妻への手紙(1)
 以下の文章は、私から妻の登志子へ手渡した手紙を、一部の固有名詞等を除き、そのまま掲載しています。
 こうした親書を公開する理由は、同様の問題を抱えている方の参考に少しでもなればという思いからです。
 これを書いたときは、公開することを考慮せずに書いていますので、私と妻の間でしか分からない事情も多少あるかも知れないことを承知の上でご覧下さい。

登志子さんへ(1)

 神慈秀明会の件に関し、私の見解を述べておきたいと思います。登志子さんにも意見・反論があるとおもいますので、遠慮なく聞かせてください。

1、信仰の自由
 これについては先日来、口頭で述べていますのでおわかりと思いますが、念のため再度申しておきます。私は個人がどの宗教を信じようが信じまいがそれは自由であると思っていますので、あなたが何を信じようとそれを否定はしません。またあなたが特定の宗教を信じているからといってそれで差別したり特別の目で見たりしようとは思いません。
 私はかなり早い時期からあなたが何らかの宗教を信じていることは知っていました。そのことで別段あなたとの間に障壁があると思ったことはありませんし、これまでもなんらこだわりなくやってきたつもりです。
 今回の問題で、多少障壁ができたようにも思いますが、それは別の観点で障壁ができただけで、あなたが今後も自分の信じる宗教を信じ続けることはなんら問題ありません。

2、宗教活動のあり方
 あなたは私の妻であり、子供の親であり、家庭の主婦です。
 今行っている宗教活動は現世で行っている活動です。それが来世につながるものであると考えるのは自由ですが、現在の活動そのものは妻であり、親であり、主婦であるあなたが行う活動です。
 ということは、現世での自分のおかれた立場も大切にしなければいけないと思います。
 宗教活動を優先させるのか、現在の自分のおかれた立場での活動を優先させるのかの選択を誤ってはいけません。自分一人で生きているのであれば、現世での生活を投げ打って宗教活動一筋に打ち込むのも選択肢に入るかも知れませんが、家族の生活を考えれば、現在のあなたが優先して活動する場所はおのずから決まるのではないでしょうか。
 そうした家族のしがらみを断ち切ってでも宗教活動に打ち込みたいと思う人も中にはいるようですが、私はあなたにそのような道を選択してほしくありません。これまで家族が仲良く暮らしてきましたが、これからもこの生活を維持していきたいと思っています。

3、宗教活動
 宗教活動の目的は何でしょう?ほとんどの宗教は心の平穏を求めて宗教活動を行うのではないでしょうか。もちろん宗教にもいろいろありますから、それだけではなく、もっと具体的な目標を持った宗教もあるようです。信心を深めれば病気が治ると教える宗教もありますし、具体的に患部に手を当てて目に見えない光線?の力で病気を治すと教える宗教もあります。中には献金をたくさんすればそれの額に応じて御利益があると公言する団体まであり、数え切れないほどの「御利益」が各宗教のうたい文句になっていますが、その真偽のほどはともかく、そう信じている人はそれでいいのでしょう。
 しかし、宗教は人を盲目にする要素も持っていることには気づいているでしょうか?
 人の目、人の心は一点に集中すればするほどその周囲はぼやけて見えにくくなってくるものです。その宗教の教義を繰り返し聞かされることによりだんだん気持ちが集中してきて、その教義を信じるようになってくると、それを信じない他の人は勉強が足りないからこのすばらしい「真実」に気づいていないだけだと思いこみ、これを他の人にも広めて行かねばと思うようになります。そうした活動の広がりが街頭での布教活動や友人知人への勧誘活動へと駆り立てるのでしょう。
 人間の脳は意外に単純で、初めて聞いたときは「そんな馬鹿な」と思う話でも5回も繰り返し聞かされると「そんなこともあるのかなー」と思うようになり、10回も聞かされたり見せられたりすると「へえー、すごいな」と感動すら覚えるようになりがちです。特に他の人の体験談というのは非常に効果的で、「○○さんはこんな体験をされました」という話は人の心を動かすには大変効果的な手法とされています。
 しかし、世の中にはたくさんの人がおり、人それぞれ考え方は違います。どんなに自分がすばらしいと思うことでも、価値観が違えばそれは何の意味もないことでしかありません。特に宗教感などというものは極端に人によって違いがあるのが普通です。どんなに頑張っても世界中の人を一つの宗教に統一させることなどは絶対にできませんし、自分が思うほど布教活動は広がらないのが常です。わたしのような人間には、100回同じ話をしても、100人の体験談を聞かせても絶対に入信させることは不可能です。なぜかというと、人を自分と同じ方向に向かせようとする「宗教活動」が根本的に嫌いだからです。人間はそれぞれ自分の価値観で生きているのであり、無理に自分と同じ考えに導くのは個人の自由を損なう行為です。私とて来世や輪廻転生というものを100%否定している訳ではないのですが、神は自分の心の中にあるものだと思っており、「教祖様」や「偶像」に神や神の力があるとは絶対に思わないからです。
 ましてや、ある程度のまとまったお金をださなければならない(強制ではないというでしょうが、結果として玉串料等を支払っている)、とか教団で売っているものを買わなければならない(強制ではないというでしょうが、結果として購入しているので)、学習会に参加しなければならない(これも強制ではないというでしょうが、結果として家事を犠牲にして参加しているので強制と同じ)など、世間一般から見れば現実の生活のかなりの部分を犠牲にして宗教活動に参加を余儀なくされているのは宗教の自由に反する行為です。宗教の自由というのは信じるのも自由ですが信じない自由も保障されているのです。信ずるにしてもその人の状況に応じた信心の仕方が認められてしかるべきなのに、一様に上記のような活動や献金(あえてそう言わせてもらいます)を会員に求めるのは宗教の自由に反する行為です。

 自分の人生は自分で苦労して作っていくものです。自分の身の回りのことは自分がまず最大限の努力をして改善を図っていくのが最善の道であり、安易に神にすがるべきではありません。自分でろくに努力もしないで神にすがるのは弱い人間のするずるい行為です。
 現実の生活がすさんでいるのに、神の傍にいるときは救われると思うのは甚だしい錯覚と現実逃避でしかありません。
 現実の問題解決には自分が現実で対応しなければ根本的解決にはなりません。神が救ってくれると思うのは自分の心の中の不安を和らげるための方便でしかありません。神はサンタクロースではないので、そんなに都合よく皆の悩みや希望を聞いてはくれません。
 信じる心も持ちながら、同時に醒めた目で自分を見つめ直し、本当に自分は間違っていないのだろうかと自問自答できる冷静さを持ちながら信仰しないと、本当に大切なものを見失ってしまうのではないでしょうか。宗教というものは人を幸せにするもののはずです。

4、宗教はきっかけ
 人間の心は弱い面も持っていますから、困っているとき、病んでいるとき、落ち込んでいる時などは何かにすがりたい気持ちを持つものです。そうした時に何らかの宗教を知り、その教えが自分のその時の気持ちを救ってくれたとしたら、その後もその宗教を信ずることは十分あり得ることです。それは決して間違ったことではないと思います。
 しかし、そうした宗教への入口は間違っていないのですが、その後、問題をどう解決するか、病気が治るか否か、更正するかしないかは神の力にすがるべきではありません。もし百歩譲って神がそうした問題を解決してくれる奇特な神だったとしたら、その神はとんでもなくお節介な神で、個人の努力する力を奪ってしまい、人間をだめにしてしまう神だといえるでしょう。神が解決するのではなく、人間はその個人が頑張って解決することにより自分自身が成長するものです。第三者が安易に力を貸すことは場合によっては根本的な問題点を見えなくしてしまったり、その人間の成長を阻害することになります。
 これは困っている人がいても助けてはいけないという極論を言っているのではなく、困っている人には手を貸してあげるべきですが、最終的な問題解決は本人がしなければならないということを言っているのです。
 宗教を信じ、その教えに従って自分を律するのはその人間の成長にとってプラスになることが多いと思われますが、それは自分を律することによる効果の反映として得られるものであり、単に宗教にすがってしまうだけでは自分をだめにするだけです。
 宗教を信ずる前の自分と現在の自分を見比べ、どれだけ自分が成長したかをみきわめていくことが大切です。
 宗教活動にのめり込んでしまい、実生活を破壊してしまうようでは神も喜ばないのではないでしょうか。実生活を破壊してでも宗教活動を優先させなさいというような宗教があったら、それは宗教の皮をかぶったカルトでしかありません。

5、今後の宗教活動
 あなたがこれまで宗教活動を行ってきたのは、自分一人のためだけではなく、私や子供達のためも考えて、皆が健康で幸せになれるようにと家族の幸せを願って活動してきたのだと理解しています。
 あなたにしてみれば、私や子供達があなたの考え方と行動を理解してくれたらいいのに、という気持ちがあることと思います。
 しかし、それは無理です。世の中にはたくさんの宗教がありますが、お金を集める団体は基本的に間違っています。宗教とは心の中で静かに思い、自分の精神生活の成長を助けるものであるはずです。お布施や献金、玉串料、寄付金等名称は違っても何らかのお金を集める宗教団体はたくさんあります。宗教団体の方針は自分たちの教義を拡げ、信者の数をできるだけ増やすことにあります。その目的は人々の幸せを願ってという大義名分を掲げるのが常ですが、集めたお金は現実の世界で使われます。その使い道は立派な建造物を建てたり、宗教団体幹部の生活を潤すことにも使われているのでしょう。
 神社の賽銭のように本当に少額の金額を単発的に支払うのは一つの儀礼として理解できますが今回のように高額かつ継続的な金品の支払いを必要とするのは外部の人間から見れば、まことに不審にしか見えません。
 「法の華」「生長の家」「宝珠会」「統一教会」「幸福の科学」その他たくさんの宗教団体がその資金集めの方法をめぐって事件となっています。あなたも世の中にはそうしたお金を集める事を目的にした宗教団体がたくさんあることは知っていることと思いますが、あなたにしてみれば自分が信じている神慈秀明会はそうしたエセ宗教団体とは違い立派な教団だと信じていることと思いますが、それはその団体に属している人たちだけの我が身を正当化するための解釈であり、世間一般から見れば神慈秀明会の活動も上記団体と同列に見ている人が多いのが現状です。私も今回の件が発端で神慈秀明会についてずいぶん勉強させてもらいましたが、神慈秀明会の内部の人以外が述べている意見は非常に否定的な見解を述べている人が多いのが実態です。
 私は神慈秀明会が述べている宗教理論も一通り読ませてもらいましたが、その内容はやはり神がかり的であり、とうてい信ずることのできるものではありませんでした。
 信ずることができない私が間違っていると言われるかも知れませんが、世間一般の受け止め方はそれが一般的なのです。
 あなたは自分の行動が世間から見れば奇異な行動であることはどのように受け止めているのでしょう。それは世間が間違っている、世間の目など気にしていたら宗教などやっていられないと言われるかも知れませんが、今あなたは現世で生きているのであり、現世での生活を敵に回して宗教活動をすることはできないはずです。現世は仮の姿であり、死んでからの世界が本当の世界だというかも知れませんが私と子供達は現世であなたと普通に暮らしていけたらそれで十分です。
 現世は死後の世界の反映なので今生きている間にできるだけ徳を積まなければいけないという理論もよく使われる宗教理論ですが、その徳を積むことがお金を積むことと同一視されていないでしょうか。

 宗教に入信しただけで、その宗教の本を読んだだけで、その宗教関係者の話を聞いただけで人間は簡単に向上できるものではありません。
 やはり大事なのは日常です。人間の生活は日常の積み重ねです。その日常をどう生きるかが問われる訳ですが、日常は手足で作業をしながら築いていくものです。頭の中で神を信じているだけで周囲のものが動いてくれる訳ではありません。
 宗教の問題で一日の多くの時間を費やすことにより家事がおろそかになっていたとしたらそれは宗教の弊害でしかありません。宗教問題で電話代がかさんだら、宗教活動で交通費がかさんだら、宗教活動で献金等に家計から出費がかさんだら、こうした経済的損失にも目をつぶってはいけません。生きて行くにはお金も必要です。私はこれまでそれなりに会社の仕事を頑張ってきた積もりですが、それはやはり家族の生活を養うためには私が頑張らないといけないからイヤなこともありますがそんなわがままをいうことはできませんのでこれまで頑張って仕事をしてきました。
 少々の時間であれば、少々の額であればと思ってこれまで目をつぶってきましたが、私の我慢できる限界を超えましたのでこうして意見を言わせてもらっています。
 私は神慈秀明会のために働いて賃金を得ている訳ではありません。生活上必要なもののためにお金を使うのは当然と思いますからそれほどけちけちお金の使い道について尋ねたりはしませんでした。
 しかし、今回部屋を掃除しながら次々とでてくる玉串料の封筒や豪華な本(値段が書いてありませんが決して安い金額とは思えません)、種々の宗教関係の物品を見て、驚きました。以前から何らかの宗教を信じ、ある程度の活動をしているらしいということには気づいていましたが、今回ほど明白にはその実体がつかめていませんでした。
 私のお金が宗教のために使われるのは我慢ができません。金額の大小の問題ではなく、たとえもっと金額が少額であってもその気持ちは同じです。玉串料や物品購入費、ミュージアム拝観料、学習会参加料、その他でこれまで総額どれくらいの金額が使われたのかを知らせてほしいと思います。その金額を聞いてどうこうしようというのではありませんが、私には聞かせてもらう権利があると思います。また本来は事前に私に了解を求めてから出費すべきであったと思いますが、その点はどう考えていたのでしょうか。
 宗教活動に費やしてきた時間はどれくらいの時間になるのでしょう。そのために私や子供達が迷惑をしたことはなかったのでしょうか?

 私の賃金から玉串料を出すのではなく、自分でパート等で働いて収入を得て、その賃金の中から玉串料を出すことについては自由だと考えるかも知れませんが、それは違います。家計というのは本来夫婦が相談してその使い道を決めていくものだと思います。通常は信頼関係がありますから、いちいち買い物をする度に確認を求めたりはしませんが、私は宗教にこうした形(高額かつ固定的)でお金が使われることは了解できません。先日口頭でも伝えましたが、今後、玉串料及び宗教関係にはお金を出さないでください。
 学習会や祭典等への参加も家事の時間が削られますので参加しないでください。自然農法ということでのお米や野菜の購入などのグループ活動も宗教活動につながる行為ですので断ってください。人間関係が断ち切れないと、ずるずると宗教活動に参加する結果となってしまいます。厳しいことをいうようですが、私は家族のためには今私がこうした決断をすることが正しいと思っています。もう一度言いますが、私はあなたも含めた今の家族の生活を大事にして行きたいと思っています。
 万一あなたが私の忠告を無視して玉串料を出したり、宗教活動に参加するようなことがあれば私はそれを認めることはできません。

 ただし、宗教を信ずることまで制約をかけようとは思いませんので、自分の心の中で信仰を続けて行くことには何ら口をはさむようなことはしません。お守りのような首から下げるものがあるようですが、それをつけることも自由です。

 登志子さんからも遠慮なく反論・意見を聞かせてほしいと思います。

平成○年○月○日

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