パターンが埋め込まれていき、神世界そのものを正しいものと認識する思考がより強固なものとなっていく。


6、コミットメントの原理
 自分がなぜ神世界に嵌ったのか自分でもよく分からないという人も多い。それを解き明かすためには、上記5で述べた、”行動の正当化”をもう少し詳しく理解しておく必要がある。

 神世界施設の清掃活動や街頭での案内チラシ配布などの活動は、「自分はこの活動を神様との取引のために行っている」と思ってやっている。決してそれは一般的な奉仕活動やボランティアのようなものではなく、「自分のために行っている」という意識で活動に参加している。自分のためだと思うからこそ、強制されなくても自分から進んで活動に参加する。“お手伝いをするといい御誘導を頂けるんだよ、誰々さんはこんな奇跡を頂けたんだよ”と煽られると、競争意識や対抗意識が生まれ、「あの人に負けてなるものか! よーし私も!」という嫉妬心まで出てきて神世界の活動に積極的に参加するようになる。
 このようにして、”自分の判断で行動に参加させる”ことこそが神世界にとって最も重要な狙いなのだ。
 大切なことは、「何のために」とか、「どのような動機で」行動に参加しているかではなく、自分の判断で行動に参加するように仕向けるところに本当の狙いがあるのだ。

 人間はある行動をとるとその行動に縛られるところがある。心理学ではこれを、「コミットメントの原理」という。
 このコミットメントの原理に関する興味深い実験結果がここにあるので、できればご覧いただきたい。この実験に出てくる交通安全の小さなステッカーを貼る行為が神世界では1,000円のお試しヒーリングであり、巨大看板設置了解数十万円の御祈願であると思ってもらえば分かりやすい。

 神世界でいうところの、”神様との取引”を労働の対価として賃金を受け取るギブ・アンド・テイクのように考えている人もいる。”神様との取引”として労働の提供(ギブ)をしておけば、そのうち神様が幸せを与えてくれる(テイク)と思って活動に参加したり御祈願という名の「ギブ」を繰り返すのだが、いつまで待っても「テイク」はない。なぜ自分にはテイクがないのか?と聞けば、「それはあなたの神様へのギブがまだ足らないからです」と言われる。
 「それではもっと神様にギブをせねば!」と思うが、そういつまでも金が続かない。そのため金に代わるものとして、”神様にとってプラスになること(御神業)”をすることで取り引きをする方向に走る。実はその取り引き(御神業)が自分自身の心をより強固に神世界に縛りつける結果となっていくことに本人は気づいていない・・・。

 一旦神世界に足を踏み入れ神世界の活動に参加した者は、”先行投資した分を取り戻そう”(いわゆる「天秤の法則」)と思って次々と行動していくが、その行動が実は自らを更なる蟻地獄に引きずりこんで行く行動なのである。

 人間は「思想」、感情」、「行動」の間には一定の食い違いしか許容できないものだ。このため、ある行動を起こしているときは他の二つはその行動と不協和音を少なくする方向に動く。これを心理学では「認知不協和理論」という。
 そのため情報の取り入れにも取捨選択が起き、食い違いの少ない情報を優先的に取り込むようになる。掲示板に書かれた神世界批判には目を向けず、サロン内で言われたことを全面的に信用する視野狭窄が起こるのもそうした理由からだ。
 自らの行動によって神世界を容認する思想・感情の素地が作られているので、会主講話のようなつまらない話でも、当時は、”それらしく”聞こえてしまう結果となる。


7、結論
 神世界という団体がやっていることは神様を利用して人々から金をかき集める霊感商法でしかないのだが、そこで使われている数々の手法は人間の心理を巧みに利用したカルト的手法だ。
 びびっとで行われていた祭典では、客の額を床につけて深々と礼をさせる、”平伏”をさせていたということだが、現代にあって他人に平伏を強要するのはカルトが信者の心を縛るためにそうした行動を強要する以外にはあり得ない行動だ。
 命令に従って平伏してしまった客の心は、その行動によって更に神世界の神が絶対的権威のように感じられてしまい、更に彼らの意のままに操られる結果となっていく。
 会主講話の内容はお粗末だが、カルトの心理操作として見たときにはこの会主講話も違った意味合いが見えてくる。
 神世界事件がこれだけ大きな被害を出すに至った背景には、彼らがカルトとして狡猾な才能を持っていたことが上げられる。一体誰がこうした手法を彼らに教えたのか?
 それを解明するためには神世界トップを法廷に引きずり出すことが絶対に必要だ。


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