妻への手紙(6)
 以下の文章は、私から妻の登志子へ手渡した手紙を、一部の固有名詞等を除き、そのまま掲載しています。
 こうした親書を公開する理由は、同様の問題を抱えている方の参考に少しでもなればという思いからです。
 これを書いたときは、公開することを考慮せずに書いていますので、私と妻の間でしか分からない事情も多少あるかも知れないことを承知の上でご覧下さい。

登志子さんへ(6)

 誕生日、おめでとうございます。
 ○歳の誕生日ということで、あまりうれしくない気持ちもあるかも知れませんが、健康で○歳の誕生日を迎えることができたことは祝うべきことと思います。
 疲れているときもあるようですが、家事を分担できるところは手伝いますので遠慮なく言ってください。炊事は自信ありませんが、後かたづけくらいはできます。
 ときどき体調がよくない時があるようですが、体調が優れないときは無理をせずに楽にしていて下さい。体調が優れない時などやむを得ないときは、私でも缶詰とご飯で簡単に食事の準備をするくらいはできます。
 ある程度の運動をした方が体が軽くなりますので、ストレッチ体操などをしてみてはどうでしょうか。
 いつまでも元気な登志子さんでいてください。元気でなければ一緒に旅行をすることもできません。また平日の休みにはどこかへ行きましょう。

 あなたの○歳の誕生日ということで区切りの歳でもありますので、これまでのあなたとの生活を振り返って見たいと思います。


(プライベートな内容のため、一部省略)


 今回、あなたの宗教問題では心労をかけていると思いますが、私を信じてほしいと思います。私はあなたから見れば多少頑固なところがあるかも知れませんが、あなたと子供達を不幸にするような誤った選択は絶対にしません。あなたが家族の為を思って信心してきたのと同じで、私はあなたと家族の幸せを願ってこうして手紙を書いています。

 宗教というのは個人のきわめて内的な問題であり、例え夫婦であっても不可侵の部分が多いものだと思いますが、今回の神慈秀明会の問題は次元が違うと思います。現実に多額のお金が動き、多くの時間が取られ、多くのしわ寄せが家庭と夫婦間に及びました。
 本来の宗教は、個人の心の平安を求めて探求されるものであり、自己の不安等を自己の心の内で解決する方法を模索する段階でその考え方の手掛としてを宗教の教義が用いられることはあっても、神の力に過大な期待を寄せたり、神に救済を求めるのは間違った宗教心の持ち方です。
 ましてや、信仰を弱めたり、神の意志に背く行為をしたりすると『霊界からたたりがある』等と信者を脅して信仰心を煽ったり、お金を出すことが神への感謝のしるしだとして金銭を出させるような宗教は100%インチキだと断言できます。河合隼雄氏もこれについては明解に断言しています。
 私達凡人が知り得ない高位の存在として神は存在するのかも知れませんが、そのような高位にある神は決して金品を要求したり、信者を脅したりはしません。
 現世と来世とのつながり、人間と神とのつながり、現世と霊的世界とのつながり等は確固たる因果関係で結ばれているものではなく、その個人が信ずる範囲において強くもなるし弱くもなる性質を持っているものです。そうしたつながりを大切にしたいと思っている人にとってはかなり近い存在として感じている場合もあるし、そうしたことに感心を持たない人にとっては霊的世界の存在は全く意味のない、むしろ否定されるものでしかありません。
 霊的世界を近くに感ずる人は、その心中で祈りを捧げたり、魂の平安を求めて霊世界と心中で交信を交わし、人間が人間らしく生きる道を模索したらいいのだと思います。そうした自分自身の精神生活の充実を目指して宗教心を持つことは人が人として生きていく上でむしろ必要なことであり、現代人の多くはそうした大切な部分を忘れてしまっているように思います。
 こうした宗教行為はあくまでも個人の心の内で静かに行われてこそ意味をなすものであり、いわば個人的精神的宗教行為です。教祖様を崇めたり、集会に参加したり、献金をしたりする団体的行動的宗教行為とは一線を画しておくことが必要です。団体的行動的宗教行為を熱心に行うことにより、個人的精神的宗教行為のレベルも上がると思うのは誤りで、この二つの宗教行為は性質の異なるものです。新興宗教の多くはこの二つを混同して教えており、団体的行動的宗教行為を熱心に行うことを求める傾向が強いようですが、それが個人の救済につながると教えるのは詐欺といっても過言ではなく、両者間に因果関係は全くありません。
 あくまでも宗教というものは根本的に精神上の問題であり、具体的に『○○をしたら』その見返りとして『神様の御利益がある』等と、さも両者間に因果関係があるように教えるのは教団への利益誘導を考えた人間の勝手なこじつけでしかありません。
 日本人に無宗教や宗教嫌いが多い原因は、こうした勝手な解釈をして強引に信者集めをしたり資金集めをした宗教団体があまりにも多かったことが宗教への警戒心を高め、日本人を宗教嫌いにした原因ではないかとさえ思います。

 人間が人間らしく生きて行く上で、自然との調和は大切なことです。都会に暮らしている人が田舎の風景にふれたとき、心が安らぐ感情を持つのは人間の自然な感情なのでしょう。私も定年退職後、子供達が独立して家から出ていった後は田舎で農業をして暮らす夢を心の奥で持っています。ただし、まだこれは夢の段階であり、実現できるかどうかは未知数です。
 薬害の問題もたくさん発生しています。薬は一種の毒ですから、その使用方法を少しでも誤ると人間に害を及ぼすことは十二分にあり得ることです。人間の身体には自然治癒力があり、ガンになった人が笑いでガンを消してしまった話もあり、昔から『病は気から』と言われてきたのは一理ある諺だったのでしょう。何でも薬に頼るのではなく、自然治癒力もおおいに利用すべきだと思いますが、そのためにも日頃から自分の身体は自分で鍛えて基礎体力をつけておくことが大切です。
 また病気に負けない強固な意志力も大切であり、自分自身がどう生きるのかをしっかり持っておくことが求められます。生きるということは逆説的にいうと『どう死と向き合うか』ということでもあります。人間は必ずいつかは死にます。どのような宗教を信じていようが等しく死は訪れます。誰しも自分の死を考えたくはないものですが、死があるからこそ、それまでの人生をしっかり生きようとする力も出てくるのであり、自分の死と向き合う気持ちがなければ現在を生きるのも惰性に流されたものになってしまい、いざ自分の死が近づいた時に必要以上にうろたえたり、死を恐れることになってしまいます。
 ドイツの哲学者マルチン・ハイデッガーが述べた『人間は死への存在である』という言葉が示す通り、人間はどんなに恐れても死から逃れることはできないのであり、どうしても逃れることができないのであれば、それを率直に受け入れる方法を模索すべきです。この死を受け入れる方法や、それに至る考え方を導くものが宗教なのだと思います。
 私は自分の中に自分流の宗教心を持っているので特定の宗教を信じるということは必要としていませんが、そうではない人は既製の宗教を信ずることによって死を受け入れる心の準備をする人たちもいるのだと思います。
 宗教というものはきわめて個人の内的な問題であり、一人一人が自らの思考過程において解釈すべき問題です。特定の宗教を信ずる人間の数が多いからその宗教が正しいとか、神の力が偉大だから正しいというレベルの問題ではなく、あくまでも個人の思考過程において心の平安が保てる方向に作用する考え方を見つけだして行けばいいのだと思います。

 宗教には奇蹟がつきものです。宗教上の奇蹟は全て手品や集団催眠を利用したインチキだという考え方もありますが、確かに新興宗教で信者獲得のためや、お布施をたくさん出させるために仕組まれた『奇蹟』もあり、こうしたことがあまりにも多いので新興宗教はうさんくさい等と非難されるのだと思います。
 上記のような仕組まれた『奇蹟』は全くの論外としますが、では宗教上絶対に奇蹟は存在しないのかというとそうではないと思っています。
 人間の心と体は相互に作用しあっているものです。座禅を組んだり、厳しい修行の結果悟りを得ることができる人もいます。身体を極限まで痛めつけることにより、通常では得られない心理状態に到達し一種の幻覚を体験するようです。こうした幻覚は人種が違っても、育ってきた文化が違ってもほぼ同じような体験を得られることが知られており、その体験には多くの場合、光が現れ、神の存在を実感する場合も多いようです。
 こうした体験をした人の心の内部では真に『奇蹟』が起こっているのだと思います。宗教的悟りを開くというのは個人内部で奇蹟が起こることを現しているのだと思います。
 こうした例は身体の状態が心に作用して起こる奇蹟ですが、これほど特殊な例でなくても、心を病んでしまった為に体調を崩してしまうことはよくあることです。このような場合は逆に心の状態が身体を変化させた訳で、解釈のしかたによってはこれも一種の『奇蹟』なのかも知れません。  霊的な感受性が強い人が何らかの状況で上記のような『奇蹟』を体験すると、それをきっかけにして真理に目覚め、人類救済の道を見つけだし教祖となって自ら宗教を起こす人も現れてきます。全くのインチキ宗教は別にして、こうした奇蹟が元となって特定宗教が起こったであろうことは十分推測できることです。岡田茂吉氏もこうした霊的感受性が強い一人であったのかも知れません。
 こうした宗教的奇蹟は、その個人内部で起きる奇蹟であり、その奇蹟が他人に影響を及ぼすような性質のものではありません。確固たる教義が整備され、その教義に賛同した人が同様の奇蹟を求めて修行した結果、同じような体験に至ることはあり得ても、安易に同様の体験ができるものではありません。
 神慈秀明会で言われている奇蹟は、その多くが奇蹟と呼ぶには疑問を呈したくなるものが多く、単なる偶然を『明主様のおかげ』と誇大に吹聴しているようにしか見えません。
 名神高速が渋滞し、信楽で行われた行事の開催時刻に会主様の到着が間に合わないような状況であったが、『突然渋滞が解消し、奇蹟的に会主様は開始時刻までに会場に到着できた』ことを機関誌『秀明』では『超奇蹟』として大々的にとらえていましたが、高速道路での渋滞は一旦動き出すとそれまで延々と続いていた渋滞が嘘のように車が流れ出すことは私達も日常的に経験していることであり、これを『超奇蹟』として宣伝するのは誇大宣伝と言われてもしかたないのではないでしょうか。『たまゆら』には信者による奇蹟体験が数多く掲載されていますが、その大半は偶然と思えることを極端に善意にとらえ『明主様のおかげ』と持ち上げているだけのように見えます。

手かざしによる治療効果
 手かざしによる奇蹟も数多く報告されていますが、あれは一種の心理療法なのだと思います。以前の手紙にも書きましたが、私もあなたの浄霊を受けてみて非常に強く確信したことがあります。私は実際にあなたの浄霊を受ける際に、『これで効果があったらすごいことだな』と思いながら浄霊を受けました。猜疑心がなかったいうと嘘になりますが、疑いの気持ちが半分、効果があるかも知れないという思いが半分ありました。幸か不幸か私の場合は効果がなかったようで、翌日も喉が痛く、会社で痛み止めを飲んでしのぎました。しかし、ちょうど自然治癒力により痛みが引く直前にあの浄霊を受けていたらどうなったでしょう?ものの見事に翌日は痛みが消えていたかも知れません。そうすると人によっては『わーっすごい!浄霊を受けたおかげで本当に痛みが消えた』となるのではないでしょうか。実は私もそれを最も恐れました。『痛みが消えたらどうしよう?浄霊の効果を認めなければならないのではないだろうか?』と・・・。
 先に「幸か不幸か」と書いたのはその意味で、私の場合は痛みが消えなかったので浄霊の効果を否定できますが、中にはタイミング良く実施されたため『効果』が現れた例もたくさんあったことでしょう。特に人間は心で期待すると身体もそのように変化する自然治癒力が働く傾向があるため、思いこみの強い人ほど効果が現れる可能性が高まります。日本の薬事法では新薬の効果を実験する際に『ニセ薬』を使って実験を行うことが決められています。このニセ薬というのは外見も味も本物の薬と全く同じものを作り、A、本物の薬を飲んだグループ B、ニセ薬を飲んだグループ C、何も薬を飲まないグループに分けて実験し、本物の薬を飲んだグループが他のグループと比較してどの程度症状が改善するかを調べる検査です。普通に考えたらBのニセ薬を飲ませる意味がよく分かりませんが、これは『治療に効果がある薬を飲んだ』と患者が思っただけで自然に症状が改善する人がいるため、AとCだけではこうした『期待効果』での治癒力を判断できないため、こうした検査方法が決められています。こうした人間の期待効果による治癒力は『プラシーボ効果』と呼ばれています。Bのニセ薬を飲んだグループの約30%程度の人に改善効果が現れた例もあります。
 日本の古い風習に『わら人形』による呪術がありますが、普通に考えたらあのようなことをしても何ら効果がないように思われますが、場合によっては効果が現れる場合もあります。秋田県であった事例ですが、意図的に第三者を通して『○○さんがあなたのわら人形を作り、毎晩そのわら人形に5寸釘を打ち付けているそうだ』という噂を本人に伝えます。それを聞いた本人はノイローゼになってしまい、病気で寝込んでしまった例があり、これは裁判にもなりました。裁判の結果プラシーボ効果による因果関係が認められ、わら人形に釘を打ち込んでいた人が逮捕されました。
 その人が逮捕されたと聞いたとたんに、寝込んでいた人の体調は回復したそうです。
 このように人間の心と体は互いに関連しあっているものであり、医学用語では心身相互作用といいます。
 プラシーボ効果は『権威ある者』によって行われた場合は特にその効果が強く現れることが確認されており、これは決して『権威ある者』の能力が優れているのではなく、『権威ある者に治療してもらったのだから効果があるはずだ』と思いこんだ本人自身の自然治癒力が強く現れる結果です。
 手かざしを受けた人にもこうした心身相互作用が起きている可能性は十分考えられます。自然治癒力による偶然の治癒とプラシーボ効果による治癒を合わせればかなりの割合になるのではないでしょうか。

 プラシーボ効果であっても、それで病気が治れば結果としては良い方向に向かったのだから、あながち手かざしがインチキということにはならないようにも思われますが、問題は手かざしによって絶大な治療効果があるように吹聴し、それを金儲けの手段に用いている教団の姿勢です。
 人が、『不安を取り除きたい』、『皆が健康で幸せでありたい』と願う純粋な気持ちを金儲けに利用する行為は宗教人として恥ずべき行為です。岡田茂吉氏は確かにあの時代としては先見の明もあり、宗教家としては一つの方向性を示したのかも知れませんが、それを金儲けの手段に利用している現在の多くの手かざし系教団の姿勢は批判されなければなりません。

 書いている内に、徐々に力が入ってしまい、つい長々と書いてしまいましたが、これは決してあなたを批判している訳ではありませんので、誤解しないでください。
 あなたは純粋に信じてきただけだと理解しています。ただ、できれば新興宗教の怖さをも知った上で、批判的に物事を見極める判断力も持ちながら信仰を深めるか否かの判断をすべきであったと思います。特に結婚してからは私がそばにいたわけですから私に一言相談してほしかったと思っています。
 あなたも私に言いたかったと言っていましたので、私の宗教嫌いの態度があなたの相談しようという意欲をそいでしまったのも分かりますが、夫婦として長い年月一緒に暮らしていく中で、遅かれ早かれ、いつかは分かる時期が来たと思います。

 いまは、ほぼ全てが分かりました。あなたが神慈秀明会に支払った金銭も先日言った通り、私としてはあなたに買ってあげた車が自損事故で廃車になってしまったと思って私の気持ちの上で整理をつけましたので、なんら心配することはありません。

 今後の問題としては、あなたが自分の心の中で、この問題にどのように解決をつけるかです。一定の時間は必要と思いますが、いつまでも放置したままにはしないで下さい。助言が必要であればいつでも相談に乗ります。議論の過程で意見が対立することはあるかも知れませんが、決して怒ったりはしませんから、安心して相談してください。
 あなたは私がお光りを外して生活することを提案して以来、お光りをつけない状態で生活しています。それがあなた自身と私に対する現時点での回答であると受け止めていますが、いつかはお光りを処分し、あなた自身が神慈秀明会と決別してほしいと思っています。あなたがお光りを処分しても、あなたであることは全く変わらないし、そのことであなたや私達家族に不幸が訪れることもありません。
 お光りを処分することにより、あなたの精神的宗教行為まで放棄することを求めている訳ではありません。むしろその逆です。今までは神慈秀明会の教えという狭義の中での信仰心であったものが、その枠にとらわれることなく、自由に自らの意志で考えることができるようになるのではないでしょうか。
 その日が来ることを私は待っています。

 誕生日のお祝い文としては、少々堅い内容になってしまいましたが、私はあなたがこれからも元気で明るい登志子さんであってほしいと思っています。仕事を始めてから少しやせてかっこよくなりましたので、これからも頑張ってできればストレッチ体操などもしてより一層かっこよくなってほしいと思います。新しい髪型も、とてもあなたに似合っていて、私も好きです。新しいあなたを発見したようで、改めて好きになりました。
 人生80年時代ですから、二人が元気であれば、この先○年は一緒にいることになります。この先の人生をあなたと一緒に仲良く暮らして行きたいと思っています。
 いつまでも元気でいて下さい。

平成○年○月○日

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