あの日の怒り

(以下の文章はメールにより投稿されました)

神慈秀明会という名前ですら思い出せなかったほど、私の中では消え去りたい人生経験の汚点です。

今から18年程前に信者をしていました。きっかけは 私が通っていたお店のオーナーさんがとても素敵な方で私はその人にようになりたくて入会しました。
あんなに優しくて素敵な人が信じている信仰はきっと素晴らしいに違いない。私も色々と学んで成長したいという純粋な気持ちからでした。
世話役はその方のお母様でした。70歳は超えているのにとても行動的で元気なのでびっくりしました。その方も純粋で優しく信頼できましたので、私も一生懸命お役に立とうと努力しました。そして、間もなく主人、姉、8歳の娘も入会していきました。

ただ、元々曲がったことが大嫌いで正義感と平等を好む私。この宗教のしくみ・・・特に上下関係を深く知るにあたって矛盾や疑問が重なってきてきました。同じ人間として同じ宗教を信仰し、人の幸せを願う活動をしているのに上層部の人が威張り、下層部らしき人や一般のお参りの人が深々とお辞儀などしなぜ恐縮するのか?ここじゃ上層部も神様扱い?何か勘違いしてない?と思えました。

そんな疑問の中、ある助教師の方が個人対話のときに、幸せのためにと献金をなどと熱く話をするので「先生の家庭はどうなのですか?」と尋ねました。すると「中学生の娘は反抗的で主人には宗教活動を反対されている。それは私のお祈りや勉強がまだまだ足りないからです。もっと一生懸命に尽くさなければ。」というのです。

思わず私は「この宗教活動をしていて先生の家庭が平和なら説得力もありますが、人の家庭の幸せより自分の家庭を振り返って考えて下さい。朝早くから夜遅くまで宗教活動で帰ってこないお母さんを家族はどう思っていますか?育ち盛りの娘さんはきっと寂しがっているんでしょうね。そんな家庭をお持ちの先生は人を導く資格はないですよ。」とくってかかった時もあります。その時の助教師の方の悲しい顔が思い出されます。きっと、疑問に思いながらも家族を犠牲にして信仰を続けている方もいるのではないでしょうか?

色々な矛盾に首をかしげながらも、一部の人が矛盾しているだけと言い聞かせてきました。事実、私の憧れの方や世話役のお母さんは何ひとつ無理なことは言わず、とても優しく接してくれていましたので脱会してまで、その方達を裏切ることができなかったのです。
そんな複雑な思いで信仰していく中、喘息の持病のあった8歳の娘を連れて知人の入会に付き合ってた時でした。突然、娘が喘息の発作を起こしたのです。
喘息は気管が狭くなり息がしにくく、大変苦しい発作で処置を怠ると命を落とします。苦しがる娘を見て、私も主人も慌てて世話役さんに「すいません。すぐ病院に連れていきますので早退します。」と伝えると、世話役さんが「病院はダメ!今からお祈りしてもらうからちょっと待って。○○先生に頼んでくるから。」と言います。
娘の酷さをみてさすがに自分では無理だと不安に思ったのか、上層部の方を呼びに行きました。その間も娘は苦しがるので、少しでも息が楽になるようにお座敷内にあった座布団を重ね、そこに座った状態で上半身だけうつぶせにさせていました。ところが、そこに幹部らしき人が入って来て「先生方が座る座布団をそんな使い方して!元に戻して置いて下さい。」といわれました。私が「娘が苦しいので使わせてもらっています。」というものの娘を気遣うどころか不機嫌な態度のまま何も言わずに出て行きました。

そんな人でなしもいるもんだと腹が立ちましたが、先生に期待し不安と怒りが徐々に増してくるのを抑えながら待ちました。しばらくして世話役の方が戻ってきて「○○先生は大切な集会で忙しいから今すぐ来られない。もう少し待って。」とのこと。
私は「えっ!・・・・・」怒り爆発です。「子供の命がかかっているのに救うどこか集会の方優先!!」「おかしいじゃないですか?一人も駆けつけずお祈りをしないなんて!」
その時の私にはお祈りや浄化なんてどうでもいいこと・・・
ただ、あんた達は苦しい人を楽にすることを売りにしているのではないか!と嫌みの一つも言いたくなったのです。人を救うべき活動している大人たちが沢山いる施設の中で、苦しんでいる幼い子供をほったらかしにし誰一人として救うことをしなかったのです。先生のお言葉を聴くために大勢集まってて迷惑をかけるので途中で中断出来ない。と言い訳。
同じ人間として、人として、あまりの薄情な事実に言葉を失ってしまいました。
「このままじゃ この子死んでしまう。殺してしまう。」
この時にはっきりと自分の愚かさに目が覚めました。

私たちは、病院行きを止める世話役の方を振り切り、すぐに子供を抱え車を走らせました。間もなく子供が酷く吐き出したので車を止め外に出したところ 運良く消防署の前だったのです。そのまま救急車に乗せて頂き病院に運んでもらい、娘は入院し一命を取りとめることが出来ました。

それから数日後には支部に向い、はっきりと伝えました。「発作を起こし苦しんでいる娘をほったらかしにするような宗教とはなんですか?」。「神様は信じますが、宗教家(一部の人間)が信仰のやり方をおかしくしているのではないですか?」と。
主人、私、娘 姉、知人、5人分のお光様(お守り)を直接返してきました。

世話役さんはとても悲しそうに少し引きとめてはいましたが、その上の人達は誰一人として引きとめることはなかったので、私達はすんなりと脱会できました。自分たちに不利になるような事実を広めたくなかったのでしょうか。
今思うと、あの時、偉い先生にお祈りをされていたら娘を病院に連れて行けず、娘を失っていたのかもしれません。あの日不運と思った出来事に今は感謝です。
娘のおかげで目が覚めました。

信者であったときの私は、行事に振り回され家庭を犠牲にしていたときもありました。脱会したあとは何より解放感がありました。それほど負担が大きかったのでしょうね。主人、娘、姉、知人の方には、勧誘したこと今でも申し訳なかったと思い続けています。

神慈秀明会を信じて病院に行かず、行けずに助かる命を落とした方が過去にいなかったこと、これからも出ないことを願います。

(2011年8月投稿)

戻る