下記の、「おみくじのオマケ」は、その名の通り、各地の神社でおみくじを買った際についてきた「縁起物」のオマケだ。こうしたオマケ付きおみくじは、「幸福おみくじ」等という名称で一個200円で売っているところが多い(一部の神社では100円で売られている)。オマケのないおみくじは100円、オマケ付きおみくじは200円で売っているところが多いので、オマケ代は100円ということになるが、小売り段階でのマージンが大きいので、オマケ1個の仕入れ原価はその半値の50円以下と推測される。値段設定から考えても、この金色をした物体が本物の「金(ゴールド)」でできているとは到底考えられず、わざわざ鑑定に出すまでもないだろう。
おみくじのオマケ | |||
B社製 |
C社製 |
D社製 |
E社製 |
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『奇瑞』って何?
皆さんは『奇瑞』(きずい)という言葉をご存じだろうか? 辞書を引くと、瑞の文字には×印が付けられており、通常は使わない文字だ。『奇瑞』とは『ふしぎでめでたいしるし』という意味で、非常に希にしか使われない言葉だ。秀明会はこうした一般では使われていない用語や表現を使うのが好きな団体だ。信者には中高年の女性が非常に多く、こうした難解な用語をすらすらとは理解できない方も多そうであるにも係わらず、秀明会の書物等で使われている用語は難解な一般的とは言えない用語をよく用いている。何やら難しい表現、一般庶民にはなじみのない用語や表現を使うことにより、何となく崇高な雰囲気をかもし出すようにし向けられているのだろう。「○○ってどういう意味?」とは、恥ずかしくて聞けない雰囲気を作っておき、よくわからないけれど、皆がそれを受け入れているのだから自分も・・・、と信者を思考停止状態にして秀明会のペースで教義を教え込む呪文のような役割も難解な用語には持たされているようだ。
秀明紙第267号
神慈秀明会の機関誌「秀明」第267号(平成4年6月10日発行)には、「ゴールドの奇瑞」が特集記事として紹介されている。
この特集記事によると、第21回記念大祭の際、『会主様のお言葉により全国に呼びかけ』、秀明会本部の建物を利用して「ゴールドの奇瑞」実物展示会を4日間行い、たくさんの信者がそれを見物したとされている。その展示会の詳細を機関誌「秀明」第267号で特集記事として掲載したわけである。
秀明紙の記事によると、これらの金色の物体は全国の秀明会施設などで「出た」そうで、21種類190点以上あったと書かれている。これら金色の物体は、「全く同じ形のものが遠く離れた場所から出るという不思議さ」と書かれており、わざわざ「不思議さ」というからには、「誰かがおみくじのオマケを人為的にバラ撒いた」のではないということを言いたいのだろう。
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検証
私は各地の神社を廻って、おみくじに添付された縁起物を買い求めてみた。縁起物付きのおみくじは比較的取り扱っている神社が少なく、なかなか入手は困難であったが、なんとか4社の製品、約20数個の縁起物付きおみくじを買い求めることができた。これらの縁起物は写真を見てもらえばわかるが、製造している会社が数社あり、会社によって製作者が違うため、一見同じような縁起物に見えてもよく見ると微妙に形や表情が違うのがわかる。
下記では一例として「米俵に乗った大黒天」の各社毎の違いを比較しているが、他の縁起物についても同様の違いがある。
秀明紙に掲載されたものをAとして、B社、C社、D社のものと比較してみた。
B社の大黒天は頭頂部が丸くなっているのと、頭から肩にかけてのラインが秀明紙のものとは違う。またB社の大黒天は裏面に「大」の文字が刻まれているのが特徴で、他社製品にはこうした文字が刻まれたものはない。
D社の大黒天は、頭頂部が山形になっているのが特徴だ。また頭から左肩にかけてのラインが秀明紙に掲載された大黒天とは角度が違っている。小槌の向きも秀明紙のものとは違う。
E社の大黒天を入手することはできなかったが、E社の縁起物は他社と違い、表面だけの造作で裏面は彫刻が一切されていない平面となっているので秀明紙のものとは基本的な違いがある。
C社の大黒天は外形及び内部の彫刻など全てのラインが秀明紙に掲載された大黒天と一致しており、同一のものであることが確認できた。
このC社の縁起物は、大黒天以外の他の縁起物も秀明紙に掲載された「ゴールド」と全て一致することが確認できた。
一方、B社、D社、E社製の縁起物はどれ一つとして秀明紙に掲載されたものと合致するのものはなく、秀明で『出た』ゴールドは、C社製を中心とした限られた製品であることがわかる。
秀明会本部の誰かが、C社製のゴールドをこっそり仕入れ、それを秀明信者に拾わせた結果が「ゴールドの奇瑞」の真相ではないだろうか。
50円にも満たない「おもちゃ」を、秀明会トップは「明主様からのありがたい奇瑞」と位置づけ、本部で展示会を行い、秀明紙で信者に紹介していたのである。これがはたしてまともな宗教団体の行う所業であろうか。
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私が秀明会の奇跡について解明しようとしているのを知った方が、私に忠告してくれたことがある。「fujiyaさん、ダイヤモンドやゴールドの奇跡はインチキだったかも知れないけれど、秀明にはそれ以外にも病気が治ったり、事故に遭ったが命が助かったりした、もっと大きな奇跡が起きていますよ。ダイヤモンドやゴールドの奇跡は一時的に騒がれただけのことに過ぎないので、今更それを取り上げてもあまり説得力がないのでは・・・?」といった内容の忠告だった。
そうだろうか? 私はそうは思わない。
私が「ダイヤモンドの奇跡」や、「ゴールドの奇瑞」を問題視するのは、神慈秀明会という団体が、奇跡信仰によって信者を集めてきた団体だからだ。秀明会にとって、「奇跡」は自らの存在証明の証となるものであり、その奇跡がねつ造されたものであったとしたら、秀明会という団体の根本が覆されることになる。
この団体が世界救世教から離脱し、『離脱の神意』なるもので、その正当性を主張する際に、「我が神慈秀明会には沢山の奇跡がわき起こっている。それが我らに明主様が存在することの証明だ」とする「奇跡尊重論」を展開してきた。頻発したといわれる「奇跡」であるが、ゴールドの奇瑞はおみくじのオマケ、ダイヤモンドはプラスチック玉、奇跡の水・聖水はただの水道水・・・と、次々と秀明会の奇跡は化けの皮がはがされている。この宗教団体がいう奇跡の信憑性には大きな疑問符を付けざるを得ない。『離脱の神意』にも多くのウソが隠されている。
宗教者として、絶対にしてはならないことは信者に対してウソをつくこと、信者を騙して自らの利益のために利用することだ。これは、宗教のどのような厳しい戒律よりも、もっとも優先させて宗教者が自らに科しておくべき自戒であるはずだ。
宗教者として絶対に行ってはならない「信者へのウソ」という大罪を平気で犯している教団は、信者を教団のために利用する目的はあっても、信者を救おうとすることはあり得ない。
宗教者として最も大切なことは、信者に対してどれだけ誠実になれるかということだ。一人一人の信者が抱える様々な問題に真摯に向き合い、信者とともに正しい道を探す手助けをしてあげるのが宗教者としての役割ではないのだろうか。
真の宗教者は、子供だましのような「奇跡」で信者を惑わすようなことは行わない。
そもそも、無から有を生ずる奇跡がこの世に存在すると思うこと自体がどうかと思うが、百歩譲ってそうした奇跡もあるのかも知れないということにしても、そこで出てきたダイヤモンドやゴールドが、強化プラスチック製のおもちゃダイヤや、神社のおみくじに添付された原価数十円程度の縁起物であるのはどうしたことなのだろう?
無から有を生じさせる奇跡を起こせる神様であっても、本物を出すだけのパワーはないのだろうか? 手品師のような手段で神の存在を示したいのであれば、こんなまがいものを出すよりも、本物のダイヤやゴールドを出した方がよほど説得力があるいうものだ。
本当に神様がいて、無から有を生じさせたり、有を無とすることができるものであれば、カンボジア等に無数に埋められている地雷を神の力で消し去ってもらいたいものだ。もし、そのような神が実在したら、私も神の存在を認めたいと思う。
「秀明」第267号が発行された時代
こうして解明されて見ると、あまりにもバカバカしい「ゴールドの奇瑞」であったが、ではなぜ秀明会はこのような子供だましのようなことを行ったのだろうか? こんなバカなことをしてバレるとは思わなかったのだろうか?
平成4年(1992年)当時、あなたはインターネットで情報を自由に検索し閲覧することができただろうか?
日本国内でのインターネット商用接続サービスが開始されたのは、「秀明」第267号が発行された翌年、平成5年(1993年)からであった。
当時、私はパソコンは持っていたが、NECのPC-9821の初期の物に苦労して5ギガのハードディスク(約5万円)を取り付け、ゲームをしたりワープロ(一太郎Ver.3)、表計算ソフト(マルチプラン)を起動している程度で、インターネットに接続したのはそれから数年後のことであった。当時の日本は、まだインターネットは遠い存在であった。
インターネットがない時代に、一般人が企業や団体を告発するのは非常に大変なことであり、よほど覚悟を決めた人が決死の覚悟で裁判にでも訴えない限りそうしたことは不可能に近い状態であった。
このような時代には、秀明会内部でどのような荒唐無稽な情報が流されようと、それは秀明会から信者への一方通行の情報として流されるだけであり、その内容に誤りがあると一般人が指摘したり、それに対抗して正しい情報を発信することなど到底不可能な時代であった。そうした時代背景があったからこそ、機関誌「秀明」第267号、「ゴールドの奇瑞」特集の発行がなされたといっていいだろう。
平成4年当時は、「これくらいのウソはばれないだろう」、「もしばれても、教団内で適当な理由をつけて押さえ込んでしまえば大丈夫」と思っていたのかも知れないが、その後の急速なインターネットの普及は、秀明会の予測を越えた展開を招いた。
印刷物として発行された秀明紙は信者によって大切に保管されていたが、その信者の心はすでに秀明会から離れ、欺瞞に満ちた秀明会の実態解明のための貴重な情報提供者となっていた。
現代はインターネットの時代である。
こうしてもたらされた情報が、今インターネット上でよみがえり、その詳細が検証され、結果を公表されることとなった。
神慈秀明会としても、当時は、まさかこの「ゴールドの奇瑞」がこうして解明され、その結果をインターネットで世界中に公表されるとは夢にも思っていなかったことであろう。
今頃、秀明会幹部は機関誌「秀明」第267号を発行したことは、大いなる誤算だったと後悔していることだろう。
秀明神は、こうなることまでは予測してくれなかったのであろうか・・・・。