信教の自由とカルト

 登志子は神慈秀明会の世話人(地域の役員)から、盛んに「ご主人も、一緒に入信するように勧めたら・・・」と言われていたようであるが、「(私に)神慈秀明会のことを言えば、反対されるに違いない」と思い、これまで一切私には話さなかったようである。
 私はこれまで、登志子がこのようなことになっているとは全く知らずに、日常会話の中で、得体の知れない新興宗教やその新興宗教に「はまって」いる人をとらえて辛辣な批判的言動をしてきた。登志子が私に話そうとしなかったのは、こうした会話を通して新興宗教に対する私の考え方を知っていたので話すことができなかったのだと思う。
 私の親は全くと言っていいほど無宗教・無信仰な人で、家には神棚も仏壇も全くなかったし、何らかの宗教に凝っている人に対して私の両親はそれらを軽蔑する態度を示していたので、いつのまにか私自身も宗教に対しては否定的な態度をとるようになっていた。
 私は、今日までどの宗教を信じたこともないが、正月には神社へ出かけて5円か10円の賽銭を出し、親の墓参りには寺に行き、結婚式は教会で誓いを立てるといったありさまで、『つきあい程度に』神社やお寺を利用しているが、これはおそらく平均的な日本人の宗教に対するスタンスとそれほどずれていないのではないかと思っている。
 私は非科学的なことは信じない性質であるが、かといって魂の存在や予知能力、輪廻転生等、科学的に立証できないことは全て嘘っぱちだと言い切れるほど確信を持っている訳ではなく、ひょっとしたら現代科学では察知しきれない未知の『何か』があるかも知れない、と思うこともある。ごく一部の現象については特殊な能力を潜在的に持っている人は知覚できることもあるかも知れないと思っている。だからといって、こうした現象を無批判に信じたりはしていない。未知の『可能性』として、その存在を全否定はしないだけである。いわばファンタジーとして、そうした可能性を心の隅に残しておきたいという程度であって、そうした考え方を他の人にまで押しつけようと全く思わない。
 人生をどう生きるかは、自分の判断と努力によって方向が決まっていくものであり、得体の知れない霊や神様に勝手に決められたのでは、たまったものではない。

 信教の自由は尊重すべきと思うので、これまで彼女の信仰について干渉したことはなかったが、高額の献金という事実を知った以上はこのまま放置しておくことはできなかった。
 私は他人の信教の自由を妨害しようとは思わないが、オウム真理教(後にアーレフに改名)や統一教会、エホバの証人、ヤマギシ会等俗にカルトと呼ばれる新興宗教は、個人の尊厳を踏みにじり、家族を破壊し、社会に害をなす団体であると認識しており、こうしたカルトに属することは信教の自由とは異質の問題であり、容認されるべきではないと思っている。
 カルトについての定義は種々あるようだが、私の判断基準としては、人々が持つ悩みや問題意識に巧妙に取り付き、さも、その悩みや課題の解決に役立つかのような顔をして近づき、実際には他の目的へと誘導する宗教団体等はカルトであると思っている。
 人は他人から親切にされると、その返礼としてその親切に報いたいとする心が働くが、カルトはこうした人の心理を利用して巧妙に近づき、人の心を欺く。
 カルトに取り込まれた人は、カルトの巧みな心理操作により、問題が解決に近づいたような錯覚をするが、実際には全く問題は解決に向かわず、むしろ非常に偏った思考パターンが定着するため、人格が変容し、通常の社会生活上にも支障をきたす場合もある。
 カルトにマインドコントロールされて活動した結果であっても、結果は結果として歴然と残るため、その者がマインドコントロールから抜けることができたとしても、自分がおこなってきたことの責任の重さに悩むことになる。
 統一協会を脱会した女性体操選手Yが、「私は統一協会にマインドコントロールされていた」と発言して以来、マインドコントロールという言葉が一般的用語となったが、オウム真理教事件後、更にマインドコントロールの怖さが世間の知るところとなった。上記2団体に限らず、新興宗教においては多かれ少なかれマインドコントロールが行われている。
 宗教を信じるということ自体が一種のマインドコントロールにかかった状態ということもできるが、悪質なマインドコントロールとは、個人の潜在意識に働きかけを行い、一般的には信じがたい荒唐無稽な教義をも『真実』と思わせ、個人の自由意志を奪い教団の意のままに信者を操る心理操作である。一度マインドコントロールにかかってしまうと、それを抜け出すのは非常に難しく、教団の教えが絶対的なものとして個人の判断基準となってしまう。
 信者をマインドコントロールし、信者の人権を無視し、言葉巧に献金させる神慈秀明会の姿勢は絶対に許すことはできない。
 この心理操作の仕組みについては、私なりに研究した内容がここ(カルトテクニック)にあります。

 巧妙な心理操作で信者の判断能力を歪め、先祖の霊の祟りまで持ち出して言葉巧みに繰り返し金銭の供出を要求したり、社会的に見て法外と思われる献金を求めるような行為は宗教団体の行う行為ではなく、金銭搾取を目的にしたカルト以外の何者でもない。
 ごく簡単に言えば、『信者に金を出すように要求する宗教は、宗教の名を借りた集金組織であり、真の宗教ではない』と言ってよい。
 ただし、神社の賽銭や、仏事を依頼した際のお布施など、慣習上儀礼的に少額の金銭を寄付したり、法事などを依頼した対価として支払われる金銭等は社会的に認知されたものであり、別と考えるべきである。
 実際には宗教団体側が直接的に金銭の要求をすることは希であり、通常は信者自らが自分の意志で『自発的に献金を捧げる』というスタイルを取るのが普通であるが、信者自らが『献金したくなる』、『しなければいけない』と感ずるような心理操作が事前に行われた結果として信者が献金を行う場合も、実際には信者個人の判断で献金がなされているのではなく、教団に操られて『献金させらている』と見るべきだろう。

 奇跡信仰もカルト教団の特徴であるが、信者に対する巧みな心理操作やトリック、催眠術等により数々の奇跡や神秘を神の力であると思わせ、より強固に信者の心を縛り操っていくのは、詐欺師の手口と同様である。このような手口で人を騙してまで自らの宗教団体の利益を図ろうとする行為は、人間として許せないことであるし、宗教としては絶対に行ってはならないことである。
 新興宗教に入信するきっかけとして、本人の病気や家族の病気がそのきっかけになる場合が多い。人間は一旦病気になってしまうと非常に不安になるもので、何とかしてその病から身を守ろうとする。特に自分の子供が難病になったような場合は、世界中を探してでも何とかして我が子の病気が回復する方法を探そうとするものである。
 新興宗教は、こうした、わらにもすがる思いの人に言葉巧に近づき、「徳を積めば(献金すれば)病気は治る」等といって高額の献金をさせる場合が多い。
 困っている人間を助けるどころか、困っている人間から更に金を巻き上げ、いっそう窮地に追いやることを平気で行う新興宗教は、もはや宗教の名に値しない。

 霊障など、先祖の祟りを持ち出し、霊障から身を守るにはあれを買え、これを買えといって高価なものを購入させるのは霊感商法の常であるが、新興宗教においても、『先祖の祟りを利用した脅し』はよく使われる手段である。少しでも悪いことがあると、『それは先祖の祟りです。先祖の祟りを鎮める為には信心を深め、○○をしなければなりません』などともっともらしいことを言って、信者を騙し金をまきあげる。
 本当に先祖を大切にする気持ちがあるのであれば、『先祖が祟る』等という考え方自体が先祖を冒涜するものであることを知るべきである。先祖は私たちをこの世に存在させてくれたありがたい人たちであり、決して自分の子孫に祟ったりするものではない。

 テレビ番組の中には、霊障をことさら事実であるかのように誇張し、視聴者の怖いもの見たさを利用して視聴率を稼ごうとしている番組が多いが、あのような無責任な放映が霊感商法や新興宗教に格好の材料を与えていることを番組制作者やテレビ局は認識しているのだろうか。
 番組制作者は単なる娯楽としてあのような『霊障番組』を作っているのかも知れないが、マスコミの影響力は大きなものがあり、学生に対するアンケート調査の結果では、霊障を取り上げたテレビ番組を見て、「こうした内容をテレビ局でも取り上げるのだから、霊障等は実際にあるのではないか」と思うようになったと答えている者が多い。
 よく分からないことを十分調べる努力もしないで、すぐに霊障だとか、神秘だ、奇跡だと決めつけ、それを信じるのはあまりにも短絡的であり、賢明な者のすることではない。世の中には戦争や犯罪、事故等により非業の死を遂げた人は無数にいるのであり、それらの人の霊魂が次から次へと祟って出てきたら、世の中は霊障だらけになってしまう。
 先祖や今は亡き親族などに思いを馳せ、それらの人々の生き様から教えを頂き、命の尊さを賜る気持ちを持つことは、人間として自分自身も成長することに繋がるが、先祖の祟りを心配して霊感商法や新興宗教に高額な金を巻き上げられるのは、愚かな人間のすることである。そのような愚かな子孫が増えてきたら、それこそ先祖も浮かばれないというものである。

 手かざしで病気が治せるものであるならば、多くの医学者が長い時間を費やし、多大な研究費を費やして病気を治す方法を研究する必要もなくなる。国家予算をそちらに振り向けた方がよほど賢いやり方だ。手かざし系の新興宗教を信ずる者に言わせれば、「世間が我々の力を正しく評価していないだけだ」というであろうが、本当に治癒力があるのであれば、堂々と公式の場でその効果を立証して見せればよいのであり、そうした努力をせずに世間を敵にして批判していたのでは、いつまでたっても世間から認知されることはない。

 国連とのつながり、皇室とのつながり、著名人とのつながり等を盛んに持ち出し、我が宗教の正当性を強調しようとする姿勢は、一般信者を愚弄するものである。本来の宗教はそのような「えらいさん」とのつながりを求めるものではなく、底辺の一般信者を救済するものでなければならない。多くの元信者から「入信中にだまし取られた金を返せ」などという訴訟が起こされたり、多くの被害者が存在するのにこれを放置したままで、国連とのつながり・・・等を強調してみても、じきに「お里が知れる」というものである。
 神慈秀明会では、「そのような過激な勧誘や献金をしたのは、旧体制の時の話であり、現在の新体制になってからは、そのような過激な活動はしていない」と抗弁しているが、過去に過ちがあったと認めるのであれば、その償いをきちっとすべきである。
 平成8年に新体制になったと言われているが、その後も献金や玉串、お詫び等の名目で金を集める体勢は変わっていない。

 エホバの証人は、学校の行事参加を拒否するように指導したり、子供を道連れにした布教活動により夫婦の離婚問題に発展するケースがあるが、こうした世間一般の常識とはかけ離れた行動をして信仰を深めても、世間から奇異の目で見られ、その実態を知っている者は誰も近づかなくなる。多くの人を幸せにするはずの宗教が、きわめて閉鎖的狂信集団と見られたのでは、人類救済を掲げる宗教の目的からますます離れてしまうだけである。
 現世では親子、夫婦、世間と隔絶しても、あの世で真の幸福が得られたらいいのだと教える宗教もあるが、この世ですら幸せが得られない者が、どうしてもっと高位な世界であるあの世で幸せになることができるのであろうか。
 信教の自由は保障されねばならないが、信者を騙して金を巻き上げ、家族を破壊するカルトを容認することは絶対できない。

 本来、宗教は自由なものであり、国家による規制などはないほうがいいのであるが、多数の新興宗教被害者が存在するにもかかわらず、まったく法的規制がされず、野放し同然に新興宗教が放置されているのも問題である。
 新興宗教の多くは、宗教法人として税金の納税義務も免除されており、金銭の出納内容は闇の中同然である。
 数々の殺人事件を起こしたオウム真理教(現在はアーレフに改名)ですら、宗教法人としての認定を取り消されただけでいまだに活動を続けている。アメリカやフランス等では、信教の自由を認める一方で、社会に害をなすカルトに対しては国家がその団体名を公表して国民に対する注意を促しているが、日本政府にはこうした行動はなく、怪しげな新興宗教の毒牙にかかる人が後をたたない。
 フランス議会が公表した下記のカルト団体リスト中には神慈秀明会の他、統一協会、エホバの証人、幸福の科学、創価学会、霊友会、崇教真光等の名称が上げられている。
http://www.cftf.com/french/Les_Sectes_en_France/cults.html#ici
 国家による宗教規制は諸刃の刃(もろはのやいば)であり、できるだけ避けたいものであるが、これだけカルトの脅威が市民生活に浸透してきている現状を考えると、日本でも何らかの規制が必要なのではないかと思う。

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