カルトテクニック

【カルトテクニック目次】
カルト・・・・カルトという言葉の意味について
洗脳とマインド・コントロール・・・・洗脳より恐いマインド・コントロール
マインド・コントロールに対する社会の認識・・・・裁判官はマインド・コントロールを正しく理解しているか?
マインド・コントロールの手法・・・・代表的な4つの手法
誰でも陥る危険性・・・・警戒心が強くても騙される仕組みがある
常識破壊・・・・人はビックリすると警戒心が揺らぐ
シンプロシティ・・・・あなたは他人に親切にされてそれを拒否できるか?
外部の敵・・・・攻撃されると防御態勢をとるのは本能。仮想の敵をねつ造してでも・・
漏れ聞かせ・・・・他人への注意だと思って聞いていたら実は自分が・・・
情報遮断・・・・教団にとって都合の悪い話は聞かせない
選民意識・・・・優越感をくすぐられと悪い気はしないもの
勉強会・・・・秀明会には「秀勉」や「カレッジ」などたくさんある
反復行動・・・・最初はぎこちなくても繰り返すことにより定着していく
労働奉仕・・・・一緒に活動することにより集団への帰属意識が出てくる
街頭布教・・・・人に売り込む努力が実は自分の信念を固めていく
高額献金・・・・最初は100円程度の少額献金が実はクセモノ
基準置換・・・・物の大小、高低などは基準を変えると見え方が変わる
世界平和・・・・誰も反対できない命題の裏に潜む危険
社会貢献・・・・自分は社会にとって良いことをしているつもりが・・
自己改革・・・・自分の至らないところを変えるつもりが実はカルトの餌食に
奇跡体験・・・・目の前で「奇跡」を体験すると心は大きく揺り動かされる。でもその「奇跡」は・・
恐怖感・・・・恐怖感にとらわれてしまうと、人はもう正常な判断ができなくなる
病気治療・・・・宗教で本当に病気が治るのか?プラシーボ効果では?
世襲制・・・・金儲け目的がばれる宗教教団の世襲制

カルト
 「カルト」という用語の意味について、最近までは確固たる意味合いが確立されておらず、使う人、使われる場面、使われる背景によって、その意味合いが違っていた。
 しかし、最近になって、まだ多少の不安定さは残るものの、日本の新興宗教問題で使われるカルトという用語については、一つの方向性が出てきたようにも思う。
 ここでは、カルトという用語を、「社会にとって好ましくない新興宗教集団」という意味で使用している。
 また、このページでは、カルトが新たな信者獲得や信者への教育の際に使っているマインド・コントロールと呼ばれる心理操作について具体例を交えて解説していく。
 このマインド・コントロールについては、ここで紹介しただけでなく、もっと数多くの手法があると思われるが、私が調べることができた範囲での説明になっているので、他の手法についてご存じの方があれば、ぜひお教え頂きたい。私は妻が神慈秀明会の信者であり、その妻をカルトから奪還する過程で知り得た神慈秀明会が行っているマインド・コントロールを具体的事例として報告するが、他のカルトにおいても細部は違っても、大筋においては同様の手口を用いているものと思われるので、神慈秀明会以外のマインド・コントロールで困窮している方にも参考にして頂けるのではないかと思っている。
 ここでは、カルトの解説だけでなく、カルトに対する批判も行っているが、そのカルト批判は、カルト教団幹部や指導的立場にある者に向けたものであり、一般信者を批判することを意図しているのではない。私は、一般信者は、むしろ被害者であると思っている。
 このようにホームページでマインド・コントロールの具体的手法を明らかにすることは諸刃の刃(もろはのやいば)であり、これを悪用して他人をマインド・コントロールするのに使われる危険性もあるが、敢えてこれを紹介し、マインド・コントロールとはどのようなものかを多くの人に知ってもらい、カルトによるマインド・コントロールの予防と、マインド・コントロールされた人への正しい対応に役立てて頂きたいと思い、この文章をまとめた。
 私なりに研究し、まとめたが、専門家の方から見れば稚拙なものであり、まだまだ言葉足らずであったり、思い違いをしている部分があるかも知れない。訂正すべき点があればぜひお教え頂きたい。

洗脳とマインド・コントロール
 マインド・コントロールは、洗脳とは違うことも知っておかねばならない大切なポイントである。一般的にはマインド・コントロールと洗脳を混同して説明している人もいるが、それは間違いであり、マインド・コントロールと洗脳は別のものである。
 何が違うかというと、マインド・コントロールは対象者自身が自分の意志で自分の考えを変えたと思わせるが、洗脳は身体的・精神的に強制されて考えを変えさせられるものである。
 洗脳の場合は身体的・精神的強制が解かれると比較的早期に元の状態に戻りやすいが、マインド・コントロールは自分の意志で自発的に考え方を変えたと本人も思っているので、マインド・コントロールされていた組織から離れた後も、なかなか元の状態に戻るのは難しい。
 北朝鮮に拉致されていた人たちが日本に帰ってきた時、彼らには北朝鮮でのプロパガンダが浸透しており、容易に日本社会に適応することはできないのではないかと当初は思われていた。
 ところが、ごく短期間の間に、朝鮮労働党のバッチを外し、日本の社会に適応することができた。もちろんその背景には周囲の人たちの大変な苦労と努力があったと思われるが、彼らは拉致という身体的拘束を受け、招待所と呼ばれる教育施設で強制的に北朝鮮の教育を受け洗脳されていたが、その環境下の北朝鮮で彼らが生き残るには、その現実を受け入れるしか道はなかったであろう。
 しかし、日本に帰国することができ、身の安全が確認できたが段階で、強制されるものがなくなったため、早期に洗脳から覚めることができたのではないだろうか。
 北朝鮮が彼らに行ったのは強制的洗脳であり、マインド・コントロールではなかったので、早期に復帰が果たせたものと思われる。

マインド・コントロールに対する社会の認識
 新興宗教団体による金銭収奪事件が裁判になった例は多数あるが、担当する裁判官にマインド・コントロールに関する相当の知識がないと、「献金は本人の自由意志で行われたものであり・・・」ということになってしまい、原告敗訴に終わる場合が多い。
 マインド・コントロールされている信者には正常な判断力がないこと、その状態を作り出したのは教団の意図的な行為であることを裁判官が十分把握していないと、せっかくの裁判がカルトを勢いづかせるだけのものに終わってしまう場合がある。法曹界に関与する方には、マインド・コントロールに関する正しい知識の早期習得を期待したい。
 併せて、マインド・コントロールを規制する法律の整備も必要であり、裁判官にその知識があっても、それを規制する法律が整備されていなければ厳しい処罰を期待することはできない。日本におけるこうした点での法整備が早急に行われるよう関係方面に働きかけて行きたい。
 警察・検察関係者も、新興宗教団体による人権侵害問題、金銭搾取問題が発生した場合、宗教問題ということでタブー視したり、敬遠するのではなく、多数の被害者が発生している現実から目をそらさず、正しい対応をして頂きたい。
 マスコミ関係者も、宗教問題は取り扱いが難しいということで敬遠するのではなく、日本中に林立する多くの新興宗教団体が社会に与えている影響、特に現実に被害者が発生し、今後も更なる被害が続発する虞が非常に高い団体については、その実態を取材し、社会に知らせる義務があるのではないだろうか。
 多くの家族が新興宗教問題で苦しんでいる現実があるにも係わらず、「霊障」などで信者を脅し、金をだまし取る新興宗教を助長するような興味本位の「霊障番組」を報道しているテレビ局等には猛省を促したい。
 学校教育においても、新興宗教被害を予防する知識の習得に一定の時間をかけるべきである。家庭での教育ももちろん大切だが、学校教育という公の場所で、等しく予防知識を学ばせることの意義は大きい。教育基本法の見直し論議が盛んであるが、教育の目的は人が人として生きていくための方法を教えることにその基本がある筈だ。新興宗教の毒牙にかかり、人格を変容させられ、カルトに利用される者が多数出ている現状を正しく認識するならば、国としてそうした危険から身を守る方法を国民に知らしめることも大切な責務である。エイズや薬物中毒から国民を守るためのキャンペーンも大切だが、それと同等にカルトから身を守る方法を広く国民に知らせる義務も日本政府に課せられている。

マインド・コントロールの手法
 マインド・コントロールは、洗脳と比較して、より洗練された巧妙かつ高度なテクニックである。
 本人にも気づかれずに人格を変容させていくマインド・コントロールとは、どのような方法で行われるものなのか、その具体例を下記で項目別に見ていく。

 マインド・コントロールには、次の4つのコントロールがある。
1、感情コントロール
2、思想コントロール
3、行動コントロール
4、情報コントロール

 これら4つのコントロールを用いて一時的に信者を操るだけでは、操る糸が切れてしまうとコントロールも効かなくなってしまう。永続的に信者を利用し、信者自らの意志で更なるカルト勢力の拡大を図るという、カルトの目的を達成するには、この4つのコントロールを用いて、次に上げる三段階の人格改造操作(解凍・変革・再凍結)を行い、信者の人格そのものを変容させてしまう。人格が変容した信者は、カルトの支配下から離れても、カルトで培われた思考方法が自分自身の思考であると錯覚し、それに沿って考え、行動するようになる。
1、解凍
2、変革
3、再凍結

 説明の都合上、解凍・変革・再凍結の三段階をここに別途書き出したが、これらの人格改造操作は、上記4つのマインド・コントロールを駆使する過程で同時に行われるものである。また、4種類のコントロールは単独で行われるのはむしろ希で、多くの場合は複数のコントロールを重ね合わせ、同時進行的に行われる。その結果、どれか一つのコントロールが効果を発揮し、少しでも心が変化すると、その変化に同調して他のコントロールも効果を上げる方向に作用する。こうして互いのコントロールが相乗効果を発揮し、より強固なコントロールとなって信者の人格を変容させる。
 下記を読んでいただくと分かるが、こうした4つのコントロールと再凍結に至る三段階の変革は、本人が拒否しているのに無理矢理行われるのではなく、人間関係の維持や自己改革、社会改革を希求する本人の発展的意思活動に働きかける形で行われる。一部のコントロールは宗教活動を通して行われるが、その場合でも強制的手法を講じるのではなく、本人の意思で考え、行動させる形式を通して行われる。このため、マインド・コントロールされている本人は、強制されて考えが変わったとは感じないところに最大の危険性をはらんでいる。

誰でも陥る危険性
 会社の同僚、学校の友人、PTA活動、身近な社会活動を通しての知人、親戚、家族等を通して新興宗教の勧誘を受けた場合、「紹介してくれた人の親切を無にしてはいけない」とか、「これまでの人間関係を崩したくない」等という、「つきあいを大切にする」気持ちからその宗教の話を聞く場合が多いが、すでにその瞬間からカルトは下記のような様々な罠を仕掛けて獲物をねらっている。
 「自分は十分警戒心が強いし、宗教など嫌いだ」と思っている人でも、カルトの巧妙な罠にはまってしまうと、マインド・コントロールにかかる人はたくさんいる。むしろ宗教嫌いの人の方が一旦はまってしまうと深刻な状況になる場合がある。ささいなことでも自分が持っていた価値観を破壊される体験をすると、それを契機に雪崩が起きるように、価値観・世界観が大きく変容し、カルトにはまってしまう場合がある。
 オウム真理教では、弁護士、医師、東大生、京大生など、通常なら分別があると思われている人たちが、たくさん出家し犯罪に加担した。彼らも、その専門分野では一定の知識を持った人たちであるが、専門分野を離れれば、普通の人と変わらない。カルトに対して特別の抵抗力など持っていない人が大半である。ところが、エリート等と呼ばれている人たちは、全ての分野で自分は優れていると錯覚している人もいるので、専門外の分野で価値観を揺すぶられると、意外にもろくカルトに「落ちて」しまう。
 カルトのマインド・コントロールにかかるか否かは、分別があるから大丈夫というものではないことを知っておく必要がある。
 カルトのマインド・コントロールにかからないようにする唯一の方法は、事前にマインド・コントロールに関する相当の知識を持っておくことが最大の防御方法である。
 まず、「マインド・コントロール」という専門的分野があることを知り、この手法とそれに対する防御方法をマスターしていなければ、カルトの毒牙から我が身を守ることはできないと言っていい。
 宗教的救いに少し興味のある人、不安を持っている人、自分自身に不満を持っている人、社会に不満を持っている人、もっと対象を拡げれば、宗教的誘いに対する警戒感の薄い人であれば、赤子の手をひねるよりも簡単にカルトに取り込まれる危険性がある。
 このように書くと、大げさな印象を持たれるかも知れないが、決してオーバーなことを言っているのではなく、私たちがカルト被害者になるか否かは、カルトと出会うチャンスが「あったか、なかったか」にかかっていると言っても過言ではない。
 では、次からマインド・コントロールの具体的手法について見ていく。



常識破壊 (思想コントロール)
 人は、それまで信じていた常識をうち破られると、一時的に自信をなくし、精神的に狼狽する。こうした精神的に不安定な状態の時に、今までとは違った知識を与えられると、人はそれを信じてしまう傾向が強い。
 いわゆる「デマ」に人々が踊らされてしまうのも同様の心理からで、石油パニックの時にトイレットペーパーが日本中のスーパーの店頭から消えたのも、「トイレットペーパーがない」という、予想外の情報に出くわした時、人々は精神的に狼狽し、真偽を調べようともしないでその情報を信じて買い占めに走った結果であった。
 病気は人にとってイヤなものと思われているが、それを「病気は浄化作用であり、体内の毒素を体外に出して良くなるための過程なので、病気は結構なことなのですよ」と言われたら、聞いている人はびっくりして、「えーっ!、どうして?」と思い、その理由をもっと知りたくなる。そこで講師がもっともらしい話をすれば、いとも簡単にその話は信じられてしまう(神慈秀明会では、こうした話がされている)。
 自分がこれまで持っていた常識をいとも簡単にうち破った相手(講師)は、自分より上位の知識を持っている優れた人間に思え、威光暗示(後述)が生じて、その人のいうことであれば、他の話でも受け入れてしまいがちとなる。
 こうして、一旦相手の話を「聞き入れる」素地ができてしまうと、その講師が話す内容はもちろん、「同じグループに属する講師」に対しても威光暗示が影響し、そこでの話を真実に思ってしまう傾向が強くなる。
 こうした手法は、マインド・コントロールにおける「解凍」と呼ばれるものである。誰かに急激な変革を起こさせるには、まずその人の現実を揺さぶり、現実に対する見方を混乱させる。これまで抱いてきた現実に対する見方が混乱すると、人は精神的不安定状態となって一時的な思考停止状態(パニック)に陥り、通常なら防御本能により排除できるはずの、現実を否定するカルトの諸概念を受け入れてしまう。
 カルトでは、常識破壊のためには平気で「嘘」も使われる。かのアドルフ・ヒトラーの語録によると、「大きい嘘は信じてもらえる一定要素がある。民衆は小さい嘘より大きい嘘の犠牲になり易い。」という「定説」があり、カルトが荒唐無稽な話を盛んに用いるのは、こうした「定説」に従っているのかも知れない。
 こうした解凍に用いる「常識をゆさぶる話」は、必ずしも宗教の話である必要はなく、むしろ宗教以外の教育や健康、食生活、人間関係等の話題の方が警戒心なしに聞かせることができるので、宗教以外の話が用いられる場合も多い。
 当ホームページに、「超能力大実験?」というページを設けてあるが、初めてこの「実験」をした人は、皆びっくりする。「どうして私の心が分かるのだろう?」と思いこんでしまうと、気味が悪くさえなってしまう。その仕組みが分かれば何でもないことなのだが、ちょっとしたトリックで人の心を乱すことができることがわかる。

 最近のテレビ番組に、「ヘェー!」という話を集めて紹介し、ゲストがその「驚きの大きさ」に得点をつけるというものがある。番組で紹介した話を本にして出版したところ、ベストセラーになったが、これも一種の「常識破壊を楽しむ」ものであろう。
 学校教育の場面でも、教師は意図的に「常識破壊」の話で生徒の意識を集中させ、その後、本題の授業に入る手法をとる場合がある。
 このように、「常識破壊」は各方面で利用される手法であるが、カルトが行う「常識破壊」は思想コントロールを目的に行われ、それを突破口にしてマインド・コントロールを行い、個人の尊厳を踏みにじり、カルトの利益追及のために悪用するところに問題がある。

※威光暗示(Prestige Suggestion)
 威光暗示とは、医師、弁護士、教師、聖職者、政治家、芸能人など、もともと被験者が、相手の肩書きや経歴、その他の事前情報により、信頼したり、好意を抱いていたり、尊敬する人物や社会的地位にある人から与えられる暗示である。こうした人の言葉に対し、被験者は迷ったり、抵抗することなくそれを受容してしまう。


シンプロシティ (感情コントロール)
 あなたの近所に住んでいる人が、「実家からこんなものを送ってきましたので、お裾分けに・・・」と言って果物を持ってきてくれた。それを受け取ったあなたは、どんな気持ちを持つだろう?
 人間には、他人に恩義を感じると、「お返しをしなくては」と感じる傾向が備わっている。心理学ではこれをシンプロシティ(親切の借金)という。最初の例でも、あなたの心の中には、「いつかはお返しをしなければ・・・」という気持ちがわき、あなたの家に実家からタマネギが送られてきたら、それを持って果物をくれた家へ届けに行くのではないだろうか。
 こうした感情は決して悪いことではなく、ごく自然の感情であり、人間関係を円滑にする上でも大切なことだ。
 しかし、カルトはこうした人間が持つ自然な感情をマインド・コントロールに利用する。
 神慈秀明会では、世話人という人が地域に居て、この世話人が数人の信者を受け持っている。登志子の世話人は、とても気さくな女性で、秀明紙を届けてくれたり、無農薬野菜を届けてくれたりするついでに、家庭のこと、子供のこと、教育のこと等なんでも相談に乗ってくれたり、世間話をしていた。電話でも随分長時間、話をしていることがあったようである。
 私はその当時は、その人が神慈秀明会の世話人とは知らず、無農薬野菜斡旋グループの人だと思っていたので、特に気にもとめていなかった。
 しかし、神慈秀明会のことが明らかになり、登志子と話をしていく過程で、この世話人との関係を登志子が非常に重要視していることに気づいた。「あんなにいい人が、私をだます筈がない」という言葉が、登志子から口癖のように出てくる。
 脱会の話を詰めて行くと、「私が脱会すると、あの人に迷惑がかかる」という気持ちが強く出てきて、なかなか脱会の決心がつかない。
 登志子は他の場面でも、人間関係には細かく気が付く人で、私もそれで助かっていることも多かったように思う。人間関係を大切にする登志子にとって、『世話になった』世話人を裏切ることになる脱会は、心理的抵抗が非常に強いようだ。神慈秀明会からは心が離れてきているが、世話人との関係が断ち切れないことが、大きなネックになっている。
 この世話人が意図的に「親切の借金」を行ってきたのか、本当に世話好きな人であるだけなのかは不明であるが、神慈秀明会との橋渡しは全てこの世話人を通じて行われており、結果としてシンプロシティ(親切の借金)も利用して神慈秀明会へ登志子を導いてきたといえる。
 「もし、あの人(世話人)が私を騙していたのだとしたら、私は人間不信になる」と登志子は言った。
 人が人を信ずるという、最も純粋な心まで感情コントロールの道具として利用するのが、カルトの卑劣な行為である。
 シンプロシティを利用したマインド・コントロールはオウム真理教等、他のカルトでも恒常的に行われており、オウムを脱会した元信者が、脱会後長期間にわたって人を信用することができなくなり、ペットの動物としか話ができなかった、という手記が他のサイトで紹介されていた。


外部の敵 (感情コントロール)
 組織というものは、自分の組織と敵対する組織があると、がぜん結束力が強固になる性質を持っており、一般の会社でも、ライバル会社が現れると社員の団結力が高まり、生産性が向上する傾向が強い。戦争時における愛国心の高まりなどもその典型である。冷戦時代のアメリカとソビエトも、互いに敵国の存在をアピールすることで国内世論を結束させ、巨額の軍事費を国家予算から供出させ、軍事産業を発展させてきた。日本の右翼団体が日教組など特定の団体を標的として攻撃するのも同様で、彼らには、何らかの「敵」が必要なのである。
 歴史を振り返れば、アドルフ・ヒトラーが600万人ものユダヤ人を抹殺したホロコーストは、「ユダヤ人がドイツを支配しようとしている」というデマを意図的に流し、ユダヤ人をスケープゴートとすることで、ドイツ国民の結束を高めようとした結果であった。
 このように、大人数の集団をまとめるには、適当な敵を設定し、その敵が我々をねらっていると吹聴し、煽り立てると、集団はそれに踊らされて結束力を高めることが知られている。
 世界救世教から神慈秀明会が分裂した後、神慈秀明会では世界救世教を「敵組織」と位置づけ、この敵がどのような悪者であったかを、「離脱の神意」等と称し、信者には機関紙、飛天、秀勉、特修会、カレッジ等で繰り返し「悪魔のような敵の存在」をアピールしている。
 世界救世教から神慈秀明会が分裂した際のゴタゴタを題材にした舞台劇「離脱の神意」まで作って信者に見せ、いかに世界救世教が悪魔的団体であるかを強調してきた。
 神慈秀明会としては、世界救世教がいつまでも敵であってくれなければ、自分たちの結束を図ることができなくなってしまうので、再三の和解案提示があっても一切これには応じていない。信者が世界救世教とコンタクトを取ることも厳禁している。こうした背景には、敵の存在を利用して、信者をコントロールする目的がある。
 こうした「外部の敵」を意図的に作り、内部の結束力を高めるのは、切迫感、恐怖感を利用した感情コントロールの一つであり、カルトは例外なしに使用する手口である。
 また、信者にとっての敵は、信仰を妨害する者も「神聖な信仰を迫害する敵」であると教えられるため、カルトから脱会させようと説得を行う家族なども「敵」として位置づけ、一切説得に耳を貸さない傾向が強い。


漏れ聞かせ (感情コントロール)
 集団の構成員全体の意識を、ある方向に向けさせるには、どうしたら効果的に行えるだろう?
 通常考られる方法は、指導者が全員に向かってその方針を説明する方法が考えられるが、もっと効果的な方法がある。
 目的の方向に向いていない者を見つけ出し、その者を全体の中で、全体に聞こえるように大声で叱りつけるのである。それを聞いている他の者は、自分が叱られている訳ではないので第三者的にそれを聞いているが、心の中では「あのように叱られたくないな」とか、「あのようにならないようにしよう」という気持ちが自然に働く。この心理の変化は、他から強制されて変化したのではなく、自らが判断し変化させたのである。これがマインド・コントロールの狙いである。「自らが判断した」はずの心理変化であるが、実はその心理変化は、あらかじめそのように周囲の者が反応をすることを計算の上で指導者は特定の一人を叱っているのだ。
 この手法は心理学で、「オーバーハード・コミニュケーション」(漏れ聞かせ説得術)と呼ばれている方法である。
 神慈秀明会東京支部のH本T子は、支部の中で大声で信者を怒鳴りつけていた。怒鳴りつけるだけでなく、土下座までさせて罵倒していた。その様子を見聞きしている他の信者の心中には、「あんなふうに罵倒されないようにしよう」という気持ちは沸かなかったであろうか・・・?
 東京支部だけに限らず、他の支部でも同様の恫喝は繰り返し行われていた。
 こうした特定の個人に対する「いじめ」を利用した他の信者への感情コントロールと本人への人格破壊は、カルトの得意とするところである。
 衆人環視の下で支部長や資格者に罵声を浴びせられ恫喝された本人は、自分がどんなにダメな人間かが証明されたように思いこみ、人格が破壊されていく。こうして人格を破壊され、心が「解凍」された人間は、次の「変革」への準備が整ったことにもなる。
 周囲の者への「漏れ聞かせ」によるマインド・コントロールと、犠牲になった信者個人のマインド・コントロールの両方が一度に、それも効果的に行えるのが、この手法の特徴である。


情報遮断 (情報コントロール)
 徹底的に繰り返し教えることがある反面、信者には絶対に教えないこともたくさんある。教団にとって都合の悪いことは一切信者には教えない。
 神慈秀明会内部では、手かざしをしても治療効果がなかった例は一切報告されていない。
 岡田三栄子という幹部が交通事故で死亡した際も、真実は一切教えず、全く違った形で死亡したように装い、対立する「敵教団」に殺された殉死であるような嘘までついていた。
 教祖(岡田茂吉)の教えには、自分たちが行っていることを戒める教えがあるのに、意図的にそうした教えは隠し、信者にはカルトに都合のよい部分だけを編集した100編の教えだけしか見せない。教祖の教えは全体では約2,000編あると言われているが、神慈秀明会が信者に見せているのはその中の100編(5%)だけである。
 登志子は15年間という長期間、神慈秀明会の信者であったが、神慈秀明会のことをどれだけ知っているかというと、私が数カ月間調査して知り得た知識の方が登志子が持っている神慈秀明会に関する情報量をはるかに超えた。
 私が登志子と神慈秀明会について話をしていると、「私(登志子)は、それは知らない」ということが次々と出てくる。登志子が知っているのは、勉強会等で教えられた「非常に幅の狭い知識」だけであり、それも神慈秀明会にとって都合の良いものだけである。登志子は「秀勉」やその他の勉強会には繰り返し参加しており、延べ参加回数は相当の回数になるが、そこで教えられていたのは「同じ内容の繰り返し」であり、新たな知識が教えられることはなかった。
 通常は、外部の者よりも、その組織に属している者の方がその組織の内情には詳しいはずであるが、カルトにおいてはこの常識は当てはまらない。
 カルトは、信者に対して徹底した情報コントロールを行い、カルトに都合のいい情報だけを与え、都合の悪い情報は一切教えない。

 従来までは上記のように、カルトが意図した通りの信者への情報遮断が可能であったが、インターネットの普及がこれに釘をさすこととなった。私がこうしてインターネット上にカルトに関する情報を紹介することも、それを全国のカルトや新興宗教に関心をもった人が検索により、簡単に見ることが可能な時代になった。
 私のところへは、多くの元信者、現役信者の方からメールが届くようになってきた。掲示板上での情報交換も盛んに行われている。メールの内容に関しては、本人の同意を得たものしか公開はできないが、公開できないメールの中には神慈秀明会の資格者や、幹部の家族からの内部告発も含まれている。
 メールや掲示板への書き込みを見ていると、女性が多いことも特徴の一つだ。インターネットも、初期の段階は男性によるアクセスが圧倒的であったが、日本中の広範な家庭にインターネットが普及した結果、学生もOLも主婦も、あらゆる階層の人たちが気軽にインターネットで情報検索ができる時代になったことが実感される。
 教団による情報遮断は、もはや風前の灯火(ともしび)と化していることに、カルト幹部は気づいているのだろうか。気づいている幹部は、早々に今後の身の振り方を考えた方が得策かも知れない。
 昔から、「情報を制する者は、国を制す」と言われている。インターネットの急速な普及が神慈秀明会のようなカルトの首を絞めることになるとは、神慈秀明会も予測だにしなかったことであろう。


選民意識 (思想コントロール)
 カルト集団は、その集団内部だけに通用する「用語」を持っている。
 神慈秀明会では、「曇り」、「浄化作用」、「浄霊」、「夜昼転換」、「お光り」、「地上天国」、「離脱の神意」、「カモメ」、「最後の審判」、「大浄化」、「バチェラー」、「エリート」、「ルビー」、「ルビーバチェラー」など、たくさんの「専門用語」が使われているが、これらの言葉の意味は一般の人には分からない言葉である。私も、神慈秀明会のことを調べだした当初は、こうした言葉の意味が分からず、苦労した。
 こうした一般人には「意味不明」な言葉に、カルト内で「適切な解釈」がなされ、「信者にとって意味のある重要な言葉」に生まれ変わる。
 「曇り」などと言われても普通は??と思ってしまうが、「人間界の悪の想念、悪の言霊、悪の行為が霊界に曇りを発生させ・・・」という調子で「曇り」が何であるかを延々と説明した神慈秀明会の文章を読んでも、結局??である。
 そこに書かれていることは、荒唐無稽な説明であり、極めて観念的な具体性のない解説ばかりが延々と続く。
 正常な神経の人が読めば??な、訳の分からない解説であるが、「その意味が理解できないのは、まだあなたの明主様(神)に対する帰依の心が足りないからです」、「他の信者さんは皆これを理解して、明主様にお仕えしているのですよ」と言われると、「よく分からないけれど、皆がこの??な解説で理解しているのなら、自分もそれを受け入れなければ・・」という気持ちにさせられ、本当はまだよく分かっていないのだけれど、「曇り」という用語をカルトが指定した意味で「飲み込んで」しまう。
 一旦その言葉を使い始めると、「曇り」という言葉は、真の意味はさておいて、「自分も認めた言葉」となる。この瞬間から「曇り」は「曇り」であって、わざわざ説明を要しない言葉に生まれ変わる。その後、自分の周囲に発生する諸問題の大半は、この超単純化された「曇り」の一言で処理できる便利な言葉なのである。「曇り」で問題を処理してしまえば、もうそれ以上考える必要はなくなる訳で、その段階で思考は停止される。もう、そこから先は考える必要がないのである。
 カルトにとっての優等生はカルトが定めた思考パターンに沿って判断できる者が優れた信者であり、「曇りだ」と言われたら、そのまま「あっ、そうかー。曇りなのかー」と受け止める従順さが大切なのである(これを思考停止という)。
 こうしたカルト独自の、超単純化された用語を使う行為は、その人の心にメンバーの一員としての意識を植え付けるのに非常に効果があり、「曇り」という用語を使えるようになった信者は、用語としてそれを使うだけでなく、思考全般が「曇り」を含むカルトの考え方を肯定的に捉える方向に心の変革が進んでいく。
 これは他の項でも述べている、「行動が心を変える」という作用と同等のもので、「言葉が心を変え、人間を変えていく」のである。
 こうした、この教団内でのみ通用する用語を使った会話が成り立つようになってくると、一般の人が知らない用語を使いこなしている自分は、特別な存在であるという選民意識が強くなってくる。
 こうした、そのカルト独自の用語を使わせる方法での思想コントロールは、オウム真理教や諸外国の大多数のカルト教団でも行われている共通の手法である。


勉強会 (思想コントロール)
 教団施設で行われる勉強会は、信者に対するマインド・コントロールを最も行いやすい環境である。そこに集まる信者は、そこで自分が教団の教えについて勉強することを了解した上で参加しているのであるから、教師のいうことは基本的に聞き入れようという気持ちで集まっている。
 この者たちに対しては、どのような話でも通用すると言って過言ではないだろう。
 霊界のことだろうが、神のことだろうが、教団が信じさせたい話は何でも遠慮なしに教え込むことができる。
 ほとんどの勉強会はグループに分けて実施される。それは、グループに属させることにより、「個人」というレベルから「グループの一員」という共同責任感を持たせることが可能となり、個人の自由を奪うことができるからである。同じグループの他のメンバーが教師の話に大きくうなずけば、何となく自分もうなずかないといけないような雰囲気が大切なのである。
 神慈秀明会の「特修会」という勉強会では、着座位置もあらかじめグループ毎に決められている。
 信者の中には、講義内容の荒唐無稽さにあきれて、引き続き講義に参加することを拒否する者も出てくるが、そこで脱落する者は脱落させた方がカルトのためになる。反抗的な者をいつまでも同じグループに入れておくことは、かえって他の信者に与える「悪影響」があるので、早期にそうした者はグループから排除した方が、他の「従順な」信者をカルトの意図する方向に教育がしやすくなる。
 これは、他の活動場面でも同様で、たくさんの信者の中には「不満分子」も出てくるが、そうした者は早期の段階で排除した方がカルトのためになるので、そうした「不良信者」に対する引き留めはそれほど強力には行わない。また、そうした脱会者が少数は存在した方が、「当教団は、無理に脱会を妨害したりしていません。入信も脱会も自由です」という表向きの宣伝材料として使えるので、こうした脱会まで妨害することはあまりない。
 カルトにとって大切なのは、残された「従順な」信者だけなのである。この柔順な信者達は、今後どのような教えでも浸透させることができるので、教団にとって大切な「宝」なのである。
 神慈秀明会の機関紙「秀明」に登場する信者の人達は、見るからに従順そうな、人の良さそうな人ばかりだ。発言内容を見ても、今の日本にまだこんなに従順な日本人がいたのかと感心させられるほど人のいい、人を疑うことを知らない人たちが神慈秀明会に残され、その餌食(えじき)となっている(本人達は、そのようには思っていないであろうが)。


反復行動 (行動コントロール)
 人間は、頭で考えて行動していると思われがちであるが、「行動が考えを変える」という要素も多分に持っており、礼儀作法を子供にしつけるのも、行動を正すことにより精神も正そうという狙いがある。
 コンビニでアルバイトをしたことがある方は、事前研修で「いらっしゃいませ!」と大きな声を出して挨拶する練習を繰り返し、やらされたのではないだろうか。最初は恥ずかしくてあまり大きな声を出すことができなかった人も、繰り返しやっているうちに、だんだん大きな声が出せるようになり、店長からOKがもらえたのではないだろうか。
 同じ動作を繰り返すことによって動作そのものが上達するという練習効果もあるが、恥ずかしいと最初感じた気持ちが練習を繰り返す内に薄らいで行くのは、行動が精神に影響して自分の考えを変容させた結果である。
 神慈秀明会では、教団が発行する機関紙や本を繰り返し「拝読」することを義務づけている。
 聖教書は(中略)、必ず毎日拝読させて頂くように努めましょう。
 御讃歌は(中略)、一字一句に心をこめて奉唱しましょう。
 教修書は(中略)、入信のときだけでなく何回も読み直すようにしましょう。
 飛天は(中略)、毎日拝読するように心がけましょう。

 (以上は、神慈秀明会ハンドブックP.90〜)
 信者には、1カ月毎の「聖教書拝読割当表」が配布され「○月○日には○○頁を拝読すること」が義務づけられている。
 例えば、1月分は、
 1月1日(水)「祖霊と死後の準備」 186頁
 1月2日(木)「死後の種々相」 191頁
 1月3日(金)「霊憑りについて」 196頁
 1月4日(土)「生霊」 203頁
 1月5日(日)「守護神」 208頁
 (以下、同様にして1月31日まで、1日の休みもなくスケジュールが決められている。こうした拝読割当表が毎月配布される)

 「秀勉」という名の秀明紙勉強会では、ただ文章を読むだけでなく『線引き』といって、教師が読み上げる大事な所に赤線を引かせる作業が繰り返し行われている。繰り返し教団の書物に目を通させ、そこに書かれていることを唱えさせ、線を引かせ、記述させるという、「同じ言葉・同じ動作の繰り返し」は、一見単純であるが、この単純と思われる行動を繰り返すことにより、最初の内は若干抵抗感があっても、繰り返す内に徐々にその動作は習慣化し、抵抗感はなくなり、いつの間にかごく当たり前のこととしか感じなくなってくる。
 心理学者フェスティンガーは、「ある人の行動を変えれば、その人の思想と感情も、不協和をできるだけ少なくしようとして変化する」と言っている。つまり、行動が変わったことによって、その行動を認証するように精神も変わっていくということである。繰り返し同じ行動をさせることは、単純で、一見それほど意味がなさそうに見えるが、人をマインド・コントロールする意図の基にそれが行われる場合は、人格を変容させる力を持っていることを知っておく必要がある。
 自らの意志で繰り返し教団の学習会に出席し、繰り返し教団の教えを学び、家に帰ってからも毎日教団の書物を読むという一連の行為を通して、信者の心にはその組織の一員としての「自覚」が高まり、そうした行動をしている自分自身に対して、何ら違和感を感じなくなってくる。こうして、着実にカルトの教えが信者の心身を浸食していく。
 こうした反復行動を利用する方法は、カルトにおける行動コントロールの主要な手法であり、行動を通して自分の心が変革され、新たな自分が生まれる再凍結の課程に活用されている。
 行動コントロールによって感情と精神がコントロールされ、そのコントロールされた感情と精神によって再び行動が促進されていくため、時間が経過するに従ってマインド・コントロールはより強固なものとなっていく。
 マインド・コントロールされていた期間が長ければ長いほど、そこからの脱出・回復に時間がかかるのは、このためである。


労働奉仕 (行動コントロール)
 人は、自分と同じような立場の人と似た行動をとろうとする傾向がある。心理学では「準拠集団」(後述)という言葉があり、たいていの人は自分が属している集団(準拠集団)の人たちと同じように振る舞おうとする。この心理を利用して、対象者を行動に巻き込み、関与させ、人を操る方法がある。
 人は、ある行動をとるとその行動に縛られるところがある。心理学ではこれを、「コミットメントの原理」という。
 教団施設の清掃活動などの無償労働奉仕は、「自分はこの宗教団体のために働いている」という感覚を本人に植え付け、準拠集団への帰属意識(同族意識)の醸成に役立つ。労働奉仕を通して、同様に奉仕活動を行う他の信者との交流も発生し、そうした者同志は共通の行動を通して親近感を持つことになり、「仲間意識」も醸成される。人は誰でも、自分と同じ行動をとる仲間がいてくれると大いに勇気づけられ、「私は間違っていない」という確信を持つようになる。
 アルバイトやパートなど、有償での労働を行う場合は、労働の対価として賃金を受け取るギブ・アンド・テイクの関係が成り立つが、無償の労働奉仕はギブだけでテイクがない。そこで、自分が無償で労働奉仕をした行為は「ボランティア的な良い行いだ」と自分自身を評価し、その評価を対価として心のバランスを取る心理作用が働く。
 つまり、無償の労働奉仕は「良い行い」であり、自分がそうした「良い行い」をしている団体は、当然「良い団体」である筈だと思い込むことになる。
 神慈秀明会では、「ご用」という名の労働奉仕や、「自己放棄による無償労働」を信者に積極的に行わせている。他の項目で述べている、街頭布教活動等も一種の労働奉仕と位置づけることができる。
 他の行動コントロールに関する項目でも述べているが、人は「行動することにより、その行動に合わせて心が変化する」という側面を持っており、こうした労働奉仕を繰り返すことにより、信者の心も教団が意図する方向に変化していく。
 このように、労働奉仕による行動コントロールは、カルトにとって有益な多くの利点があるので、カルトは例外なしにこの手法を活用している。
 なお、上記の内容は、カルト以外が行う、地域活動などでの労働奉仕まで否定している訳では全くなく、カルトがマインド・コントロールを目的に行う労働奉仕の問題点を述べているだけであるので、誤解のないようにお願いしたい。

※準拠集団
 個人の行動は、個人の価値観や信念だけで決定されるものではなく、個人がなんらかの関係を持っているさまざまな社会集団の影響を受ける。こうした個人の行動に影響を与える集団を準拠集団という。
 社会学、心理学の両面から研究され、準拠集団の理論は、価値意識などのライフスタイル分析を裏付ける理論としてマーケティングの分野でも応用されている。


街頭布教 (行動コントロール)
 「あなたの幸せを祈らせて下さい」といって、街頭や戸別訪問で布教活動をしてきたのが神慈秀明会である。あの街頭布教は、信者自らが「布教活動をさせて下さい」と言って行っていた訳ではなく、「10万回浄霊」などの「ノルマ」を課せられ、その数をこなさなければ、厳しく叱責され、ノルマを達成できなかった罪として、自分が献金をせねばならない罰が待っていたので、必死になって「浄霊」といわれる街頭布教活動を続けていた。
 いわば、義務的・強制的に行われていた街頭布教活動であるが、その布教活動を繰り返す内に、徐々に信者はその動作が「板に付いて」くる。つまり、行動することにより自らが変革し、「染まって」いくのである。
 心理学の常識として、「自己の信念を他人に売り込む努力ほど、その人の信念を固めるものはない」とされている。当初はノルマでやっていた街頭布教活動が、いつの間にかその人自身を変革させ、自主的に街頭布教活動を行うように変わっていく。こうして、カルトの意図する通りの人間への変容が進んでいく。
 人を変革するには、頭で理解させて変革する方法と、軍隊における厳しい訓練のように、まず行動させ、その行動を通して人間を変革する方法とがある。軍隊に行ったことのない今の世代の人には、こうした、「行動が人を変える」という感覚が理解しずらい面があるが、軍隊による大量殺戮という狂気行動を可能とするためには、兵士の人間性を変革する必要があり、そのために人間性を完全無視した厳しい訓練が必要とされた。
 私も戦後の生まれであり、戦争体験はないが、戦争体験者が書いた本や、映画「フルメタル ・ ジャケット」等を見ると、教育とそれに伴う行動が人間を作り変えていく怖さを知ることができる。
 街頭布教等で勧誘され、信者になる人など本当にいるのかと思われる向きもあるかも知れないが、「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」で、街頭布教で勧誘される人も相当な数になっている。信者に対する行動コントロールを利用したマインド・コントロールと、新たな信者獲得ができる街頭布教は、カルトにとって一石二鳥の「有益な方法」なのである。


高額献金 (感情コントロール)
 「フット・イン・ザ・ドア・テクニック」というものがある。一種のセールス・テクニックとして有名な言葉であるが、セールスマンだけでなく、カルトもこの手法は大いに利用している。
 神慈秀明会に数百万円、数千万円の金を搾取された人も、最初からそうした高額の献金をさせられた訳ではない。最初からそのような高額献金を持ちかけても誰も応じるものはいない。
 最初は、初めて支所などに連れて行った時に100円程度の玉ぐし料を出させる。「100円位なら、まあいいか」と思って、つい献金してしまう人が多い。
 わずか100円程度の玉ぐし料を出す行為など、神社に初詣に行って賽銭を出すのと同じだと思う人が多いが、そうではない。「明主様(神慈秀明会の神)に対して100円を奉納した」行為は、自分の心の中に、神慈秀明会が一歩足を踏み入れた瞬間なのである。
 最初はほんの僅かの金しか出していないのだが、大切なのは、この「金を出した」という実績作りにある。僅かな金額ではあるが、「自分は神慈秀明会に一度金を出した」という事実行為があるため、次に献金等を求められた時にそれを断ると、自分が前回取った行動との間に矛盾が生ずることになってしまうので、断りにくくなってしまう。
 「フット・イン・ザ・ドア・テクニック」という手法は、最初はアンケート等、ごく軽い要求を客に承諾させることにより、次の段階への足がかりを作り、本題の要求を断りにくい心理状態に客をして行く手法である。
 100円の玉ぐしにより、神慈秀明会との「つながり」ができてしまった人は、次の誘いが断りにくい心理状態になっていく。
 次に誘われるのは、教団の勉強会であったり、支部への参拝かも知れない。ずるずるとつきあっている内に、他のマインド・コントロールの影響も受け、気づいたときには、「一食100円で1カ月1万円」の感謝献金に応じるようになっているかも知れない。これに応じると、次には「桃の種献金」、「桃の実献金」が待ち受けているかも知れない。
 他の先輩信者と接するようになると、玉ぐしを出したり、献金をすることを皆、「当たり前」のように行っているため、「それがここでは当然」のような感覚に陥り、あまり抵抗感を持たなくなってくる。
 こうして信者は徐々に深みにはまっていき、気づいたときにはすでに数百万円、数千万円の献金をしている人もいる。
 そして人は、金を出した以上は、その出金行為が「正しい」行為でなければ、自分がだまされたことになってしまうと考える。悪徳商法で高額の商品を買わされた人が、自分がだまされたとはなかなか認めず、自分が買わされた高額商品にはそれなりの効用がある、などと売り付けた人間を擁護するような発言をする場合があるのはそのためである。

 こうした人間の心理を突いた詐欺的手法により高額の金を出させるのは、感情コントロールのテクニックである。
 日本における大多数のカルトの目的は「金」である。もっともらしいことを言って信者を「その気」にさせたあげく、結局は信者から金を出させる。呪いや祟りで人を脅して金を奪うような宗教は典型的な偽物の宗教であるが、神慈秀明会や統一教会等は、その典型である。
 だまし取られた金が高額であればあるほど、「それは正しかった」と思いたい心理が働くという調査結果もあり、人間とは、あさはかなものである。


基準置換 (感情コントロール)
 車のスピードが、時速50q/hは速い速度か、遅い速度か?と尋ねられたら、どう答えるであろうか。
 高速道路で考えると時速50q/hは遅い速度だが、商店街の混雑した道路での50q/hは非常に速い速度ということになる。
 同じ速度であっても、その場面が高速道路か商店街かで判断結果が大きく変化する。このように、基の数値は実際には変化しないが、それと比較するポイントを意図的に置き換えることにより、その速度が遅く感じたり速く感じたりするようになる。
 人間が何かを判断するときは、必ずどこかに基準点を置き、その基準と照らし合わせて判断を下そうとするので、基準点を意図的にずらすことによって実際よりも対象を大きく思わせたり、小さく思わせたりすることができる。これを「基準点の置き換え」という。
 「感謝献金は、1カ月10,000円です」というのと、「1食につき100円です」というのでは、信者が受ける感じが違ってくる。10,000円は高いが、1食100円位ならまあいいか・・、という錯覚に陥りやすい。
 神慈秀明会の感謝献金は、「毎月10,000円を出させよう」ということが先に決められ、次にこれを「出させやすく」するために、信者を説得するときは、月単位という基準点から「1食当たり」に基準点を下げ、「1食当たり100円」という少額に思わせることにより「ださせやすく」したのであろう。
 こうした人の判断基準を狂わせて人を陥れる手法は、心理学で「フレーミング・テクニック」と呼ばれる手法で、感情コントロールの一つである。


世界平和 (思想コントロール)
 「世界平和」。この言葉に反論を唱える人はまずいない。しかし、カルトはこの世界平和さえもカルトの道具に利用する。
 「私たちの教団が目指すのは、世界平和だ。世界平和を達成するためには、その目標に向かって頑張っている我々の教団が大きくなることが、まず大切だ。その為には、布教活動に専念し、新しい信者さんをたくさん『お導き』しなければならない・・・」。おやおや、なんだか雲行きが怪しくなってきました。
 これほど見え見えな理論展開はしないが、結論的にはこれと同じことが多くの新興宗教で行われている。
 「人救いを急がなければ、人類の危機を阻止することはできません。寸暇を惜しんで生きがいある実践をさせて頂きましょう」。これは、神慈秀明会ハンドブックP.40の記述だ。危機感を煽り、信者を布教行動へ駆り立ている。
 世界平和という、誰もが肯定的感情を持つ題材を持ち出し、自分たちは、あたかも平和を希求する団体であるかのような顔をして、実際にはカルトの勢力拡大を目指すという姑息な手段であるが、多くの人は「世界平和」という言葉が持つ先行イメージの影響で、この思想コントロールに騙される。
 国連関係者へすり寄ったり、NGOの申請をしたりするのも、これと同様の目的を持った行動であろう。

 世界平和を目指す、と豪語している彼らが犯している最大の誤りは、その独善性にある。
 彼らの主張によると、世界平和を達成できるのは、自分たち以外にはないと言い切っている。
 「明主様のみ教えは、仏教も、キリスト教もすべての宗教を包括した超宗教、世界的宗教なのです。これでこそ世界に通じ、全人類を救うことができ得る、唯一無二のみ教えです」(神慈秀明会ハンドブックP.122の記述)。
 これほど他の宗教を侮辱した言葉もめったにはないと思われる言葉である。彼らは、この言葉を「世界宗教者会議」の席上で読み上げる自信があるだろうか?
 彼らは歴史を学んだことはないのであろうか?世界各地で起こっている戦争の多くは、宗教問題に端を発したものが多数ある。それらの紛争の元は、「我こそが最も正しい宗教だ」という独善にある。他の宗教の存在を認めず、我こそは最高の教えと主張する傲慢な態度は、新たな紛争を生むことはあっても、世界平和につながる考え方ではない。
 真に世界平和を考えるならば、いかにすれば多くの宗教、多くの民族が融和できるかを考えるべきであり、我こそは最高という他を認めない傲慢な態度は、世界平和への道とは正反対の方向に向いていることに気づかないのはバカとしか言いようがない。
 神慈秀明会では、世界平和へつながる「地上天国」を建設すると称して高額の献金を信者からかき集め、滋賀県の山中に巨大な神殿や美術館を作り、「地上天国の雛形ができた」と言っている。あの建築物を見ると、「一将功なりて万骨枯る」という諺がよく似合う姿である。あのバカでかい神殿を建てたり、美術館を造るのにどれだけ多くの信者が過酷な献金地獄にあえいできたかを知る者は、あの美術館の展示だけを見て「すばらしい」等と評価することはできない。
 多くの信者とその家族の犠牲の上に巨大施設を建設し、世界平和に逆行する教義を掲げる神慈秀明会に、どのような宗教的救いが期待できるのだろうか。


社会貢献 (思想コントロール)
 「社会貢献」。この言葉も「世界平和」と同様、心に心地よく響く言葉だ。
 真摯に生きてきた人ほど、「人はこの世に生を受けた以上、社会の役に立ちたい」と思うものである。
 カルトはこうした純粋な心も、信者獲得や信者をマインド・コントロールする材料に利用する。
 神慈秀明会ハンドブック第13章、「生活の指針」(P.113)に次のような記述がある。
 明王様は、この地上をして理想世界、言い変えれば地上天国を建設するために、あなたを地上に送られたのです。現在までの世界歴史は、地上天国建設の基礎的工作に過ぎなかったのです。明王様は、人間一人一人にそれぞれの使命を与え、特長を持たせ、生き変わり死に変わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのです。私たちは自己放棄して絶対の境地で神命のままに生き、世のため、人のため、明主様のみ弟子としてご神業のお手伝いをさせて頂きましょう。

 神慈秀明会に入って活動することは、「世のため、人のため」であり、あなたがこの世に生まれたこと自体が、地上天国を作るために神様が意図的に地上に送ってくれたのだそうである。
 現在までの地球上で起こった全てのことは、神慈秀明会が地上天国を作るための基礎的工作でしかなかったのだそうだ。つまり、世界は神慈秀明会のために、これまで動いてきたのだ!
 何という思い上がりだろう。真の宗教者はもっと謙虚なものである。宗教者といえども、所詮は人間であり、人間は間違いを犯すこともあるものだ。信念をもって活動することと、独善は違う。真の宗教者は、このような思い上がった言動はしない。
 このような傲慢な考え方をベースに行われる「社会貢献」は、独善的で押しつけがましく、「自分たちは絶対正しい」と思いこんでいるので他人の忠告も耳に入らない。
 彼らの独善的な「社会貢献(だと思ってやっていること)」が、新たな社会不安を巻き起こし、社会貢献どころか、「社会の迷惑」となっていることにすら気づかない視野狭窄に陥っている。
 しかし、「社会貢献」という美名で思想コントロールされ、他のコントロールの影響もあって正常な判断力を奪われている信者達は、自分たちは「世のため、人のため」に社会貢献をしていると「信じて」活動している。

 神慈秀明会は、「特定非営利活動法人秀明インターナショナル」という名称で滋賀県にNPO法人としての申請を行っている。特定非営利活動法人(NPO)というものは、その名が示すとおり、営利を目的にした団体ではなく、社会貢献を目的にした団体である。これまで神慈秀明会が行ってきた活動(金集め)とは正反対の性格を持つ団体に自ら名乗りを上げた目的は、信者や社会を「社会貢献」、「NPO」という美名で騙し、彼らが持つダーティーな側面をカモフラージュしようとしているだけなのか、それとも新たな戦略が隠されているのだろうか。


自己改革 (思想コントロール)
 タバコが止められない、ダイエットができない、勉強ができない、友達ができない、家事ができない、子育てができない、浪費癖が直せない、夫との(妻との)関係がうまく保てない等々、自分に対して不満を感じたり、自分の至らなさに歯がゆい思いをしていることはないだろうか?
 こうした不満や欲求は誰でもが持っているものだ。現状に満足してしまい、自己改革の欲求を失ってしまえば、人間としての発展もそこで止まってしまう。
 常に自分を厳しく見つめ、自分の至らなさに気づき、それを改善していく努力は人間として、当然持つべきものである。
 しかし、カルトは人間が持っているこうした自己改革を希求する気持ちをも、マインド・コントロールに利用する。

 カルトは信者に対して、「あなたの自己改革を妨げているのは、あなた自身の古い自我です。あなたの古い概念があなたにブレーキをかけているのです。あなたがこれまで持ってきた価値観が自己改革を妨害しているので、これを打破するには、あなた自身の価値観の転換を図ることが必要です。明主様(神)のみ教えに従い、真の御浄霊を行うことが人を救うことになり、またそうした活動を通してあなた自身も新しい自分を発見することになり、救われるのです。」等と言葉巧みに持ちかけ、自己改革の要望をカルトの目的とすり替える。
 こうして、この信者は、資格者に言われるまま、「自己改革のために」と思ってカルトにはまっていくことになる。
 信者自身は、自己改革のために自らの意志で信仰の道を選択したと思い込むが、実際にはカルトが仕掛けた思想コントロールの罠にはまっているのである。


奇跡体験 (感情コントロール)
 神の存在を信者に認めさせる近道として、奇跡体験・神秘体験は新興宗教にとって欠かせないアイテムだ。
 しかし、大半の奇跡は、伝聞情報として教団内でまことしやかに申し伝えられているだけであり、実際に衆人環視のもとで無から有が生じたり、有から無への奇跡が起こっている訳ではない。
 脱会した元資格者から、「実際にはそのような事実はなかったが、信者の明主様への信仰心を強くする目的で、おかげ話を捏造し信者に伝えた」という証言もある。また、それを聞いた神慈秀明会幹部は、「ここだけの話だけど、そのようなウソはついてもいいんよ」と、おかげ話の捏造を是認する発言をしている。
 奇跡に関する伝聞情報は、膨大な数の「おかげ話」が、機関紙「秀明」や内部で発行されている本に掲載されており、教団内部で行われる勉強会でも盛んに伝聞情報に基づく奇跡が資格者から信者に報告される。
 人は情報量が多すぎると、それらの情報を一つ一つ吟味して確認することができなくなってしまい、情報の多くが差し示す方向の意見を採り入れてしまう傾向がある。「これだけ奇跡に関する話が多いのだから、本当なのでは?」と思ってしまう。
 「膨大な数のおかげ話」は、信者の感情に過重な負担をかけ、心のバランスを崩し、暗示にかかりやすい状態を作る。こうした手法は、催眠療法におけるトランス(忘我)状態作成に用いるテクニックでもある。「感動的な、おかげ話の連射」によって、信者の心は催眠状態と同様のトランス(忘我)状態になる。  こうした伝聞情報に基づく「奇跡のシャワー」を散々浴びせておき、次に「演出による奇跡」を見せると、「わーっ!、神慈秀明会の奇跡は本物だ!」と仰天し、信じ切ってしまうことになる。
 ダイヤモンドが出てきた、とか金粉が降った、などという「具体的奇跡」も報告されているが、ガラス玉のおもちゃを使った「演出された奇跡」であったり、幼稚なトリックや手品の類を使った「奇跡」が大半である。しかし、すでに「その気」になっている信者には、ガラス玉も本物のダイヤモンドに思えてしまう。
 「奇跡のシャワー」を浴びせられ「その気」になってしまった信者は、その後、偶然起こったことでも、全てを奇跡として認識する。事故にあったがケガがなかった、ケガが軽かった等も信者には奇跡となる。高速道路の渋滞が「突然動き出して約束の時間に間に合った」のも、神様のおかげによる奇跡なのである。
 この調子であるから、病気が治りでもしたら「超奇跡」となる。この人たちは、人間の持っている自然治癒力についての知識が全くないのかと不思議に思うが、すでに正常な判断能力を奪われている信者に正常な判断を求める方が無理なのかも知れない。
 こうした、「奇跡」を利用した感情コントロールはマインド・コントロールにおける解凍の役割を果たす。

(参考)下記URLに、ミスター・マリック氏が人間の体から金粉を出す手品を行ったことが紹介されている。
http://garden.millto.net/~eight-kings/magic/oldmj/report/maric/maric_99.html

 神慈秀明会は祈りの形態が神道に通じるものがあるが、本来の神道では奇跡などについては否定的見解をとっており、神慈秀明会のように、”奇跡信仰”を重んずるのは本来の神道の姿ではない。
 神道では、次のように言われている。


神道に不思議なし

 「正法に不思議なし」という言葉があります。正法(真理)には奇跡や不思議は無いと云うことですが、「正法」を「神道」に換えても全く同じことが云えます。

 そもそも神道とは宇宙の法則という意味があり、神社のお祭りが神道の全てではありません。それは祭礼という儀式の一部にしかすぎません。又いわゆる神憑りや呪術にしても、それらのほとんどは密教や陰陽道の影響を受けたものであり、神道本来の姿ではありません。オカルトや超能力など何かをいわんやです。こうしたものに関わると必ず汚れます。よくよく注意すべきことです。

 それでは神道本来の姿とは何か。それは純粋な自然信仰であり、世界の宗教の始源の姿です。欧米もキリスト教以前はそうでした。古代人にとって自然の脅威は死活問題であり、自然といかに共存するかが生活の全てでした。

 そこには机上の哲学や観念論などの入る余地はありません。
 生きるか死ぬかなのですから。即ち自然そのものが神だったのです。そのことを神道では「自然を以って経典とする」と云います。

 聖書や経文のような文献によらずに、直接自然そのものと相対し、恐れ、敬い、学び、感謝し、そして一体となる。自己もまた自然の一部であると知ったとき、余分な理屈や観念は要らなくなります。奇跡を求める気持ちも無くなります。自分が自然(法則)の一部なのですから。そのようなものは要らぬのです。

 あとは只自然に、法則に乗って生きてゆけばよい。
 それが惟神(かんながら)の道、神道なのです。

 そうです、「神道に不思議なし」です。

 (上記は、http://kosintou.hp.infoseek.co.jp/new_page_31.htm から参照させて頂きました)




恐怖感 (感情コントロール)
 「人間は生まれながらにして『業』を背負っているおり、信心によってしか、この『業』から逃れることはできない」とか、少しでも悪いことがあると「先祖の祟りだ」等と脅すのは、よくある手口である。
 「霊界は182段階に分かれており、生きている間に徳を積んでおかないと死んでから高い段階の霊界に行けない」と脅すのが神慈秀明会だ。ここでいう「徳を積む」とは、献金や奉仕を指すが、主たる目的は金である。
 「信仰をやめると不幸になる」という脅し文句も、彼らの権力維持のために常套的に用いられる。やめた人や勧誘しても信者にならなかった人は不幸になってもらわないと彼らにとって都合が悪いので、そうした例を誇大に宣伝する。
 信楽鉄道事故で亡くなった方の中に、それ以前に神慈秀明会の勧誘に応じなかった人が含まれていたが、その人が亡くなったのは神慈秀明会に入信しなかったからだと秀明紙には書かれていた。
 神慈秀明会では、「曇り」という言葉が盛んに出てくる。この「曇り」とは、「罪・穢れ(けがれ)」のようなものであるらしいが、実態のない「架空の不安」のようなもので、その名前が示す通り、『曇り』->『曇っていて実態がよくわからない』->『わからないから不安で恐ろしい』という漠然とした不安感・恐怖感を煽り、その不安感・恐怖感で信者の心を縛り、コントロールする材料に使っている。
 こうした恐怖感を利用するのが、カルトの感情コントロールだ。
 人は誰しも、怖い思いはしたくないものであり、その宗教を信ずることにより恐怖から逃れることができ、幸せになることができるのであれば、当然信心の道を選ぶことになる。しかし、信者の中にもたくさんの不幸になる者や、死亡する者がいることを考えれば、カルト信仰によって全ての恐怖から逃れることなどできないことは明らかな筈である。
 カルト宗教と言われている団体は、ことごとく、こうした恐怖感を利用した感情コントロールを行っている。


病気治療 (感情コントロール)
 新興宗教に入信するきっかけとして、本人や家族の病気治療が動機となる例は多い。
 その期待に応えるべく、新興宗教では意外に簡単に病気治療効果があるとされている「秘技?」が用意されている。神慈秀明会などの「手かざし系」と呼ばれる団体は一様に手かざしによって病気治療を行うが、手かざしの方法は細部に於いては教団毎に違いが見られる。元は同じ教団(世界救世教)に属しており、分裂後も教祖は同じ教祖(岡田茂吉)を崇めているにも係わらず、手かざしの方法が違ったり、神との仲立ちをする、「お光り」の様式が違うのは奇妙であるが、所詮「思いつき」で作られた教義、教団であるので差異があっても当然なのかも知れない。
 手かざしによる治療効果については、プラシーボ効果や自律神経の働きによると思われる効果は推測できるが、彼らがいうような「神の力」による治療効果は、証明もできないし、通常の神経では信ずるに値しない。手かざしがプラシーボ効果により治療効果を発揮する可能性があることについては、当ホームページの他の項で詳しく述べているので、そちらを参照して頂きたい。
 私がいかに否定しても、それを信じている人は手かざしに効果があると思っており、それはその人の自由なので、信じていたらいいと思うが、手かざしには次のような「効果」があることも知っておくべきだろう。
 手かざしを行った結果、何らかの治療効果があったとする。それがプラシーボ効果によるものであっても、手かざしを信じている人は「神の力」だと思うのであろう。そして、そのような治療効果を発揮することができた「自分」は「神のような力を持っている」、あるいは「神との仲立ちができる」と錯覚する。
 この段階で、この人の頭の中では「それまでの自分」から、「手かざしができる自分」へと変革が進んだのである。「手かざしができる自分」は、この成功体験によってますます自信をつけ、神へ帰依する心も強くなり、カルトが意図した通りの「新しい自分としての再凍結」が完成していく。
 手かざしはそれを受ける側への治療効果だけでなく、それを行う側へのこうしたフィードバックが働くことも知っておくべきである。
 「手かざし系宗教の信者は、一人一人がシャーマン化し、深刻な精神障害を起こすおそれがある」と警告した学者がいたが、まさにその警告は核心をついたものである。
 神慈秀明会では「10万回浄霊」などと称して、信者に対してあらゆる場所、あらゆる機会をとらえて手かざしを行うように強制している。その結果、多くの信者が手かざしを通して自分自身が「変革から再凍結への道」を歩むこととなり、結果として神慈秀明会にマインド・コントロールされる道を歩んでいる。
 私は当初、手かざしなど子供だましの幼稚なパフォーマンスとしか考えていなかったが、それは「手かざしをする人->される人」、という図式でしか手かざしを見ていなかったからで、「手かざしされる人->する人」へのフィードバックによる隠されたマインド・コントロール効果に気づいたとき、カルトの狙いのしたたかさに慄然とした。


世襲制 (思想コントロール)
 新興宗教団体の教祖は世襲が多い。神慈秀明会は教祖は岡田茂吉(故人)であるが、その他は完全世襲制であり、小山一族が歴代の会主・会長等、要職を占めている。
 こうした世襲を正当化するため、神慈秀明会内部では、機関紙やその他刊行物を通して小山一族がいかにすばらしい人たちであるかを賞賛し、新会長等の神格化が図られている。
 この神格化の過程で、徹底した思想コントロールを行おうとしているが、外部から見ているとその「持ち上げぶり」は醜さを超えて滑稽ですらある。普通の人間を「神」として祭り上げるためには、なりふり構わない「誉め言葉の嵐」、「荒唐無稽なこじつけ」、「神をも恐れない嘘」がまかり通っている。
 本来ならば、ここにその文章を紹介すべきなのだが、あまりのばかばかしさに引用して紹介するのもためらう程の内容である。どうしてもその文章を見てみたいという方があれば、別途紹介することは可能なので、メール等で連絡して頂きたい。
 北朝鮮の金正日も父親の金日成から世襲により権力を引き継ぎ、最近は次世代への権力委譲の話題が飛び交っているが、やはり世襲により金一族の血がつながった者が権力を引き継ぐようで、その準備のために後継者候補やその母親までも神格化する動きが北朝鮮国内で画策されている。
 こうした神格化の動きや、権力機構内部の不透明さは、神慈秀明会と北朝鮮には共通のものがある。

 宗教団体や社会主義国家という、世襲にはなじみにくい組織であるにも係わらず、歴代世襲による権力委譲が続けられていることに、常識ある人たちは一様に疑問を呈している。
 新興宗教団体のトップが世襲である理由は何か?その答えは「金」である。


終わりに
 私はどちらかというと技術畑の人間で、宗教も、カルトも、心理学も全くの門外漢であり、こうした問題で人様にお見せする文章を書けるような知識は全く持ち合わせていない。
 今回、この文章をまとめるに当たって、多くの心理学関係の本を読み、登志子のカルト問題との関連を手探りでたどりながら、何とかこうした形でまとめてみた。
 会社から帰り、食事等が終わってから作業できるのは一日3時間程度しか時間がなく、夜中の2時、3時までかかる日も連日であったが、書き始めてから約2週間でおおよそのまとめができたので、公開することにした。
 私がこの文章をまとめるに当たって配慮したのは、私のように予備知識がない普通の人が読んだときにカルトの危険性やマインド・コントロールの怖さが理解できるものにしたいという点だった。そのため、なるべく具体例を多く用いるようにした。
 最も参考にさせて頂いたのは「マインド・コントロールの恐怖」(スティーヴン・ハッサン著)であるが、この本は大変優れた教科書的存在であるが、少々難解なところがあるのと、対象になっているのが統一教会であるため、その内容をそのまま紹介しても神慈秀明会の被害者には分かりづらいところもあるので、他の心理学関係の資料も参考にしながら、私なりにかみ砕いて神慈秀明会で行われているマインド・コントロールと関連付ける形で紹介させて頂いた。
 そして、この文章をまとめるに当たって常に私の頭の中にあったのは、私の妻、登志子のことであった。登志子に神慈秀明会のマインド・コントロールの実態を知ってもらい、目を覚ましてほしいという思いが、私にこの文章を書かせたと言っていいだろう。
 登志子がこれを読んで、どのような感想を持つかまだ分からないが、私の希望としては、これを読んで、登志子が神慈秀明会の本当の姿に気づいてほしいと思っている。
 そして、私と同じようにカルトのマインド・コントロールのために苦しんでいる新興宗教被害者の家族の方の参考に少しでもなればと思っている。

エドモンド・パークという人が、こんなことを言っている。
 「悪が勝利するのに必要なのは、良い人々が何もしないことだけなのである」。


一覧表
 以上で紹介した各項目において、どのようなマインド・コントロールが使われているかを一覧表にまとめてみた。
 感情・思想・行動・情報の各コントロールは、単独で使われる訳ではなく、感情コントロールが思想コントロールにつながり、そのコントロールされた結果が行動コントロールに作用したり、逆に行動コントロールが感情や思想コントロールを刺激するというように、それぞれが関連しあって作用するものである。
 下表は、それぞれの項目で主としてどのコントロールが使われているか、そしてその結果が主として解凍・変革のどちらの段階に強く作用するかをまとめたものである。なお、一連の解凍・変革が再凍結へつながっているので、表中には再凍結の文字は表示していない。

項目別、マインド・コントロール一覧表
項目主に使用するコントロール主な作用段階
常識破壊感情コントロール解凍
シンプロシティ感情コントロール解凍
外部の敵思想コントロール変革
漏れ聞かせ感情コントロール解凍
情報遮断情報コントロール変革
選民意識感情コントロール変革
勉強会思想コントロール変革
反復行動行動コントロール解凍
労働奉仕行動コントロール解凍
街頭布教行動コントロール変革
高額献金思想コントロール変革
基準置換思想コントロール変革
世界平和思想コントロール変革
社会貢献思想コントロール変革
自己改革思想コントロール変革
奇跡体験感情コントロール解凍
恐怖感感情コントロール解凍
病気治療思想コントロール変革
世襲制思想コントロール変革

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