宗教の選択と結果

(下記の内容は、黒潮ひかり(ペンネーム)氏が同人誌に投稿し掲載された内容です。黒潮氏のご厚意により当HPにても公開させていただきました)。

黒潮ひかり

1、宗教教団との出会い
 「手かざし系」の新興宗教団体・神慈秀明会の実態とその入信で転落していった元青年の実話と、間違った宗教教団を選ぶことの恐しさと、その家族にもたらす大きな災いを知っていただきたい。

 彼、入江庄一は高校卒業後、夜学で学びながら東京のTデパート庶務課に勤務していた。19歳の時、街で呼び止められ、手かざしで額の”面ちょう”を治してもらったことでその宗教教団・神慈秀明会を心底信じた。
 庄一の幼少時代、父親は外面は良いが、家では暴力を振るう都庁の役人だった。飲んでは庄一と妻に暴力を振るい、大暴れしては官舎の職員家族たちを驚かせていた。庄一が小学4年生の時両親は離婚した。
 3カ月後、母親が起こした親権回復の裁判は敗れ、彼は2歳下の妹とともに父親の元に引き取られた。子供が好きでもないのに「子供はオレの命!」と周囲にうそぶく父親であった。子供を手放さなければ妻は必ず戻ってくると確信しているが故だった。が妻弥生は戻らなかった。

 庄一は渋谷のデパートで真面目に勤務をこなし、夜学生としてごく普通の生活を送っていた。そんなある日のこと、街で出会った神慈秀明会は彼の生涯の一大転機となっていった。「あなたの幸せを祈らせて下さい」と街角で、手かざし(浄霊)していた宗教教団であった。
 まず庄一が勧誘されて最初に連れて行かれた東京支部で玉串(お金)を捧げて、入信に必要なお光り(お札)に5万円を払った。途中から3万円に値下げされたようだ。このお光りを汚したりした場合は、お詫びと称して1万円相当を支払い、この札を首にぶら下げる紐は、安物でなく、金やプラチナの紐が望ましいと言われた。

 他方、実母の弥生は名古屋に住み、東京で暮らす2人の子供のことをずっと案じながら働いていた。子の消息を上京する度に、当時は、まだ閲覧できていた戸籍簿から2人が現住所にいることなどを確認していた。
 庄一が高校を卒業した年、弥生は担任教師を訪問し、庄一の高校時代の様子と卒業後の進路を尋ねた。その翌年、Tデパートに勤務する庄一と再会を果たした。庄一は10年ぶりに突然職場に現れた母親に戸惑いながらも、その後の酒乱の父親との生活を淡々と語った。母の弥生に「老けたネ……」と感慨深そうに言った。


2、神慈秀明会の経営形態
 神慈秀明会では信者からの献金で成り立っている。それらは、月々の玉串料、地上天国献金、桃の木献金(施設献金)、月々のお供え代として数千円、滋賀県甲賀市信楽の本部で行われる式典参加費、教義を学ぶための教本代などの他、信楽のミホ美術館では立派な画集やカタログ、カレンダーなども販売されている。
(画像はイメージです)
 庄一のアパートにひときわ大きな木製の箱が目をひく。この箱のジャバラの扉を開くとご神仏の額が入っており、額の中には、A4大の紙に「光明」の二文字が見える。その光明の額を収納している木製の生成りの箱の大きさと立派さ。庄一のアパートの狭い部屋には、とても不釣り合いで不自然なものだ。額が五個も入ろうかと思われる大きな箱。「めちゃくちゃ大きい箱だね」と母の弥生が呆れ顔で言うと「これは規格品だから」と庄一。金を工面し、手に入れたものだろう。お光りの札といい、木製の高価な箱と収められている光明&カ字入りの額。この三点は、善良な信者に、金目当てに買わせる入信時の手形≠ノ他ならない。神慈秀明会の商法をここでも伺い知ることができる。神慈秀明会の説く「地上天国の実現」「全人類を救う」これらの使命を前面に、人目をはばからぬ街頭布教、無差別個別訪問、職場や学校での布教活動など活発に行われていた。が、オオム真理教のサリン事件以降、街頭での手かざし活動は姿を消している。


3、神慈秀明会の組織と体質
 神慈秀明会は世界救世教の流れをくみ、会主の故小山美秀子氏が1970年に設立。長女の弘子氏が会長を務める。信者は公称35万人で国内に55カ所の支部と出張所があり、香港や米国に海外法人がある。
 本部は1983年に滋賀県甲賀市信楽に信仰の拠点「滋賀の神苑(みその)」を開いた。新興宗教のその経営に、登場するのが「玉串料」や「献金」などの集金業務だ。信者には玉串料を捧げたり、お布施や献金をすることは神様に対して徳を積むことになると教え、可能な範囲で徳を積むように指導する。集められたお金の使い道は多様であるが、立派な教団施設の建設にも使われる。
 天を突くような、見るものを圧倒する荘厳な神殿は「こけおどし」的な効果が大きく「これだけ立派な建物を建てることの出来る教団なのだから、この教団は本当に素晴らしものだろう」と思わせる効果がある。
 また多くの新興宗教は著名人とのつながりを盛んに宣伝する。誰でも知っている有名人、タレント、団体名等を次々と列挙することにより、「このような有名人も認めている教団なのだから大丈夫だろう」と安心させ効果が大きい。神慈秀明会も著名人とのつながりを信者拡大の道具として使っており、本部がある滋賀県信楽の山中に建設した神殿落慶法要にはM・進一やS・郁恵など、当時の国民的歌謡曲スターを呼んだ。更に世界的有名な日本人指揮者のO・征治氏が演奏する音楽祭が開かれた。二昔も前のことだった。庄一は母をこの名演奏家O・征治氏の音楽祭に招待した。弥生は人里はなれたこの山中にそれを実現させた、神慈秀明会の底知れぬ金力に恐怖を覚えた。

MIHO美術館エントランス
 同じ信楽の土地に建設したMIHO美術館を設計したのは世界的な有名人であり、有名人好きな神慈秀明会の体質がよく現れている。
 こうした宗教本来の内的世界とは別次元の「建築物の立派さ」や著名人も認めているといった見た目の派手さで大衆にアピールし、実態をよく知らない者を信用させて自らの宗教に取り込んでいこうとする姿勢は真の宗教といえるだろうか。

 献金、奉仕活動。多額の金と多くの奉仕時間は、庄一の生活を大きく変えて行った。秀勉、月次祭、家庭月次祭への行動には常に金が付きまとい、毎月のスケジュール表によって活動が割り当てられる。
 庄一が入信まもないある日「腹が痛い」と言って職場を休み街頭活動をしているところを上司に見つかった。以来、職場からは白い目で見られることになった。そして、迷うことなく辞職しフリーターになった。アルバイトに就いたことで彼は、益々神慈秀明会の熱心な信奉者となった。この件は父親の怒りを買い父と庄一との喧嘩は日常茶飯事となっていった。その数年後に父親は再婚し、父は新しい伴侶の家に入り、庄一と妹恵美は公団に引き続き住んだ。庄一と妹は共に昼働く夜学生であった。父親が公団の家賃を送ってきたのは三カ月だけだったと妹恵美はいう。この生活を支えたのはほとんど、庄一の妹恵美の働きによるところが大きい。恵美はアルバイトを掛け持ちした。長いドレスでのホステス業は手っ取り早い収入源のひとつであった。
 恵美は宗教にのめり込んでいる兄の庄一との貧困生活とやり切れない焦燥感の中で歯をくいしばった。そして何とか四年で夜学を恵美は卒業していった。
 庄一は父親のもとへ借金をしに出かけたりしたが、追い返され以来父子の縁は切れたままだ。


4、マインドコントロール
 19歳で神慈秀明会に入信してから26年の歳月が流れた。
 庄一は都内のアパートに住み、人生の半分以上を神慈秀明会に捧げた。彼は45歳の中年になっていた。結婚もせず、定職にも就けず、借金は信販から始まり、消費者金融(サラ金)へと広がっていった。神慈秀明会への献金と労働の奉仕で庄一のその生活は、借金地獄への崖を転がり堕ちていった。借金返済のために働くこの生活が、すでに12年間続くがそれでも彼は神慈秀明会を辞めようとは、露ほど思っていない。「心が落ち着く」とは終始庄一の神慈秀明会から離れられない心情を表わしている言葉だ。世人を震撼させた、オウム真理教信者のマインドコントロールの状態と同じではないだろうか。


5、社会的制裁
 2008年7月9日、京都新聞に、「借金で献金二審も違法」神慈秀明会に大阪高裁借金で献金させたのは違法として宗教法人神慈秀明会の元信者の親子が同会などに損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で大阪高裁は8日、660万円の支払いを命じた一審の京都地裁判決を支持、双方の控訴を棄却した。判決理由で裁判長は「信者が経済的理由に余裕がないのを知りながら、借金して献金するよう強く勧めるのは経済的破綻をもたらす危険性の高い行為」と指摘。幹部信者が「献金しなければ地獄にいる先祖が救われない」などと強く勧誘しており、一部の献金は「元信者の自由な意思に基づいたものとはいえず違法」と判断した。

(編集者注)上記訴訟はその後最高裁に上告されている。2009年1月27日、最高裁判所は、「上告を棄却する。上告審として受理しない」決定をした。これにより、実質的には一審の京都地裁判決(2007.12.25)が確定したことになり、神慈秀明会及び教師が借金をさせてまで献金をさせたことは違法とする判決が確定した。
詳細は、こちらにあります。

 全国霊感商法対策弁護士連絡会に加盟する弁護士のK・正樹氏はこう述べている。
 「献金というものは、本来気持でするものですから借金させてまで献金させることはおかしい(違法性が推定されるべき)」と、私が長年、著書その他で記載し、主張してきたことだ」。

 「投げ込み」という言葉をご存知だろうか? 警察や監督官庁に対して投書や電話、メールで不正事案等を「通報」することを「投げ込み」または「投げ」という。
2006年頃から東京国税局や大阪国税局には神慈秀明会内部での不正な資金についてのメールの投げ込みが増加していた。投げ込みの大半は神慈秀明会の不正を漠然と訴えるものが多かったが、一部のメールは神慈秀明会の内部事情に精通した者でなければ知りえない情報もあったようだ。
 これに先立つ2005年10月、神慈秀明会の複数施設に大阪国税局の査察が入った。俗に言うマルサ≠ナある。かなり前の映画であるが、伊丹十三監督「マルサの女2」という映画がある。その映画は宗教法人を隠れ蓑にした巨額の脱税私財を蓄積している教団経営者の姿として見ることが出来る。神慈秀明会に査察が入ったという情報はその日の内に神慈秀明会本部から全国の教団施設に速報され、まだ査察が入っていない拠点で神慈秀明会本部からの指示により書類がシュレッダーにかけられた。その作業が追いつかない拠点では屋外で焼却処分にされたものもあった。拠点でこの様子を見ていた信者は、神慈秀明会という団体がこれまで思っていたイメージとは、違った存在であることに気付いた。

 神慈秀明会に対する大阪国税局の査察があってから4カ月ほど後、大阪国税局は神慈秀明会会長・小山弘子ら親族6名に対して約16億円の申告漏れを指摘し、約10億円の追徴課税を通告した。国税局が下した申告漏れ等の判断に不服がある場合は、国税不服審判所にその旨を申し出て再審査を依頼する。神慈秀明会会長・小山弘子はその申し出をすることなく大阪国税局が指摘した約16億円の申告漏れを認め、重加算税を含めた10億円の追徴課税に応じた。優秀な弁護士や税理士を複数抱えている神慈秀明会が何らの不服申し立てを行わずに大阪国税局の指摘に従って追徴課税に応じたのは、不服申し立てできるだけの潔白さ≠ェなかった証拠だ。

 神慈秀明会に査察が入ってから約半年後の2006年4月19日、朝日新聞朝刊(関西版)に「宗教法人・神慈秀明会会長ら16億円申告漏れ」の記事が一面のトップ記事として写真入りで報道された。
 この件については、朝日新聞の他、毎日新聞、時事通信、産経新聞、中国新聞、山陰中央新報、京都新聞、熊本日日新聞、西日本新聞、河北新報、四国新聞、福島民友新聞、徳島新聞、岩手日報、静岡新聞、山陽新聞、神戸新聞、秋田魁新報、東奥日報、日本テレビ系列、毎日放送テレビ系列などで報道された。
 弥生はこの朝日新聞の一面トップ記事を庄一に送り「目をさませ!」と強く息子を促すが、返事があるわけもなかった。

 かなり昔のことである。「奇跡の水」あるいは「浄水」と称して庄一が、母と祖母のところに持ってきた水。それは紫のビロードの布に包まれ高価な壷の中に入っている水だ。「病気が治るから……飲むよう」にと母と祖母に勧めにきた。祖母のテイは「ボウフラの湧いた水が飲めるか!」と一喝した。後になって、その奇跡の水は、滋賀県大津市の水道水であると元信者の証言で明らかになった。

 神慈秀明会の街頭での手かざし活動は、世を震撼させたオウム真理教の影響が、大きかったことの理由であろうか、街頭での姿を消していった。
 その後は「新体制」と称して、国連NGOへの参加や自然農法、NPO活動など、目先を変えた新しい活動に取り組んでいるようなパフォーマンスで信者の目を欺いている。神慈秀明会では無農薬野菜や無添加食品の販売も地域の信者ネットワークを利用して活発に行われているが、醤油1本1500円(スーパなら250円程度)、納豆一パック245円(スーパなら70円程度)と法外な値が付けられている。こうした金のいる宗教は、単なる金集めのために宗教を隠れ蓑にして善良な信者をだましている。
 庄一も自然農法の作物作りに田舎に出かけて、割り当てられた野良仕事に精を出す。更に高額でそれらの野菜類を買い取るよう勧められる。奉仕した分の割引などなく、肉体労働の後での高値の野菜を買って帰るのである。


6、転落と救い
 神慈秀明会の明主さま≠骨の髄まで信じて疑うことのない庄一は、格好の餌食であり、会の奴隷である。日々の生活での頼りは複数のサラ金業者でしかなかった。今住んでいる、アパートよりも更に安いアパートに越したくてもその費用もない。
 教えてくれる人がいたのか、庄一はサラ金の高い利息の払いすぎを、清算してもらうべく弁護士に依頼した。弁護士への月々の手数料は、アパート代と同額で、貧しさにあえぐ、庄一のやり繰りも頂点になった。もうこれ以上、どこのサラ金業者からも借りることは出来なくなっていた。光熱費の滞納や税金の不払が続き、健康保険料の滞納はすでに一年間も滞っていた。
 庄一は東京を去り、再婚し名古屋にいる母親の弥生のもとに行こうと考えた。神慈秀明会へ入信で父子喧嘩の絶えなかった昔、その父親とは大昔に縁を切られ、音信不通の状態は今も同じであった。借金で身動き出来ない彼は、実母に泣きつく以外に方法がなかった。弥生と夫は、庄一の生活の実態を始めて知り驚き、呆れ、絶句し、弥生は激怒した。
 45歳、五体満足の男が、「職なく、金なく、所帯なく、借金はございます!」なのだ。これだけでも大いに呆れるが、再婚している母親と義父に「何とか助けて……」とは、どの口が言えるのだろう。
 45歳の息子の母弥生は、70歳に手が届こうとしており、持病もある。ぶん殴ってから「二度と来るな!」と追い返すのが道理だろう。

 ネットの書き込みによると、神慈秀明会の職員らは給料を支給されており、信者が個人的な相談を持ち掛けると「自身で解決するように」と取り付くしまがないと言う。また「割り当ての献金ができない」と告げる信者等に、休学、退学あるいは辞職するよう勧め、借金して献金するよう強く勧める。このような書き込みのメールは神慈秀明会の多くの被害者家族、元信者からの訴え叫びの声である。前述の京都新聞が「借金で献金は二審でも違法」と指摘しているとおりだ。
 会を辞める意志など毛頭ない庄一。庄一と弥生夫婦との話し合いの中で、庄一は「宗教活動と献金はしない」「しかし月二回の支部へのお参りは許可して欲しい」と懇願した。
 どこまでも神慈秀明会から断ち切れない弱い庄一である。このまま庄一を放っておいたらどうなるのだろう? ”犯罪者”か、”行き倒れ”になるのは目に見えている。”自業自得”と突き放せるならどんなに楽だろう。弥生は、再婚相手と義理の娘や息子に対して肩身が狭い。
 ぎりぎりの決断の中で、弥生は夫とともに庄一を受け入れると決めた。親だから「放ってはおけない」。


7、放蕩息子とアブラハム
 弥生は庄一を受け入れると決めたが、その後も思いが一転二転と混乱していた。この時、突然、愛読している聖書の中に、イエス・キリストの説く、悔い改めについての話を思い出した。そしてもう一つは義人アブラハムの信仰心である。
 「放蕩息子」とは、悔い改める者へ赦すことの大切さを教える物語で、それは「放蕩息子」のたとえ話として聖書に載っている。

「放蕩息子」(ルカ伝15章)

 ある人に2人の息子がいた。兄は父親を手伝い、言いつけを良く守りました。弟は財産の中から自分の分け前をもらって遠い所へ行き、放蕩に身を持ち崩してそれを使い果してしまった。その地方にひどい飢饉がやって来ましたが食べる物を買うお金もありませんでした。豚飼う仕事を探しましたが、ひもじくて豚のいなご豆さえ腹を満たしたいと思うほどでした。そこで彼は本心に立ち返り、家の事を思い出しました。自分は飢えて死にそうなのに、家では雇い人でさえ十分な食べ物があると考えました。しかし自分が罪を犯したことを知っていたので、息子と呼ばれる資格がないと思いました。
 けれども家に帰って父の赦しを請い、雇い人として働かせてくれるように頼むつもりでした。まだ息子が遠くにいるうちに父は彼を見て駆け寄り、接吻しました。息子は父親に言ました。「父よ、私は天に対してもあなたに向かっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」。
 しかし、父親は召使を呼んで、息子に指輪を嵌めさせ、最上の着物を着せ、肥えた子牛を引いてきてほふりました。そして「この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と言いました。この時兄は畑で働いていました。帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきました。皆が祝っている理由を僕(しもべ)から知り、怒って家に入ろうとしなかった兄を、父親が出てきてなだめました。兄は「今までずっとあなたの言いつけを守って働いてきたのに、友だちと楽しむために子山羊一匹も下さったことはありませんでした」と父親に言いました。そこで父親は「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」と言って「弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然だ」と説明しました。
 イエスはこの道を踏み外した息子を家に戻らせた。それも拒絶されるのではなく、受け入れられ愛されるような形である。しかしこの息子は失った権利を全て回復されるとは言っておられない。人が行なう全ての選択は、その人の将来の決定の枠を決める。選択はその結果も拘束するのである。


 この放蕩息子のたとえ話の中で、イエスはその事が真理であると如実に示してくれる。弟は、父の財産の取り分をとって家を出ようと決意する。そしてそれを実行に移すが、その時点から、自然はその定めどおりに歩み始める。そして全て使い果たした時、この放蕩息子はもうひとつの選択をする。すなわち、出てきた家に戻るという選択である。これを実行した彼は、今度は指輪と衣、肥えた子牛、それに父親の歓待を受けるが、最初の選択の結果が最後までつきまとい、彼は自分の農場を手にすることは出来ない。「父」といえども、最初の生んだ結果をどうすることもできなかったのである。

 この放蕩息子と庄一とを同列におく事は出来ない。大きな相違は、放蕩息子は悔い改めたが、庄一は悔い改めておらず、ただ「飢え死にしそうなので何か食べ物を恵んで下さい」と母のもとへやって来たのだ。弥生は庄一の社会人としての自立を願いながら、庄一が選んだ宗教の結果に庄一自身が気づくのか? に不安を感じている。
 庄一に犯罪者や行き倒れにさせないためだけではない。
 幸か不幸か、弥生は別れた子らのために若い頃から働き、わずかではあるが子のための蓄えがある。それを庄一が自立出来ると信じて活用しようと考えている。

 また、父祖アブラハムの話はこうだ。
 使徒パウロは「ローマ人への手紙」の中で、アブラハムのことを次のように語っている。
 「彼は望み得ないのに、尚も望みつつ信じた」。すなわちアブラハムはおおよそ百歳になっており、また妻サラが不妊の身であるのを認めていた。が、彼は天使が告げた「貴方に翌年、子が産まれるであろう」と言われたことを信じた。
 あり得ない事、すなわち望み得ない事、子が産まれるその事を信じた。そして天使が告げたとおりイサクが産まれるのである。

 弥生と夫は一縷の希望をもって、庄一を拒絶ではなく受け入れる方向で、迎えようとしている。


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