(以下の文章はメールにより投稿されました)
私は女児の母32歳です
私がいくつの時だったでしょうか・・・。
それもはっきりと思い出せないほど幼い時にいつの間にか入信していた母。
入信理由は私だったようです。
アレルギー体質でアトピーと喘息に苦しむ私を助けたい一心で始めたとよく言っていました。
4歳はなれた弟と5歳はなれた妹が居ます。
当時妹はまだベビーカーに乗るような赤ちゃんだったと記憶しますが、母はいつものように子供3人を置いて支部へ行っていたようで、友達と遊びたい私はベビーカーに妹を乗せて弟を連れて外へ行き遊びに夢中になっていました。
すると突然火のついたような泣き声が聞こえ見に行くとベビーカーの背もたれ側に立ち上がった妹がひっくり返り地面に顔面を強打、下唇の下を歯が貫通し大出血しているではありませんか!
幸いお隣の奥さんがすぐに気がついてくれ応急手当をしてくれましたが、数針を縫う大怪我で20年ほど経った今でもうっすら傷が残っているようです。
今思い出しても母の無責任ぶりに腹が立ちます。
普通のサラリーマン家庭ですから、宗教にお金を使う余裕なんてそんなにありませんでした。
ましてや育ち盛りの子供が3人もいるのですから、お金に苦労しているのは幼いながらにひしひしと感じていました。
私が小学校の高学年になると、秀明会的にもかなり忙しい時期にだったようで、ほとんど母は家にいることがありませんでした。
朝早く出て行き夕方帰ってきて夕飯を作りまた出て行き、夜中近くに帰るという生活を送っていました。
実は夕方に帰ってくるのはまだ良いほうで、駅前で浄霊をしている所に呼び出され「ほか弁」を買って手渡され、それを持って帰り兄弟だけで夕食をとったり、父が10時ごろに帰ってきて「まだ何も食べてないのか?!」と慌てて夕飯を作ってくれたり・・・。
携帯電話などない時代ですから母が外へ出ていて連絡が取れないときは、自分の貯金箱のお金をかき集めてインスタントラーメンを買ってきて弟達に食べさせたりしていました。
冷蔵庫の中はいつも空っぽで、学校から帰っても迎えてくれる母はいなく、夕方帰ってくるか分からない母を待ち、3人で肩寄せ合ってTVを見ていた記憶がよみがえります。
当然お金の事や子供を放っておく事に関して夫婦間でよく喧嘩をしていました。
それが一番辛かったです。
ことあるごとに「あんた達が健康で生きていられるのは誰のおかげか?」と言っていた母。
「家族を幸せにできてないのに人の幸せを祈れるのか?」
「そもそも幸せとは何?母親の愛情とは?」
「お金がないと神様は助けてくれないの?」
中学高校と年齢が上がるにつれ疑問は増えるばかり。
私の家庭は中流家庭でした。
それでも常にお金がない状態。
電気ガス水道を止められるのもしょっちゅうで、お米さえない日もあった。
私は中学の修学旅行のお金が返ってくれば少しでも楽だろうと思い、当日仮病を使って休んだりした。
母は何も気がつかず「なぜ急に?」という顔をしていたが、そんな家庭環境で自分だけ楽しめるはずもない。
友達がお土産を買ってきてくれて嬉しいような寂しいような複雑な思いだった。
後日5万円ほど返ってきた時はなんだかとても嬉しかった。
お金がないのに学生祭とやらに無理やり行かされる。
嫌がる私を殴り蹴飛ばし引きずり回して高速バスに乗せたこともあった。
帰りに高速が渋滞して夜中の12時近くに東京支部に到着するも当然バスも電車もない。
もちろんタクシーに乗るお金も無い・・・。
家に電話をすると「歩いて帰ってきなさい」とのこと、中学生がトボトボと1時間以上かけて真夜中に家路につく。
暗い夜道は本当に心細かった。
9時間以上バスに揺られた後でヘトヘトで眠たくてボロボロだった。
途中何度怖い目に合ったことか・・・。
変な人に声をかけられたり警察に呼び止められたり。
何もなかったのが不思議なくらいだ。
あの頃の母は何かがおかしかったのは間違いない。
「明主様がお守りしてくれる」とでも思っていたのだろうか・・・。
高校を卒業してからは進路のことで色々ともめ、母との間に完全に亀裂が入り、2年ほど会話を交わさない日々が続き私は自然に宗教とも放れていった。
その代わりに弟と妹が餌食となっていったのだけど・・・。
妹は物心がつく前から入信していたので、幼稚園にも入れてもらえず小学校へ上がるまで毎日母に連れまわされていた。
いざ入学すると周りの子は幼稚園で基本的なことを勉強していて、自分の名前も書けないのは妹たった一人だった。
初めての授業で名前を書く欄を前にじーっとうつむいていたそうだ。
私がバイトを始めるとそのお金をあてにするようになり、数千円、数万とちょこちょこ貸す毎日。
貸すと言っても一度も返ってきたことはないが・・・。
母は数社の消費者金融からも多額の借金をしており、その為に家に何度も怖い人がやって来たり、いやがらせの電話があったりした。
そのお金は当然のように秀明会に消えていったお金。
しかもお金のことでの夫婦喧嘩は一向に無くならない。
私は何の為に生きているのか、これが母の言う幸せなのか分からなくなり、それが嫌で嫌でたまらなくて、一人暮らしができるだけのお金が貯まったところで家を出た。
それからはぱったりと宗教とは縁が切れ、お光も家においてきた。
それでも借金の連絡はたまにきており、毎月決まったお金を渡していたのだけど、そのほかに数万単位で貸し、時には10万なんて時もあった・・・。
私は残してきた兄弟を哀れに思う気持ちがあり、完全に縁を切ることができなかった。
そんなこんなで数年が経ち、私は結婚をし子供ができ母の気持ちが少し分かるようになり、今はとても良い関係だ。
オームの一件からすっかり方針が変わった秀明会。
あんなにお金や信者集めにガツガツしていたのが嘘のように穏やかな集団へと変わった。
今は老後の楽しみのように自然農法に打ち込んでいる。
それで良い。
たとえ多額の借金を抱え貧乏でも離婚もせず父と母が仲良く孫を連れて自分達の畑を耕している姿を見ると、今までの全ての辛かったことが本当にただの思い出になる。
弟も妹もそれぞれ辛い思いをしてきただろうけど、今は両親を大切にして立派にやっている。
結局母は何かに依存したかっただけなのだろう。
それがたまたま宗教だっただけ。
秀明会を通してできた友人が母の全てなのだろう。
秀明会で得た地位が母の全てなのだろう。
秀明会で教えられたことが母の全てなのだろう。
狂ったように翻弄された母が一番の被害者なのだ。
助教師となり子供の手もすっかり放れた今は一日のほとんどを支部で過ごし、日参をし献金をしみそのへ行き、孫が熱を出したと聞けばわざわざ浄霊をしにやって来る。
傍から見ると孫思いの普通のおばあちゃんだ。
時が経って私たち家族は今一つになっている。
それぞれが離れているけれど一緒に住んでいた頃よりも心が近い気がする。
宗教っていったいなんだろう?
先祖や家族を大切にする気持ちがあって、日々に感謝をして生きていくだけで充分じゃないか。
そこにお金が絡んでくるからややこしくなり殺伐としていくのだ。
その点では秀明会はとても汚い所だと思う。
母はきっと死ぬまで信仰を捨てないだろう。
でもそれが母の生きがいなのだから見守っていくしかないと思っている。
(2007年7月投稿)