ハレルヤキャンプはポーズだけ?

 神慈秀明会には、「障害をもつ人のためのハレルヤキャンプ」というものがあります。
 ハレルヤキャンプは秀明会が1962年に購入した瀬戸内海の「黄島」で毎年8月に2泊3日で行われます。他の拠点で、「ハレルヤパーティー」と称した催しが開催されることもあります。
 いずれも、身体に障害をもった子供達などを集めて開催される催しで、それだけを見れば、「へえー、秀明も少しくらいはいいことをしているんだー」となりそうです。


ハレルヤキャンプ(写真は加工してあります)

瀬戸内海の小島、「黄島」

 ところが、こうした障害者への取り組みをしている一方で、秀明内では次のような発言や出来事もあり、この団体の障害者に対する姿勢はどこかが狂っているようです。
 なお、下記証言は支部名等を明らかにすると、情報の出所が特定される恐れがあるので意図的に場所等を伏せて紹介しています。


証言1
 ある秀明関係者が「感謝報告」として次のような話を皆の前で行いました。
 その人の息子は精神障害者でした。色々な事情でそれまで離れて暮らしていたのですが状況が変わり、その母親と息子は近くで暮らすことになりました。ところが、その2カ月後にその息子は死亡してしまったのです。
 精神障害の息子が亡くなり、この母親は自分の娘の家族(秀明資格者)と一緒に暮らすことになりました。
 母親は精神障害の息子の面倒を見なくて済むようになったことを大変喜び、「以前は大変だったけれど、今は娘と、ここの先生をしているだんなさんと、孫と、もう言うことない生活をしています。ご守護ですよ」と皆の前で述懐したのです。

証言2
 秀明会の、ある集会所でのことです。
 その集会所関係者の子供さんも精神障害者でした。
 それまでは家族でその子供さんの世話をしていたのですが、ある時、その精神障害の子供は病院へ入院することになりました。
 子供が家の中からいなくなり、秀明信者の母親が述べた言葉は、「精神障害の息子が入院してくれたので、秀明会の御用ができるようになった。ご守護です」でした。

証言3
 秀明会の、ある支部でのことです。
 多少精神に障害があると思われる男性が支部を訪れ、入信したいと申し出ました。しかし応対した秀明関係者はこの男性を手荒く扱い、支部の外へ放り出してしまいました。
 精神に障害がある人は、「他の人をお救いできない」ので、秀明会にとっては必要ない、むしろ「お荷物」になってしまうので関わり合いを持ちたくないのだそうです。

証言4
 秀明会の、ある支部でのことです。
 その支部では秀明会の催しに使用する大きな展示物を床いっぱいに拡げて製作中でした。
 たまたま通りかかった一人の信者(軽度の精神障害を持った信者)がうっかりそれを踏んで少し破ってしまいました。これに激怒した秀明教師は、この男性に罵声を浴びせると同時に足払いをかけて思い切り投げ飛ばしました。


 個人の資質もあるだろうが、組織として障害者問題にどのような姿勢で臨むのかが確立されていないため、証言1〜証言4にあるような言動が頻発するのだろう。これでは、せっかくのハレルヤキャンプ実行スタッフの努力が正当に評価されることなく終わってしまう。
 秀明内でこうした非常識な言動が続くと、ハレルヤキャンプの本質まで疑われてしまい、「多教団が同様の取り組みをしているのを見て、それを真似ているだけ」とか、「秀明会も奉仕活動をしていまーす!というポーズをとっているだけだ」、「表向きが良い活動をカルトの隠れ蓑に利用しているだけだ」等と揶揄する声が益々大きくなってしまう。
 なお、秀明会がハレルヤキャンプの対象としているのは、知的障害、難聴、肢体不自由の子供達だけで、精神障害を持った者は対象外であるようだ。


 精神障害を持った家族を抱えて生活をしていくのは本当に大変だ。他人には分からない苦労や葛藤が多々あるが、人一倍優しい心でそうした精神障害の家族に接し、共に明るく生活をしている人たちもたくさんいる。
 精神障害の子供がいなくなったことを、「御守護です」といって「感謝」するこの母親にとって、明主様の方が自分の子供よりも大切な存在となってしまったのだろう。
 我が子よりも神様の方が大切と思うところまで心を奪われてしまったこの母親も秀明の一被害者であると言える。

 証言1〜証言4の事例を見ると、彼らにとって大切なのは秀明会、明主様であって、その前に最も尊ばれねばならない人間の存在が忘れ去られている。人間を、それも障害を持った人たち、自分より弱い立場の人たちを守って行こうとする姿勢を忘れ、「利他愛」のかけらもないこの者達にはどのような神様の御守護もないであろうことに気付いていないのは哀れですらある。

 障害があろうとなかろうと、全ての人は一人の人間として生きていく権利が同等にある。
 しかし、精神障害を持った人や身体に障害を持った人は一人では生きていくことが難しい場合もあり、だからこそ健常者は障害者をサポートし、健常者と同じように生きていけるように心を配ることが求められているのだ。
 証言1〜証言4のように、障害者を排除する行為に何の疑問も感じないのは、人間として最低限のレベルをも逸脱した行為であり、その根底に流れているのは差別思想以外のなにものでもない。

(2005年10月の投稿を基に構成しました)


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