コルベ神父

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父(コンベンツアル聖フランシスコ修道会司祭)

 コルベ神父は数名のポーランド人修道士達と共に1930(昭和5)年4月24日、長崎に上陸し大浦天主堂の近くの古い借家に住みました。
同年5月24日、全く日本語の分からないコルベ神父達は日本活字による「聖母の騎士」第1号を1万部発行しました。
 そののち、町はずれの本河内山の険しい山の斜面に聖母の騎士修道院とルルドを開き、聖母の騎士誌の発行と布教活動に専念しました。
 コルベ神父は1936(昭和11)年5月に会議のため故国ポーランドへ帰国しましたが、やがて第2次世界大戦が勃発し、神父であるという事とナチスに協力的でないという理由でナチス軍に捕らえられ、アウシュヴィッツ強制収容所へ入れられました。
 元来体の弱いコルベ神父は決められた強制労働にも従事し、また収容者たちの相談役としてまた収容所内で死者がでるとお祈りを捧げ、人々に希望を与え続ける存在でした。
 ある日のこと厳しい収容所生活から脱走をした囚人が居ました。収容所内の規則で1人の脱走者が出ると残った者の中から10人の死刑を執行するとの決まりがありました。
 収容所内で無作為に10人が選ばれ死刑の中でも最も悲惨な刑、餓死刑が宣告されました。コルベ神父は幸いその10人の中には選ばれていませんでした。
 餓死刑を宣告された10人の罪のない囚人が地下の餓死室へ歩き出したその時、列の後方にいた1人の男が叫びました。
 「私には妻も子供もいる!死ぬのは嫌だ!・・」

 その時、ある男が身代わりに死ぬ事を申し出たのです。
 「私はカトリック神父です。私をその人の身代わりにして下さい」。その男とはコルベ神父でした。
 地下の餓死室に全裸で入れられた10人は1滴の水さえ与えられる事無く次々に死んで行きました。14日後、最後まで生き残ったコルベ神父は毒薬の注射を受け亡くなりました。そのときのコルベ神父はまるで死ぬことを喜んで望むような穏やかな表情で自ら腕を差し出し、注射を受けたと、当時の担当者が証言しています。

 コルベ神父は1941(昭和16)年8月14日、愛のために生命を捧げ、亡くなりました。
 コルベ神父は1982(昭和57)年10月10日バチカンにおいて、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世によりカトリック聖人にあげられました。

(以上の文章は、下記より転載させて頂きました)
http://max1130.hp.infoseek.co.jp/page007.html
※コルベ神父の名誉のために申し添えますが、コルベ神父は神慈秀明会とは全く何の関係もありません。

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