登志子さんへ(8)
信じるとは
「大陽は東から昇ると信じます」とか「○子(子供の名前)は登志子さんの子供だと信じます」とは言いませんね?このように自明の事柄については「信じる」という表現は使わずに「・・昇る」とか「・・子供だ」という断定的な言葉で表現します。
「信じる」という表現は、やや不確定な事柄であるが「自分はそのように思う」という個人の主観的要素が含まれた決定次項に対して使われます。
「神を信ずる」「奇跡を信ずる」という場合も同様で、神や奇跡は一般的には認知されていないが、その人の心の中ではこれを肯定的にとらえ、その存在を認証する方向に心が動いたときにこうした表現が使われます。
何を信ずるかはその個人の自由ですから、誰はばかることなく自分の信念に基づいて信じたいものを信ずればよいのですが、世の中にはカルトと呼ばれる新興宗教や霊感商法、マルチ商法など、一般市民をだまして金儲けをしようという輩もたくさんいるので、ある程度警戒心をもってこれらにだまされないように注意する必要があります。
一般的には不確定な事柄であり、通常では信じられない事柄を、ある個人が信ずるように転ずるきっかけは自分自身がそれを体験した場合と、自分が信じている人の体験談を聞いた時です。神秘体験が新興宗教で幅広く横行しているのは、神秘体験により一気に信心を深める効果があるからです。また神慈秀明会ではその教えの至るところに教祖や信者の体験談が膨大な数で用意されており、それらを繰り返し見たり聞いたりすると、ますます信ずる気持ちが強くなります。
私はそうした神秘体験の全てがインチキであると断言するものではありませんが、そうした布教に活用されている神秘体験の多くは主観的体験談に基づくものが大多数であり、単なる幻覚を神秘体験や奇跡と思いこんでいるものが多いのではないかと思います。
天龍寺管長の平田精耕氏が次のようなことを語っています。
「現代の人々は、神も仏も信じない、かといって科学信仰だけでは人間は幸せになれないということに気がつき始めた。いったい何を信じていいのかわからない、いわば浮草みたいな存在になってしまった。
浮草のような人間の心に忍び寄るのが、疑似宗教の類です。オウム真理教やら、わけのわからない白装束集団やら、インターネットで知り合い自殺する人々。これらは本当の宗教ではありません。一種のファンタジー、つまり幻覚と現実の境を失った人たちの集団でしょう。
我々も座禅の最中に、しばしば幻覚を経験するときがあります。特に毎年12月の座禅週間のときなど、一週間ぶっ続けで寝ないで座禅したあげく、座ったまますっと天に上がるような錯覚が起こったり、目の前に金色の仏像が何十も背高ぞろいで現れてきたりします。
私が体験した例では、座っているときに地獄の底が開いて、ダーッと落ちていくのです。自分でも怖くなり、叫び声をあげて地面を手でたたくと、何のことはない、畳の上に座っていました。また別なときには自分の体全体が水晶のように透きとおってしまう。そのときは大変にうれしい。『これが空の世界である』などと思ったりしたものです。でもそういう幻覚はたちまちどこかへ消し飛んでしまう。
禅では、そういう幻覚が出たときは、警策で修行者をひっぱたいて元の意識に戻してしまいます。この程度の幻覚を悟りの世界であると錯覚して執着すると、その人の修行はそこで止まってしまう。禅録に『勝境なりと雖(いえど)も魔境なり』という言葉があります。幻覚を見るのは修行の段階の中の一種の進歩(勝境)ですが、また危険な世界(魔境)なのです。
本当の悟りとは『了々常知(りょうりょうじょうち)』、つまり常にはっきりとしている状態なのです。赤は赤、青は青、痛いときは痛い、痒いときは痒い、こういうことのはっきりしている世界が悟りの世界です。反対に痛いものが痛くない、痒いものが痒くない、という世界はファンタジーの世界です。
ところが、疑似宗教では、そのファンタジーの世界を悟りの世界だと偽っている。」
以上は天龍寺管長の平田精耕氏の談話の一部ですが、これを読むと幻覚は比較的簡単に見ることができるものであることが分かります。神慈秀明会の人が上記のような体験をしたら『超奇跡だ!』ということになりはしないでしょうか?
神慈秀明会での神秘体験は、『信じている人たちから見れば全て事実に思える』事柄が、『信じていない人たちから見れば荒唐無稽な話』か『幻覚を見ただけだろう』くらいにしか見えないという両極端に位置する状態です。神慈秀明会という宗教団体の中だけで論ずるのであれば、何が信じられようが、それはその人たちの勝手であり、私のような第三者がとやかく口を挟むような筋合いのものではないのかも知れませんが、登志子さんがそうした神秘体験や奇跡を信じるということは私にとって無関係の問題ではありません。あなたは私の妻です。夫婦といえども人格は別であり、それぞれの個性は尊重されなければなりませんが、あなたが騙されている(あなたはそうは思っていないでしょうが)のを放置することはできません。あなたを大切に思う気持ちがあれば、それはなおさらです。
私の会社では、お客様からアンケートをとり、その結果を集計して売場職員にフィードバックしています。この集計課程で会社にとってプラス評価の意見だけを取り上げて集計し、その結果を公表したらどうなるでしょう。それを見た人は『なんとすばらしい会社だろう』と感心するのではないでしょうか。しかし、このような集計方法はフェアーではありませんし、客観的結果を見ることはできません。公正かつ客観的結果を得るためには公の機関が調査を行い、肯定的意見も批判的意見もその全てを明らかにし、その集約課程で意図的操作が行われる要素を除外した状態で集計しなければ信用されません。
医療機関での医療事故も、その多くが隠され、公にされることが少なかったためこれまで問題視されずにきましたが、最近になって内部告発等によりその実態が徐々に明らかになってきたものもあります。しかし、それらはまだ氷山の一角が現れただけで、もっと多くの隠された医療事故があるのではないかと疑われています。これは医療機関が『白い巨塔』と呼ばれ、外部からの公正な査察が行われずにこれまでやってきたことが最大の疑惑の基となっています。○子の病気も発熱時の無理な大量点滴の結果、体に無理がかかり発病したのではないかと思っていますが、証拠がありませんので確かめようがありません。私たちが安心して医者にかかれるようにするためには、人の命を預かる病院や医師の治療について、もっと公の機関による査察等が強化されるべきと考えます。
原発事故も同様で、原発内で種々のトラブルがあってもこれを公表せず、危険を承知で運転を続けてきましたが、内部告発により実態が暴露され多くの原発が運転停止に追い込まれました。一部のトラブルは公になりましが、まだまだ『たたけばホコリが出る』ようにトラブルが隠されているのではないかと疑われているのは、外部からの査察が事前に日時を予告した上での査察であったため、都合の悪いところは隠して査察を受けてきたため発覚しなかったものです。東京電力では再発防止に向けて社内に再発防止委員会を設けて検討しているようですが、内部の人間だけで公正さを訴えても誰も信用しないでしょう。 原子力発電という一つ間違えば大きな災害を招くおそれがある発展途上の技術を使う以上は、それに対する査察がおざなりにならず、公の機関によって確実に厳しく行われなければ付近住民は安心して生活することができません。
新聞の広告に、『幸運を呼ぶ財布』というのがありました。これを買った人の体験談も多数紹介されていましたが、そのどれもが『買って良かった。本当に運がめぐってきた』という幸せいっぱいの体験談であふれていました。財布を買ったけれどそれほど幸運にはならなかった人もいるはずなのですが、そうした例は紹介されていませんでした。
本当に幸運を呼ぶ財布が実在するならば私も欲しいと思いますが、その効果を確認するためには、同じ条件で財布をもった人と持たない人を比較検討するとともに、幸運が訪れた場合があったとしても、それが財布の力なのかそれ以外の要因による結果なのかを検証する必要があります。
例えば、1000人の人がいたとします。500人は幸運の財布を持ち、他の500人はその財布を持ちません。財布を持った人が500人もいれば、その内何人かは幸運に恵まれる人も出てくるでしょう。しかし、財布を持っていなくても500人の人がいれば、その内何人かは幸運に恵まれる人も出てくるでしょう。財布を持っている人で幸運に恵まれた人は『幸運の財布のおかげだ!』と思い、その体験談を語ることになるかも知れません。その体験談は写真入りで次回の宣伝に使われることでしょう。
財布を買ったけれど一向に幸運に恵まれない人が『この財布にはそのような御利益はないぞ』と発売元に苦情を言っても、その意見が宣伝に掲載されることはないでしょう。
財布を持っていなくても幸運に恵まれた人は『ラッキー!』とか『これは自分の日頃の行いがよかったためかな』と思うだけで、どこかの宣伝に載ることはありません。
財布をもっていなくて特に幸運にも恵まれなかった人は以前と変わらないだけですから、特に声を上げることもないでしょう。
何をもって幸運と感ずるかは非常に漠然としており、個人差も大きいので、結局の所財布のおかげで幸運になれたのか否かは判定できないのですが、宣伝に使われるのは財布を買い求め幸運にも恵まれた(と思っている)ごく一部の人の体験談だけです。その広告を見た消費者の中には『財布を買えば幸運に恵まれるかも知れない』『自分もあわよくば・・』と思ってこの財布を買い求める人もまた出てくるので業者は笑いが止まらないことでしょう。
このように、自分達にとって都合の悪いことは隠し、自分達に都合のいいところだけを取り上げて宣伝するのは『世の常・人の常』であります。
神慈秀明会の手かざしはどうでしょう。手かざしを行ったが効果がなかった例はなかったのでしょうか。インターネットでは数々の問題点が指摘され、神慈秀明会の熱心な信者であったにも係わらず全く効果がなかった例も多数報告されていますが、神慈秀明会が公表する資料には一切そうした問題点は掲載されません。
これまで神慈秀明会で取り上げられている手かざしによる奇跡は、その全てが主観的であり、肯定的立場から見た結果を取り上げているだけです。効果があったとされる事例でも、それがプラシーボ効果によるものでないのかとか、自然治癒力によるものでないのかといった検証がされていないところに最大の弱点があります。
そのため神慈秀明会を信じている人だけは手かざしを信じているが、他の一般的な人たちから見ると奇妙な姿にしか見えない結果になっています。
神慈秀明会の手かざしによる治療効果が本当に明主様からの目に見えない光によって起きているとするならば、それを立証することが必要です。それを信じている人たちに言わせれば、『それは数々の奇跡で、すでに立証済みである』と言われるでしょうが、それは立証になりません。
明主様からの光は『お光り』を通して放射されるとされていますので、お光りをつけないで浄霊をした場合とお光りをつけた状態で浄霊をした場合で治療効果にどれくらい差がでるかを検証することが大切です。もちろん相手には浄霊をする者がお光りをつけているかつけていないかが分からないようにして行う必要があります。検証には対象数が少ないと誤差が大きく信頼性に欠けるものとなってしまうので、数百件行う必要があります。
結果の判定は神慈秀明会の関係者が行うのではなく、公正な第三者機関にまかせることが大切です。
このような提案をすると、神慈秀明会関係者から『お光りをつけないで浄霊をすることなどめっそうもない!』とか、『神聖な浄霊を実験材料にするなどとんでもないことだ!』などとお叱りを受けることでしょうが、本当に手かざしが効果のあるものだと公言するならば、公明正大な検証を受け、効果を確認することが欠かせません。それで効果が実証されれば神慈秀明会としても強力なバックアップが得られることになります。
岡田茂吉は、手かざしを『日本医術』として位置づけています。神慈秀明会は岡田茂吉の教えを最も基本としている宗教団体ですから、神慈秀明会としても手かざしを『日本医術』と位置づけている筈です。『日本医術』として手かざしを広く一般社会に認知してもらおうとするならば、薬害批判や農薬批判ばかりするのではなく、自らの治療方法の正しさを公の機関で立証すべきです。
本当に手かざしに効果があるのであれば、サーズで世界中が大騒ぎをしていた時こそ手かざしの効果のほどを世界中に知らしめる絶好のチャンスであった筈ですが、神慈秀明会関係者は一体何をしていたのでしょう?
最近は神慈秀明会の中で国連の話もよく登場するようですが、ではなぜあれほど世界中がサーズ蔓延防止に躍起になっているとき、WHO(世界保健機関)から神慈秀明会に対して出動要請がなかったのでしょう?
国連で神慈秀明会が認知されるという話も内部では言われているようですが、実際にはそのような国連の動きはありません。単に国連の事務総長が呼びかけた世界宗教家会議の席に神慈秀明会の会主が参加したという事実しかありません。
神慈秀明会では、皇室とのつながりも宣伝に利用していますが、昭和天皇が瀕死状態になった時に、なぜ手かざしで治してあげなかったのでしょう。
MIHO美術館を設計した世界的建築家「ミノル・ヤマサキ氏」はまだ若かったのに癌でなくなってしまいました。神慈秀明会は大変お世話になった人だったのに、なぜ手かざしで助けてあげなかったのでしょう。
神慈秀明会という閉鎖社会の中では絶大な治療効果を発揮する手かざしですが、一般社会では全く認知されていません。認知されていないどころか、『気持ち悪い』とか『インチキ』、『騙されている』などとの評価の方が定着しています。なぜこうした批判に対して応えようとしないのでしょう。時間がなかったのでしょうか?チャンスがなかったのでしょうか?そうではないはずです。時間もチャンスもたくさんありました。
神慈秀明会の宗教活動は『信ずる者』だけを対象にした非常に狭い活動であり、広く世間に認知されようとする活動ではありません。それはどこの宗教団体も同じだと言われるかも知れませんが、神慈秀明会は他の雑多な新興宗教とは違うはずです。岡田茂吉は神人同格のこの世では他に類を見ない、どの宗教よりも優れた神であるはずです。その神がやっていることは『信ずる者』だけを対象にした非常に狭い宗教活動であり、世間の批判に応えることができない宗教に成り下がっています。
こうした批判に応える為には、公の機関で自らの正しさを証明しない限り不可能です。
不快な情報の拒絶
人は自分にとって快適な情報は積極的に取り入れ、逆に自分にとって不快な情報は拒絶しようとする心理が自然に働きます。一旦、自分が肯定的にとらえたものを他人から否定されると不快になり、否定した人まで嫌いになったりします。
登志子さんも、このような文章を読まされるのはいやだと思いますが、我慢して読んでください。
人の心の中でその対象や事柄に対して自分なりに一つの『方向』が一旦できあがってしまうと、その方向に従って物事を理解したり行動することは自分の理にかなっているので無理なく思考・行動できますが、それに逆らう方向の思考や行動をするには自分が一旦認めたものを再度初めから考え直し、再構築せねばならず、それには多大な労力を要するため、自分にとって不快な情報は拒絶しようとする心理が働きます。
また、もう一つの本能的行動として、人間は自分を守ろうとする行動をとります。これは身体的に守るのと同様に、心理的にも自分を守ろうとする思考を無意識のうちに行います。悪徳商法により高額の商品を買わされた消費者が、だまされたと気付いた後でも、その商品の有用性を家族に対して行うなどといった行動を取りがちなのは、家族からの追究を免れようとする心理からだけでなく、自分は完全にだまされた訳ではないと自分自身に対する精神的ダメージの軽減を図る心理が自然に働くためです。
新興宗教被害者の場合も同様のケースがあり、自分がそれまで信じてきた宗教がインチキだったと認めることは、それを信じてきた自分自身の行動・判断の間違いも同時に認めざるを得ないことになります。これは本人にとって非常に大きな心理的負担となるので、家族や友人が一生懸命説得しても容易には自分の間違いを認めようとしません。あれだけ大きな事件を起こしたオウム真理教(現在はアーレフ)の信者の中には未だに麻原を信じ、オウムを抜けることを拒否している者がいるのはまさにそうした心理の現れです。
このように、一旦自分が信じたものはそのまま信じ続ける方がそれを否定するより楽なのです。しかし人間は楽な道だけを選択していたのではいけない時もあります。それが自分にとって苦しい選択肢であっても、真実を求める為にはあえてその苦しい道を進まねばならない時もあるはずです。
真実を求める道が必ずしも自分にとって辛い結果になるとは限りません。真実が自分の信ずるものと同一であったことが確認されれば、最終的には自分が最初に選択した道が正しかったことが証明される場合もあります。
真実を求める為には、その事柄を肯定的にとらえるだけでなく、あえて否定的にとらえ、否定的立場から検討してもその事柄は揺るぎないものであるかを検証することが大切です。肯定するために否定するというのは矛盾しているように聞こえるかも知れませんが、論理的には適切な方法であり、哲学者カール・ポパーは反証主義という科学哲学の一大流派を確立しています。カール・ポパーは、『ものごとの真実を見極めるには、仮説を反証によってテストする姿勢が決定的に重要である』と述べています。
神慈秀明会の手かざしは、神慈秀明会の中では肯定的立場からの体験談ばかりが流布し、あたかもそれが真実であるかのように思われていますが、これをあえて否定的にとらえ、否定的立場から検討してみることが大切です。信仰には科学的検証などなじまない、という意見もあるでしょうが、これは信仰の問題ではなく、『日本医術』という医学的治療効果についての検証です。人の命に係わる医療問題ですから科学的検証は絶対に必要なはずです。それでも科学的検証を否定するならば、それは手かざしが治療効果のないものであることを認めることと同等です。
こうした課題を登志子さんに突きつけても、あなたが直接的にこれを立証することは不可能と思います。不可能と分かっていて、あえてそれをあなたにこうして伝える私の真意は、あなたに意地悪をしようというのではありません。あなたが神慈秀明会の教えを信ずるに至った経過の中で、はたしてこうした反証的立場で物事を考えたことがあるかを問うているのです。新興宗教の怖さを知らない若い時に誘われ、純粋な気持ちで疑うことなくその教えを『信じて』しまったのではないでしょうか。
一度信じてしまうと、上記のように肯定的立場で全てを見るようになり、ますます信ずる心は強くなったのではないでしょうか。
私があなたに繰り返し神慈秀明会をやめるように説得しても、一度信じたものをそう簡単には捨て去ることは耐え難いことなのだと思います。それはわかりますが、私を信じて一度神慈秀明会を離れ(心理的に)、もう一度客観的立場、批判的立場で神慈秀明会の教え、手かざし等を見つめ直してほしいと思います。
それでもやはり神慈秀明会の教えが正しいと思うようであれば、私も一緒に神慈秀明会に入信し、一緒に勉強したいと思います。
私とあなたは夫婦であり、互いが異なった価値観を持ち続けることは決して好ましいことではありません。宗教問題は非常に難しい問題ですが、難しいからこそ共通の認識を持つことが大切なのだと思います。
平成○年○月○日