(下記文章は、本人の了解を得て公開しています)
神慈秀明会の「み教え」の中に、「常に感謝をしている者は自然幸福者となり、不平不満や愚痴を言う者は不幸者になるのは事実だ」というのがあります。
資格者や助教師など、上の者にとってこれは非常に都合のいい言葉です。一般信者が、神や秀明のやり方に疑問を感じ追及すると、こちらの主張が全て「不平不満」扱いされてしまいます。
秀明のやり方等に疑問を感じ、何度かそれを上の者にぶつけた信者は、「まず感謝です」、「不平不満をいう前に、まずあなた自身がやるべきことをやりなさい」と言われ、それ以後は矛盾を感じても口に出せないでいる人も結構いると思います。
もちろん感謝することは大事かもしれませんが、矛盾や疑問を解消させる権利はもっと大事だと思います。
こういうこともありました。
GL会(グループリーダー会)という勉強会がありました。ここでは資格者から「今日、未信者浄霊していない人は立ちなさい!」と言われ、多数の者が立ち、一人ずつ、していない理由を問われました。僕もその一人でした。
ほとんどの者は適当な反省点を述べ、いついつまでに○名の未信者浄霊、またはお救いさせて頂くと言わされていました。
ところがこういう状態は毎回でした。「○名浄霊させていただきます」と約束して、また約束に背き、次のGL会を迎えます。このようなことの繰り返しなので、GL会に費やす時間は全く意味が無く無駄でした。
僕は発展がなく、意味のない同じことの繰り返しは大嫌いなので、正直に言って刺激を与えてやろうと思い、「浄霊はしたくありません!」と言いました。すると「しなさい!」、「なぜ嫌なことを無理にしなければいけないんですか?しません!」、「しなければいけないからするんです。しなさい!」、「いやです。無理に押し付けるのはおかしい。しません。」、「いや、しなさい!」とこんな感じでした。
会が終わってから僕はある女の子から「何やあれ。時間の無駄使いや!」と言われました。
しかし、毎回浄霊を約束しては毎回その約束を破ってその報告を延々と行うグループリーダー会が一番無駄な時間じゃないのか?と言いました。
その後も資格者に対し、「僕は先生は偉そうな態度をとるから嫌いだ!」と言うと、「先生も人間やからなぁ」と言い訳してました。
「下の者を良くせんとする場合、まず上が良くならなければいけない」と下の者に指導しておきながら、自分は全く反省しません。下の者には反省するように強要するくせに、自分が突っ込まれると言い訳します。
僕は、秀明会の矛盾を正そうとする行為は、正義感に基づくものであり、決してそれは個人的な「不平不満」と同じだと思ったことはありません。
秀明思想にしっかり染まった信者は、常に言動の基準が前世や過去に犯した罪悪感や曇りを償うことに一生を傾けていますが、あれは間違っています。
今、こうして生きている人が、前世や自分の先祖が犯した贖罪を背負い、それに縛られて生きて行かなければならないのは、余りにも不合理です。あのような不合理な考え方は、神を利用して人々の心を縛り、彼らが信者をコントロールしやすくするために考えついた方便です。
人間は、もっと自由に生きる権利があります。