神慈秀明会に於ける献金

 新興宗教も、ただ単に信者を集め、教えを広めるだけでは『事業』として宗教団体を運営することは経済的に困難だ。誰かが運営費を出さなければ事業を継続し発展させることは不可能になってしまう。
 そこで登場するのが、『玉串料』や『献金』などでの集金業務だ。信者には、玉串を捧げたり、お布施や献金をすることは神様に対して徳を積むことになると教え、可能な範囲で徳を積むように指導する。信者ではない人間が見れば単なる集金の口実にしか見えないが、信者の中には素直にそれを受け入れ高額の献金等をする者が多数存在する。
 集められたお金の使い道は多様であるが、立派な教団施設の建設に使われる場合がある。天を突くような、見る者を圧倒する荘厳な神殿は『こけおどし』的な効果が大きく、『これだけ立派な建物を建てることができる教団なのだからこの教団は本当にすばらしいものなのだろう』と思わせる効果がある。『荘厳な神殿の建設は、万単位の新たな信者を生む効果がある』と証言した元新興宗教関係者もいた。
 また多くの新興宗教は著名人とのつながりを盛んに宣伝する。誰でもが知っている有名人、タレント、団体名等を次々と列挙することにより、『このような有名人も認めている教団なのだから大丈夫だろう』と安心させる効果が大きい。著名人は多額の報酬も得られるし、名前を使われることにより自分の知名度も増すので、よほどの人物でない限りは名前を使われることを承認する。健康器具や薬の宣伝に著名タレントをイメージキャラクターとして登用すると、その商品の売り上げが伸びるのと同様の効果をねらって、新興宗教も著名人とのつながりを信者拡大の道具として使っている。
 神慈秀明会が信楽に建設した神殿の設計は、「9.11テロ」で倒壊したニューヨークのツインタワービルを設計した世界的建築家「ミノル・ヤマサキ氏」であることを繰り返し会報などで宣伝に使っていた。その神殿の落慶法要には、『M.進一』や『S.郁恵』など、当時の『国民的歌謡曲スター』が登場し、多数の信者の前でその歌声を披露した。同じ信楽の土地に建設したMIHO美術館を設計したのは、これまた世界的に有名な「I.M.ペイ氏」であり、『有名人好き』な神慈秀明会の体質が現れている。
 こうした宗教本来の内的世界とは別次元の、『建築物の立派さ』や『著名人も認めている』といった、『見た目の派手さ』で大衆にアピールし、実態をよく知らない者を信用させて自らの宗教に取り込んでいこうとする姿勢は真の宗教が取るべき道ではない。
 『目先の人気取り』的手法を用いてでも信者を増やそうとする神慈秀明会が目指すものは一体何なのだろうか。

 神慈秀明会では、ことごとく金が要求される。
 まず勧誘されて最初につれて行かれる支部で玉串(お金)を捧げることを要求され、入信時に『お光り』をもらう際には5万円(途中から3万円に値下げされたらしい)、このお光りを汚したりした場合は『お詫び』と称して1万円(額は種々あるらしい)、月々の玉串料、地上天国献金、桃の木献金(一口1000万円、教団施設建設献金)、桃の実献金(一口100万円、教団施設建設献金)、桃の種献金(一口10万円、教団施設建設献金)、月々のお供え代として数千円、信楽の本部で行われる式典参加費、教義を勉強する為の教本代などの他、MIHO美術館では立派な画集やカタログ、カレンダー等も販売されている。家に飾る御神仏の額や置物も高額な値で販売されている。『お光り』を首からぶら下げるひもは、安物ではダメで、金やプラチナのひもが望ましいとされている。
 神慈秀明会では無農薬野菜や無添加食品の販売も地域の信者ネットワークを利用して活発に行われているが、醤油1本1,500円(スーパーで買えば250円程度)、納豆1パック245円(スーパーなら70円程度)と法外な値が付けられている。
 こうした『金がかかる宗教』は、私のような部外者から見れば、単なる金集めのために宗教を隠れ蓑にして善良な信者をだましているとしか見えない。

 「神慈秀明会ハンドブック」という本がある。これは信者に配布される本で、彼らのバイブルである「聖教書」を補足する解説書のような存在であるようだ。
 神慈秀明会ハンドブック第10章には、「みろく大黒天・玉串・献金・奉仕」について解説がされている。
 神慈秀明会の問題点として、サラ金で借金をしてでも高額の献金をさせる経済カルト的側面が上げられるが、この第10章を見ると、神慈秀明会の献金に対する考え方がよくわかる。
 下記リンクには、第10章(P.80〜P.89)を画像ファイルにしてある。

第10章(画像ファイル)

 以下の紫色文字は神慈秀明会ハンドブック第10章からの引用部分である。
玉串とは何か
(前略)
このたまぐしの心は時代が下り、捧げるものが品物になったり、貨幣経済の現代では貨幣になって献金と呼ばれたり、品物ではなくて労働という形をとって奉仕となっても、一筋に貫いて変わることのない心であります。
(中略)

玉串を捧げる意義
 その感謝の心の表われがお玉串にほかなりません。神様のご用に役立つお玉串は、私たちの私用に使われるのとは比較にならぬくらい大きな働きとなりますが、それがそのまま私たちの徳となって罪穢(つみ・けがれ)が消えます。お玉串をさせて頂くことがお許しとなって、私たちは徳を積ませて頂けるのです。

玉串と礼拝
 私たちのま心からの感謝と、それにお応えくださる明主様のみ心とによって大きなはたらきとなるのがお玉串なのですから、お玉串を忘れての礼拝は形のみあって実のないものとなります。感謝のま心という花が咲いても、お玉串という実がならなかったら、それはむだ花になります。

 つまり、金を出さずに感謝だけしていたのでは「むだ花」になるだけで、何の役にも立たないと言っている。大切なのは「金」を出すことなのだ。神慈秀明会では、「金を積む」ことが、そのまま「徳を積む」こととなり、金を出した者は罪や穢れが消えるというのである。
 テレビドラマのせりふに、「同情するなら金をくれ!」というのがあったが、「感謝するなら金をくれ!」というのが神慈秀明会である。

献金とは何か
 一般に感謝の気持そのものを表現する一つの方法として献金があります。献金とは文字どおり金銭を献上することです。これはもちろん日ごろ明主様から頂いている数々のご守護に対する感謝の気持を表わしたものであり、さらに進んで、明主様のみ教えが広まり、明主様紀元の実現、地上天国建設のお働きが強化されるよう積極的に協力させて頂くためにするのです。

献金は何に使われるか
 献金はすべて、地上天国建設という明主様のご神業そのものに使用されます。神慈秀明会が大きく発展し、この世を正し、幸福な人々をつくるという計り知れない利益を生むのです。

いかなる気持ちで献金すべきか
 誠心からの献金が尊いのです。金銭の使い方は人により千差万別ですが、世の中にはずいぶん無駄に使用されていることが多く、それではかえって罪穢を増すことになるから注意すべきです。だれしも大切なお金ですからもっとも有効に使わねばなりません。中でも心から明主様に感謝し、誠で捧げられた献金は明主様のご用に使って頂き、立派に役立たせて頂けるのです。
 また献金させて頂くことにより、人々は自らの罪穢を取り除いて頂けます。この献金による罪穢払拭の働きは非常に大きなものがあります。危険なときに命が助かったり、絶大なご守護を頂いたりすることがありますが、そのことは献金により罪穢が払拭されていたからこそ頂けたのです。
 金をたくさん出した者は危険なときに命が助かるが、金を出さなかった者は命が助からないのだ。なんという神様でしょう。「地獄の沙汰も金次第」という言葉があるが、この宗教では助けるべき人間か、見捨てるべき人間かは、その献金額の大小で決まるようだ。
 この理論からすると、この文章のもう少し先に登場する岡田三栄子という神慈秀明会幹部が交通事故で死亡したのは、彼女の献金額が不十分だったからなのであろうか。
 永遠の幸福は常に精いっぱいの献金をさせて頂いて、明主様から与えられるものであることを知らねばなりません。同時に献金させて頂いたからといって、金銭に不自由するようなことは決してなく、明主様が困らすようなことは絶対なさいません。むしろ献金させて頂け、罪穢が払拭され、病貧争から救われ幸福者となるのです。
 幸福になりたかったら、金を出さなければならなのだ。その金の出し方は中途半端であってはならない。『精一杯』献金しないといけないのだ。サラ金から借りようが、親戚から借りようが、親の金を無断で持ち出そうが、とにかく精一杯献金しないと幸福者にはなれない。そうして必死の思いで金を出したからといって、決して経済的に困るようなことにはならず、明主様が助けてくれて幸福者となれるそうだ。
 それが本当ならば、神慈秀明会に数百万円もの大金を献金してきた者が訴訟を起こしたり、主婦がご主人に内緒で献金した結果、離婚されたり、学生が神慈秀明会の「ご用」に奔走した結果、退学に追い込まれたり、会社員が神慈秀明会の「ご用」のため休みが多くなり解雇されたりするようなことにはならないはずだが・・・。

玉串・献金のあり方
 玉串・献金は決して定額ではありません。「貧者の一灯、長者の万灯」ということがありますが、根本に感謝の気持を持ち、できる限り精いっぱいさせて頂くのが本当の玉串であり、献金であります。日ごろから常に感謝の気持ちを表すため、感謝箱などを利用するよう心掛け、特に祈願するときや、ご守護を頂いたときなどは特別に献金させて頂きましょう。要は心からの明主様への感謝の気持ちを忘れないことです。
 再度、『精いっぱい』が出てきた。特に今度は、『できる限り精いっぱい』となっている。搾り取れる信者からは徹底して搾り取ろうとするする神慈秀明会の姿勢がよく表れている。高額の献金を求められた女性が、その金を工面するために水商売に身を転じて金を稼ぎ、必死になって神慈秀明会に献金した事例も他のサイトで報告されていた。
 上記で引用した神慈秀明会ハンドブックの文中には、「罪穢(つみ・けがれ)」という言葉が何度も繰り返し出てくる。よほど神慈秀明会では、信者は罪深く、穢(けがれ)多きものとして認識しているのであろう。信者をそのように罪深く、穢(けがれ)多き存在として見下しているからこそ、多くの信者を罵倒し、金をむしり取っても幹部は罪の意識を感じないのであろう。

 神慈秀明会には「お詫び」と称する献金制度がある。この「お詫び」は、とのような時に行わねばならないかというと、信者が身につけている「お光り」に髪の毛が入ったり、汚れたり、曲がったりした場合は「お詫び」をしなければならない。
 「お詫び」は「お詫びの文章」と「お詫び献金」をセットにして提出せねばならず、お詫び献金の額は種々あるようだが、登志子の場合は10,000円だった。しかし、他で報告されている例では、お詫びとして100万円を支払った例や、新規入信者1名を必ず獲得することを約束させられた例などがある。
 信者は皆、この「お詫び」にならないようにお光りの取扱には非常に神経を使っているようである。
 しかしこの制度、誰が考えたのか知らないが、非常におかしな制度である。個人の持ち物である「お光り」に髪の毛が入っていたというだけで、なぜその持ち主が神慈秀明会に金を払わなければならないのだろう?
 神慈秀明会の言い分としては、「神様に対して無礼があった」、という解釈の結果であるようだが、ではなぜ髪の毛1本がお光りに入ったことが無礼に当たるのだろうか。もともとその構造が簡単に髪の毛が入るような構造になっているところに問題があるのであり、製造者責任法(PL法)の考え方をすれば、そのような構造にお光りを作った製造者側の責任が問われる問題である。
 このような「お詫び」制度は、信者に対して神に対する畏敬の念を植え付けようとして考え出されたものではないかと思われるが、その運用は信者に対して恐怖心を植え付けるだけのものとなっている。

飛天に見る神慈秀明会の体質


 神慈秀明会が発行している本に、「飛天」というA5版520ページの本がある。
 この飛天という本は、神慈秀明会会主・小山美秀子の有力な右腕であった、岡田三栄子という女性が事故により死亡したため、この岡田三栄子を偲んで刊行された本である。
 この死亡原因について、信者には、「対立する世界救世教の陰謀により殺された」とされ、岡田三栄子は殉教者であるかのように言われていたが、そのような事実は見あたらず、信者の居眠り運転による交通事故で死亡したことが後日明らかになっている。
 神慈秀明会では信者に対する人権を無視した過酷な「ご用」のため、居眠り運転による事故が多い。同様のケースはオーム真理教の信者にも見られた。
 一人の女性幹部が死亡したことを偲んで520ページもの分厚い本を刊行するということは、この女性幹部が神慈秀明会にとって、非常に大きな存在であった証拠であろう。
 本の内容は、神慈秀明会が世界救世教から分裂(これを彼女らは離脱と呼んでいる)した時の状況や、分裂後、世界救世教が神慈秀明会に行ったとされる行為を口汚くののしっている部分と、この女性幹部に対する信者の思い出話の二部構成になっている。
 世界救世教の言い分は、この本に登場する神慈秀明会の言い分とは真っ向から対立しているが、その内容等については、詳しく解説している他のサイトがあるので、ここでは取り上げない。
 信者による思い出話の中には、この女性幹部・岡田三栄子の言動が具体的に述べられている部分が多数あるが、そのなかから献金等にまつわる部分を紹介する。
 読んでいただけば分かるが、献金をさせるために信者に対して恫喝とも思える言葉が投げかけられている部分が随所にあり、神慈秀明会の献金に対する異常なまでの執着心が伺える。
 飛天では本名が記載されているが、信者の方のプライバシーを尊重し、ここでは氏名の一部を伏せ字にしてある。

p.180 献金を減らすと
(前略)生活が苦しくなってきたとき献金を前月より少なくお届けしました。そのとき先生が、「神様にお届けするお金を減らすということは、自分で霊層界をさげることになるのですよ」とおっしゃいました。(○井アヤ子)

p.186 子供でも500円や1000円を
 私は、あるときおひかりをなくしました。しばらくたっておひかりが見つかり、黄島支所へおわぴにお参りしました。その当時は経済的に苦しいときで、おわびのお玉串を少ししかしませんでした。すると先生が、「おひかりのおわびは五百円や千円で済むと思いますか。子供でも五百円や千円はしますよ。」と言われ、ほんとうにそうだ、申しわけなかったと思い、精いっぼいさせていただきました。
 それからは絶対にご無礼のないように心がけ、神様に対する考えが、あまりにも身勝手だったことを反省しています。(○田悦子)

p.219 ミミッチイのが大嫌い
 月末になり献金集計表を三栄子先生にお見せしましたら、「こんなのご献金と違いますよ。あんたはご献金について何も知らないわね。こんなのあなた一人分ですよ」と大声をあげて目を丸くして言われました。
 「こんなミミッチイのは出せません」「精いっぱい、痛いほどしなさい」とご指導いただきました。
 また、支部月次祭にお供えをみんなで少しずつ出し合ってさせていただこうと思い、呼びかけたところ三栄子先生のお耳に入り、「そんなミミッチイお供えだめよ。そんなことはやめなさい。一人一人が誠で精いっぱいさせていただくもので割り当てのようなものではありません」ときびしく教えていただきました。
 あるときには新しく支部のお部屋をいただいたとき、ついつい私たちは世帯じみて、もらい物や新しい物で使っていない品で間に合わせようと思い、みんなで持ちよりましたところが、「センスのない、ガラクタを集めたようなミミッチイことをしないでちょうだい」と言われてハッと気が付きました。
 支部は霊位の高い所なんだとそのとき悟らせていただきました。
私は今まで何度も何度もいろいろな方からご指導頂いてまいりましたが、そのときほど短かいことばで腹にスーツと入り頭に残ったことはありません。それ以来、私の信仰姿勢を少しずつ変らせていただきました。(○谷照子)

p.221 お初のお金を思い切り献金
 「人間にとって一番大切なものは生命、その次にお金でしょう。主人にもらったお初のお金を思い切り献金なさい、そのあとを生活費にしなさい。神様は精いっぱいを喜ばれるから」と三栄子先生はおっしゃいました。(○北咲代)

p.243 借金をしてでもご参拝
 生まれて1年10カ月の長女和子が、突然ひきつけを起こし右半身まひ状態になり入院、酸素吸入、リンゲル注射、その他医学でできるだけのことを尽し毎日なやみの明け暮れでした。少しばかりの貯金も使いはたし、毎月の給料も病院代に精いっぱいの毎日でした。○谷様より一度話を聞きにいらっしやいと云われ、藁をもつかむ思いで浄霊をいただき、そして入信させていただきました。
 その後半年ほどした頃、三栄子先生の家の大掃除を手伝いに参りました。そのとき三栄子先生が、「あなた、今度のご本部の参拝に行かれるでしょうね」と言われ、私は突然のことで、「いいえ、お金がありませんので行きません」と、今から思うと大変失礼なことを申しあげました。三栄子先生は、「お金がなければ借金してでも行きなさい」と強く言われました。私は目の前が真っ暗になったような、また明るくなったような複雑な気持ちになりましたが思い切って借金して参拝させて頂きました。(○村 昭)

p.245 実行して相談に来なさい
 あるとき、三栄子先生から「1カ月、日参しなさい」と云われました。私はお玉串料のことがわからず、
 「先生、日参すると毎日お玉串をするのですか」
 「そうです」
 「私はサラリーマンですから、きまった月給です。いまでもギリギリいっばいの生活で下手すると赤字になることがあります。それなのに、たとえ100円ずつしても、3000円いるでしょう。そんなことできません」
 そうしたら、大きな声で目をクルクルされて、
 「私が日参しなさいと云っていることを素直に聞いて実行しなさい。実行して、どうしてもできないときには相談に来なさい」と大きなお叱りをいただきました。(○芝美都子)



 これを読むと、信者がかわいそうになってくる。どうして、ここまで叱られなければならないのだろう。飛天の文章からは、岡田三栄子の信者に対する冷徹な命令・叱責・指示が目立ち、信者に対する優しさが全く感じられない。中には、「優しくされた」と書かれている部分もないわけではないが、たまたま機嫌がよかったときは優しい言葉をかけることもあったようであるが、献金・参拝・「ご用」に関しては信者の都合など考えない、過酷な「献金強要」、「参拝強要」、「ご用の強要」が随所に出てくる。
 それでも、信者はそれに耐えて上記のごとく血のにじむような思いで献金等を続けてきたのは、よほどこの女性が怖かったのであろう。
 神慈秀明会東京支部元支部長兼青年部長であった、H本T子という女性の東京支部での横暴きわまりない言動がインターネットで話題になったり、強引な献金強要の結果、裁判沙汰にまでなっているが、この神慈秀明会という団体は、こうした『女帝』が君臨する団体であるようだ。

 神慈秀明会における「献金地獄」は執拗なものがあるが、彼女らが教祖と仰ぐ岡田茂吉は、その「み教え」の中で次のように述べている。
 『例えば信徒又は末寺に対し、一定の額を定め強要する事があるが、これは自然ではない。信仰的献金としては本人の自由意志によって任意の額を決めるのが本当である。気持よく献納する事こそ真の浄財になるのである。』(昭和24年06月25日)
 次のような「み教え」もある。
 (前略)私は宗教に就いての自由を言いたいのである。それは、信者の意志を制約して教団の都合を図ることで、これこそ以ての外である。然もその手段として用いるのが言葉の脅迫であるから、ここに至っては最早赦すべからざる信仰的脅迫である。その一例として私はこういうことを聞かされたことがある。自分は随分長い間熱心に信仰して来たが、年中病人は絶えず、貧乏の苦しみからも脱けられないので、段々信仰が嫌になったので、脱けようとすると、その布教師は恐ろしいことを言うので、どうしていいか判らないで迷っているといって相談をかけられたので、私はそういう宗教は無論邪教だから、一日も早く止めなさいと言ってやった。しかしこういう宗教も世間中々多いようである。(昭和27年10月08日)

 こうした岡田茂吉の「み教え」と、神慈秀明会が実際に行ってきた献金強要・脅迫とのギャップを、彼女らはどのように認識しているのであろう。
 神慈秀明会のバイブルである「聖教書」は、岡田茂吉の約2000編ある「み教え」の中から100編だけを抽出して一冊の本にまとめたものであるが、その聖教書の中に上記のようなカルトを戒める「み教え」は入っていない。

 宗教には支配イデオロギーとしての宗教の側面と、解放の宗教としての側面があり、どの宗教もこの両面を持っているが、神慈秀明会ハンドブックや飛天を読むと、神慈秀明会という団体は支配イデオロギー的側面が非常に強いことがわかる。
 これでは、信者もさぞかし苦労していることであろう。

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