神慈秀明会が目指すもの

 神慈秀明会の目的は『地上天国』を作ることにある。
 『地上天国』と言われても我々一般人にはピンとこないが、『病、貧、争』のない世界が『地上天国』なのだそうである。『病気、貧困、争い』のない世界が実現可能と思っている、そしてそのように思わせていること自体に無理がある。いままでどこの宗教も、どこの国家もなしえなかったその無理を実現できるところが神慈秀明会が他の宗教とは違った卓越した宗教であることの証なのだそうである。
 しかし、神慈秀明会が目標とする『病、貧、争』のない世界がもし実現したら、人々は一切の向上心をなくしてしまい、人類の発展はそこで止まってしまうであろう。我々は『病、貧、争』等、たくさんの問題を抱えているからこそ、病気にならないように身体を鍛え、貧困にならないように汗水を流して労働し、争いが起きないように隣人・隣国と折衝して生きているのである。
 人間世界がこれだけ発展してきたのは、『病、貧、争』から逃れる手段方法を模索してきた結果であり、人間世界からこうしたネガティブな要素がなくなってしまったら、人類の発展は止まってしまう。
 夢物語、ファンタジーの世界では『病、貧、争』のない世界の実現も可能かも知れないが、現実の社会でそのような世界の実現を図ることはきわめて困難である。ましてや、一新興宗教の力でそうした全人類に及ぶ、ユートピアのような世界を作ることなどできるはずもない。
 それを『できる』と断言し、その建設基金だといって信者に多額の献金を求める姿勢は宗教者のとるべき姿勢ではなく、宗教に名を借りた集金団体でしかない。
 神慈秀明会が発行する機関紙に登場する一般信者の顔や発言を見ていると、いかにも善良そうな、純朴そうな人が多い。その純朴さにつけ込んで荒唐無稽な教えを拡げ、金をむしり取っているように私には思える。

 このような、宗教の皮をかぶった集金団体に貴重なお金を注いでいる一般信者だけが被害者だと言えるが、そのように信じ切っている信者自身は、それで自分が救われると思いこんでいるので被害者意識を持つことはない。それで一生幸せな気持ちでいられるならば他人がそれをとやかくいう筋合いのものではないのかも知れない。しかし、その信者と生計を共にする家族があり、その家族がそうした宗教に反対している場合は家族が一番の被害者であるといえるのではないだろうか。
 信仰を取るか、家族を取るかと問われた時、家族を捨て信仰の道を選択するのは、よほどの真理に目覚めた者か、マインドコントロールされ、カルトに完全に取り込まれてしまった新興宗教被害者のどちらかである。

 新興宗教の一般的傾向として、我が宗教のみを唯一絶対視し、それ以外の宗教や宗教的考え方を否定する傾向が強いが、神慈秀明会の教えは徹底して信者から人間としての主体性を奪ってしまい、信者の視野を狭め、「神慈秀明会流」の極めて特異な、偏向した思考パターンに信者の頭を改造してしまっているようだ。  神慈秀明会で行われている信者に対する教え(教育)は、宗教的教えの皮をかぶったマインドコントロールである。
 若者だけでなく、分別があるはずの中高年信者も同様の教えを信じている者が多いようであるが、何かのきっかけで、一旦その教えに「はまって」しまうと、どんどん深みにはまっていくものなのだろうか。荒唐無稽な教えであるにも係わらず、これだけ多くの人間をその教えの下に一元化しているその影響力の大きさには脅威を感ずる。
 新興宗教にも例外はあるかも知れないが、新興宗教に「はまって」しまった者にはこうした荒唐無稽な教えを信じる傾向が強い。かってオウム真理教に走った者の中にも、医者や弁護士、一流大学の学生など、通常ならば広い見識を持っているはずの者もいたが、その時点では荒唐無稽な、偏向した教えを信じていたのである。

 新興宗教の多くは教祖が神であり、その神は他のどのような神よりも優れた絶対的存在である場合が多い。信者は自分たちだけが、絶対正しいと信じている。
 自分たちだけが正しいと思っている人間はどんな事でもできる。「世の中の人たちは、まだ真理に気づいていない。世の中の人たちが我々を批判するのは真理に気づいていないからであり、哀れな人たちである」と考え、親や兄弟、親友等がその新興宗教の間違いを指摘したり、その新興宗教をやめるように説得しても一切聞き入れようとはしない。
 神慈秀明会ハンドブックの、「我々の使命」という項には、 『明主様は、無限絶対の神の知恵と力、「観音妙智力」をお持ちになって復活され、神慈秀明会の信者一人一人にこの力を分け与えられ、縦横無尽の活動をなされています。すなわち明主様のご復活は、かって釈尊の予言された仏滅のときの「弥勒菩薩の下生」、キリストの「世の終り」「最後の審判」のときにおける「救世主の降臨」そのものなのです』と説かれている。
 同じく、「世界にはばたく信仰」という項には、『人類理想の、病貧争絶無の世界、すなわち地上天国を建設できる者は、明主様の絶対力・み力をさずかっている神慈秀明会の信者のみであります。明主様のみ教えは、仏教も、キリスト教もすべての宗教を包容した超宗教、世界的宗教なのです。これでこそ世界に通じ、全人類を救うことができ得る、唯一無二のみ教えです』と説いている。
 つまり、神慈秀明会の信者が信じている明主様のみ教えは、世界中のどの宗教よりも優れた、世界を救うことができる唯一の宗教だと断定している。この教えを信じている信者は、『明主様のみ心を心として浄霊実践にはげみ、一人でも多くの同志をお導きさせて頂かねばなりません』ということになっている。
 オウム真理教でもこれと同様の教祖に対する唯一絶対的な信仰心があり、『あのような人間はポアしてやった方が本人の為になる。抹殺してしまえ』という、教祖の指令に対して何の疑いもなく平気でそうした犯罪を犯すことができたのである。
 私は、人間はもう少し賢いものかと思っていたが、こうしていとも簡単に新興宗教に取り込まれ、荒唐無稽な、社会的常識とかけ離れた教えを信ずる者がたくさんいることからして、人間は意外に騙されやすい、もろいものであることを改めて思い知った。

 『偶然』も『荒唐無稽』も、彼ら信者にとってはもはや必要としない言葉になっている。身の回りに起こること全てが神様のおかげであったり、霊の仕業であるような思考パターンに信者の思考を歪めてしまった神慈秀明会の教えは、信者の人間としての尊厳を踏みにじり、信者を教団の歪んだ願望実現のための集金マシーンとして利用するための方策であり、宗教の名に値しないものである。
 一時ほどの過激さはなくなったと言われているようであるが、玉串料や献金、お詫びなどの名目で信者から多額の資金を集める実体は変わっていない。
 このような、私の考えが間違いだという人もいるであろうが、現実に数百億円の神殿や美術館は、信者達が血のにじむ思いで献金させられた結果、建造されたものである。

 私は、宗教の全てが悪である等と言っているわけではなく、むしろ人が人として生きていくためには信仰心は必要なものであると思っている。ただし、その信仰心とは、何らかの宗教団体に入ることではなく、自らの心を内省し、自らの魂との対話の過程で得られる心理的安定状態を目指すものである。
 宗教を隠れ蓑にして善良な信者を騙し、献金させ、信者と信者の家族を不幸にするような『集金団体』神慈秀明会は徹底して糾弾し、排除、解体せねばならないと思っている。

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