統一教会や法の華、はてはオウム真理教と世の中にはたくさんの新興宗教があり、カルトと呼ばれる危険な宗教団体が存在することは知っていたので、登志子が信じている宗教がどのような宗教なのかが急に心配になってきた。
出てきた資料を読んでみると『神慈秀明会』という名前が書いてあったので、インターネットでその名前を検索して見た。たくさんのサイトが出てきたので片っ端からその内容を読んでいく内に、背筋がぞくっと寒くなる思いがした。神慈秀明会のサイト以外は神慈秀明会に対して批判的な内容が大半を占めており、そこで指摘されている問題点は強引な勧誘と借金をしてでも献金させる強引な集金体勢だった。
「地上天国建設」という、訳のわからない目標に向かって多額の献金が集められ、滋賀県信楽町の山中に立派な本殿や建設費250億円といわれるMIHOミュージアムという美術館が建てられていることもわかった。
また、神慈秀明会は手かざしによる『浄霊』という宗教行為を行うこともわかった。この浄霊がなぜ病気を治す効力があるのかを説明した神慈秀明会関連サイトの文章を読んで驚いた。そこに書かれている手かざしによる治療効果についての説明は到底常識では信じられない荒唐無稽なものであった。
神慈秀明会の説明によると、神慈秀明会では岡田茂吉(故人)を『明主様(めいしゅさま)』と呼んで、いわば『神』のような存在と考えているようである。今はすでに死亡して『あの世』にいる『明主様』から目に見えない何らかのエネルギーが伝搬し、信者が首からつるした『お光』と呼ばれるお守りのようなものを通して信者の手から目に見えない光線?が放射され、病んでいる人への治療効果が発揮される、という意味の説明がされていたが、私には到底このようなことは信じられなかった。
宗教的教えというものは、科学的に証明できる性質のものではないことはよくあることであるが、それにしても、この手かざしによる治療効果についての説明は『ばかばかしい』と思えるほど荒唐無稽なものであった。
普通に考えると到底このようなことは信じられないことであるが、信者の多くは、皆それを当たり前のこととして信じているようである。このような荒唐無稽なことが、なぜ信ずるに値するものとしてまかり通るのかがこの時点では全く理解できなかった。
ゴミの山から出てきた、神慈秀明会の機関紙「秀明」の記事を読んでみると、日常生活の中で何か良いことがあると『明主様のおかげ』と感謝し、悪いことがあると『明主様のおかげで、この程度の災いで済んだ』と感謝する、といった有様で、信者の頭の中には『偶然』という考え方は消え去っているように感じた。
神慈秀明会の信者は、自分の頭で理解できない話や現象を見聞きすると、その真偽や原因を自らが主体的に調べてみようとせずに、すぐに『奇跡だ』とか『明主様のおかげだ』、『霊障だ』と決めつけ、そこから先の思考を停止してしまう傾向が非常に強いようだ。
神慈秀明会の信者の中にも、色々な考え方を持つ人がいるはずなのに、「秀明」に登場する信者が述べている意見を読むと、記憶回路に埋め込まれた回答をロボットがしているような、「金太郎飴」的意見が蔓延していた。