信者の皆さんへ

(下記内容は、本人の了解を得て公開しています)

 私は、以前は神慈秀明会信者でしたが、秀明会信者として布教活動を行い、秀明会の資格者等からの指導を受ける過程で秀明会の真実に気づき、秀明会を脱会しました。
 私も信者であった時は秀明会の教えを信じ、結構熱心な信者でしたので、あまり偉そうなことは言えないのですが、こうして現在冷静に考えることができるようになって改めて秀明会のことを振り返ってみると、信者であった当時は見えていなかった色々なことが分かるようになりました。

※以下の文章を否定的に読まれる方もあると思いますが、出来るだけ最後まで読んでから判断して頂ければと思います。

秀明信者の皆さんへ
 人間は自分の脳を使い、考えることでこれまでの貴重な文化を発展させてきました。自分の頭で考えることを止めてしまえば、人類文化の発展は止まってしまいます。
 私がこれまで秀明会の活動や秀明会信者の友人達と日常的に会話をする中で率直に感じたことは、秀明会の信者は「自分の頭で物を考える」ということをしていない人が非常に多いと思いということです。

 特定の宗教を強く信じている人は、その宗教が最高の宗教だと思い込んでいますが、それは錯覚です。
 世の中にはおびただしい数の宗教があります。その中で、たまたま自分の入った宗教の教祖が主神と簡単に判断していいのでしょうか? そのような確率は宝くじの一等に当たる確率よりも少ないのではないでしょうか。
 人間の判断というものは往々にして誤りを犯すことがあります。自分が信じた教祖が主神であると判断した根拠は何だったのでしょう。その判断を下すまでには色々な角度から検討し、否定的な意見も参照した上で慎重に検討した結果、主神であるという結論に達したのでしょうか?
 その教団の人が言ったことだけ、その教団の書物だけを見て判断していないでしょうか? 本当にそれを信じて大丈夫なのかは、教団が信者に与える一方的情報だけで判断できるものではありません。教団が与えた情報だけを信じた為に判断を誤り、取り返しのつかないカルト事件に巻き込まれた人たちがいました。

 オウム真理教に多くの人が騙され入信しましたが、あの人たちも、もう少し視野を広く持ち、もう少し慎重にその教義を検討していればオウムの欺瞞に満ちたカルト体質が見抜けた筈ですが、教団の中だけしか見ず、麻原の言葉だけを信ずるという非常に狭い視野での情報を信じたために簡単にオウムが世界最高の真理と錯覚し、悲劇が生まれました。

 多くのカルト信者が犯す最大の間違いは、自分が安易に信じたものを真実だと錯覚することです。そして、更なる誤りは、カルトの誤りを指摘する「まともな人々」の声に耳を閉ざすことです。
 オウムに走った自分の家族を取り戻そうと、多くの親族がオウム信者に呼びかけを行いましたが、彼らはオウムの殻に閉じこもり、そうした周囲の人たちの声を聞こうとしなかったため脱会のチャンスを失い、カルトの奥深く取り込まれ犯罪に荷担する結果となりました。
 「信じる、信じない」という行為は、その人がそう思っているだけであって、本当の真実とは別物です。「信ずる」ということは、もし他に本当の真実があった場合はその真実に気付きにくくなることです。

 現役秀明信者の方も、もう少し秀明を客観的に見ることが必要なのではないでしょうか?

 「触らぬ神に・・・」という諺通り、確かに神というのは怖いです。背くと何をされるかわかりません(私は神を信じませんが)。
 しかし怖いからといって、ただ盲目的に神を信じ、心の中に生じた神に対する矛盾や疑問を放置しておいてよいのでしょうか。神は信者がそのような奴隷のような人間になることを望んでいるのでしょうか。
 本当にご神意に近づきたいのであれば、例え相手が神であっても矛盾を許してはなりません。相手が神であっても、誤りがあればそれを自分自身で徹底的かつ慎重に検証し、本当の真実を知る努力をすべきです。まともな神であれば、盲目的人間が増えることよりも賢い人間が増える方が神も喜ぶのではないでしょうか。
 偽ダイヤの件や目睫の大異変、多くの秀明被害者の存在などにより、すでに明主様の予言や、み教えは次々に崩壊しています。そうした事実があるにもかかわらず、いまだに秀明会への参拝を続けているのはなぜなのでしょう。惰性、つきあい、集団心理、真実を知るのが恐い、もう元へは戻れない、意地を張っている・・・、あるいは恐怖信仰によって秀明に縛り付けられているのではないでしょうか。
 いつかは今までの、「あなたの常識」を打ち破る勇気が必要な時もあるのではないでしょうか。

 「お玉串」を払ってカルトのお手伝いをするのはもう止めましょう。どうしてもまだ信じたいのであれば、もっと秀明の内部のことを客観的に検証してからにしましょう。私やあなたが「献金」や「お詫び」で出したお金でカルトの上層部は裕福な生活をしています。一般信者が献金につぐ献金で苦しんでいる時も、そのお金で上の者は贅沢な生活をしています。
 霊界や神のことなど、本当にあるという確信のないことに関してお金が絡むのはその時点ですでに詐欺と言い切って良いでしょう。
 私と親しい信者は、「たとえ詐欺だったとしても、献金も昔ほど強制的ではなく、今は自発的だからいいじゃないか?」と言いますが、たとえ小額だったとしても参拝するたびの100円の「お玉串」が詐欺師の肥やしになり、それが積もり積もって大金となり、カルト維持の手助けをしていることになります。善意の参拝者が意図するか否かとは関係なく、無批判にお金を出すことがカルトの手助けとなり、同罪に手を染める結果となってしまいます。
 私も以前はその詐欺の一員だったのです。

 私がこのような意見を述べても、秀明信者の方から見ると、「おまえは、副守護神(邪心)にやられている」と見られるのではないかと思います。
 しかし、何の検証も行わず、上から言われたことをただ鵜呑みにしている秀明信者のほうが邪心にやられていると言えるのではないでしょうか。
 自分の頭で考え、分からないことがあれば自分で調べ、反対意見があればそれも検討して真実を知ろうとするのと、上から言われたことをそのまま鵜呑みにして真実だと思いこむのでは、どちらが人間としてより真理に近づくことができるのでしょう。
 合理的な理論を述べる者を「邪心にやられている」と嘲笑し、教団の教えを鵜呑みにするだけで何ら具体的検証も行わず、疑問も解消しようとしないない秀明ロボットになってはいけません。
 頭を使わない人が、真実に行き着くことは決してありません。

 「お前のような裏切り者の言うことなど、聞けるか!」、「信じられるのは、明主様の言葉だけだ!」というのなら、それも結構です。それならば、明主様のみ教えである「主観と客観」と「プラグマチズム(実用主義)」を実践しましょう。
 明主様のみ教えには従える筈ですよね? 明主様のみ教えである「主観と客観」を信じるのであれば、秀明会自体も客観的に見るべきです。
 秀明会を本当に客観的に見ることができれば、秀明会の実態が見えてきます。見えていないのは、自分の属する団体を主観的(ひいき目)に見ているからです。それは明主様の教えに反することです。
 み教えも客観的な視点で見ることができるようになれば、明主様自体が間違っていることにも気付くことでしょう。
 そして秀明信者の皆さんが、み教えに書かれている通りの、「客観的人間」であるならば、神慈秀明会被害者の気持ちも理解できるはずです。
 そのとき、今まで未信者に対し「かわいそうな人」とか言っていた人は、一番かわいそうなのは自分だったとわかるはずです。

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