私も信者でした

(下記内容は、本人の了解を得て公開しています)

 私は以前に神慈秀明会で布教活動をしていました。当時は結構熱心な秀明信者であったと思います。
 そのころ私は、信仰は大切だと思っていました。明主様のみ教えである聖教書の百(もも)の100分拝読(秀明では100の数字は邪心退治になるとして桃と言う)も取り組み、普段でも一日最低10分は声を出して読んでいました。

ダイヤモンド
 私は母と二人暮らしですが、母も秀明会の信者です。母はつい最近まで私に内緒で参拝していたようです。
 母と私はずっと京都に住んでいるので京都支部に在籍していました。
 「ダイヤモンド騒ぎ」は、その京都支部から始まりました。Tさんという女性にはいつもかなりの数が出るということで、特にお祭りなどがあるといつもその人には「ダイヤモンド」が出ていました。詳しい数は忘れましたが最低でも100個以上はあったと思います。そのTさんは、よく全身金粉まみれにもなっていました。その金粉やダイヤモンドは、Tさん程の数でないにしても、いろんな人に出ていました。
 私も1個だけ拾ったことがあります。ボロボロで裏の反射鏡は半分くらい剥がれていました。そういうダイヤモンドの状態が拾った人の魂の状態だともよく言われていました。 母も秀明会で出たというダイヤモンドを数個(正確な数は忘れましたが7個以上はあったと思います)家の棚に飾っていました。

 私は後に秀明会に対して疑問を抱くようになり、その時にダイヤモンドを宝石店で見てもらったことがあります。その時返ってきた結果は、こちらの「家族を新興宗教から守ろう」のホームページにある「ダイヤモンドの奇跡」に書かれている内容とほぼ同じです。
 私は、母が秀明会で明主様からもらったという7個程のダイヤモンドを宝石店に持参して見てもらいました。その宝石店の人は、ルーペで見る前に肉眼で見た段階で「これは後ろに反射鏡がついているのでダイヤモンドでないのは間違いない」と言われました。そしてルーペで1〜2分くらい見た後、「きちっと鑑定料を払えば正式に鑑定書を出しますが、しかしそれはお金をドブに捨てているのと同じですよ。期待はしない方がいいです。」と言われました。

聖教書
 私も、始めの頃は疑問を感ずることもなく、秀明会で指導を受けていました。
 秀明会では、「聖教書」には明主様が書いた絶対の真理が書かれていると言われ、み教えを読めば読むほど明主様のお心が理解できると指導されていました。また、この本の文字から光が出ているので清まるから出来るだけ読みなさいと言われていました。
 しかし、私は読めば読むほど神に対しても疑問を抱き初め、「神は悪」だと思い始めました。
 正常な人が神の書物(秀明に限らない)を読むと、神が一番利己的で人間を物として見ていて恐怖心や罪悪感を植え付け、人々を思い通りにしようとしているのが分かります。

 聖教書にも、「実るほど頭を下げる稲穂かな」や、脅して献金などをさせても効果は無い様なコメントはありますが、それにも関わらず資格者達はいつも傲慢でした。
 そして資格者は信者達にみ教え拝読を常に勧めていましたが、資格者自体が聖教書の教えからは程遠い指導の連続でした。資格者自身も神人合一であるがごとく、資格者の言動に素直に従っていれば良い方向に行くと指導されていましたが、聖教書には「神人合一は私(明主様)だけ」と書かれていました。
 母は資格者から、「あんた、今献金しないと、子供(私)の命取られるで!」と完全に脅迫と取れることを言われたそうです。
 そうした疑問点を世話人などに追求すると「資格者も人間だから」といった感じです。普段は「神人合一」のごとく振舞うくせに、都合が悪くなると「資格者も人間だから」ときました。

 秀明会の教えには、「霊層界」というものがあり、未信者を一講、二講に連れて行くと数十段階上がれるという「み教え」がありました。
 二講の時、教習者が未信者に「一講を聞いたあと何か良いことありましたか?」と聞いても首をひねる人が多かったようですが、偶然、一講を聞いた時期に何か良いことがあった未信者は「ご守護」だと思い込み入信するんだろうなぁと今は思います。そして悪いことがあると「浄化だから感謝だ!」というのです。とにかく何があっても良い風に解釈しなさいと言われていました。
 霊層界は確か181段階だったと思いますが、数十段階も上がると何らかの自覚がハッキリ現れる筈ですが、自覚のない人が殆どで、そういう人に関しても「自覚の度合いは御霊(みたま)相応」だと言っていました。
 とにかく、矛盾は全て「御霊相応」だとか「魂の曇り」で片付けられていました。
 私はこうした神に対する疑問や秀明会での指導の矛盾を上の者に尋ねたこともありますが、納得のいく答えが得られた試しはありませんでした。
 当時、秀明会内部では世界救世教から離脱した時の「離脱劇」というのがよく信者により演じられていましたが、私はその劇を見て感激したり布教意欲が沸いたりしたことは一回もありませんでした。

 本当に聖教書をよく読めば、そこに書かれていることには合理性がなく、矛盾だらけなのが理解できますが、秀明会での教えが浸透した人たちには合理的思考が無く、ただ無批判に自分の会長や教祖は最高であると錯覚しています。
 今から2〜3年前のことですが、その時私はすでに秀明は怪しいということに確信をもっていたので母の留守中に「ダイヤモンド」を近くの宝石店に持っていき、鑑定してもらった結果、冒頭に書いたように言われました。
 ダイヤモンドが偽物であったことを母に説明しても、母は何らかの理由をつけて言い訳をします。この偽ダイヤの件だけでなく、秀明会でよく言われている「目睫(もくしょう)に迫った大異変」という話もきわめていい加減な話であり、こうした内容を例にとり、母に繰り返し理論的に話しましたがマインド・コントロールされた人に理論や合理性は通用しないようです。

目睫の大異変
 神慈秀明会の「聖教書」の一番初めに「神慈秀明会とは何ぞや」というのがあります。ここでまず神慈秀明会の目的を告げています。
 そこには、「目睫に迫った大異変」が示され、その大異変までに一人でも多く救う(入信させる)ことが目的であると書かれています。この"目睫"が実は曲者で、布教を急がせるコメントになっています。この大異変は、今までに例の無い「前古未曾有の大異変」と表現しており、余程の酷い終末を思わせるように書かれてあります。
 資格者の中にはノストルダムスの予言をまねたのか、「1999年はもう直ぐですよ!」と言って煽っていた者もいましたが、1999年が何事もなく過ぎると、そんなことを誰が言ったのかという顔でとぼけています。「いつになれば目睫が来るんだ!」とたずねると、「霊界と限界とは時間の事象が違う」などと言い訳をします。
 こうした具体的矛盾を深く追及とすると、「資格者も人間なのだから」とか、「大切なのは明主様と自分なんだ!」とか言ってごまかすのが落ちでした。
 つまり神慈秀明会の教えというのは、どっちとも取れる言葉、仮に、もしやばい状態になっても言い訳の出来るように考えてあります。

資格者等の言動
 秀明会内部では日常的に信者を愚弄する発言が資格者等から飛び交っていましたが、中でも信者を愚弄した特徴的な資格者の発言として覚えているのが、「秀明に早く入信した人ほど曇りが多いのだ」とか、「秀明は何もかもが超一流です。君達も超一流なのだ。何が一流か分かるか?・・・魂の曇りが超一流なのだ」と言われていたことです。
 今にして思えば、信者の人格を平気で否定できる秀明ならではの信者をバカにした発言だと思います。

 入信時の説明では、絶対の教えである聖教書には戒律が無いと言って安心させて入信させておきながら時間が経つと徐々に自己放棄を強要してくるのが秀明のやり方です。
 そのようなことを強要されることは聞いていない、話が違うと言うと、「今の時期は終末が迫っているからだ」と言葉を翻します。
 こうした疑問や不満を幹部や自分の世話人などに言うと、「人間を見てはいけない、明主様と自分だから・・・」と言って論点をすり替え、責任の所在をあいまいにしてなし崩し的に自己放棄を押しつけてくるのが秀明のやり方です。
 青年の夏季布教(遠隔地)時期になると、カレッジという本部での勉強会で一人残らず「行く」と言うまで座談会を終わらないと言われ、弱そうな子はとことんまで攻められていましました。私は頑として「行きたくない」と言い張り、夏期布教には参加しませんでした。

 夫婦の片方が入信して、それが原因で離婚になった夫婦もいましたが、そうした場合、それは「片方が入信したことにより霊的に向上したために相手の霊格と合わなくなったので相手が去って行ったのです。それでいいのです」と教えられていました。
 信者である者に優越感を与える心理作戦で離婚を増長させ、夫婦の離婚という重大な結果を招いた責任は一切考慮されることはありません。
 まさに神慈秀明会は家族を崩壊に追いやる宗教です。

 ある時、私の友人が秀明会幹部と意見が対立し、激しい口論となった時のことです。その幹部は、「こっちのバックにはある政治団体が付いているから、お前一人なんか簡単に潰せるんだ!」と怒鳴りました。
 「ある政治団体」がどこを指すのか私もハッキリしませんが、まるでどこかの右翼団体が脅しに使う言葉のようでした。この秀明会幹部はかなり上層部の人です。このやりとりはテープに録ってあった筈なのですが、その後このテープは他の目的に使うために消してしまったようです。あれがあれば一番の証拠になるんですが・・・。
 友人は、それ以来、その幹部とは家が近いので動きを監視されている時もあると言っていました。

神慈秀明会の本質
 私はこうした一連の経過の中で神慈秀明会の本質を知り、これは信ずるに値するものではないとの結論に達しました。
 聖教書も秀明紙もお光りも、全ての秀明会関係のものを自分の手で破り棄て処分しました。
 こちらのホームページでは、お光りの処分で困っている方もおられるようですが、あんなものはただの紙切れです。破り捨ててゴミ箱に捨てるだけで処分は終わりです。
 秀明会が本物の宗教であれば、そのようにご神体などを粗末に扱った私は今頃祟りによってどうにかなっている筈ですが、実際は、何もありません。あのようなばかばかしいものを破り捨て心身ともにすっきりしました。カルトのご神体なんてそんな程度のものです。

 お光りや聖教書には何の力もありませんが、秀明のやり方は巧妙です。
 「新体制」と呼ばれるようになってからは、布教活動だけに限らず、全ての戒律的規則も緩めています。今は支部なども以前の様な賑わいは無く、むしろ自然農法に力を入れるなど、表面的には平和的な雰囲気さえ感じられます。
 これは脱会者などから叩かれないように工夫しているのだと思います。以前のような強引な布教活動や献金強制が今も続いていれば、とっくに秀明もオウムの様にニュースのTOPを飾り、有名になっていたことでしょう。
 以前の悪行は過去の事として、「なかったことにして」世間や脱会者の脳から消し去ろうとしているのは明らかです。
 しかし、このような「平和を装ったパフォーマンス」で神慈秀明会がこれまで行ってきた悪行の数々が帳消しになることはありません。神慈秀明会のために生活を破壊され、家族が離散し、多くの被害者が生まれています。
 これらの人々に対する謝罪と賠償を抜きにして彼らを許してはなりません。
 また、新たな被害者を生まないためにもこのようなカルト団体は解散すべきです。

まだ秀明に残っている方へ
 以上のような経過で、私は自分に嘘をつくのが嫌なので神慈秀明会を脱会しました。
 あれだけ嘘と矛盾と人権侵害に満ちた団体に属していることは、自分に正直な人であれば苦痛に感じる筈です。私は他人に嘘をつくのもイヤですが、自分の心に嘘をつくのはもっとイヤです。
 神慈秀明会は「正直主義」を標榜していますが、実際には信者に罪悪感や恐怖感を与え、これを武器として、自分にも他人にも不正直な人間を生産しています。

 私は、秀明在籍中に知り合った2、3名の友人と、まだ、たまに接点がありますが、彼らの言葉の中にも神秘主義的な見え見えの嘘を感じる時があります。ダイヤの件も伝えましたがそれでもお光を外そうとしません。
 外すとご守護がなくなるという恐怖に違いないのですが、本人達はそれが恐怖感からではないといいます。嘘八百です。事実や理論を認めず、神の光に守られている安心感を失いたくないだけなのです。
 まだ神慈秀明会に信者として残っている方たちも、一度、自分の心の中を正直に覗いて見てはいかがでしょう。神慈秀明会に対して何か、疑問や矛盾を感ずることはないでしょうか?
 もし、そうした疑問や矛盾があったとしたら、今の秀明会は、そうした疑問や矛盾を解消するだけの「信者の声を聞く耳」を持っているでしょうか?
 カルトは信者を騙し続けることで存在できるのであり、カルトが信者を騙さなくなったら存在することはできません。彼らが自らを破滅させることはないでしょうから、この先もずっと信者を騙し続ける路線は変わらないでしょう。
 そのような団体にいつまでも属していたら、本当に一生を台無しにすることになります。
 神慈秀明会を止めても、何も悪いことは起こりません。

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