登志子さんへ(2)
今回の問題では、あなたにしてみれば、私たち家族のためを思って信仰を続けてきたという思いがあり、それなのに、それを半強制的に中断させられたと感じ、心の内では非常に大きな不満を感じているかも知れません。
しかし、いま私がこうして半強制的にあなたの信仰を中断させたのはあなたを救いたいという一心からの行為です。世の中にはたくさんの新興宗教に走る人たちがおり、その残された家族の想いは深刻です。得体の知れない新興宗教に大切な人を奪われ、残された家族は嘆き、うろたえ、奪われた家族を取り返す方法を探る苦悩の日々が続きます。
私はまだあなたがそこまで深刻な状況ではないと思っていますが、このままあなたに信仰を続けさせることは今より一層深刻な状況を生む結果になると危惧し、ここでストップをかけるのが最善の方法と思っています。
私がこのように思うのは間違いだと思うかも知れませんが、神慈秀明会がどのような宗教団体なのかをあなたにも知って欲しいと思います。そんなことは私に教えられなくても教団の人から十分教わって知っていると言われるかもしれませんが、それはそちらの内部での情報であり、一方的な情報であると思います。内部の一方的情報というものは往々にして自分たちに都合のいい情報は誇大に宣伝し、自分たちに都合の悪い情報にはふたをしようとするものです。信者に正しい情報を教えなかったり、他の宗教を非難するような狭義の教則はエセ宗教の行うことであり、公明正大な教団であるとするならば自分達を批判する意見にも真摯に耳を傾け、反論すべき点をきちっと反論すればいいと思います。
あなたも「奇跡」を現実に体験したことで大きな感動を覚えたことがあるようですが、その「奇跡」について懐疑的に見てみることはしたのでしょうか?それはあなたが思っている通り「奇跡」であったのかも知れませんが、ひょっとしたら偶然だったのかもしれません。「偶然」と思われたことが後でよく調べてみたら「やらせ」だったということも世の中にはよくあります。特にこうした宗教をめぐる「奇跡」には布教の効果を高めるための常套手段として使われる例が多いことは知っているのでしょうか?
ダイヤモンドが空から降ってきたり、地からわいてきたりしたら世の中は大騒ぎになると思いませんか?そうした「奇跡」は神慈秀明会の入会初期に起こっている人が大半です。その場所も「奇跡を演出」できる場所だったのではないですか?そのダイヤモンドはダイヤモンドの形をしていたそうですが、そのカットは誰がしたのでしょう?神様もダイヤモンドカットの技術を身につけているのでしょうか?この世の物ではないダイヤモンドとのことですが、それは誰が鑑定した結果ですか?科学的に論証されないことを誇大に吹聴し、人の心を惑わすようなことをして宗教心を高めるようなことをする教団の姿勢には多大な疑問を感じます。あなたの見解も聞かせてほしいと思います。
「金粉が自宅に降った」という「奇跡」もとてもたくさんあったようですが、その「奇跡」が起こった場所がどこだったか知っていますか?大半が自宅の玄関で起こっています。なぜ玄関で「奇跡」が起こりやすいかわかりますか?どこの家にも玄関には郵便受けがあります。郵便受けは外から軽く押しただけで開きます。そこから管を差し込み、金粉に吹き込めばいとも簡単に「奇跡」を起こすことが私でもできます。その金粉は「この世のものではない」ため数日たつと色が変わるのだそうです。本物の金はそう簡単に酸化しませんので短期間に色が変わることはありません。一般にショーなどで金粉を降らせたりする場合には本物を使っていたのでは破産してしまいますので、一見金粉に見える真鍮粉を使う場合が大半です。この真鍮という金属は表面が酸化しやすいため、数日たつと色が変わってきます。
中には玄関以外の部屋で「金粉」が降った人の例も報告されています。でも不思議と金粉が降るのは家人が留守の間に降っているようです。我が家でも部屋の中に金粉が降らないように鍵の管理には注意しましょう。粘土があれば簡単に他人の鍵の型をとり、鍵の複製をつくることができます。
でも、「本物の金粉」が降るのであればぜひ私の家にも降らせてみてください。金粉ではなくて金塊でもかまいません。すぐテレビ局に連絡したら一大ニュースになることでしょう。
以下の文章は、インターネット上に寄せられた神慈秀明会に対する批判的な意見をまとめたものです。かなり辛辣な意見もあり、信者の人が読むのはつらいものが多いと思います。しかし、自分が信じている宗教が本当は正しくない宗教だったらどうしようという懐疑的な考え方も持ちながら信仰を深めていく姿勢も必要なはずであり、盲目的に信ずるだけではいけないと思います。
以下の文章がすべて正しいのかどうかはわかりません。間違っているものもあるかも知れませんが、そうした間違った解釈のものがあればそれを訂正し正しい姿を伝えていくのも信者の務めなのではないでしょうか。
読後に、あなたの感想も聞かせてほしいと思います。
1、自然農法なるものを信者を使いやらせているがよくできている野菜・穀物などは本部に納めているようだ。
出来損ないの野菜などは信者に高く買わせている。自然農法はふつうの農家にくらべコストがかからないはずなのに赤字。それを信者に負担させている。
2、旧体制時代(〜H8)は「ガンが治った」「不治と言われていたのに・・・」といった奇跡のデモンストレーションをよく耳にしたが、新体制になってからはあまり聞かなくなった。そのかわり、偶然とも思える事を「明主様としか思えない」といった感謝報告が増えている様な気がする。奇跡が無くなっただけのような気がするのだが。
3、物理的に病気が治るとか、お金持ちになるとかいう、奇跡は、何かインチキ臭い。
宗教が起こせる、奇跡とは、もっと精神的なものだと思う。
それなのに、信者と資金を集めるために誇大な奇跡を自慢するのは宗教の役割と言うか、範疇を超えているのでは・・・。
4、薬は毒といって、なんでも浄霊(手かざし)だけで治せというのは横暴だ。奇跡は100%起こるわけじゃないと信者も認めているのに。
抗生物質飲めば5日で治るような症状に1ヶ月も苦しい思いをして自然治癒したから良いようなものの、治ったら「死ぬんじゃないかと思った」などと資格者がほざいた。
薬は飲まないにこしたことはないが、どちらにしろいずれ死ぬのでなるべく苦しまないように薬のみましょう。
そしてそういう人は信者に向かないのですみやかにやめましょう・・・。
別にやめても不幸になりません。
不幸になるのは別の問題で、信者でいても不幸は来ます。確実に。
5、「奇跡が無くなっただけのような気がするのだが」はやばいんじゃない?
未教えには奇跡のない宗教はもはや宗教ではないと書いてあるじゃん。
浄霊の機会が減れば、奇跡の機会も減るのは仕方がないかもしれないけど、威力は増してるはずだから、毎回奇跡が起こってもおかしくないと思うんだけどなぁ。
6、一般常識人には偶然、狂人には奇跡
7、あらゆる宗教団体が唱えている理想的な世の中が、実現できたら、宗教の目的は終わる。
つまり、宗教の最終的な目標は、宗教がいらなくなることである。
しかし、各宗教団体の目標が、自己の団体の存続にある点に問題があるのでは?
8、組織なんて、全部腐ってる。
表向き善良さを装ってるところなんて100パーセント腐ってる。
それは救世教も同じだ。
ただ、それじゃすまないことがある
9、ご存知かもしれませんが秀明会は他の宗教との接触を極端に嫌います。個人的に信仰を高めていこうと思ったら他の信仰から学ぶ事も多いと思うが。必ず何か言ってくる奴いますね。やられてるとか。
現役信者の立場でこういう事をいうのは何だが秀明会の信者は秀明会だけでよしという風潮がありそれが過去多くの間違いを起こしてきたと思う。
私は個人的に欧州で学んだことがあるが残念ながら秀明会の信仰は非常に底が浅いと思わざるを得ない。信仰はやはり自分と神様。
我々の誇りは信仰そのものであって、団体や指導者ではないはず。多くの人はその辺を勘違いしてるし、また強要もされる
10、高い野菜売らされてる末端信者のツレが「消費者の意識を改革せねば」とほざいとった。ビジネスカルトに利用されてるおまえの意識をまず改革しろよ、ばか。
11、まず信仰ありき<まず団体ありきといった雰囲気を凄く感じる。またそういう雰囲気を皆でつくっている。
本来、その信仰の優位性は自らその信仰を追及し、また他との比較で感じ理解するものだと思うが、秀明会では勉強会やお祭りの話で教えられることの方が圧倒的に多い気がする。特に自己放棄がなくなってからは。
自ら求め、考えて行動するより、従順な奴を求めている
12、何故 神様が人として 存在したのか?
浄霊や手かざしは 本当に必要だと 思いますか?
お光りは必要ですか?神慈秀明会は 結局何をしたいの?
人助け? 宗教統一? 御金集めと 小山家への 援助?
13、結局、どの団体に所属しているかではなく自分がどれだけ向上したかですね。
14、「今、献金させて頂かないと、必ず浄化する。さらに大きな悩みを抱える」と言って、無理やり献金させるというものがある。
必ず浄化する、大きな悩みを抱えることがわかっているのなら、そういったことを小さくするために、浄霊があるのに、してこなかった。
15、神慈秀明会の常套句「あなたの健康と幸せを祈らせて下さい」。浄霊は、相手の幸せを祈るためにあるのです。
浄霊によって、心が綺麗になり、恨み等心の貧しい部分が解消されていくのではないでしょうか?岡田茂吉は、そのために、浄霊を発明したのではないでしょうか?
16、宗教の本質は、「平和主義」のはずです。
創始者、岡田茂吉は、地上天国建設を目指していたはずです。美術館を建設することを望んでいたのではないと思います。岡田茂吉の言葉をちゃんと実践すれば、平和は望めると思う。
17、私の妹は秀明会に入信して10年ほどになります。無理と思いつつ、いつか辞めてくれることを祈っています。妹のことを思うと、また家族のことを思うと死ぬほど辛いです。
辞めてもらいたい... 辞めさせるのは無理なのでしょうか?
元信者のみなさん、辞めようと思ったきっかけは何ですか? また、どのようにして辞めたのですか?
18、献金のための借金や、親が心労で入院してしまったこと。なにより妹が昔と変わってしまったこと(言葉では表現しづらいです)などが、そう感じさせていると思います。
19、私は、「よかった〜。あぶなかった〜」というのが正直な気持ちです。あちこちで言われているように、強制的な勧めやカルト的な指示や態度が一人歩きし始めていたからです。我々の言葉でいうと、一部「5の線を突破」していた。
20、昔は熱い信仰をぶつけることで相手の心を揺り動かし、その結果入信者を頂いたりご献金が許されたりした。
旧体制末期の数年(平成になってしばらくしてから)は、信仰心をぶつける方法よりもカルト的な方法を選択していた人が多かったと思う。信仰心が無くても人に言うことを聞かせるために都合が良かったからだろう。当時はカルトという言葉も一般的ではなく、
「なにかおかしい」としか表現できなかったが。
だから、このままいくとどうなってしまうんだろうと思っていた。「オウムに続く危険な集団。早く破防法を」という悪口がこのスレッドにもあったけど、実はそういう観点での雑誌の取材まで来ていた。
21、神慈秀明会やってて一番「おかしい」と感じたのは、美薗の広場にあったバカでかい護摩壇。夏季布教前夜、皆で割り箸で護摩焚いた。オメーは真言密教かっての。
あと観音様。「観音様信仰です」だって。仏教か?
「ミッション」て映画を支部で全員で見てこの宣教師なみの伝道しなさいって。キリスト教?
大黒天だけの建物があって、扉が開くとき皆は見ちゃいけないのね(笑)。でも助教師がつついて「見ろ」って、だから見た。薄汚い置物だったよ。恵比寿様信仰?
もー「何でもあり」ってのが一番おかしいと思いました。
22、「感謝の毎日です。こんな信仰は、だめなのでしょうか???」
だめか、だめじゃないか、決めるのはあなたです。一生、現在の感謝・満足・幸福な気持ちのまま信仰し、生活できれば、それはそれでいいでしょう。
でも、いつか騙されたとか、馬鹿なことをしていたと後悔することがあるとすれば、それは早く気付いたほうが幸せですよね。
人生を有意義なものにするために、自分はこれでいいのか、自分の歩んでいる道は間違いないのかと、自分のあり方を見直さなければならないのではないでしょうか?
23、信仰心を持つ、信仰をするってとてもよいことだとおもいます。
でも、信仰心だと思っていたことが、思い込みだったり、妄想だったり、勘違いだったりしたら不幸ですよね。
ずっと死ぬまで、思い込めたら幸せだし、死ぬまで妄想から覚めなかったら幸せだし、
ずっと勘違いのまま過ごせたら幸せですよね。
このまま無事に過ごしていかれれば、幸せですよね。このまま何もなければ、感謝の心のままですよね。
でも、このままということはありません。宇宙・世界は動いています。私がいくらこのままで止まっていてと願っても、たとえ神様でも時間を止めることはできません。
私は、一瞬一瞬、歳をとり、老いて、死に向かっているのです。生きとし生けるものは、必ず老いて死ぬのです。それを不幸というなら、不幸から逃れることはできません。
いつまでも無事ではありません。
無事でなくなったとき、あなたは神様に感謝できますか?
神様に無事を祈る信仰では、いつか挫折がやってくるのではないかとおもいます。私が祈ろうが、祈るまいが、不幸は必ずやってくるのです。
不幸が起こったとき、思い、悩み、苦しむ私の心を、不幸をあたりまえのこととして受け入れられる心にしていくことが大切なのではないでしょうか?
24、どちらでもよいようなくだらん話をきかされあの写真に手を合わせといわれた。
教祖か何かわからんが、あんなおっさんを拝むことはできないといったその人は写真に向かって「−−−様、申し訳ございません」何か酒のようなこと、梅酒様とかなんとか、大きな声でいって泣きました。
こちらはわけがわからず、なにを泣いているのだとたずねた。
私はこの人のことを、後で考えた。「おかしいのでは?今のうちになんとかしてあげなければ・・・」
毎日毎日信じなくともよいのに、あのおっさんを信じるからああなるのだろう。こういうことになるから常に神、仏を警戒しなければならない。
25、さかんに「こい、こい」というからいったのだ。まるで理想郷のようなことを言っていた地獄がどうとかはっきりとはおぼえていないが、それらしきことを言っていた。
地獄みたいなものは、あってもなくてもどちらでもよい。どうせ釈迦のうそであろう。それともキリストの妄想か。
宗教の話はくだらんネ。あんなことを信じている人たちが気のどくに見える。
手をあわさなくてもよい人になれるのです。宗教といって、まるで尊いもののようにいっているが、あんなことをやっていては助からないでしょう。謝ったり泣いたりしなくてよいようになれます。
これがすなわち普通の人です。
26、自分も実際今現在、何をもって信仰をしているという事になるのか今もってわからない。旧体制のときは自分の生活や家族、職場、またはまったく関係の無い第三者を犠牲にして、秀明会と関係の無い人たちに多大の迷惑をかけながらもただひたすら布教活動に身を呈し上の理不尽な命令、指導にもロボットのように忠実に従う事が信仰とされてきたように思う。
以前レスにあった前支部長の「上のものが白と言ったら白、黒と言ったら黒」の言葉どおり上の権威に服従することが信仰だ順序礼節だとか言われていた。
狂師(凶師?)どもに何かお伺いを立てると「お導き」と「献金」の言葉しか出てこなかったしそうやって長い間やってきたわけだから当然内面的な人格とか情操的なものなど身につくはずも無く狂師も信者をドヤしまわって自分に忠実な「お導きマシーン」と「献金マシーン」を量産するためだけの存在だったからそういう体質の中で本来在るべきはずの心の面での信仰の姿というものが失われていったのではないかと思う。実際長い間この信仰を続けていて上の連中(特に狂師)の言動態度から信仰的人格的情操的な物を学んだという事は1度たりともなかったし連中も教えてこなかった
ただ立場の弱い一般信者を頭ごなしに怒鳴りつけている醜い姿だけは印象に残っている。
27、盲信、狂信。懐疑精神のない宗教ほど困ったものはないことは言うまでもないことだろう。
28、「ああ、空気がある。空気が私の命を生かしてくれている。有難い。ナンマイダ〜
ナンマイダ〜」。笑っちゃいますか? どっかのお婆ちゃんみたいですもんね。
でも、本来の信仰の世界においては、意外とこのような、素朴な感謝の心が尊ばれる筈のものだ、と私は思ってます。貴方から見れば、「毒にも薬にもならない感謝」かも知れないけれど。
そういう素朴な感謝の心が、その人の心の中、一つの連想の流れとして、「明主様」という特定の神と結び付いていたとしても、そのこと自体は、大騒ぎするほど罪なことではないのではないでしょうか? 問題は、その先でしょ? 新興宗教が新興宗教たる、ある種のイヤッタラシサ(こんな言葉、あったっけ?)を発揮しだす時・・・でしょ?
29、信仰は問いを持つことで深まるものだと思う。問いを持つためには懐疑精神がなくてはならない。懐疑の対象は教祖や教義、教団のあり方などばかりではない。自分自身に対しても懐疑の目を向けなければならない。
お風呂に入って気持ちよくて、ああ極楽極楽と言う。しかしいつまでも風呂に入っているわけにはいかない。風呂から出て苦悩の現実と向かい合っても、やはり、ああ極楽極楽と言えるか。
「毎日無事に過ごさせていただくことに喜びを感じてます。いつも、ご守護いただき、感謝の毎日です」。
こういうことを言う人は結構いる。その中の多くの人は、風呂に入って、ああ極楽、と言うのと変わらない。喜んでいるのは、都合よく物事が運んでいるからではないか。無事に過ごせなくなっても喜びを感じ感謝できるか。逆境のときは愚痴を言いたくなるだろう。イライラ、クヨクヨ、トゲトゲ…。感謝の心なんか吹っ飛んでしまう。
そういう自分に気づくことなく、ただ感謝と言ったのでは絵に画いた餅をありがたがっているようなものだ。
また信仰によって転じられねばならない。価値観、つまり何が大切かということが転じられる。
普通は家族、健康、友、金、仕事、地位、名誉などだろう。もちろんそれらは大切なものである。しかし本当にたよるべきものかどうか。家族が死んだり、病気になったり、財産を失ったらどうなるか。連れあいを亡くす、定年退職する、などでウツになる人は珍しくない。いつかは必ず失うものをたよりにしては必ず行き詰まる。
真実に大切なものは何か。それを問うていかなければならない。
ところが多くの宗教は家庭円満、無病息災、家内安全、商売繁盛などが信仰によって得られると説く。もちろんそうなればいいとは私でも思う。しかし人生は思うようにならないものじゃないか。そうありたいと願ってもそうはならないことはあるだろう。ところが信仰すればすべての問題点がなくなるようなことを言う。
こういうことを言うと、ウチの宗教はそうじゃない、御利益信仰ではない、と必ず答える。でも実際は御利益信仰そのものではないか。否定するのならお守りやお札、祈祷や占いなどするな。そんなものにたよっていては行き詰まるぞと教えるべきだろう。
30万坪の敷地に神殿を総工費150億円で建てた神慈秀明会という風呂で、ああ極楽と満足している○○のために、もう書き込みはやめておこう。
30、神慈秀明会の目的は、
@地上天国の出現を目的とし、物質文化の進歩と相俟って宗教文化を創生普及する。(この二つがそろって理想世界となる)
Aもうすぐ、キリスト教やその他の宗教で予言された最後の審判(およびその後の理想世界)が予定通り来る。この時、悪くて汚くてどうにもならないものが無くなり、良いもの、新時代に適合できるものだけが残る。その新時代に住むことが出来ない人を出来る人に変える。 (病気直しなどはその一環です)
Bこの大事業に参加し、お役に立つことを通じ、その人を新時代に住める人に変えつつ、その人に神の恩恵を取り次ぐ。
です。
本当にこんなことができるのか?どうやるのか?いまどこまで出来ているというのか?最後の審判とは失礼な!美術館とかは何の関係があるのか?宗教文化ってなんだ?新時代に適合できる条件は?などなど、上記から山のように疑問が出るわけです。
31、平成6年の秀明カレッジ入学式のとき、青年部部長のH本T子氏は、ケイトンズビル事件のことを紹介しています。
講話集として文章に残っています。私の手元にあります。そこから引用します。
今や世界が荒廃に向おうとしているとき神慈秀明会がその荒廃を救わずして誰が救うことができるのでしょう。神慈秀明会の青年の皆さん方に骨がなくして誰にその骨が入れられるのでしょう。
(中略)
正義感について考え一切を恐れず、人の生命を救うためには例え法律を破って刑務所に入ることさえ辞さないという利他に徹した心を持つように。苦しむ人を見たならば、そのときに救いの反射的行動の起こせる人になるように。間違いを見たならば、それを正すために行動を迅速に起こせるように。偉大な神力をくださっている明主様。この明主様のみ教えに従ってまっすぐに進ませて頂く骨のある人間が、やがて時間がこのことを合法化し、世界に、歴史に大きなプレゼントを差し出すことになるのです。
すなわち明主様のみ教えに従って、内なる弾圧と外なる弾圧をはねのけて突き進ませて頂いたと
以上、H本T子氏が言ったことです。
とにかく秀明会という組織は自分が思うには一度世間から非難の集中砲火を浴びてすべて丸裸にならないと体質的に変わりようがないんじゃないかと思う。そう言う意味もあって問題提起をしたかったんだが・・・。
32、「ややもすれば信者のカルト化につながり得る、霊的な話、超自然的な話が、み教えの中にはかなりあるが」ということです。
でも、それはみ教えのせいではないんです。「信者のカルト化につながり得る」なんていうと、いかにもみ教えに責任があるようだけど、それは「読み手」の方に責任があるんです。宗教ですから、霊的な話、超自然的な話は、あっておかしくないですよ。しかし、そういう部分だけを肥大化させ拡大解釈すると、それは危険になる。でも、本来の明主様のみ教えは、非常に常識的な基礎の上に書かれているのだから、一時は脱線することがあっても、きっと時と共に軌道修正されるでしょう。
結局一番の問題は、献金のノルマ達成のため、信者さんのフトコロから如何にしてカネを出させるかということに執着するあまり、多くの人に迷惑を掛けると言うことに気付こうともせず、み教えに合っていないことを強引に推し進めてきたことがいろんな浄化に結びついてしまったと思います。
33、借金までして献金することをどうして認めるのでしょうか。自分の収入の中でできるだけのことをするのだったら分かります。まだ十分の一税の方がましじゃないですか。そんなに無理矢理献金をさせること自体が怪しい宗教ということの証明でしょう。法の華などを非難できますか。
いくら切実で緊急な問題があったにしても、信者の生活を破壊させてもいいと言うことにはならない。なんとか神慈秀明会を弁護しようと努力し、間違いではなかった、何か理由があったのだと思い込みたいのでしょうが、無理じゃないですか。外部の者だからこそ客観的に見えることもあります。
34、まず、「ノルマ」ですが、それは神慈秀明会の信仰の形そのものであった筈です。
当時のH支部長が言われた事ですが、「祈りとは、漠然と神に願い事をすることではなく、『私は何時何時までにこれこれの事をさせて頂くことをお約束しますので、それを達成した暁には、どうぞこれこれのお許しを下さいませ』と神にハッキリと祈る。それが本当の祈りであり、本当の信仰です」ということなのですから。
少なくとも神慈秀明会では、「信仰」と「ノルマ」は、切っても切れない関係にあった訳です。
では、ノルマ自体に罪はないとして、それを達成する為に、何故世間の常識から大きく逸脱してしまうような動きが出てきてしまったんでしょう?
それは、それぞれのチームリーダーの信仰の質の問題だったのでしょうか。
どうなんだろう。中には、最後まで天国的にノルマを達成し続けたチームもあったのでしょうか?
なにごとも感謝で受け止めて、物事も何の滞りもなくトントンと進んでいるうちはいいんでしょうね。けれど、ある時、何か引っかかりが出てきて、感謝と叡智がちょっと追いつかなくなって、そこに「怖れ」が出てきてしまった時・・・それが案外「分かれ道」なのかも知れない、と想像します。「怖れ」を「怖れ」のままに、物事を押し進めようとしたら、どうしてもゴリ押し、無理矢理、力ずく、という事になってしまう。
それでノルマを達成しても、形だけの達成だから、また直ぐに行き詰まる。そして、・・・悪循環。
でも、宗教って、何時もそういう危険をはらんでいる。怖れの素になる色んな事を、信者は刷り込まれるから。地獄のイメージとか。「堕ちて行く」こととか。
そして、それを根底にして、「お上には絶対服従」ですから。
そういう世界に身を置いていた、教師、助教師、世話人であることを考えると、ちょっと簡単には非難できないような気にもなってきます。
35、サラ金に限らず強要によって達成された献金はすべて悪ではないだろうか?
カネを持っている人間にはそのカネを根こそぎ献金するよう強要し、持っていなければサラ金で金を作るよう強要する。ただそれだけのこと。
教師・助教師はまず献金する気持ちを固めるようにいい、そのうえでカネがないのならサラ金でつくるように言ってくる。
そう、言葉巧みに。絶対強要ではないと後で言えるように。
後で困りたくなければ、自分の責任で行動しないと。常に足元を見られているのだから。
36、ノルマではなく約束(の厳守)ですね。旧体制ではこれがごっちゃになっていたようです。
ですから私には疑問なのです。自分でそういうことを判断できない人、覚悟できない人に断固献金を進めることを「強要」と言うとして、そんな方法で人からお金を引き出せるものでしょうか?
37、もう少し説明していただけますか? 二つの違いは・・・「ノルマ」は上から与えられるもので、「約束」の内容はあくまで自主的に打ち出すもの、ということですか?
そうだとしても、実際上は果たしてどれだけの違いがあったものでしょうか?
一支部としての全体の献金額というのは、支部長が決めることでしょう。それが一段下のグループへ、そしてもう一段下のグループへと、大体のところで割り振られていく形になるのでしょう。そういう構造の中で、自分のグループだけが、実現が容易と思われるような金額を提示できるわけがない、と思うのです。
「そんな額で***様がお喜びになると思いますか!」程度のことは直ぐ言われたに違いない。どうしても、全体から見て「応分の」目標額を、要求されたと思います。
そういう中で、一体どれだけの資格者、助教師、世話人が、「自主的」に約束の目標を決めることが出来たでしょう。大変疑問なところです。大方のところ、冷や汗を流しつつ、生唾を呑み込みつつ、目標額を「受けた」に違いありません。
もともと日本人は権威や上下関係に弱いところがあるでしょう。また、人の目を気にし、横並びを喜ぶ傾向も強いです。そういう傾向が、上には「神」という権威を頂き、下には恐ろしい「地獄」の口が開いている「宗教」という世界の中で、 一層強まることもあると思うのです。それから、考えるべきは、そのような「怖れ」 の要素ばかりではありません。それとは逆に、信者は「楽観」の波に乗せられることもあると思うのです。「大丈夫よ。絶対悪いようにはならないって。先祖が何とかしてくれますよ」なんて。そうやって、なだめたりすかしたり、怖れに触れるようなことを聞かされたりしているうちに、信者は足元がフラフラしてきます。「自主的な判断」がフラフラしてくる。そこに複数の世話人などが寄って来て、また圧力をかける。そうやって最後には「ハイ」と言ってしまうような人も大勢居たに違いないのです。
「借金をするかしないか、献金をするかしないか、すべて自分の責任で決定しその結果発生>するであろう負担などをあらかじめ覚悟すべき」「その結果発生するであろう負担」への判断自体を、「きっとご守護があるわよ」などという言葉で揺るがせた上で、「この際、前を見ないで飛びなさい」みたいなことを言われることもあったんだと思います。
38、結局献金ってのは、する人がしていただけで、そういう人はサラ金を利用することなども納得ずくだったのではないでしょうか?
そりゃ、言ってみれば「納得ずく」だったんでしょうね。でも、その「納得ずく」にも色んな形があると思うんですよ。典型的に言うと、強烈に自我の発達したアメリカ人の「納得ずく」と、気の弱い、集団志向の強い日本人の「納得ずく」は、事実上大いに違っていると思います。
まあ、日本人の「自己責任」への意識が低い、と言えばその通りなんですけど、 でも、教団がそういう日本人の弱点について充分なケアをしなかったことも、本当を言えば理想的ではなかったのではないのでしょうか。だから、後で恨まれるのです。そう、恨む方も悪い、というか、不足があるには違いないのですけれど。
の気持ちで見て欲しいものです。
39、新体制って、ホントは平成八年から始まってたんですけどね、T支部のY口さんがある外人の記者を支部にお連れしたのがすごくスマートで気持ちの良いT講だったことから、サラ金献金も立て替え入信もなくなった…ハズでした。
確かにその年四月頃、T支部のあるお祭りでK拠点の方がお導きできたことを感謝発表されたとき、じつは立て替え入信だったことが発覚、K教師は当時のH支部長に怒鳴られていました。ワタクシそれを見て「ああ、変わってきた」と思っていました。
しかし、追い込みの11月、いや、10月下旬かな。支部の世話人会で突如H支部長の方針が変わり、以下のような発表があった。
「Aが徳を積まなくてどうする!!」つまり、Aさん(勧誘する側)がお徳積み(禊ぎ・献金)せずにお導きできるワケないという意味です。
そして宗務委員(支部長の次にエラい人)は、この言葉を以下のように解釈し、T支部の全員(拠点にも)に流しました。
「Aさんが入信献金で陰徳を積んで、多くの人をお救いし、目標達成!!」
つまり、ここで立て替え入信を認めてしまったのです。H支部長も黙認していると思われます。
40、平成八年、ワタクシは二度目の青年エリートに行く羽目になりました。助教師はワタクシ自らの意志だと思いこんでるようですが、一時間以上も説教され脅されたらそりゃ行かなきゃならないと思ってしまう心境になってしまいます。
その年のエリート会受講料は、カレッジ受講料より\5,000高かったです。最初はいろんな脅し文句でエリートに行かせておいて、その人がお導きできないと「エリートクビだ!!」と言ってカレッジに落とされます。そんな人を沢山見てきました。かと言って受講料が戻ってくるワケでもなく、下手すりゃサギだなと思いました。
話は逸れましたが、そんなワケで折角会長先生が新体制を打ち出されたのに、T支部の独断と偏見で旧体制に逆戻りしてしまったワケです。この年は本当にダマされた気分です。だからこの時代のことをワタクシは「悪体制」時代と呼ぶことにしました。
41、平成八年十二月二十三日(月)、世間では天皇誕生日であり、この日を境に年末モードに突入するこの日、信者にとってはとても大切な日、御降誕祭(教祖様の誕生日)です。
きたるべき来年に向けていろんな思いを張り巡らすこの日、ワタクシは「もう青年エリートなんてこりごりだ。もう絶対行かない」と思いながら御降誕祭に望みました。
ワタクシの記憶が正しければこの日、会長先生は全信者の前で泣かれたのです。それを聞いてワタクシは「ザマーミロ、T支部!!」と、そのときはそう思いました。そしてワタクシの抱えていた秀明会に対する疑問も一気に解けました。「やっぱり間違いだったんだ」。
それは、こんな話でした。
美術館の官長として会長先生はU氏にお願いされていました。しかし、U氏もたくさんの肩書きをお持ちであり、とても多忙なスケジュールの中で館長業務をこなさなければならないけど、毎日美術館にも居れないので、常駐できる人ということでU氏自らS氏を副館長としてご推薦になり、会長先生に紹介されました。その直後かな、S氏が大佛次郎賞に輝いたのは。
そんなわけで、美術館のグランドオープンへの道筋が形作られた…かのように見えたそのとき、秀明会に大浄化が訪れました。
「U氏が会長先生に美術館館長を辞退したいと表明」
会長先生は理由を尋ねられた。U氏自身はヤル気でおられたが、副館長に就任予定だったS氏に対して「申し訳ない」という気持ちで辞退を決意された。そのS氏は、妹さんに「辞退してほしいと言われてU氏にその旨を語られた。
実はS氏の妹さんは、T支部の信者さんだったのです。もともとS氏の妹さんはクリスチャンで、「人の幸せを祈る」ということに共感され、入信、勉強会にも出席されていました。ところがある日、いつものようにT支部での勉強会に出席され、座談会(世話人や助教師を中心に数名が輪になってなにやら話し合う)にでたところ、隣の輪で以下のことを言っていました。
「借金してでも献金させて頂きなさい」
この一言で彼女は秀明会に対し疑問を抱くようになりました。それ以来、勉強会はもとより参拝もされなくなったそうです。
ところが…
S氏が美術館の副館長に就任することが決まったとき、彼女の世話人だか助教師だか、 とにかく彼女に接触し、S氏が美術館の副館長に就任することや、大佛次郎賞を取ったことを告げました。
「自分の兄が秀明会の手下になってしまう」とでも思われたのでしょうか。すぐさまS 氏に電話され、ことの一部始終を話されました。そして副館長を辞退してほしいとお願いされたのです。
42、16年ほど前に、当時付き合っていた彼女の友人に半ば強引に入信させられました。桜新町の集会場?のカーペットは汗じみたにおいがあり、気持ち悪かったのを覚えています。
(半ば強引に)連れて行かれる度に玉串料とかを取られるのも気分が悪く、また、グループ毎に桃の実献金の達成グラフみたいなのが作られた花で掲示されているのを見て、馬鹿馬鹿しく感じられ、2月ほどで彼女ともども行かなくなりました。
ちょっと社会的に地位のある信者のことを、何々さんはどこそこのXXXXなのよ、とか世話人が得意げに話すのもミーハーの様に思えましたし。
入ってすぐに設楽へも行かされましたが、「お金を集めているな〜」と思っただけでした。もちろん信楽焼きの瓶に入った水道水は買いませんでした。
お光りはゴミの日に一般ゴミと一緒に出しました。中には「光」と汚い字で書いた小さな紙が入っていました。
43、神慈秀明会とは集金業務が主であることが分かりました。集金業務が主であるならば、ある種の金融機関であります。私が困ったときにはご融資お願いします。
神慈秀明会は公的資金ではなく、不幸を背負ってる人達からお金をふんだくり、利益を計上するのですね。利益率は100%で、掛かる経費は「嘘」でありますから、仕入値はゼロに近いのです。
全国の社長さん、勉強してください。この経営で行きますとふくれあがる一方で大変でしょう。お金は、飲む、打つ、買う意外に使い道が無く、あとは差し上げるしかありません。余っていましたら私に下さい。
尚、神慈秀明会は一応宗教団体のお顔をなさっていますから、教義があります。教義は、そこらあたりに転がってる犬の糞と同じで、見慣れています。これから、カルトに走りたい人勉強してください。更に、入信を迫る際に、サラ金まで行かせて借金させるやり方は、ヤクザ屋さんも勉強になります。
とても美味い商売で、不況に苦しむ昨今、安定してます。けれど不思議なことがあります。何故、こんなカルトに皆さん寄り添うんでしょうか。
神慈秀明会の皆様、益々、集金業務に邁進されることを期待します。良い暮らしが出来ますように、心よりお祈りしています。
44、【事例・私の場合】
私も、合計で600万ほど献金させて頂きました。(正確には、私の「家」からですけど。未信者の親からも、200万ぐらいは出させましたから。)
銀行はもちろんサラ金にも手を出し、利息が面倒だから自分で給与差し押さえにまでしてしまったような野郎ですが、結局のところ、恨み、後悔などというものは、ほとんどと言っていい位ありませんね。
あるとすれば、金も食べ物もなく、仕事のことも不安定な時に、指導者は「霊主体従」ばかりで、そのような私の状態(体的な状態)に対して、あまり適切なケアをして頂けなかった。それとは反対に、会う時は何時も高圧的で、トゲトゲしかった。
残念なのは、それくらいかな?
600万といえば、ちょっと高級な車一台分ですか。一生の間に「神」に捧げるものとすれば、全然「高い」とは言えないと思います。(今の日本で平均的な収入を得ている人が、一生の間に自分の趣味・娯楽の為に費やすお金は、どれ位になるものでしょうか?)
私の親は、二人とも本来病弱な筈でしたが、周りの同年代の人たちが色々な体の故障を迎えている中、比較的元気に生活させて頂いています。「病弱な人ほど自分の体に気をつけるから、結果として平均以上に故障のない生活を送るのだ」とも言えると思いますが、私としては、「どうも、それだけじゃないんじゃないか」と思えてなりません。
45、神慈秀明会の献金っていうのは、別に自分だけのための献金ではないですからね。先祖の為、家系全体の為、そんな意識もあります。それに、あの当時は、雰囲気的に大きなうねりのようなものがありました。私だって初めは、先輩信者達がお三方の上に百万円の束をお供えして喜んでいるのを見て、信じられない気持ちだったんです。それが何時のまにか自分もそうなっちまって・・・。こんなことを言うと叩かれるかも知れないけれど、確かに「雰囲気」って大きいと思います。雰囲気に呑まれただけじゃなく、
それと同時に一定の信仰みたいなものが、私の中に形成されつつあったからのことですけれど。
46、確かに一般の社会的価値観,常識で考えれば異常だと思うのも無理はない。でも理解してほしいのは秀明会の中では一般社会的価値観,常識にもとづいた価値観のほかにもうひとつ人の運勢にもとづいた価値観というものがあるのです。どうにもならないほどうまれつき運の悪い人がいます。そういう人に対して他の人はまあ運が悪いのは仕方ないね,どうしようもないことだしということで済ましてしまう。でも運が悪い人にとってみればどうしようもないの一言ですまされたらそれこそ救い様がない。だからこその実際に運勢を変える力を持った宗教なのだと思う。
繰り返しますがサラ金献金なんて普通の常識で考えれば絶対良くないと思う。でも運勢の点で見てみて確かに良くなっていたのならそれは価値があるものであるといえるでしょう。
一番いけないのは運勢に関することは目に見えないことなのでその点を利用してウソをついて金儲けをしたりしていることではないでしょうか?
だからまず秀明会批判するなら本当に人の運勢を変える力を持っている宗教なのか否かを確かめてもし力を持っていないとすればそこが批判するポイントになるはずです。もし秀明会が力のある宗教であれば今度は運勢においての価値観もふまえたうえで話を進めるのが妥当でしょう。
47、そうですよね、私も無理しない範囲で精一杯の分で十分だと思います。
一般常識の点からと運不運の価値観の両方をバランス良く保てる程度であればいいと思います。
ただ一番納得できないのは資格者の方たちの態度です。他人の運勢を良くする為にサラ金献金をさせたという事を百歩譲ってよしとしたとしても資格者の方がそうさせたことでその人の人生は他方いろいろな面にわたっていろいろ破綻をきたしてくるわけです。
そうした人たちのお世話をせずにほかって置くというのは如何なものでしょう。
会主さまは宗教団体と会社組織は違うとおっしゃってました。会社組織であれば能力のないもの役に立たないものから解雇していける。しかし宗教団体はどんなに足を引っ張るものであろうが見捨ててはいけない,何故ならそこに救いがあるのだから。みたいなことをおっしゃってました。
お金がなくて生活が成り立たなくなった,献金ができなくなったという人をみすてていく人たちのいるところにどんな救いがあるのでしょう?
48、宗教をビジネスに展開させた第一人者が岡田茂吉です。
終末思想の被支配、そして神の慈愛を渇望した精神的弱者から搾取する方法はどこでもやってますが、秀明会はやりすぎた。
絶対にぬぐえない過去を作ってしまいました。サラ金献金を機に辞めて行った人達は可哀想ですが美術館の人柱です。
しのいで残った人に妙な勝ち組み意識、選民感が漂ってますね。
49、私は入信2ヶ月目に50万と言われたのを10万円に値切りました。世話役が銀行のATMまで付いて来た。そうまでせんとお金入れない奴だったから。
でもね、自分の本心からする献金でないと信仰も長続きしないものだったんだよね。そこんとこ、上の人間はもっと考えて欲しいよね。
お金が全ての醜名会じゃ虚しいよね。
50、MIHO美術館
ここには、この教団が信者から搾り取った金で、ブローカーから買った、盗品疑惑の菩薩立像がある。
この事実を教団が信者に説明するには、多分このように説明するであろう。
この像は、明主様のお導きにより、私たちの美術館に展示されることが霊界で予め決定していたもので、今回、ご守護で私たちのところへ戻ってきたものです。
等々のもっともらしい理由をつける、信者は、頭が洗脳され、常識的な判断能力を失っているので、こんな説明を真に受けて、また、教団に金を搾り取られていく。
おまえらは、破防法でも適用してもらえ。
51、人間の死は死として、寿命は寿命として、病気は病気として、なぜ素直に受け止められない?
神に対する過剰な期待、若しくは恐怖心をあんたらの中で勝手に膨らませてると思うんだがね。神の慈愛は磁場であって全ての人間に平等に包まれている。俺達が生まれてきたことそのものが神の慈愛の表現だ。神の良識が人間の良識であって、人間が神の良識を作り上げるものじゃない。いくら功徳を積もうといくら献金しようと、神は動かない。
神が現世に良識をもたらし、人が「自然」にそれを汲み取るだけ。神に対するは感謝のみ。俺はそう思うのだが。
52、関西の旧OK支部(現H県K市)の元世話人は、献金の締め切りの前日、当時の責任者OS教師から、現金で1000万円貸してくれといわれていた。
これは、私が当人から相談を受けたので間違いない事実です。 なお、私は、当時、秀明会で金を貸すということは、あげるのと一緒(ほかの信者も金を貸したらまず返さない)だからまず、お金は返ってこないので、止めるようにいったことを覚えています。
53、当時の資格者会では、献金目標達成できない所属の長は針のむしろだった筈。
当然、みんな人間だから、ええカッコしたいし、ほかの資格者の前でつるし上げになるのは、いやですから、所属で、徹底的に金集めに励むわけです。
余談ですが、おなじMY支部では、世話人に金を貸して、金利をとっている奴もいた。こいつは、支部長のババアとつるんでいたから、回収はかなりできていたと思う。なぜなら、こいつは、ご指導と称して、○○に借りた金を返せといえばすむからね。あとは、この銭貸しとババアがもちつもたれつ銭もうけという訳。
皆さん、こんな団体にいて、幸せになれると思いますか。
以上はインターネットの宗教関係掲示板に寄せられた神慈秀明会に対する意見の一部です。登志子さんの読後の感想を聞かせてください。
話は変わりますが、今後は家計簿をつけるようにしたいと思います。私もいままで家計については放任状態で、自分の家の家計状態を全く知りませんでした。こんなことではいけませんし、家計簿をつけることにより、無駄使いを抑制する効果もあるでしょうし、今後の生活設計もより確実におこなうことができるようになるのではないかと思います。
あなたのお金の使い方を監視しようという目的で提案している訳ではないので、誤解しないでください。もちろん私も正しく金銭の収受について報告し記載します。今はパソコンで簡単に家計簿をつけることができるよいソフトがあるので、作業としてはごく簡単に行うことができます。
この家計簿をつける件にも関連するのですが、家の中を掃除していて、無駄な買い物が多いことにも気づきました。これについては別途提案します。
前回の手紙でお願いしておいた、これまでにあなたが教団に支払った玉串料や物品購入費(たぶんこうした名称は使わないのでしょうが、本や記念品その他、教団から物を頂いた時に教団に支払ったお金のことです)、研修会や学習会の参加費及び教材代、交通費、その他をある程度細かく書面で報告してください。その際は、科目ごとの金額と回数などと併せて総額(結婚後の分だけでも結構ですが、できれば入信まえからの分もわかれば教えてほしいと思います)をあなたの手で計算して出してください。おそらくあなたは自分でも今までこうした計算をしていないと思いますので、自分がいままでどれくらいの金額を教団に支払っているかを知らないと思います。これを機会にあなた自信にも知って頂きたいので、必ず提出をお願いします。
平成○年○月○日