(下記文章は、メールにて投稿されたものです)
「家族を新興宗教から守ろう」のホームページに掲載された、「岡田茂吉の差別思想」を拝見して、ひさしぶりに「聖教書」と呼ばれている書物の内容を垣間みたのですが、なんというか、『なんちゅうこと書いてたんや、あの本は!!』というのが正直なところです。
信者があの「聖教書」を読むことを「拝読」といい、声を出して一日何十分も読むのがよく、しかも姿勢を正して読まなければならないとされています。
私のいた支部では、青年部の信者が円卓に座って(20人くらいをイメージしてください。もちろん正座)、信者が順番に一人ずつ、文章にマルがくるまで音読するということが日常的に行われていました。
青年部と言っても年齢層は様々で、時によっては中学生くらいの子が混じっている時もありました。青年部ですから若い人が多かったのですが、今思うとあのようなとんでもない内容の文章を、『明主様が書いたもので真理なのだ』と思って何の疑いも無く音読していたのかと思うと正直寒気がするくらいぞっとします。
「カレッジ」でもあの本を受講者全員で音読することもありました。
カレッジはおもに青年部対象でしたので、カレッジ時に配られるプリントに高校生が、「毎朝90分聖教書を拝読しています」などという実践の報告などが書かれていることがしばしばありました。高校生が本を読むなら、もっといい本を読んだ方がいいと思いましたが・・・。
一応、「聖教書」などと名前がついてますが、あんなもの「聖」でもなんでもありません。別にあれを読んだからといって心が清らかになるわけでもありませんし、ましてや幸せになんかなりません。むしろイヤな気分なるだけです。
なんなら「岡田茂吉の寝言集」とでも名前をつければいいのではないでしょうか。
聖教書の中に、「怒るなかれ」という項目があります。当時はこの項目はいい内容だと思ってましたが、あれは今考えれば特にすごい内容ではなかったことに気づきました。
後に、ベストセラーにもなった「小さいことにくよくよするな!」という本の中にそのような内容はごくごく当たり前のように出てきましたし、なにより、「聖教書」なんかより「小くよ・・・」のほうが100倍心にしみ入るし、これを実践した方が明らかに幸せに近づきます。
本当に世界最高の神様が書いた教えであれば、アメリカ人の書いた本など足下にも及ばないはずですが?実際にはまったく逆です。
幸せになるには、血マナコになって浄霊をしたり、多額の献金をすることなど必要ありません。幸せになるには、今を大事にして、大切な人たちを大事にしていけばいいのです。秀明会は、「今」も「人」も大事にしません。秀明会にとって大切なのは「秀明会」であって、個人の幸せなどどうでもいいことなのです。
今は聖教書はゴミと一緒に捨てました。いわば「排毒」ですwww
もっとも、聖教書が手元に無いため、その変な内容にツッコミを入れることもできなくなりましたが・・・。しかし、あんな本が家の中にあるだけでも気分が悪いので、捨ててよかったと思います。