妻への手紙(3)
 以下の文章は、私から妻の登志子へ手渡した手紙を、一部の固有名詞等を除き、そのまま掲載しています。
 こうした親書を公開する理由は、同様の問題を抱えている方の参考に少しでもなればという思いからです。
 これを書いたときは、公開することを考慮せずに書いていますので、私と妻の間でしか分からない事情も多少あるかも知れないことを承知の上でご覧下さい。

登志子さんへ(3)

1、提案
 あなたが昨日寝る前にふっと言った「こんなこと忘れて二人でどこかに行きたい・・」という言葉を聞いて、私はとても気持ちが楽になりました。あなたがそう言ったのは、それほど深い意味があって言ったのではないのかも知れませんが、私もこんなことを忘れてあなたと二人でゆっくりした時間を心穏やかに過ごしたい心境です。
 あなたがそれを受け入れることができるかどうかは別として、先日来話していることから私の気持ち、私があなたに対してどうして欲しいと思っているかはわかってもらえていると思います。
 そこで提案なのですが、私を信じて実験をしてみませんか?○月○日(月)の休みの日にどこか静かな場所へ二人で行き、きれいな景色を眺めてゆっくりした時間を過ごしたいと思います。その時あなたがいつも身につけている御守りを外して行って見ませんか?
 御守りがないとあなたとしては不安な気持ちになるでしょうが、私を信じてほしいと思います。私はあなたをだますような人ではありません。
 私は今までそうした御守りを身につけたことはありませんが、こうして元気でいます。一時期はやや肥満気味でしたが、自分でシェイプアップすることもできました。これは誰のおかげでもなく、自分で努力した結果と思っています。いまでも時間を見つけては腹筋や足の筋肉を鍛えて脂肪が体に付かないようにシェイプアップの努力を継続しています。今がいくら元気でもある日突然病気になるかも知れません。先のことは誰にも分からないの普通の人です。
 死後の世界のことや前世のことまで言われると私も分かりませんが、御守りがないと冥界に行ったときに苦しい思いをする等とは普通の人は考えません。普通の人たちは気付いていないだけだと言われるかも知れませんが、私はあなたに普通の人になってほしいと思っています。
 こんな言い方をしたら「私のどこが普通でないの!」と怒るかもしれませんが、御守りがないと不安になること自体が一種のマインドコントロールなのではないでしょうか?
 15年間という長期に渡って御守りを身につけてきたことにより、御守りは体の一部になっているような感じなのではないかと推測します。その御守りを外すことは不安な気持ちになるのは十分理解できますが、あえて自分自身にチャレンジしてみてほしいと思います。
 ○○旅行の時も外していたそうですので、一時も外すことができないというものではないようですが、旅行という「やむを得ない」状況で外すのと、今回のように自分の意志で(私の意向も取り入れて)外すのは意味が違うと思います。
 できれば徐々に御守りを外している時間、日数を長くしてほしいと思いますが、それがあまり苦痛に感じるようでしたら私に相談してほしいと思います。

2、私の死生観
 昨日も少し話しましたが、私の死生観についてもう少し話しておきたいと思います。
 私は特定の宗教を信じるということはしていませんが、かといってこの世が全てであり、死んでしまえば全てが終わりと思っている訳ではありません。だからといって死後の世界の存在をそれほど強く信じているものでもありませんが、肉体は滅びても魂は何らかの姿で継続したものへ引き継がれていくものであるような気持ちを持っています。これとて漠然とした思いであり、確固たる思想信条を持っている訳ではありません。
 また臨死体験についてはかなり研究したことがあり、多くの文献を調べたり、関係する本もたくさん読みました。その中には臨死体験者の体験談が数多くありましたが、かなりの確度で通常では考えられない体験をしていることが報告されており、立花 隆氏の報告も非常に興味深い説得力の強いものがあり、臨死体験というものが実際にあり得るものだと思っています。
 そのことが即、死後の世界の存在を実証するものではなく、ごく短時間の精神の彷徨が立証されただけなのかも知れませんが、ひょっとしたら死後の世界があるかも知れないという思いをもつこともできます。
 ときどき、ふっと頭の中で父のことを想うときがありますが、そのようなときは父が尋ねてきてくれたのかなと感じることがあり、頭の中で父と会話をしている時があります。会話といっても具体的に声を出して会話をするのではなく、私の意識の中で感じた父に対して頭の中で「おかげで皆元気でやっているよ」と答える程度のことですが・・・。
 また輪廻転生ということも漠然と信じています。なぜ輪廻転生を信じているかというと、私自身が北朝鮮の山河の姿に非常に懐かしい想いを持つ部分があり、現在は北朝鮮に行くことはとてもできない状況ですが、将来国交が正常化し、安全に北朝鮮に行ける時代が来たら是非一度実際に行ってみたいと思っています。これは単なる錯覚、根拠のない思い込みなのかも知れませんが、ひょっとしたら私の前世は北朝鮮在住者と関係があるのかも知れないと思っています。

 上記のような私の話は、まことにたわいない根拠の乏しい話で、これを科学的に立証できるものでは全くありません。私は科学的に立証できない宗教上の話にはきわめて懐疑的な立場をとる人間ですが、そのような私でも自分の中ではそれなりの死生観を持ち自分の宗教を持っているのです。でも、これは私個人のきわめて私的な世界でありこれを誰かに広めようとか理解してもらおうというものではありません。
 人それぞれ、こうした自分なりの死生観を持っているのだと思いますが、それはそれでいいのだと思います。

3、後悔しない人生
 人間いつかは死ぬときが来ます。それは明日なのかも知れませんし、10年後なのかも知れません。できればもう少し先まで生きていて子供達の成長を見守っていきたいと思っています。
 人間の一生は長いようで短く、短いようで長いものだと思いますが、自分が死ぬときになって「ああ、あれをしておくべきだった。これもしておくべきだった」と後悔しながら死んでいくのはいやですね。自分が生きている間には今できる範囲で最善を尽くし、できるだけのことをきちっと処理しておきたいものです。
 私はかなり小さいとき(小三くらい)から自分の死についていろいろ考えることがあり、小三のときに文章にまとめたものを高校生になった時に自分で見つけて驚いたことがあります。よく小三でこんなことを考えたなー、と自分でびっくりしました。
 折を見ては自分の考え方を文章にまとめてしまっておく習慣があり、高校生の頃は引き出しの中に原稿用紙に書かれた自分の考え方の文章がかなりたまっていました。
 死についてばかり書いていた訳ではなく、もっと前向きのものもたくさん書いていましたが、自分の人生について考える場面が比較的多かったように思います。だからといって今それが何かに生かされている訳ではなく、現在はごく普通のおじさんでしかありませんが、自分の死については自分なりに解答をもっており、『僕の生きる道』のようなことになって自分の死期が事前にわかってもさほど精神的に不安定になることはないと思っています。
 人間が死期を告げられて精神的に不安定になるのは、それまで自分の死についてあまり考えたことがなかったため、いわゆる「心の準備」ができていないためにうろたえたり取り乱したりするのではないでしょうか。
 人間は生まれた以上、いつかは死ななければならないものであり、一般的には死の時期は自分で調節することはほとんど不可能です。突然その時期がやってくる場合もあることを覚悟しておかねばなりません。いつその時期がやってきても、「自分の人生に悔いはない」と思えるように日々を大切に生きていかねばならないと思います。
 また通常、親は子供よりも先に死ぬものであり、親が死んだ後の処理は子供に託さねばならないものです。
 その時に身辺の整理がきちっとできていないと後に残った者に迷惑をかけることになります。死んでしまえば衣類や家財の大半はガラクタと化してしまいます。そのガラクタの整理に残された者が苦労するようなことではきれいな死に方とはいえません。自分の身辺は常にきれいにしておき、できるだけ後に残された者に迷惑をかけることのないようにしたいと思っています。
 戦国時代の武士はいつ死んでもいいようにできるだけ家財を持たず、残された家族が苦労しないように結婚もしない者が多かったそうですが、これは日本人としての美学の一形態ではないかと思います。

4、宗教の役割
 「また同じ話しか」と思わずに読んでください。
 私のような考え方をする人間にとって、既存宗教はあまり必要性を感じないものです。ここでいう既存宗教とはいわゆる新興宗教も含めた宗教全般です。
 既存宗教を必要としないというのは、宗教そのものを不必要としているのではありません。自分自身の中には自分の宗教をもっており、それを依りどころとしているのでそれ以外の既存宗教は必要としていないという意味です。
 世の中にはたくさんの宗教があり、それを信じている人たちもたくさんいます。自分の精神の拠りどころとして特定の宗教を必要とする人がいることは否定しませんし、個人の権利として自由に宗教を選択できる社会が望ましい社会であると思います。国が一つの宗教だけを国民に押しつけたり、一度その宗教に加盟したら他の宗教との接触を禁止したり改宗することを忌み嫌うような閉鎖的な宗教は正しい宗教の姿ではありません。
 宗教心を持つことは人間が人間らしく生きていく上で必要なことです。宗教の役割はその人の人生を豊かにし、人間として生きていく糧になるものでなければなりません。その宗教を信じたためにその人自身が不幸になったり、周囲の者が不幸になったのでは宗教本来の目的から外れることになります。
 誰しも不幸になろろうと思って信仰を深める者はいない訳ですが、結果として誰かが不幸になるような信仰は否定されなければなりません。オウム真理教でもエホバの証人でも入信の目的は幸福の探求にあったのでしょうが、結果は悲惨なものとなってしまいました。
 人間の幸・不幸は捉え方であって外面的には幸せに見える人でも内面では不幸に感じている人はたくさんいます。逆に他人が見ると不幸な人に思える人でも、その人自身としては結構納得した人生である場合もあります。外面だけで一概に幸・不幸を判断できるものではありませんが、現実に問題が生じて困っている人が発生している段階は不幸な状態であるというべきでしょう。
 得体の知れない新興宗教に走り、残された家族が嘆き悲しんでいるケースはたくさんありますが、信じている本人は正しい道を進んでいると確信しているので決して自分が間違っているなどとは思わないものです。自分の信仰を妨害しようとする者は敵に見えるだけなのでしょう。しかし自分が信仰を深めることにより残された家族がなぜ嘆き悲しむのか、なぜその宗教はダメだというのかを第三者の立場に立って見つめ直すことができる度量が必要です。家族を含めて皆が幸せになれることが望ましい宗教の姿です。

5、私の希望
 私の希望としては、あなたが一度宗教から離れて自分自身を見つめ直してみてはどうかと思います。あなたは自分が信じてきた教えが決して間違っていないと確信していることと思いますが、神慈秀明会にそれほど問題点がないのであれば、私も根拠もなくこれだけ反対することはありません。私はそれほど物わかりの悪い人間ではありませんし、他の人の自由な意思決定を阻害しようなどとは決して思わない人間です。それはあなたもわかってくれると思います。  また私だけが神慈秀明会に反対しているのであれば私の勘違いや思いこみということも考えられますが、神慈秀明会に疑義を唱えている人は非常にたくさんいるのです。
 あなたが見つけたダイヤモンドの件が最も身近で分かりやすい例ではないかと思いますが、新興宗教は手段を選ばず人をだましてでも教えを広め信者を増やそうとする傾向が強くあります。人の幸せを祈るはずの宗教がそのような卑劣な手段を用いてもいいのでしょうか?教団は「本人の意志で出したのだから問題ない」と抗弁しますが、では脱会した人が入信中に支払ったお金の変換を求める人が後を絶たないのはなぜでしょう?その人は入信中は「ものが見えない」状態になっていたのではないでしょうか。

 あなたにしてみれば神慈秀明会のどこがいけないの?という感じだと思いますが、自分がその組織の中にいると「近すぎて」見えないこともあるものです。マインドコントロール等ということばを聞くと更に「私はそんなものにかかっていない!」と反発を感じることと思いますが、マインドコントロールにかかっている人は絶対に自分がそうだとは思わないのがマインドコントロールの恐ろしいところであることを理解してほしいと思います。

 電気のスイッチをONからOFFに切り替えるように心を切り替えることはできるものではありませんが、徐々にでもいいですから自分の心を整理し、もう一度客観的に周囲を見渡してみてください。
 私は今回のことではあなたに厳しく対応しているように見えると思いますが、それはあなたに対する愛情だと思います。本当にあなたのことを嫌いになってしまえば私は心のスイッチを切り替えてしまうと思います(こんな言い方をすると脅しているように聞こえるかも知れませんが、そんな意味ではありませんので誤解しないでください)。
 私は今回のことで、これほどまでにあなたのことを大切に思っている自分を見つけて内心驚きました。いつもの自分であればもっと早くに「もういい!」と思いスイッチを切り替えてしまうと思うのですが、今回は自分でも驚くほどに「なんとしてもあなたに普通の人になってほしい」という思いで私はここまで頑張ってきました。
 短期間で解決できる問題ではないとも思いますが、途中であきらめることなくこれからもあなたが気付いてくれるまで頑張るつもりです。無理強いはしませんが、あなたももう一度神慈秀明会を批判的に見る目も持ちながら自分を客観的に見つめてほしいと思います。

平成○年○月○日

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