自然界のすべてに法則がある (56)
天体には一定した軌道と周期があり、地球と太陽との距離が常に最適であるから地上には植物や生物が生息し繁殖できるように光と熱が適度になっていて、一年は365日で一日は24時間になっている。
植物や生物は条件が同じであれば、同じ種類の子孫は容姿・外観・機能・寿命・成長の速度と変化・食物・好み等も同様になる。
物質を構成する極小単位の原子の構造も正確に一定した機能が作動していて、同じ種類の原子は同じ構造・性質・エネルギーになっている。
このように原子以下の無限微の世界から天体の無限大の世界に至るまで法則が成り立っていて、法則によって正確に構成され運営されているのは絶対者である造物主が確実に存在する事の証明であり、自然界のすべての存在と現象は偶然に発生するものは何もなく、すべてに意味と価値があり法則によって現象と結果が発生するのである。
人間が発明・発見・開発して物質文明が高度になったのは、自然界のすべてに正確な法則があり、発明・発見・開発の材料がすべて自然界に存在していて、人間は自然界の一部分の法則を発見して応用し発明したからであるが、人間が無から創造したものは何もなく、人間自体が創造された存在なのである。さらに発明・発見・開発の時期も関係者も頭脳のひらめきも、偶然ではなくて造物主である神様にとって最適の時期と人とひらめきが自然界に仕組まれていたのである。
そうして人間は神様の肉体となるべく造られたのだから、自然界には人間が永遠に幸福でいられる法則ができている。幸福の法則とは極簡単で単純であり、誰でも今から実行できて実行できた分だけは確実に幸福の現象が発生し、幸福の法則を完全に実行している人間は実行している間は永遠の幸福が完全に実現しているのである。
■批判■
(批判文は現在執筆中)
自然界と人間を観察する (58)
大宇宙を含めた自然界のあらゆる存在とあらゆる現象や活動は、すべて地球を最適な理想境にするためにあり、地球は人間を理想の境遇にするためにある。だから結局は人間が永遠に幸福であるように自然界は仕組まれていて、自然界は法則によって運営され運行されている。したがって自然界を正確に観察していれば自分が幸福になる法則が自然とわかるのである。
そうして自然界の中の人間界においては、人間を観察する事によって人間界での自分の生活や活動に応用する事ができてより最小の損とより最大の利益が可能になる。人間を観察するとは人間の容姿・体型・年齢・家系・今日までの運命等を自分の五官によって確認する事であり、マイナスを生み出さない観察であるべきなのは勿論だが、どんな人間のどんな内容でも全部が人間の言葉と行動と表面に露出しているから、それを自分の目や耳や鼻等の五官を使って観察すれば何でもわかるし、未来の運命をも具体的且つ的確に把握できるのである。自然界と人間を観察する能力は、日常生活において観察を習慣にすれば誰でもある程度は開発できるが、魂と心と体が健全であるほど高度な観察力を身に付けてプラスを増大する事ができるのである。
しかし観察力は思考力ではなくて感じる力であるから、人間力を信じたり、人間的物質的計算をしたり、今までの知識で判断したり等あれこれと考える事が観察力の邪魔になる。また観察した内容は意識して頭脳に記憶する必要はない。 自然に忘れても頭脳の中に無理なく観察内容は記録されていて、必要に応じて色々な形で最高度に使われているのであり、健全であるほど運が良いのは頭脳が健全であるほど正常であるから、頭脳内に記録された内容を頭脳は自分の幸福実現のために最高度のプラスを生み出そうとして利用するのである。頭脳では、綺麗・うれしい・楽しい・おいしい・快いという瞬間に発生するプラスの感じを幸福として受け入れて確認するのであるから、考える必要も無理をして言葉にする必要もない。そうすると頭脳は活発になって、記憶力も神経も直感もひらめきも自然に開発されてあらゆる高度な能力を発揮できるようにできているのである。
そうして観察力にとって、プラスの知識と体験は可能な限り豊富であるほど良いし、幸福な境遇であるほど良い。何故ならプラスの知識と体験と幸福な境遇は幸福の成分であるから、頭脳が記録している幸福の成分が豊富であるほど、観察によって発生するプラスの感じが豊富になり、より高度で充実した幸柄感になるからである。
今までの発見や発明も人間が考えて生み出したのではなくて、自然界と人間を観察していてヒントがひらめいたり直感が働いたからであり、ただ人間はそのひらめきと直感を無数の実験と試み(単純作業)によって確認したので、その結果が発見や発明となっただけである。美術品や芸術や芸能等においても同様で、苦労して考えて作られた物より、ひらめきや直感による方が活力があり、名品や名作や名演になるのである。
また天才や名人や達人も同様にしてできるのは勿論である。
私にしても自然界と人間を観察した結果、自然界は永遠の幸福を実現するために存在する事と、自然界の法則は人問が健全で幸福であるためにある事と、人間が不幸になる共通点を確認できた事によって人間の幸福化に応用でき、御神業のプラスになっているのである。だから自然界と人間は私にとって教材であり、資料であり、教師でもある。
■批判■
(批判文は現在執筆中)
火・水・土の原理 (61)
無限大から無限微小のすべての存在は、火の成分と水の成分と土の成分の三要素が一体となってできている。
火の成分はすべてを熱と光に変化し燃焼する作用があるから、もし水の成分が消滅すれば火の成分によって原子から大宇宙に至るまでの一切が一瞬にして無限の最高温度となり、燃焼・爆発し消滅する。水の成分はすべての熱を奪って冷却・液化・凍結させる作用があるから、もし火の成分が消滅すれば水の成分によって原子から大宇宙に至るまでの一切が一瞬にして無限に最低温度となり、一切の活動が無となるから無音・無明・無熱状態になる。
土の成分はすべてを物質化する作用があるから、土の成分が消滅すれば一切の存在が無となるのである。火・水・土の成分は、それぞれが単独では成り立たないし、一要素が欠けても存在が成り立たない。ただ三要素の成分の割合によって色々な性質の存在が発生するのである。
具体的には、強力な光と超高温を発生している巨大な火球で火の成分の塊である太陽であっても、水の成分があるから無限に温度が上昇してしまうのを制御でき、土の成分があるから巨大な物体の塊でいられるのである。だから火炎は火そのもので火の成分を主とするがそれだけではなくて水の成分もあるから温度の上昇が有限となるのである。
火力が弱いと土の成分だけが燃焼し、火力が強いと水の成分が燃焼し爆発する。また水の成分が原子核の中から瞬時に消滅すると核爆発が発生するが無限に爆発が拡大しないのは周囲の水の成分が制御しているからで、太陽も表面で核爆発が無数に発生しても太陽自体の爆発に至らないのは、太陽内部には相当の割合で水の成分が存在するからである。
だから大宇宙における星の自然爆発は、星自体に水の成分が絶無か極微量となり火の成分による温度の無限上昇を制御できなくなったためである。 そして水の成分消滅の瞬間に星は自然爆発し、一体化していた火・水・土の成分は光と熱に変化するのである。
地球において無尽蔵の資源である水も水の成分が主ではあるが、火の成分と土の成分が含まれているから安定した水が存在できるのである。火の成分が消滅すると無限に温度が下がり続け、絶対零度の存在も不可能になる。地球の陸地も土そのものであるが土の成分だけで成り立っているのではなくて火・水・土の成分が一体となって地球全体が最適になっている。
そして物質を構成する微小単位の分子・原子・原子を構成する原子核と電子・素粒子・さらにすべての存在は最小単位に至るまで火・水・土の成分で成り立っている。それで原子の中で最も火の成分が強力なのが酸素・最も水の成分が強力なのが水素・最も土の成分が強力なのが窒素である。
そうして物質も肉体も現界において生きている状態で生命がある場合は、霊と一体になって存在する。霊は火の成分を主として水と土の成分を従とし、物質と肉体は水と土の成分を主として火の成分を従としているが、この両者は一体となっていないと現界では存在できない。だから個体である物質や肉体から霊が離脱・分離した場合は、現界においては死の状態であり、生命がなくなったので霊は意志のある気体として存在するのである。
そして霊が抜けた物質や肉体は通常では原子にまで分解される事ができ、肉体の場合は液体の水分は蒸発し骨や肉は腐乱して分解されカルシウムや窒素等になって土壌に吸収されるが、特に超高温で燃焼すると気化してほとんど二酸化炭素になる。
また植物や生物は火・水・土の成分を常に太陽光線・空気・水・食物・土そのものから呼吸や飲食によって吸収しながら生きるのである。このように火・水・土の成分が三位一体となってすべては存在し、存在を構成する最小単位でもあるが、火・水・土は成分だけではなくて仕組みや働きにおいても理想の状態を構成する要素である。
それで大宇宙では太陽は火・月は水・地球は土であると同時に、火・水・土が三位一体となった理想状態が地球であり、地球を最高度に快適な住居にするのが神様の目的である。
また人間にとって、神様は火・先祖の霊は水・現界の人間は土であると同時に、人間が神様にとって最高度に快適な体になるために火・水・土の三位一体によって理想状態にするのが神様の目的である。だから地球と人間を理想状態にするために一切が存在し法則があり、御神業が仕組まれているのである。
詳しく説明すると、神霊界は火・人霊界は水・現界は土で、さらに、理想状態になると太陽神界が火・太陽神界以外の霊界は水・現界は土であると同時に現界が火・水・土の三位一体による最高度に快適な神世界となるのである。
人体では頭は火・胴体は水・手足は土、胴体内では心臓は火・肺は水・胃は土、血液では赤血球は火・白血球は水・血小板は土、肝臓は火・腎臓は水・腸は土、おしべは火・めしべは水・実は土であると同時に火・水・土三位一体の理想状態であり、精子は火・卵子は水・受精卵は土であり火・水・土三位一体の理想状態で出産となり成長し活動するのである。
経済では商品は火・代金は水・お客様は土、会社では経営者は火・社員は水,株主は土、政治では大統領は火・政府は水・国民は土、心は火・言葉は水・行動は土であり三位一体、魂は火・心は水・念は土、幽体は火・霊体は水・肉体は土で三位一体、魂は火・霊は水・肉体は土、喜は火・肉体の水分は水、・肉体の水分以外は土、神様の教えは火・人間の法則や制度は水・人類の実生活は土、自然界の法則は火・人類の営みは水・地球全土と一切の存在は土、内閣は火・議会は水・役所は土、家庭では家計を支えているのが主人で火・主人の補佐が水・家族は土、樹木では幹は火・枝は水・根は土、木の実や草の実の果実は火・菜っ葉は水・根菜やイモ類は土、果実では種は火・果汁は水・果肉は土、栗等の木の実は火・果汁でできている果実は水・米や麦等の主食となる実は土、知能は火・知識は水・知恵は土、直感は火・霊感は水・五感は土、神力は火・霊力は水・自然力は土であり三位一体が絶対力、神は火・観音(弥勒) は水・メシアは土で三位一体、神界は火・幽界は水・現界は土、御神業においては神(神の働き)は火・観音(観音の働き)は水・永遠の幸福を求める者は土、神様と一体の私は火・取次者は水・神様に魂がつながっている者は土、創造は火・破壊(調節) は水・理想状態(完成)は土、目的は火・過程は水・目的達成は土、教えを説くのは火・教えを実行するのは水・教え通りに実現するのは土、空気を吸うのは火・水分を飲むのは水・食物を食べるのは土、幸福化の成分である御霊光を体内に取り入れ吸収するのは火・生存上必要な空気等の気体を体内に吸収するのは水・生存上必要な飲食物を休内に取り入れるのは土、母屋においては神様を祀ってある所は火・先祖を祀ってある所は水・寝室土、住居では寝室は火・台所や風呂場やトイレや作業場は水・居間は土、最高(陽)は火・最低(陰)は水・最適(和合)は土、等すべては火・水・土の成分や要素や組み合せや働きになっていて成り立っているのである。
P68-70 表<<火・水・土の原理>> (文章と同じことを言っている 省略)
すなわち火は縦に燃え上昇するエネルギー源の働きである。だからすべての中心であり、中心のエネルギーが強いのは火の働きが強力な訳で、強力な火の働きは渦巻を起し中心へ引き寄せる求心力が発生する。そして不変で絶対の火の働きはすべての基準であり法則となる。また水は横に流動し隅々まで拡充して、あらゆる状態に応じて変化する働きである。だから水の働きは中心から外へ外へとエネルギーを発散・放出させ、浸透し下降するのである。土はすべての土台であり、成果であり、結果であり、現実である。
そうして火の働きである求心力は時計の針と同じ方向に回転し、火の働きを主とすると統一力が発生し、水の働きは従となるから火の働きの法則を基準として拡大・発展となる。だが水の働きは時計の針とは逆回転であるから、分裂と放出と混乱によって破壊作用が発生する。したがって火は主で法則であり、水は従で法則に従って変化し拡大し、上から下に至るまで浸透しながら目的に向かって運動・進行する力となり、土は目的の完成であると同時に火・水・土の三位一体による理想状態の実現である。このようにすべて火・水・土の原理に当てはまっていれば理想状態は実現するのだがそのためにはすべての根源となる絶対で永遠である火の働きの存在が不可欠である。
つまり火の働きの根源である太陽神が中心であり、太陽神の成分である御霊光と自然界の法則で神様の教えである幸福の法則を統一の基準として、火・水土の三位一体の神世界は実現するのである。
■批判■
(批判文は現在執筆中)
言霊 (72)
天体や植物や動物を含めた自然界のすべての存在には音声があり、音声は意志と一体となっていて結果を生み出している。例えば風は空気による音声で空気を清浄にするという結果を生み出す。破損や変形や移動という結果を生み出す。石や木や金属等の物質と物質との衝突による音声は物質の破損や変形や移動という結果を生み出す。そして生物の音声には意志や情報の伝達という生物特有の働きが加わり、それによる結果が生み出される。さらに人間においては音声は文字と言葉にして伝達と記録ができ、人間の文字と言葉自体に意味と働きがある。
自然界のすべての音声は言霊であり、言霊は意志(心)と音声(言葉)と結果(行動)によってできていて、地上では生きた人間の言字が最も強力な働きを持ち人間は言霊と共に活動している。
魂と心と体の階級と境遇が高度であるほど言霊の働きは強力で、自分や他人の運命を誘導する力がある。だから例えば会社経営者が社員に「クビだ」と言えばその言霊の働きによって社員は会社を解雇されて失業する運命になり、裁判官が「死刑」と判決を下せばその犯罪者は処刑されて生命を失い、国家の独裁者が「戦争だ」と言えばその言霊は戦争を発生させ多数者の生命と財産を奪う結果となる。また神様と一体化した神人の言葉はマイナスを消滅しプラスを生み出す言霊となって躍動して、神様とつながった人間を永遠の幸福へ誘導する力がある。
そして神人の言霊は御霊光そのものであり、文字からも言葉からも御霊光が無限に発生していて、神人が書いた文字やそれを印刷した書物を読んだり神人が話す言葉を聞いたりする際に御霊光が体内に伝達され、さらに周囲全部に御霊光が遍満するのである。
したがって言霊の働きとは言葉による結果であり、音声だけでは一瞬にして消滅する極稀薄な存在なのである。だからマイナス人間にとって感じの良い言葉だから良い言霊ではなく、感じの悪い言霊だから悪い言霊なのではない。自分にとってプラスの結果をもたらす言葉であるほど良い言霊で、不幸になる人間は不幸をもたらす言葉を快く感じ、それを信じて実行するのである。不幸をもたらす言葉は信じさえしなければ不幸の言霊作用は発生しない。
不幸をもたらす言葉とは無意味で無価値で実体がないものを、人間にとって重要な価値があり幸福の要素であり善だとする言葉で、価値があり幸福の要素であるものを無価値で非人道的とするのであるから、信じた者は幸福にはなれないのは当り前である。現在の人間は毒素によって異常化しているし神様の教えを知らないから、不幸の言霊作用がある言葉と幸福の言霊作用がある言葉とを、日常生活で多く使っている言葉の中で重要なものについて言霊の意味と働きを、ここで私が詳しく説明してみよう。尚今まで私が説いたものについてはここでは省略する。
それではこれから一つ一つ言葉を具体的に列挙して、言霊およびそれに関連した事柄について解説していく事にする。
1.自由
自然界には完全な自由は存在しない。自然界の法則によってすべてが成り立っているから、人間には幸福になる自由と不幸になる自由があり選ぶ自由だけがある。幸福になる自由は幸福の法則による生き方が決まっていて、不幸になる自由も不幸の法則によって生き方が決まっている。だから自由という言葉は無意味で空虚であり、人間は自然界の変化に応じて常に自分の運命を自分で選んでいる。
でたらめや無秩序は自由ではなくて自由な行動に見えて錯覚しているだけで、その結果は法律や個人的復警による強力な拘束や制限を受けたり、病気や貧乏や争い等の苦しみや不幸による不自由となる。
したがって自由という言葉の言霊作用は、存在しないのに存在するとしているから欺瞞とと嘘による異常化であり、信じると毒化作用による不幸化が発生する。悪魔は暴力による破壊や犯罪や不幸を生み出す行動を正当化するために、自由という言葉を発明したのである。
2.偶然と特別
自然界はすべてが完全な法則によって運行していて、そのものの価値に応じた境遇になっているから偶然と特別は存在しない。ただ人間は偶然のように感じたり不公平で特別のように感じたりするだけである。もし一つでも偶然と特別が存在すれば、自然界の法則は存在しないのであり、同時に自然界の法則の中の幸福の法則も存在しない事になるから、人間が自然界において永遠の幸福を実現する事は絶対に不可能である。
だから人間が偶然や特別だと判断するのは異常であり、自然界の法則は完全であるからすべての出来事や存在や運命は当然の結果である。
神世界においては永遠の幸福であるという事は、幸福の法則を生きる基準にして神様との取引による当然の結果であるから、偶然や特別という言葉は全然使われないのは勿論である。
3.善悪正邪
善悪正邪は動機や過程ではなくて結果である。結果が良ければ善であり正義である、が、結果が悪ければ思であり邪となる。勝った者が強者であり勝者は善であり正義であり、負けた者は弱者であり敗者は悪であり邪となるのが自然界の法則であるから、より不幸や苦しみやマイナスが大きいほど悪で邪となり、より幸福や楽しみやプラスが大きいほど善であり正義である。だから永遠の幸福者は永遠の善人であり永遠の正義となるのは勿論である。
したがって今までの人間が考えて作った道徳や宗教による善悪正邪は全部嘘で間違いであり、人間は「良いか悪いか」「正しいか間違いか」で行動するのではない。人間は「好き嫌い」で行動し、人間は自分に関するすべての事柄を好きか嫌いかで判断するのである。だが異常化して運の悪い不幸な人間は自分にとって損でマイナスで不幸になる方を好んで求め、自分にとって利益でプラスで幸福になる方を嫌う。反対に正常で健全な幸福者は自分にとって利益でプラスになる方を好んで求め、自分にとって損でマイナスになる方を嫌って拒否する。
以上によって善悪正邪は結果であるから、生きる基準や判断の基準にはならない。 人間にとっては「得か損か」「プラスかマイナスか」で判断するのが最適である。だから人間の一時的計算や気まぐれでできた善悪正邪を判断の基準にするのは人間の本能が求めないから無理であり、人間を偽善にする作用があり、表面上は無理して良く見せ内面はその無理の反動で悪化し異常化するのである。このような偽善者は常に他人の善惑正邪を語り、他人からの自分に対する評判を異常に気にするため、常に他人に良く言われ良く思われたがって表面では偽装して「いい人」になっていて裏では他人の欠点や間違いばかりが気になり、次第に自分にだけ都合の良い理由をつけて自分のマイナスの行動を正当化するようになり遂には表裏を巧妙に使い分ける一人前の偽善者になる。
こういう人間は何時暴露して犯罪者になるかわからないし、表面上は人間的善人に見えるから油断すると何時だまされるかわからないので危険である。表面上いかにも危険人物に見えれば誰もが避けるが、表面上がよく見えると、油断して接近するから、むしろ危険が現実のものになる可能性が高い。
また愚人の善とは悪い事をしないのと世のため人のために尽す事だから、自分の幸福を求めていない。そして子供に対する教えも「他人に迷惑をかけるな」とか「悪い事をするな」等と当り前の事であって、こんな教えだと当り前の事が特別立派な事になってしまうからヽプラスを生み出す事は至難の業であり到底幸福にはなれないではないか。幸福とは自分にとってプラスの成分がより多大である事であり、マイナスでない0の状態だと極わずかなマイナスが発生してもマイナスの状態となり不幸になるのだから、プラスを増大させてより高度な幸福を求め続ける事が正常で、健全な人間にとっては通常で当り前の本能の欲求である。
善悪正邪の観念があるのは今まで人間が異常で不幸だったから、悪と邪である事が普通であり善と正である事が特別であったためで、神様とつながる事ができなかった人間にとっては、マイナスを生み出さないという教えが精一杯の限界で最大限の善であり正だった。しかし私を通じて神様とつながる事ができる人間にとっては、自分が幸福になる事が当然の欲求であり、永遠の幸福者となれば幸福が普通であるから善と正も普通で悪と邪は到底あり得ない事である。だから「良い事をした」という観念もなく、プラスを生み出す事も普通で当り前になるのである。
4.戒律と修行
戒律と修行は今までの宗教や信仰集団における主な要素であるが、どうすれば幸福になれるのかが全然わからなかったので、できるだけ不幸の要素(マイナス)を発生させない事しかできなかったために、外部からは戒律によって内部からは修行によって欲望等を制限あるいは禁止しようとしたのであって、それが人間の理想状態(幸福)を実現する唯一の方法と信じて実行したのである。
それで今までの人間は何等かの宗教や信仰に所属していて、先祖代々から子孫に戒律と修行の教えが浸透しているからどうしても「苦労しないと幸福になれない」とか「苦しみは自分の罪を消滅するために発生する」とか「他人の苦しみを背負う事は最高の善だ」とか「苦しむのが善で楽しむのが悪だ」等の異常な精神から脱出できないのである。
苦労は苦しみで苦しみはマイナスで不幸の要素だから、苦しみが多いほど不幸の要素も増大してより一層の不幸の状態になるに決り切っているではないか。もし苦しみによって罪が消えるとすれば、だんだん苦しみも消える筈である。苦しみが増大するのはその「罪」とかも増大している訳で、こんな単純な道理もわからないとすれば、その人間の頭脳は異常というよりも最早脳死状態といった方が最適である。
今までの戒律とは「○○してはいけない」「○○するなかれ」という禁止だけだから、いくら恐れさせても効果は一時的であり無力に等しい。だから戒律は「守る」という訳で、法律や掟と同じで守らなければその集団や組織が成り立たないので、守らせるためには戒律や法律や掟を破った者に対して罰を与えて懲らしめなければならない。
しかし実際にはいくら罰しても次から次へと破る者が出て来るのは、人間の本能から発生する欲望を「してはいけない」と禁止するのは無理だという証明である。だから守らなければ成り立たないものではなくて、その通りに実行すると健康・富裕・良縁等、あらゆる連が良くなって幸福の要素が増大するものであれば守る必要はなく、素直に実行しなければ損だという事になる。
人間の本能はより高度な幸福を求めていて、幸福とは自分の利益やプラスになる事が永続する事であるから、永続する幸福が実現するものであれば人間の本能が求めるのである。
しかしその幸福実現は好意や善意によるものであってはならない。それは好意や善意は一時的な気まぐれで不安定で不確実なものだから不変の法則ではない。永続する幸福を実現するのは永久不変の法則によるものでなければならない。またその法則は単純で誰でも実行可能なものでなければ意味がないのは勿論であるから、その法則は自然界の法則でなければならない。そして自然界の幸福実現の法則を実行すると自然界の好意や善意で幸福になるのではなくて、自然界との取引によって幸福が当然の結果として実現するのである。自然界は神様によって造られ、神様をエネルギー源としているから、自然界との取引とは神様との取引であり、神様の利益と人間との利益が一致して釣り合えば永続して取引は成り立ち、その結果当然の幸福が永続するのである。
したがって永遠の幸福者には無理して守らなければ成り立たない戒律や難行苦行の苦しむ修行は不必要である。永遠の幸福者にとっての戒律と修行をあえて無理矢理に作るとすれば「苦しんではいけない」という戒律と、「幸福を楽しむ」という修行である。
この世に生きている期間に可能な限り幸福を味わい、喜び楽しむために人間は生まれたのである。
5.説教
説教とは戒律を守らせるために考えたもので、善悪正邪を説いて教える事だが人間の善意や好意という当てにならない気まぐれな感情に訴えるもので、本能では全然求めていないのだから説教は一時的効果でしかない。
だから説教の効果を高めるには、説教者自身がその説教の実行者であると同時にそれによって良い結果になった事を証明しなければならない。そうすると説教効果は大きいのだが、説教効果がほとんどないのは説教している者からは良い結果になる事を証明できないからである。
この点は説教だけではなく、すべての教えについても同様で教えはそれだけでは価値と効果を発揮できない。教えとそれによる結果が一体となって正確な価値と効果を発揮する。つまり結果が教えを証明する裏付けとなるのである。結果とは人間の五官で把握できる形や行いであり、実体のある結果はすべて何等かの数値で表す事ができ、それによって自分にとってどのくらい利益があリプラスになっているかが正確にわかるのである。だからプラスの結果の裏付けがない教えや言葉には、言霊によるプラスの作用が発生しないから、現実のプラスの成果にはならない。
例えば親が子に説教する場合、親の行いと運命が不良でマイナスでは効果がないのと同様に、教育者や指導的立場にある者や説教者は、最低でも説教する相手よりも優良で好運でなければプラスの成果を生み出せないのは当然である。現在の人間は毒素と間違った教えによって程度の差はあっても皆異常化しているから、他人を指導するどころではない危険人物ばかりである。 したがって人間とのつながりは、互いの利益が最適値で釣り合う取引関係でないと互いが最も快適なつながりを永続できない。
そうして人間とのつながりは取引関係で成り立っている以上、「善意」や「好意」やそれに属する「感謝」や「大事にする」等、普通の事を特別に価値ある事にしてしまう言葉は、全部偽善の作用があるから評価できないし無意味で無価値であり、それらは全部互いの取引材料の中に入っているものだから、取引関係においては全部当然で当り前の事で何でもないありふれたものなのである。
6.神と仏
「神」は「かみ」で、「か」は火・日・霊・生命エネルギー・陽・タテ、を表し、「み」は水・月・肉・物質・陰・ヨコを表す。したがって「かみ」の言霊は火と水・陽と陰・霊と肉(物質)・タテとヨヨが結合し結んだ形と働きがある。さらに「か」と「み」が結んだ中心の一点が「神」の本体で生命エネルギーの根源であり、最も理想の神の状態をあらわす形であり、文字にすると「|」はタテで「−」はヨコで結んで「十」となり。プラスの形で、その結んだ一点が中心であり核になる。
だから霊は物質界の現界では零の存在で0で表すから、「神」は霊だけの存在では現界において理想の力と働きを発動できない。 現界では生きた肉体を有していないと、人間界において神の力と働きができないから「神」の存在は0になる。0とは現界にあらわれていない状態であり、現界では「神」とは生きた人間の容姿と体を有して神の力と働きをあらわす存在である。
「仏」は「ほとけ」で、霊が離脱して生命エネルギーが消滅した肉体・物質・存在を表し、「かみ」がタテとヨコの「むすび」であるのに対して「ほとけ」はタテとヨコの「むすび」が「ほどけ(る)」形と働きをあらわす言霊である。だから「ほとけ」は「ほどけ(る)」で物事がバラバラに分裂してまとまりを失う意味があり、人間においては一体化していた霊体と肉体が「ほどけ」て分離すると死体となり「ほとけ」という。また死体には「か」の言霊であらわす霊の成分と生命エネルギーが絶無だからタテの形と働きも絶無となる結果、、立って活動しなくなリヨコだけの形と働きになるから横になって寝たままで、「み」の言霊だけになり「身」は「水」になる。
すなわち「神」は十で「仏」は−が言霊解釈である。
7.魂
「たま」と「しい」が一体となって魂であり、現界では生きた肉体と一体である。「たま」が頭(あたま)になり、「しい」は首から下の肉体全部になるが、「しい」の根幹は脊髄を主として腰・腕・手・脚・足等の胴体の骨格となり、神経と血管が無数に張り巡らされていて、内臓と肉が躍動している。
「たま」と「しい」には別々に活動するのではなくて総合体で、「たま」と「しい」によって肉体が完成し機能している。そして「たま」は玉で球体を表し、しい「し」の形を長く伸ばした状態のもので、「しい」の先端が「しっぽ」で、この「ぽ」は体内からのガス等の放出を表している言霊である。
そして「しい」の「し」はタテに伸び、「い」はヨコに伸び、尚且つタテとヨコヘの移動・運動・躍動を表している。また「たま」と「しい」のつなぎ目はクビれているから「くび」であり、さらに「しい」の「し」は胴体の中心線の脊髄部を表し、「い」は「し」を中心とした左右を表して左右対称ではあるが右利きを表しているから、「い」の右(向かって左)側の方が発達して力強い形と働きになっている。
これが「たましい」の言霊の雛形図である。この中の「たま」の中心には核があり、核がエネルギー源で「たましい」の種であり最小の雛形になっている。これを「ヽ」すなわち「ちょん」で表し、これを図にすると(○の中にヽが入った絵文字)で「○」が「たま」全体で「ヽ」が核で種である。そして「ヽ」が「たましい」全体を理想の体・理想の境遇・理想の働き、すなわち理想状態にする時点で、「ヽ」は「たましい」の中において最高最貴の位置と境遇と働きを持つ最高最貴の存在になる。
「たましい」の中で最高最貴となった「ヽ」は種であると同時に「主」(この場合「しゅ」「ぬし」「す」と三通りの読み方をする)の存在となり、「たま」は玉の形で主の働きとなる。したがって主の働きとなった「たま」、すなわち前図の(○の中にヽが入った絵文字) は「玉」ではなくて「主」(この場合は「す」と読む)である。自然界も人間界も人間もあらゆる存在も理想の状態が「 」であり、理想状態の自然界・人間界・人間の総合体が神世界であるから、神世界は「 」の世界であり、神様の教えは「 」の教えであり、神様は「 」の御魂であり、理想状態においてはすべてが「 」の雛形になっている。
そうして「 」の中心点である「主」は一点で、この「主」の一点が全体を統一し理想の総合体を形成するエネルギー源である。したがって神世界においては、一人の神様と一つの教えを中心点の「主」として、 一つの理想世界が永遠に続くのである。そして中心点である「主」は、人体において家庭において企業において国家において世界において自然界において大中小の規模の中において、最高最貴のエネルギー源で最高最貴の働きで最高最貴の存在である事によって、理想の最小雛形図である「 」になる事ができるのである。
8.東・西・南・北
東は「日頭」で日の出を表す言霊で、これから陽気・プラスの連気・活気が勢いを増して上昇し旺盛になる意味があり、若さ・活力・生命力・勢力が漲って躍動する方位を表している。だから活動と同時に朝日を浴びたり、朝日が充分に入る家にするのが良い。
西は「日沈む」が「にし」となり日没を表す。西は陽気や活気の躍動は止まって陰気になり、今までの活動で生みだしたプラスを物質にする方位を表し物質は現金や財産等のお金に変化するから、金運と財運が躍動している。だから日没直前の夕日を浴びると陰気になるから、家の西は夕日が入らないように壁にして、西には金庫を設置してお金を入れ納めるのが良い。
南は「皆見る」が「みなみ」となり、最も明るく最も良く見える意味を表す。だから家の南は明るくて見晴らしが良いのが最適である。
北は「気足る」の言霊で、気力の充実を意味する。そして人間の気力が最も充実しているのは睡眠時であるから、睡眠時は頭を北の方位へ向けるのが良い。さらに北は自然界では寒冷の気があるから頭に適し、南は温暖と熱の気があるから足に適している。だから頭を北に足を南にして寝る北枕は、生きている人間にとって最適である。
9.日本
日本は「にほん」「にっぽん」「ひのもと」「ひほん」「じつほん」「じっぽん」となり、「日」は「 」が変化した文字であるから「日本」は「 の本」になる。だから「日本」は地球世界の「 」の中心となる言霊雛形である。さらに「日本」からは、 「 」の中心点である最高最貴の「ヽ」すなわち「主」が出現して、「主」の最高最貴のエネルギーによって地球全上が神世界になるのである。
しかし「にほん」の音では、「二本」で「一本に統一できない」と「二つに分裂する」との言霊の音による暗示誘導があり、 「二」は「一番の次」の意味があるから「一番にはなれない」暗示誘導と、「二」は現界において「一」から始まる数字の一時的過程を表すから目的の途中の未完成で不完全な状態の暗示誘導がある。
そうして日本に出現する「主」の最高最貴の御座所は富士山の頂上であり、「富士」は「不二」と「不死」でもあるから、「統一」と「最高最貴」と「永久不滅」を表す。また富士山は「芙蓉の峰」ともいいこの「芙蓉」とは「蓮の花」で「蓮華」であるから富士山は「蓮華台」になる。「蓮(の花)」は「はちす」ともいい、「はち」は「八」で富士山の雛形で「八」の頂上は平らであるのは、富士山頂が小規模な平らな土地になって「主」の永遠の御座所になるためである。「主」の最高最貴の御座所は「主座」であり、富士山頂以外の御座所は「玉座」という。
したがって神世界においては「主」の最高最貴の力によって、主座の「主」を中心点として地上の八方へ永遠の幸福が波及して拡充するのである。
10.高天原
「高天原」は「たか・あま・はら」と「たか・まが・はら」の言霊では全く反対の意味と働きになる。「たか・あま・はら」は神様と自然界が造った特定の場所ではあるが、現界に神様が出現して幸福化しなければ神様の御座所としての意味と働きにはならない。つまり,「 」になると同時に「高天原」は「たか・あま・はら」になるのであり、「 」は神様とつながって実現する。
「高天原」は人体にも家にも地域にも企業にも国家にも世界にも、大中小・上中下のありとあらゆる場所にできるのである。人体の「高天原」は頭の中心部(額の奥)と腹部の中心部(臍の奥)の二か所で、頭の中心部は「天の高天原」、願の中心部は「地の高天原」になっている。地球は大宇宙の「高天原」、日本は地球の「高天原」、富士山は日本の「高天原」になっている。そして神様とつながっている場所はすべて「高天原」であると同時に「たか・あま・はら」になっている。したがって神様とつながっている永遠の幸福者は完全健全体で、神世界は完全健全体の人類でできた理想世界であるから、すべての「高天原」は「たか・あま・はら」であり、神様の御座所になる。
しかし現在はほとんど全部の人間と人間界が悪庵とつながって毒化・悪化・異常化しているから、「高天原」は「たか・まが・はら」になっている。だから「たか・まが・はら」の「まが」は「曲」・「禍」・「魔が」の文字が本当で、悪魔とつながる事を表す言霊である。
11.数
「数」の「か」は「プラス」を表し、「ず」は「マイナス「は「プラスとマイナスの結果」を表すのである。だから結果はすべて「数」に表す事ができ、「数」は「数字」になって表れるから実体のある結果は「数字」にできる訳で、「数字」にできない結果は無意味で無価値である。
そうしてすべての「数」は「0」と「1」で成り立っているのは当然だが、「数」の言霊は「数字」の意味と働きだけではなくて言葉と同様の言霊作用がある。「1」から「9」までは現界の存在で、「0」は現界の形には現れない状態だから全く存在しないか、あるいは形には現れないが永久無限のエネルギーであるかの言霊である。
「1」は最初の存在と唯一無二の存在と統一を表すが、次の世代につながらない「1」は一時的で永続しない「1」だから、やがては「0」(消減)になる運命を表す。
「2」は「1」が分裂した場合と「1」と同じ「1」が生み出された場合がある。「1」が分裂して「2」になった場合は「数」だけであり、実際の内容は「1/2」が「2つ」になった訳だから、エネルギーを消費して同じ内容という事は、エネルギーを消費した分だけはマイナスになり、実体はマイナスである。しかし分裂後の「2つ」の「1/2」成長して、内容が「2つ」の「1」になった時点で「数」と内容において正常で健全な「2」となる。したがってすべての「数」において、内容が分裂して「数」が増加しても、内容がプラスでなければ経費の分がマイナスになるから、分裂する前の「数」よりも実質的にはマイナスの「数」になっているのである。尚「二」は「天と地」を表す形になる。
また「1プラス1」による「2」においても、その「1」と「1」が対立して互いに敵として相手を消滅させようとすれば、その「2」は内容がマイナス化しているから実体は「2」以下の「数」になっている。最低限でもエネルギーを消費して対立する分だけは、確実にマイナスとなっている。だから永続して「数」が内容と共に増加するには、「1」と「1」が最適値で釣り合う取引関係であり、取引によって永続してプラスを生み出す事である。
「3」は「2」を構成している「1」と「1」との取引によって発生した「プラス1」を加えた「数」であり、「3」が最小単位の完成を表している。何故なら「1」と「1」との取引成立によって結果である「3」が生まれたのだから、「3」以上の「数」は取引によって永続してプラスが発生する結果として生まれるからである。そうして「3」は「火・水・土の原理」による永続するプラスの発生と永続する回転や循環を表し、永続して成り立つ事が可能な最小の「数」を表す言霊である。また「3」は「三」でもあり、「三」は「天と地を表す二」の中に人間界が発生した形であるが「三本ともヨコ棒」で「ヨコ」は「み」の言霊でもあり、「み」は水・肉体・物質・陰の言霊作用がある。「み」の言霊に対する「か」の言霊は火・霊・陽を表し、「か」の言霊作用の「数」は「5」である。「5」の「ご」の音は「火力の上昇」を表し、「いつ」の音は「一」と「厳」と「稜威」で「最高最貴の一点」及び「最高最貴のエネルギー源」、すなわち太陽神である「主」を表す。そして「主」の文字はヨヨ棒が三本と、その中心をタテ棒が一本貫いて、天と地との間を「+」に結んで地上に「+」を実現している形で、その頂点に最高最貴の「ヽ」 が最高最貴の御座所にあってすべてを統べる形になっていて、ヨコ棒三本とタテ棒一本と「ヽ」で合計「五」であり、「五」は「玉」の「ヽ」がつながった形で、「玉」は「ヽ」が最高最貴の御座所から地上界(人間界)に降臨して応身の働きによって活動しているのを表している。
したがって「5」は「か」で「3」は「み」で、地上に出現する「かみ」は「5と3がタテとヨコに結んだ+」によって「8」の「数字」で表す。「8」には太陽神から無限のエネルギーが「天と地」「頭と体」「たま・しい」の上から下まで、満遍なく隅々に至るまで永遠に循環していて、理想の状態が永遠に無理なく自然に成り立っている形と働きを表す言霊雛形である。だから神様が地上界に出現して活動するにおいては「8」と「八」の数字が付いて回る。
そして最高最貨の「ヽ」が地上に降臨する際は人間界の底辺の境遇から次第に上昇して最後は地上界の最高最貴の「主」の存在となって主座に安住するのだが、これは「鯉のぼり」と「桃太郎」の話が雛形になっている。「鯉」も「桃太郎」も底辺の境遇から上昇し成長して、「鯉」は出世して最後は極限まで昇りつめて「龍」に変化して「天の位」に達し、「桃太郎」は成長してマイナスの世界をプラスの世界にしたのであり、どちらの話も最後は「主」となる訳である。地上界に下った「ヽ」 は池の水面に落とした小石の波紋の輸が最初は一点であったものが次第に池全体に波及するように、人間界において最初は一点の御神業を生み出したのが結局は世界全土に拡大するのである。外へ外へと波紋の輸が拡大発展する形は「八」になる。
地上界(現界)における「1」から「9」までの「数」で「8」は地上界が永遠の神世界になっている形であり、人間が完全健全体となって永遠の幸福者になっている形で最も快適な理想状態を表している。しかし「9」と「九」は「極まった状態」を表す「数」だから、 一時的に無理して何等かの頂点を極めても、プラスのエネルギーの永続する回転と循環が無理なく自然に行われていなければ、「9」と「九」の次に待っているのは消滅を表す「0」の「数」であり、「0」ですべてを失うのである。、「9」は下からエネルギーを吸収してそれを消費しながら上昇するだけの形だから、上昇を極めて「0」になる形であり、「九」は無理して時計の針とは逆回転する形で無理によって極まった後に分解する運命を表しているのである。そして「0」は消滅を表す以外に、無限小を表す場合と無限大を表す場合があるが両方の「0」を結んで成り立っているのが「8」であり、無限小から無限大に至るまで永久に循環しているのである。無限のエネルギーを表す「0」は桁を生み出して、「1」・・・「10」「100」「1000」…という「0」の増加による無限増を表し、消滅を表す「0」には現界において形を有する存在がどんなに巨大なプラスでもマイナスでも一瞬にして消滅するエネルギーの形と働きである。尚、「あ」は「最初」と「発生」を表し、「ん」は「最後」と「消滅」を表す言霊である。
以上が主な言霊の説明と解釈である。、言霊は音声や文字・数字による形だけで実現化作用が発生するのではなくて言霊を発する人間のレベルに応じているから、より健全で幸福な人間ほど言霊作用はより大きいプラスの結果を誘導し、異常で不幸な人間ほどマイナスの言霊作用の発生となリマイナスの結果を誘導するのである。
したがって現界に出現した神様が最高最貴の中心点になった時点で、自然界のすべての言霊は最高度のプラス作用を発生し、神様の言霊は最高最貴の御霊光となって躍動するから、毒素やマイナス成分は瞬間に消滅して清浄化し、人間も人間界も健全化して、永続するプラスの結果だけが実現するのである。
だから神様とつながっている言霊は神様と共にあり、神様の働きをする訳である。
■批判■
(批判文は現在執筆中)
美の法則(101)
神様が求める快適さの最大の要素は美であるから、自然界はより高度な美を実現するために躍動し、すべての存在は美を実現し永続させるための要素になっている。だから植物・動物・生物・水・空気・水・光等それ自体が美しいものと、美しくするために必要なものがあり、それらの要素の組合せや調和は神様の美意識が基準になっている。それで生命体では人間が物体では地球が最も美しく、美の極致なのである。
神様が理想とする美の極致を実現するのは地球全土と人間においてであり、特に人間さえ美にすれば自然界はすべて最高度の美になるのである。人間の美とは容姿だけではなくて頭脳を含めた体内の美であり、体内に毒素や苦悩があると異常な心と言葉と行動になり、体内の機能や体型や顔も異常になり醜い状態になって美ではなくなる。だから体内を美にして完全健全体とすれば、自然に神様の美意識を基準にして高度な美の心と言葉と行動となり、容姿も理想の美を実現し、美術品・芸術・芸能や、建築物・衣服・飲食物・庭園等や、政治・経済・宗教等人間に関するすべての事柄が理想の美へと変化するのである。
自然の法則の中にはすべてを最高度に美しくする法則があるから醜も美に変化するのだが、それには私が説く幸福の法則を素直に実行するのが条件である。もし美に変化できない醜が発生すると、自然界はマイナスだけの存在であると判断して破壊による消滅へと誘導するのである。
そして理想美を表現した人間が造る人工の美と自然が造る美が最高度に調和して神様が求める美が実現し永続するのである。さらに付け加えると、神様の御霊光には理想美の実現を促進させ迅速化する力があるのは当然である。
■批判■
(批判文は現在執筆中)
合理(合利)の法則(1)自然界 (103)
合理とは道理や理屈に合うと同時に割に合う利益を生み出す原理であり、利益とは生み出した成果から時間・労力・お金という経費を差し引いたもので、プラスが大きいほど割に合う利益であり、自然界は合理の法則によって運営され絶対に利益を生み、絶対に損をしない。
しかも自然界では、一つの働きだけをさせるためにわざわざ存在させているものは何もない。すべての存在と現象は一つの働きからなるべく多くの利益を生み出す事が合理であり、より能率と効率を良くする事で最低でも一挙両得以上で二重二重以上の成果が永続しているほど、高度で理想の合理である。
例えば死骸は自然界においてはゴミであり、汚物であり、醜い物であり、迅速に消滅する必要があるのだが、自然界は死骸さえ只では消滅させないし、ましてやわざわざ余計な経費をかけたりせずに消滅させている。死骸は付近の他の動物や微生物やバクテリア等の餌になって処理され排泄物になり、その排泄物は小生物の餌となり、次々とより小さい生物の餌と排泄物になる過程で、当初の死骸は分解され土に吸収され植物の養分となり、次々と永続するプラスの成果を生み出している。
また植物は太陽光線と水と土で生育し繁茂し、季節によって新芽・新緑・色取り取りの花・深緑・果実・落葉・冬枯れの美と同時に、あらゆる生物にとって美味な食料を生み出し、花が実になるための受粉も自然現象と虫が行い、蝶は花の蜜を吸いながら花粉を運ぶと同時に美しく舞う様子は美しい景色の要素になり、蜜蜂は花粉を運ぶと同時に美味な蜂蜜を蓄えている。そして実の中には必ず種が入っていて、一つの種からは多数の実が成り、種は自然現象と鳥獣類が餌として実を食べて排泄物と一緒に運ばれ分布する。
落葉や冬枯れや自然現象によって朽ちた樹木や植物は小生物以下の餌となり、排泄物となりながら腐養土となり良質の土を作り、そこへ雪や雨が浸透すると活性化しながら水は濾過され良い成分だけが豊富に含まれ、美味な地下水になり、河川から海ヘ流れる水の中の良い成分は魚の餌となるブランクトンや水中微生物を繁殖させるから、上流から下流の海に至るまで魚介類や海草が豊富に育ち品質も良くなる。
さらに樹木や植物が繁茂すると、土砂流出や風による砂ばこりや農作物の病害虫の繁殖を防ぐ事ができ、良質の地下水と河川の水量が豊富になると同時に空気・水・土が清浄になり、山や河川や海及び地球全体の景色が永遠に美しくなる。
勿論人間が最高度に快適でなければ自然界は無意味で無価値な存在になるから、原始人の生活が最適という訳ではない。
人間は自然界を最大限に利用して人間にとって最大限のプラスを永続して生み出す事が人間にとっての合理であるから、人間と自然界の合理は同一であり一体である
■批判■
(批判文は現在執筆中)
合理(合利)の法則(2)人間 (106)
完全健全体であれば人間も美の極致であると同時に合理の極致であり、人体は理想の合理システムになっている。
例えば食物は空腹になると美味に食べる事ができて消化と吸収も良好で、食物は体内で血液・肉・骨になり、体内では体を使う程度と酷使する体の部分に応じて必要な栄養成分が必要な分だけ造られる中だから血液を造るために生き物の血液を飲む必要はないし、筋肉を造るために肉を食べる必要もなく、丈夫な骨を造るために骨の成分(カルシウム)だけを飲食する必要は全くない。
牛や象と同様に人間も植物性の物だけを飲食すれば、体格もよく頑健な肉体になる。特に人間は米・麦・蕎麦・粟等の主食になる穀類を主として食べたい量だけ食べ、、野菜と果実と植物性食品を副食として主食より少量食べるのが最も合理である。
それは主食の穀類は毎日三食を習慣にしても美味に食べられるが、毎回同じ物を食べると飽きてしまって食べたくなくなる。主食の方は水と熱を加えるだけの簡単な調理で美味になり、しかも量が増えるから効率良く満腹になれる。
さらに主食の穀類は一粒の種によって収穫できる数量は数百倍・数千倍以上で、極度に効率良く生産ができるから一粒万倍ともいうべきほどであり、長期保存が簡単であるのも便利で飢餓の心配がない。
しかし、もし人間が肉を食べないと健康でいられないとしたら極度に効率の悪い存在である。植物なら土と水と太陽光線で成長するから収穫と調理の時だけの労力であるが、肉を生産するためには多数の動物を飼育するために植物に比べて莫大な時問と労力と経費がかかるから値段も高い。
また多数の動物が一か所で排泄する汚物は自然界では処理が追いつかないから、その周辺の土と水と空気を汚染し、悪臭・寄生虫・病害虫の発生源となり、草が少なくなり過ぎて土砂流出や砂漠化によって美観が損なわれ餌不足解消のため人間の食料を使ったり、人間の食料を生産する耕地を減らして動物の餌を生産する耕地を増やすために将来の食料不足の原因になったりする。
さらに肉類等の動物性食品は人間の体内に入ると血液を汚濁させ、毒化するので異常と苦痛の発生源になる。それで苦痛によって労働力・生産力が低下すると収入も減少し、苦痛解消のために医療や薬にお金をかけて毒素を増加させ一層悪化して、働けなくなって出費が増えて収入がなくなるとしたらマイナスが増大してしまう。この場合自然界は割に合うと判断すればマイナスをプラスに誘導し、割に合わないと判断すればマイナスを0に誘導するのが合理であり、0とは人体においては死で経済においては破産である。
したがって神様は自然界と同様に、プラス・利益・得が割に合えば人間に奇跡・良い成果・幸福を合理の法則によって与えるのである
■批判■
(批判文は現在執筆中)
すべては総合体 (109)
自然界のすべての要素は単独で存在しているように見えるが、実はすべての要素がつながり合って融合していて一体化しているので、一つの要素が他の要素と関係なく単独で存在する事は絶対に不可能である。大宇宙のすべての天体も無数の星のつながりによって成り立っていて、地球を最も快適な理想境にするために大宇宙のすべての天体が存在して法則通りに運行している。だから地球は太陽光線や昼夜や寒暖等が永続して最適なのである。また地球内の川や海や地下水等の水の循環、地下のマグマの循環、空気の循環、自然現象等は、すべて大宇宙と密接に関係し法則によって活動している。そして地球を構成している要素である動物や植物やあらゆる生物と水や土や空気やあらゆる物質等は、全部人間が最も快適であるために存在し、法則通りに作用し合って永遠に作動し躍動している。
人間も全身が一体で分離できないし、たとえ指の先の一点を破損してもその苦痛とマイナスの作用は心や全身に及び、毛髪や爪や一個の細胞や一滴の血液に至るまで全身とつながっていて、肉体を構成するすべての要素は一体であり、人体は総合体として活動している。そして人間が生きるためには総合体としての自然界と一体である事が必要で、自然界のどんな小さなマイナスも全体に作用し人間にも及ぶので、マイナスはどんなに小さくてもできるだけ迅速に消滅する必要がある。
勿論マイナスとはプラスに変化しなくて、毒化・悪化・異常化するものである。また人間界の大中小無数の組織や団体や企業もつながり合っていて、政治・経済・教育・芸術・医療・科学等も一体であり総合体となっているから、分離して単独では絶対に成り立たない。もし単独で成り立つとすれば、それはマイナスだけであるから破壊・消滅の対象である。
そうして地球上の全人類も、先祖をさかのぼると皆血のつながりがあり、現在においても人間界を構成する要素として全人類は何等かのつながりがあり作用し合っていて、大中小の国家間においても互いに密接な関係にある。
それで全人類が遺伝でつながっていて、性質・才能・容姿・運命等が次の世代に強力に直接伝達されるのだが、人間と自然界との一体化の作用で環境・境遇・収入・習慣等の外部の条件にて皮膚の色・骨格・容姿・性能等が変化するから、同じ自然環境で同じ地域に住み、同じ飲食物で同じ労働等であれば皆同様の体型や習性や雰囲気になって同化するのである。
だから遺伝の内容は遺伝子による肉体についての情報だけではなくて、先祖の運命や境遇や大地創造から今までの全部の情報に及び魂と心と体の健全度によって自分が利用できる遺伝情報で使命と運命が決まりそれがまた子孫に遺伝する。
そして遺伝は同時に伝染であり感染であるが、伝染や感染は病気だけではなくて、あらゆるマイナスやプラスの要素に及び、念や言葉や行動や癖や運命等も空気中を伝わって伝染や感染するから、感染者は真似をしたり擬態したりして、意識が同化すると生きる基準も同じになり同様の運命となる。
この場合の伝染や感染も魂と心と体の健全度に応じているから、感染源と感染者は同じレベルの人間という訳である。さらに伝染や感染は生きている人間同志だけではなくて、霊界からのもの、人間から自然界へのもの、自然界から人間へのものもある。だから霊界からの苦悩が現界全体や現界の特定の子孫へ伝わり、自然界の異常が人間へ伝わり、人間の苦悩が自然界へ伝わって天候や気候や自然現象を悪化させ、異常気象や天変地異の発生となったりするのである。
したがって総合体である自然界は、人間が永遠の幸福者になった時点で完成し、完成した自然界が神世界なのである。
■批判■
(批判文は現在執筆中)
大は小の集合体 (113)
無限大に等しい大宇宙は単独で存在するのではなくて無数の星の集合体である。星は物質の集合体であり、物質は原子の集合体であり、原子も極超微粒子の集合体で、さらに無限に微小の単位によって構成されている。
つまり無限大を含めて、あらゆる存在は無限に微小の単位によって構成され成り立っていて、微小単位であるほど誤差や狂いはないから正確で完全なのである。何故なら微小単位での誤差や狂いは集合体になって大きい単位になるほど拡大するので、製品になった時には正常に機能しなかったり、誤差や狂いの集合体になったりする訳である。
人間界の最小単位は一人の個人であるから完全健全体となって永遠の幸福者となった個人が増加して、家庭や地域や国家や世界に拡大して理想境を造るのであり、異常化した個人が増加して拡大すれば、その個人の集合体である家庭も地域も国家もあらゆる集団も異常化するのは当然で、制度や法律や規制によって大集団を健全化するのは不可能である。また企業の繁栄は株主や社員や経営者によるのではなくて、商品を買う一人の個人が最小単位である。
一兆円のお金も最小単位の一円が多数集合した結果でいきなり大きな金額が存在する訳ではない。
常に最小単位の集合体で成り立っている場合は次第に大きな成長となり、反対に常に少数の大きい単位によって成り立っている場合は成長力に欠けるから危険である。
だから事業を始める場合も小規模・小資本・小人数であるほど成長力があり、老若男女の個人を対象として商品は小額であるほど永続して現金収入が増大する。この反対の場合は商品が絶対必要な物で独占しているなら良いが、さもなければ確実に破産する。個人住宅の建設も同様で最初の一軒は最小規模であるほど資産は増大する。大旧需要家や大手企業からの大口注文や、大口顧客だけの最大単位の最少数顧客で成り立っている企業は廃業した方が良いほどである。
そうして損も得も小さいほど見逃さずに発見する事によって、大きい損に発展しないで消滅できたり、大きい得に発展する可能性が発生するのである。極小さい利益の集合体は確実な大きい利益を構成し、極小さい損の集合体は確実な大損失を構成するのである。
■批判■
(批判文は現在執筆中)
プラスとマイナスの原理 (115)
プラスとマイナスは明と暗・男と女・オスとメス・陽と陰のように、互いに融合し合っていて必要とし合う関係ではない。
プラスとは実体のある利益・得・良い結果であり、幸福を実現する成分である。幸福の要素は美と健全と快適であり、健康と富裕と円満が充実し、喜び・楽しみ・うれしさの幸福感が永続している状態が最大限にプラスが増大した結果である。
マイナスとは不利益・損・悪い結果で悪化・異常化・不快化と病気・欠乏・破壊が発生し、マイナスが増大するほど苦悩は永続化して絶望感と不幸の度を増し、最大限にマイナスが増大すると破壊され消滅する。
神様・自然界・人間は永遠の快適と幸福を求めている以上、自然界にはプラスの存在は必要として生かし、マイナスの存在は不必要として消滅し0にする働きがある。だからより大きいプラスの存在であるほどより必要であり価値も高いから、より高度な幸福に誘導されるのは当然であり、これがプラス化作用である。自然界では結局はすべてをプラス化する作用があるから、マイナスの存在も0以上の存在にする。プラスに変化するマイナスはプラス化作用によって好転し必要な存在となるが、プラスに変化できないマイナスはマイナスにしかならないマイナスだから消滅して0の存在にするのである。
しかしマイナスを0にする場合に、プラスの時間と労力と経費をかけても成果は0 だから損になる。だから神様と自然界はマイナスを0にするためにマイナスを集中させ、マイナスを増大させる事によって悪化と異常化を促進させ、最大極限のマイナスによる極限の悪化と異常化によって内部から自壊させるか、まとめて一度に外部からマイナスの存在を使って破壊させるかして消滅するのである。つまリマイナス化作用によってマイナスを使ってマイナスを破壊し消滅するので、神様と自然界は損をせずにマイナスを0にする事ができるのである。
したがってプラスとマイナスは同等で釣り合う事が最適ではなくてマイナスが減るほどプラスは増え、マイナスが増えるほどプラスは減るのであるが、マイナスは絶対に0にする法則があり、神様と自然界は絶対に損をしない法則があるからマイナスは確実に悪化・破壊・消滅に誘導されるのである。プラスとマイナスの法則は自然界のすべての法則とすべての存在における根本原理である。
■批判■
(批判文は現在執筆中)
永続と回転 (118)
すべては大中小の回転によって成り立っていて、永続は回転によって実現する。地球や太陽や惑星等それ自体が回転する場合と、宇宙や太陽系等のように全体が回転する場合と、星の周囲を回転する場合と、内部で循環する場合があり、意志に基づいて法則が存在し法則によって回転するから、法則による回転には正確な周期と軌道があり永続性がある。
回転の法則は天体だけではなくて、人間の体内や運命や人間界や自然界のすべての活動にも存在する。体内での回転は血液等の循環であり、人と人との出会いは巡り合いで自分の軌道と相手の軌道が接近あるいは接した時であり、商売は現金と商品とお客様が循環し回転して成り立ち、国家においては人間とお金と物資が循環して成り立っている。
人間は霊界と現界とを先祖と現在の自分と未来の子孫となって循環していて、自分が法則によって幸福になれば子々孫々に法則通りの幸福が受け継がれて完全健全体の子孫となり、自分は幸福のままやがて霊界へ行って幸福な先祖となり、さらに完全健全体の子孫となり、自分も先祖も子孫も永遠の幸福者として、永遠に過去・現在・未来を正確な軌道と周期で循環・回転するのである。つまり自分は常に先祖か子孫になっているから、自分が幸福になると先祖になっても子孫になっても幸福であり続ける訳である。
現界で自分が活動の中心となって回転した場合、やがて回転の輸がどのくらい成長し拡大するかは中心の価値によって決まる。すなわち中心である自分の価値が大きいほど回転の輸も大きくなり、発生するエネルギーも大きくて結果も大きい。また同じエネルギーと成果を生み出す場合、回転の輪が小さいほど高速となり、回転の輪が大きいほど低速となる。
私の御神業においては、回転の輪の中心は神様であり無限の御霊光であるから、やがては全世界に御神業の輪が拡大して、永遠に幸福が循環し回転する神世界が実現するのである。
■批判■
(批判文は現在執筆中)
単純にする (120)
快適さの要素には幸福の要素が多いほど良いが、複雑であると混乱して不快が発生する。だからすべてを単純にする事が最適な理想状態であるとあるための必要条件になる。
どんなに科学が進歩しても人間が簡単に利用できて、誰でも簡単に操作できる物でないと快適とはいえない。だから最高度に科学が進歩すると、最高度に単純な操作で最高度に簡単に利用できて、最高度に効率が良いから最高度に安価となるのである。
身辺の整理・整頓・片付け・清掃も、複雑化による混乱と不快を単純にする事で快適にする作業である。また人間関係がどんなに多くても単純にすると全部が一対一の取引関係になり、自分にとって利益が割に合わなければ取引が成立しないだけの事であり、自分を取り巻く人間や要素がどんなに複雑でも自分にとってマイナスしか生み出さない重荷であれば、全部捨てて自分の幸福だけを求めれば良い。そして自分が幸福になれば今まで失ったものも取り戻す事ができ、さらに新たなプラスの要素を所有できるようになるから、単純にするという事は最短時間・最短距離でマイナスを消滅しプラス化するのを促進する働きがある。
人問の生活も誰がどんなに複雑でこむずかしい理屈を言っていても単純にすれば飲食をして大小便を排泄して寝るだけであり、余った残りの時間はできるだけ自分にとってプラスであれば最も良い。他人の評判が気になるのは、色々な人間が一人一人自分の事をどう思っているのだろうと複雑に考えるから混乱して頭脳が疲労するのだから、「すべての人間は他人の幸福を不快に思い、他人の不幸を愉快に思っている」と最も悪意に解釈していれば、複雑な思考を単純化できてマイナスの考えを省略できる。大体他人の見る目や他人の口から出る言葉が気になるのは、他人の幸福を願ったり世のため人のためになる事が良いと信じていて判断の基準が自分以外の者が主で自分が従だからで、それを今度は自分の幸福を人生の目的にして自分の利益だけを求めていると正常になるのである。
そうして複雑なあらゆる変化や情報をできるだけ単純にできるほど、頭脳の働きが良好で知能は高く、逆に単純な事を複雑にしてしまうほど頭脳は低能であり混乱するのである。
だから国家や企業の組織も複雑になるほど混乱して無駄が増え、エネルギーが分散するから衰弱するのである。全部一体であるものを政治・経済・教育等に分裂させ科目を多数にして複雑化し、法律を増やし、医学においても人体は総合体なのに全身を複雑に分類して多数の各科に分けて専門として、専門外は担当が別になっていて全身を一人が担当できないために生み出す無駄な費用は莫大で、薬の種類も数も治療法も複雑化して増加するのだが、重病や難病が激増する一方なのは医学の教えが間違っている証拠なのである。もし病気を解消できれば年々病院も医者も薬も単純化して激減し、最後は最も単純化して病院も医者も薬も不必要になる筈ではないか。 宗教や信仰が増え続けて無教に存在するのも人間を幸福にできないからであり、もし人間を永遠の幸福にできる存在が出現すれば宗教も信仰も不必要となって消滅するであろう。
つまり人間が異常化して不幸になるほど人間界のすべてが複雑化して混乱しマイナスが増大する。反対に人間が正常で健全化して幸福になるほどすべてが単純化して、混乱や無駄がなくなリプラスが増加する。したがってすべてを単純にするには、生きる基準を人間が作った間違った考えや教えにするのではなくて神様が作った自然界の法則の中の幸福の法則にして、そして御霊光によって健全化する事が絶対必要である。人間は単純な事を複雑にしてわざわざ苦労して不幸を作り、神様は複雑な事を単純にして、極楽をして簡単に幸福を作るのである。
■批判■
(批判文は現在執筆中)
順序は快適さの要素 (124)
自然界は大中小・上中下の順序が決定していて順序は時期とも一体で、春夏秋冬の季節の順序も、季節毎に芽が出たり花が咲いたり実が成ったりする植物の順序も、正確に毎年繰り返して循環している。だから自然界の順序を人工的に変えるのは無理があるから永続しないし快適ではない。
人体内も血液が正確な順序によって循環しているし、機械等の製品の組立ても建物の建設も設計図を作り部品を作り、土台から全体の完成まで法則に従って順序が決定していて、仕事や労働も手順という順序によって成り立っている。だから順序が狂ったり間違ったりすると、時間と労力とお金の損失や流通や循環の停滞・停止や失敗によるやり直しが発生して不快であリマイナスとなる。
また価値による順序は、上座や上席から下座や末席に至るまでの正確な位置を決定するから、上中下の階級が快適なつながりとなリマイナスを防いでプラスの作用が発生する。そして幸福実現の順序も幸福の要素の価値によって決定していて、第一番が自分の生命である。だから健康の実現が最初の要素であり、すべての幸福の要素を実現するための根源で土台になっている。健康であるから他のあらゆる幸福の要素を味わい、楽しみ、喜びを感じる事ができるのである。健康の次はお金で経済の富裕によって物質的に快適な境遇になる事である。快適な衣食住と物資とお金が豊富な境遇は、健康の次に実現する幸福の要素であり、物資とお金の欠乏は幸福の要素ではなく不幸の要素だから不可である。次は快適な人間関係(取引関係)の実現で、快適な人間関係とは自分に利益やプラスのある人間とのつながりで、家族やお客様も含まれるのは勿論である。健康・お金・人間関係の順序で幸福を実現するには、取引可能な神様とつながるのが絶対必要条件であり、取引可能な神様とのつながりは自分の幸福実現にとって最大の価値があり最大のプラスである訳だから、神様と自分とのつながりを邪魔する存在は自分にとって最大のマイナスを生み出している事になり、そのマイナスが自分の家族であっても何程かけがえのない人間関係であっても、そのつながりはマイナスだから迅速に解消するのが最適である。その結果自分の生命以外の何を捨てる事になっても、取引可能な神様とのつながりを解消するよりははるかに利益で得でプラスになる筈である。
したがって自分の幸福実現にとって絶対不可欠な神様とのつながりは、自分にとって何よりも最優先で何よりも第一番の順序の取引関係であり、この正常な順序が狂ったり間違ったりしない限り支障や障害や再発等のマイナスは発生しない。そして神様とのつながりが第一番という事は、自分の活動や生活の基準が神様なのである。
■批判■
途中までは読むに値しないつまらない文がくどくどと並べられており、単に「健康・お金・人間関係の順序」をいうための前振りとして書かれただけのような印象を受ける文だ。
自然界には順序のない無秩序なもの、不規則なものなどいくらでもあるだろうとか、無秩序や不規則なものを排除するというのは古臭い考えだとかいう突っ込みもあることだろう。
しかし、そんなことは些細なことでどうでもよいと思わせてしまうくらい強烈なのが、
「神様と自分とのつながりを邪魔する存在は自分にとって最大のマイナスを生み出している事になり、そのマイナスが自分の家族であっても何程かけがえのない人間関係であっても、そのつながりはマイナスだから迅速に解消するのが最適である。」
という一文だ。
「反対する者はたとえ家族であっても縁を切れ」とは何たる暴言か。インターネット上の掲示板には神世界に嵌った家族を救い出そうして家族が必死に説得をしても全く取り合わず、結局一家離散した例が見られるのは、この教えを忠実に守ってしまった結果なのだろう。
このような腐った教義を信者が妄信してしまい、そのために苦しんでいる家族が全国にはどれだけいることか。
人間にとって大切なものの順序として、「健康の次はお金である」というのは、教主の金の亡者ぶり、カルト臭さが非常によく表れている。
日本に無数にある他の集金カルト宗教も、その本質は金集めを目的としており、本心としては「金、金、金」と思っているが、神世界ほどあからさまに「金」を口にする団体にはお目にかかったことがない。
お金の次に大切なものとして、「人間関係」を上げているが、この作者がいう人間関係とは愛情や友情といった類のものではなく、自分の利益やプラスになるための取引としての人間関係であるとしている。
このような歪んだ思考回路を身につけるに至った神書の作者は、一体どのような育ち方をしたのだろうか。親の愛情に恵まれず、兄弟や友人にも恵まれず、学校では皆から阻害され、社会に出てからも周囲の人たちから疎んじられ、恵まれない人生を歩んできた結果としてこのような歪んだ人間ができあがってしまったのだろうか。
あまりにも常識外れで反社会的な内容を平気で羅列した神書を読んでいると、作者である教主の育ち方に興味が湧いてきた。
会主さんよ、あんたは人間としてある意味ではかわいそうな人だ。
本能と感情 (127)
人間の心の活動は感情で成り立っていて、感情は本能から発生しているから、人間は本能の要求によって活動し感情がすべてを支配している。本能の成分は欲であり、欲には食欲・性欲・物欲等の体欲(肉体的・衝動的欲望や欲求)と精神的・肉体的・物質的に最も快適で理想の状態を求める幸福欲がある。体欲に心が支配されると幸福は実現しないから、幸福を実現するには幸福欲に心が支配され、幸福欲が主で体欲が従となれば体欲は幸福 欲に支配されコントロールされるため、幸福のプラスの要素になれるのである。
だから人間には理性はなくて、幸福欲から発生する感情が理性的な感じがするだけで、正常な人間は物事を理性的に考えたりはしない。正常な人間は健全で運が良いから、判断はあらゆる変化に瞬間に反応して最適であり、あれこれと考えて判断するのは頭脳が異常であるか発明や研究等で考える事が仕事になっているかであるが、人間の頭脳は考えれば考えるほど働きが鈍くなり頭が悪くなるのである。人間は五官からの瞬間の感情とひらめきや直感の感情が、楽しさや喜び等のプラスの性質であるほど頭脳は活発になって頭が良くなり、さらに完全健全体となって頭脳が百パーセント作動するようになると人体の全能力も記憶力も第六感も五官の能力も全開となるから、神様の能力の一部(神通力)を発揮できるようになるのである。
■批判■
●「正常な人間は健全で運が良い」
●「正常な人間は物事を理性的に考えたりはしない」
●「あれこれと考えて判断するのは頭脳が異常である」
●「人間の頭脳は考えれば考えるほど働きが鈍くなり頭が悪くなる」
上記は、”なんだこれは?”と思ってしまうような、理解し難く、正常な人間の感覚とは大幅に乖離した内容だ。そしてここでもまた思考停止をモロに打ち出している。
神様((有)神世界の神じゃないよ)から人間に与えられた素晴らしい能力を捨て、本能や感情だけで生きていたら、それは動物と同じだ。掲示板を見ると、教主には邪神が憑いているという書き込みが見られるが、本当に憑いているとしたら邪神ではなく低級動物霊なのではないだろうか。
これらの記述から推測するに、そもそも教主は物事を考えることが余程嫌いで、本能や感情のままに生きているのだろう。おぞましい限りだ。
教主は考える事を仕事にしている人に対してコンプレックスをもっているのではないだろうか。
「なるほど」と思わせる記述はこの本には何一つない。この本は稚拙かつ非論理的・非科学的な記述の塊であり、極端に偏向した考え方をする人間が書いたものであることは常識を持った者が読めば誰でもすぐに分かる。
「人間の頭脳は考えれば考えるほど働きが鈍くなり頭が悪くなる」なんて、脳科学者が聞いたら卒倒してしまうだろう。
神書の作者(教主)がこのようにバカげた内容を平気で書いている事実こそが、「考える能力がない」と言える。他のカルト宗教主宰者ならば、もう少し賢く、”牙”を隠し、巧妙に信者を騙すものだが、この本の作者は誰が見てもすぐにウソと分かる内容を羅列している。こんなバカなカルト宗教主宰者でもそこそこの金を稼ぐことには成功したようだが、そろそろ年貢の納めどきだ。
幸福欲から発生する感情は、自分にとってプラスかマイナスか得か損かを判断して、常に自分にとっての最大の利益を求めて最適な心と言葉と行動を誘導し実現するのである。
そして幸福欲は神様につながり体欲は悪魔につながるから、幸福欲が減少するほど体欲が心を支配して悪魔化する。それで人間は異常化するほど幸福欲は減少して、幸福欲から発生する永続する利益や永続する幸福の要素や自分にとってのプラスを求める感情よりも、体欲から発生する一時的で目先の利益を求める感情の方が強くなり、一時的な楽しみや喜びに満足する代りに永続する無気力や空虚や不安やイライラ等の心の苦しみと毒素による肉体の苦痛を背負うのである。反対に健全であるほど幸福欲は増大して体欲を自由自在に支配できるから、永続する利益や幸福の要素を実現させるために、食欲や性欲や物質欲は自然に無理なく調節でき最適値の範囲内で満足できるようになり、その代りに永続する楽しみや喜びやプラスが増大するのである。
だから永遠の幸福を実現する神様があれば、人間的計算や人間的都合によって一時的な目先の小さなお金や利益等を何とか失うまいと考えるよりは、自分が持っている生命以外の全てを神様との取引材料に使った方が得であると判断できる筈である。
■批判■
ここには教主の考え方がよく表れている。
いま教主が行っている行為は、「自分(教主)にとってプラスかマイナスか得か損かを判断して、常に自分(教主)にとっての最大の利益を求めて最適な心と言葉と行動を誘導し実現する」を地でいく行為だ。自分の利益だけを考え、他人を騙してでも、違法であっても、ただがむしゃらに「金」を自分の懐に入れ、自分だけが幸せになろうとあがいている教主の姿がこの文章によく表れている。
「体欲から発生する一時的で目先の利益を求める感情の方が強くなり、一時的な楽しみや喜びに満足する」という下りも、教主の姿がそのまま表れている。自分のことなので、こうした内容がすらすらと出てくるのだろう。
本当の神様は庶民から金を巻き上げ、その結果夫婦が離婚したり、家族を離散させるような行為はしない。金をほしがるのは、”人間=教主”だ。どこの世界に人間界の金をほしがる神がいるか。金と欲にまみれたあんたのやっている行為はまさに、「人間的計算や人間的都合によって一時的な目先の小さなお金や利益等を得よう」とする行為であり、神様の行為とは正反対の行為だ。
神の名を騙ってこのような悪事を働くものには、そのうち神から天罰が下ることだろう。
すべてに上中下の階級がある (129)
あらゆるものすべてには定められた基準による価値があり、価値が高いほど上位で価値が低いほど下位であり上位と下位との間には必ず中位が存在し、これによって常に上中下の階級が決定し階級に応じた境遇が実現する法則がある。
■批判■
それを法則と呼べるのか。教主の勝手な思い込みだ。教団にとって都合のよい人間だけが価値があり、そうでない人間は価値が低いという差別思想的な考えを信者に押し付けるために勝手にそんなことを考えただけである。
宝石の価値が種類・大きさ・美しさ・人気という基準によって上中下に分類される場合、上のクラスにおいても上中下に分類され、その中でまたさらに上中下に分類されるという具合に、まず大別して上中下となり後はどこまでも上中下に分類され最上位と最下位が常に決定されるのである。
同様に人間の価値も容姿の魅力や収入や境遇といった外観を基準にしたり、人気や名声といった他人の評価を基準にした上中下の階級も存在するのだが、神様が創造した自然界においては幸福度によって人間の価値が決定されている。つまり幸福の要素が多くて幸福でない要素が少ないほど、その人間の価値は高く階級も境遇も上位なのである。
そして私にとっては御神業上より大きいプラスをより多く生み出す人間ほど価値が高く、階級も境遇も上位になり幸福の要素も増えるのである。私の方では幸福の要素を商品として売り、買った相手は私に対して御神業へのプラスという成果を代金として支払うのである。
■批判■
幸福の度合いで人間の価値を上中下に分けるとはこれまたとんでもない発想だ。
この作者は、よほど作者は人間を差別化するのが好きなのだろう。幸福の尺度など各人各様であり、自分の尺度で他人の幸福の度合いを推し量ることなど、何の意味もない。ましてや、幸福の度合いで人間の価値や階級までが決まるとは、「バカも休み休み言え」としか言う言葉がない。
「幸福の要素が多くて幸福でない要素が少ないほど、その人間の価値は高く階級も境遇も上位なのである」とは裏返していえば不幸な人間は価値が低いということだ。ここにもまた強きを助け、弱きをくじく記述がでてきた。「重病で苦しんでいる赤ちゃんが一番悪い」とまで言い切れるのだからこれぐらいのことなど平気でかけるのであろう。
何が「幸福の要素を商品として売り」だ。結果的に大金を巻き上げて、家庭崩壊させて多くの人を不幸にしているではないか。逆に不幸の代償を支払え!
そして「お前こそ人間としての価値は最低だ!」と言わせてもらおう。
天秤の法則 (131)
両者を比べる場合には天秤にかけて自分にとってプラスの方を選び、自分と相手との人間関係においては天秤が水平に釣り合う最適値で取引成立となる。
自分を中心とした人間関係は常に良好で円満である事が幸福の要素であるが、それは天秤の法則によって互いの最適値での取引が成立する事によってのみ実現する。だから取引が成り立たない人間関係は成り立たないのである。どんな人間関係においても取引するのは商品と代金であり成果と報酬であるから、商品を買った方は相手に代金を支払い、相手が成果を生み出した場合には相手に対して報酬を支払う。この場合互いに相手に支払うものと相手から受け取る利益が常に最適値で釣り合っていると、取引関係が成り立っている間は互いに永続して利益を得られるから、うれしくて楽しい心と言葉と行動になり自然と円満な人間関係になるのは当然である。
■批判■
「取引が成り立たない人間関係は成り立たない。」、「どんな人間関係においても取引するのは商品と代金であり成果と報酬である」、次々項にも「円満を目的とした人間関係と取引が成り立たない人間関係は、自分にとって利益にはならないから、無意味であり無価値であり時間と労力と経費をかけた分は損になるから不可」などとあるが、例えば赤ちゃんとその母親との間でも商品と代金、成果と報酬で取引するものだと教主は本気で思っているのだろうか。多分本気で思っているのだろう。
教主の頭の中では自分とそれ以外の人間関係を考えるとき常に天秤が動いているのだろう。それを想像するだけで教主の頭は相当イカれていることがうかがいしれる。
これは自分と神様との関係においても同じで、神様からの奇跡や良い成果は神様の商品で、それに対する自分から神様への御礼は代金の支払いであるから、最適値であれば永続して神様から幸福の商品が届けられるので、自分と神様との関係は良好で毎日が楽しい状態になる。もし天秤が傾いて両者の利益が釣り合っていない状態になると、支障やマイナスが発生するから可能な限り迅速に不足分を補って、以後も不足を発生させないようにすれば再び天秤は水平になり最適値での取引が成立して、永続した利益と円満な取引関係が実現するのである。
■批判■
イエス・キリストは様々な奇跡を起こしたそうだが、それを商品として民衆に売りつけ、または御礼を要求したという話は誰も聞いたことがないだろう。インチキ宗教団体は他にも沢山ありそうだが、ここまで露骨に御礼を要求する団体も珍しいのではないか。しかも、奇跡とまでいえない些細なよいことがあっても高額の御礼を要求するほど強欲であるのは諸々の掲示板で報告されている。
ここの神は確か太陽神だったような・・・。太陽神が人間を相手に商いをする姿を想像すると笑えてしまう。というかここの神がいかにもインチキ臭い神であることを自ら暴露しているようなもので、教主の愚かさが露呈されている。
人間関係は取引関係 (133)
親子・兄弟姉妹・親戚知人・夫婦・雇う人と雇われる人・教える人と教わる人・国家と国民・神様と人間・自分と相手・売る人と買う人。
以上のすべての人間関係は互いに相手から最大の利益を得る事によってのみ最高度の円満を実現できるのであるから、取引関係なのである。だから両者の取引材料や取引条件が天秤の法則によって最適値で釣り合う事によって取引成立となり、互いに相手から得られる利益が現実の喜びと楽しみとなって心と言葉と行動に表れるから、自然に円満になるのは当然である。
ところが利益の天秤が水平で釣り合っている状態から傾いてしまった場合は、どちらかの利益が多過ぎてどちらかの利益が少な過ぎるためであるから、損をした方は不満と不快感が心と言葉と行動に表れ、取引関係と人間関係は同時に破綻し悪化すると闘争が発生する。そのため両者が永続して利益を得るには利益の天秤を水平にしておく必要があるから、両者の取引材料と条件の価値が変化したり利益の天秤が傾いて支障が発生した場合は、可能な限り迅速に調整し最適値にするのである。
したがって円満を目的とした人間関係と取引が成り立たない人間関係は、自分にとって利益にはならないから、無意味であり無価値であり時間と労力と経費をかけた分は損になるから不可である。
■批判■
この理論からすると、幼児や老人、身体障害者などの社会的弱者は存在価値のない人間だということなる。
家族に身体障害者がいたら、「利益が少なくなる」、「取引関係が不利になる」といって放り出すのか?
身体障害者の家族を抱えて生活するのは大変なことだが、ハンディのある家族をいたわり、深い愛情を持って一緒に生活していくことにより、健常者が身障者から教えられることも多い。むしろそうしたことを知らずに育った人間よりも、身体障害者と供に生活している人たちの方が人間としてより成熟した精神を培うことができるのではないだろうか。
人間関係とは決して神書の作者がいうような打算的なものではなく、本来の人間関係とはもっと心の通った暖かなものである。残念ながら神書の作者はそうした人間としての暖かさを知らずに育ったため、このように歪んだ理屈しか思いつかない哀れな人間になってしまったのだろう。
価値の基準はプラスとマイナス (134)
自然界のすべての存在はプラスかマイナスかという基準によって、価値の有る無し・多い少ない・高い低いが決まるのである。
プラスは大きくて多いほど価値は高く、マイナスは小さくて少ないほど価値は高い。そしてプラスとマイナスを相殺して残った結果が正確な実際の価値である。つまり人間は自分にとってプラスかマイナスかを基準にして人・物・すべての事柄を判断して、プラスであれば受け入れ、取引し所有する価値があり、自分の得になり利益になるのである。だから自分にとって幸福の要素になるものはすべてプラスであり、これを可能な限り自分が吸収する事が自分の価値を高め、価値を高める事がさらに自分の得になり利益を生み出し、これが永続する事によって永遠の幸福が実現するのである。
逆にマイナスとは自分の価値を下げ、不快や苦しみや異常といった不幸の要素を生み出すもの及びその可能性のあるものすべてであり、マイナスはどんなに小さくても解消しないとやがて大きいマイナスの現象を生み出し、損害や不利益が大きくなるのである。だからマイナスはより小さい時点で解消する事がプラスなのである。
■批判■
ナンセンス!
何がプラスで、何がマイナスか、その尺度は誰が決めるのだ?
すべて結果で判断する (137)
現れた結果は絶対に間違いのない正確な事実であるから、言い訳も善意の解釈も主観的説明も現れた結果よりは不正確であり、結果に優る判断材料は存在しない。現れた結果に対抗でき、勝ち、優るのはそれ以上の結果しか有り得ない。つまり結果には結果なのである。
動機と途中経過と結果に至るまでの過程がどんなに善で正しいように見えても、思いやりがあって親切でやさしいように思えても、一生懸命に努力しても、結果が悪ければその時点で全部悪と判断し決定する。全部とは悪い結果を生み出した者と、その悪い結果によって損失や苦悩等を受けてマイナス化した者すべてである。
だから自分にとって「善人」とは永続する利益や幸福の要素をもたらす人であり、「悪人」とは自分に損や不幸をもたらす人間である。「働き者」とは年中重労働をしたり肉体を酷使して一生懸命に働く者ではなくて、より沢山のお金を稼ぐ者の事である。「お客様」とは利益になる取引相手であり、「先生」とは利益になる事を教える人の事で、「勉強」とは利益になる事を学ぶ事である。「学校」とは自分の利益となる卒業証書や専門の資格を取得するために行く所であり、立派な人間になるための機関ではではない。「良い会社」とは社員と株主に永続する利益を多くもたらす会社の事であって、世のため人のためにお金を使う会社の事ではない。「株式投資」とは株式相場で儲けようとすることではなくて、配当と増資を得る目的で永続してより多くの利益を生み出す企業の株式を額面の価格で購入する事である。このように自分にとって永続する利益になることが良い結果であり、お金と時間と労力を費やした以上のプラスがなければ悪い結果である。
だから神様も同様で自分にとって良い結果が発生するほど良い神様で正しい神様であるから取引していた方が得であるが、発生する結果が割に合わなければ自分にとって悪い神様だから一刻も早く捨てた方が得である。家族も自分の損になる場合は自分一人で生活した方が得である。
そうして事実でない中傷や誤解や根も葉もない噂であっても、その結果自分にとって損害や苦悩等のマイナスが発生した場合は自分が悪い結果を生み出した事になり、悪い結果以上の良い結果を生み出さない限りは「悪」と判断し評価し続けるのである。
■批判■
こんな考え方をする者を親に持った子供はかわいそうだ。全て結果でしか判断されず、途中のプロセスや努力は評価されない。
教主の子供は一体どんな子供に育つのだろうか。他人事ながら心配になってしまう。
こんな考え方はナンセンスでしかなく、論評にも値しないが、皮肉として言わせてもらうと、
●神世界関連サロンでの金銭被害などへの批判が相次いでいるという結果
●神世界関連サロンでの金銭被害に対して損害賠償請求が起こされているという結果
●1冊1兆円の値打ちがある筈の神書が、こうして批判の対象にされているという結果
●神世界関連サロンから多くの客やスタッフが次々と辞めているという結果
●その結果サロンの中には電気代の支払いにも窮するところがあるという結果
●多額の金を神世界に投じたが、幸せになっていない人ばかりが目立つという結果
●神世界幹部だけは豪勢なマンションで贅沢な暮らしをしているという結果
こうした、”結果”を教主はどう位置づけるのか?
私(fujiya)のサイトに掲載した内容を、”誹謗中傷”と言っているようだが、これは誹謗中傷などではなく、全て事実をそのまま伝えているだけだ。
教主がそれが誹謗中傷と受けとめるのは勝手だが、もしそうであっても、
そうして事実でない中傷や誤解や根も葉もない噂であっても、その結果自分にとって損害や苦悩等のマイナスが発生した場合は自分が悪い結果を生み出した事になり、悪い結果以上の良い結果を生み出さない限りは「悪」と判断し評価し続けるのである。
と自らが語っているわけだから、こうした、”神世界批判”という結果を生じさせたのは、”教主自らが悪い結果を生み出した”のであり、自分が「悪」だと判断し評価している訳だ。
う〜ん、なかなか愉快ではないか(笑)。
損か得かで判断する (139)
損はだれでも嫌で得をしたいのは人間の正常な本能であり、損は不幸につながり得は幸福につながるのだから、どんな小さな事柄においても常に自分の特になる事を求め、得になる事を実行し、得になる方を選ぶ必要がある。
だた一時的な損によって永続して得になったり、小さな損によって大きな得をした場合の損は、損ではなく正当な投資であり必要経費である。逆に一時的な得や小さな得をして永続する損や大きい損をした場合の得は、得ではなくて損の始まりだったのである。だから目先の短期的な得や一時的で小さな得に飛び付いたために自分の価値を永続して低下させ安値にしたり、わずかな餌でつられたり、一時的な喜びのために有形無形の大きい財産を失ったりせずに、永続する得やより大きい得を求めるのである。
損とは自分の所有している得を失い減らす事であり、得とは損をせずに自分の得を増やす事である。この理によって神様と自然界は絶対に損をせず、プラスのエネルギーを減らさず得をするようになっていて、損は0(ゼロ)にされプラスの部分は得になり、得は何かの必要に応じて変化するだけで絶対に減少しないので、永遠にプラスの存在であり続け永遠の幸福が実現できるのである。
そうして人間にとって最大の損とは自分の生命を自然死以外で失う事で、自然死は無苦痛だか自然死ではないと病気か外傷での肉体破壊による苦痛死であるから、全世界を手に入れた代償としても割に合わない。苦痛死の次に損なのは苦しむ事である。病気の苦しみ・お金の苦しみ・家族やあやゆる人間関係の苦しみ等のすべての苦しみは、自分の時間とお金と労力を損して、自分の所有する幸福の要素を減らし、自分の運命と人生を損なうのであるから、苦しみを解消しなければ得にはならない訳である。
したがって人間にとって最大の得とは自然死の瞬間まで苦しみがなく、永続して快適であり楽しい事であり、そのために時間とお金と労力を費やすのが一番得になるのである。
■批判■
前半は何を言いたいのか・・・? 長々と書いているが、要は、「損はイヤだ、得をしたい」というだけのことではないか。
後半にはウソがあるね。自然死が無苦痛で、それ以外の死は苦痛死だなんて誰が決めたんだ? 自然死が全て無苦痛かどうかどうやって調べた? 死んだ人に聞いて見たのか?
教主は自分が自然死できるとでも思っているのかな? 甘いねー、バカだねー。あんたは絶対に自然死はできないね。刑務所に入れられて獄中死するのが一番ふさわしい死に方だと思うけれど、死因は糖尿病からの合併症か何かだろうね。いつも高級寿司など動物性のごちそうばかり食べているからね。もう少しダイエットしないと早死にするよ。
それと参考までに教主に教えてあげよう。
日本人の死因で、「自然死」の割合はどれくらいか知っているかい? それはね、わずかに2.3%しかないの。あとは全部、事故死、病死、自殺なの。
教主は自分がこの2.3%に入れると思うかい? まあ無理だろうね。
教主は、みんなの恨みをたくさん買っているから、悪魔に好かれてさぞかし苦しんで死ぬ道を選択してもらえるんじゃないかな・・。
善悪正邪の判断 (141)
自然界では常に勝者が善であり正しく、善悪正邪を判断して決定する権力を持つ事ができる。だから善が必ず勝ち正義が必ず勝つのは勝った者が善であり正義であると決定できるからである。
人間界では武力や財力や人間力がより強い者が勝者となり、小集団や大集団の支配者となれたのだが、人間の支配は一時的で限定されていた。それは人間力がどんなに優秀でも強力でも人間の魂と心と体を永遠に子々孫々に至るまで支配するのは絶対不可能だからである。
だから武力や財力以外の人間力によって生まれた科学・宗教・道徳・哲学・思想・政治・法律・教育等も人間を永遠に支配する事はできなかったし、永遠の善にも正義にもなれなかったし、善悪正邪を判断するための永遠の基準にもなれなかったのである。それは人間の苦悩を解消して永遠の幸福にする力がないからで、人間にとっては自分以外の者がどうであろうと自分にとって得になりプラスであれば善であり正しい存在で、自分にとって損になりマイナスであれば悪であり邪の存在なのである。
また動機と過程は結果に支配されるから結果が良ければ善であり正しいが、結果が悪いとすべて悪であり邪となる。だから善人は得をして幸福であり悪人は損をして不幸である。何故なら結果において幸福な人は善であり不幸な人は悪だからで、より幸福な人ほど強者で勝者であり、より不幸な人ほど弱者で敗者である。
それでより幸福な方が善で、より不幸な方が悪であるから、被害者の方が悪で加害者の方が被害者よりは善である。それは被害者の方が損失・苦悩・運の悪さ等のマイナスが大きいからで、加害者の方は刑罰等で被害者よりマイナス化し不幸になった時点で初めて被害者よりも悪人となるのである。
つまり自然界の善悪正邪の判断は結果であり、結果が絶対に正確で間違いのない判断なのである。人間は自然界の中に生きて自然の法則に絶対支配され絶対服従であるから、人間は生きている間に可能な限りより大きい良い結果と、より多くの良い結果を得る事がより幸福で、より善で、より正しいのである。
したがって神様が永遠の幸福者にした全部の人間を、神様自身の永遠の幸福の要素にする結果神様が最高の幸福者となり、最高の善であり最高に正しい存在となり、永遠の勝利者であり永遠に人間の支配者となるのである。
■批判■
>被害者の方が悪で加害者の方が被害者よりは善である。
>それは被害者の方が損失・苦悩・運の悪さ等のマイナスが大きいからで、加害者の方は刑罰等で被害者よりマイナス化し不幸になった時点で初めて被害者よりも悪人となるのである。
神世界被害者は、”被害者である”ということ自体が悪なのだそうだ。
同時に、加害者である教主は善だといい切っている。
教主のものの考え方は異常であるが、それがこの文章にも色濃く出ている。どこの世の中に、「被害者が悪で加害者が善だ」などというとんでもない理論が通用するのか。
上記のように言っておきながら、「刑罰等で被害者よりマイナス化し不幸になった時点で初めて被害者よりも悪人となる」と正反対のことを言っている。
つまり教主としては、刑罰を受けるという「結果」を見るまでは加害者は悪ではないと言っているのだ。
自分自身には善悪の基準がなく、刑罰を受けて初めて自分が間違っていたことを悟るというのは何ともお寒い話ではないか。物事の判断ができない子供にはこうしたことも起こりうるが、教主はいい歳をした大人である。それにも係わらずこんなバカげた判断基準しか持ち合わせていないとは、教主はとんだ笑い者でしかないということを如実に表している。
教主は刑務所に入れられないと自分が間違っていることに気づかないらしいが、それにしては私がこれだけ教主をこき下ろしているにも係わらず一切反論してこないのはどうしたことだ。今はまだ自分が正しいと思っているならば反論して当たり前だろう。それをしてこないところを見ると、ちゃんと自分がやっていることが後ろめたいことであり、自分が悪の首謀者であることを分かってやっているのだろう。
どこまでもずる賢い男、それが教主だ。
すべてを悪意に解釈する (144)
結果・現在の状況・境遇・人の言葉と行動・マスコミや政府の発表・情報・使える材料等は刻々と変化しているから、自分の対応も最大の利益を得るために変化し、判断し、準備し、実行するのである。それで最大の利益を得るためには損は最小限であるほど良く、損が絶無であれば最も良いのは当然で、そのためには自分の目や耳に入る情報・嗅覚や触覚や味覚による情報・直感や雰囲気や運気等の第六感による情報を、最大の悪意に解釈して万事準備し予定しておけば、それ以下はない訳だから最悪でもマイナスにはならない。
逆に最大の善意に解釈して準備し予定しておくと、最大に良い状態になるのが普通で当り前だから絶対に予定以上の良い状態にはならないので、最善でもプラスにはならない。
すなわち物事の解釈は、今の条件下で可能な限り最大限の悪意であるほど最悪を予定しておくから、最悪でもマイナスが発生しない準備をして実行できるために、プラスだけが発生し最善であれば最大限のプラスとなる。
逆に解釈が最大限の善意であるほど最善を予定しておくから、最善でも予定以下なのでマイナスだけが発生し、最悪であれば最大限のマイナスとなる。だから悪意は善を生み、善意は悪を生むのである。
したがって最大の悪意を解釈の基準にするのは、最悪・最低の数値を0の目盛に合わせる事であるから、極わずかでも0を上回ればプラスとなり、0を上回るほどプラスは増大するのでプラスの数値だけを表す仕組みなのである。
逆に最大の善意を解釈の基準にするのは、最善・最高の数値を0の日盛に合わせるのだから極わずかでも0に到達しなければマイナスとなり、0を下回るほどマイナスが増大するからマイナスの結果にしかならず、マイナスだけを表す仕組みになるので常に悪い結果なのである。
■批判■
これはカルトがよく使う、「基準の置き換え」だね。
時速50q/hという速度が速い速度か遅い速度かと尋ねられたらなんと答えるだろう?
高速道路ではそれは遅い速度に感じるが、混雑した商店街では非常に速い速度に感じる。
それと同じ事で、現在自分が置かれている境遇をどう解釈するかで物事の受けとめ方が変わっていく。
カルトにはまっている人達は、マインド・コントロールにより基準が置き換えられていることに気づかないので、おかしな理論を受け入れてしまう。
信頼(信ずる事)には実体がない (146)
信じるという事や信頼関係は、美しい心の表れで、円満な人間関係を実現するためには絶対に必要な要素であると信じられているから、他人を信じられないという人は心に欠陥のある人間だとされている。しかし自然の法則においては信頼は許されていない。信頼によって永続して成り立つ事は自然界にも人間界にも何もない。すべて自分の利益のため、自分の幸福のために取引する事によって成り立っているのである。
例えば商品を売った場合に、その場で代金を受け取れば相手を信じる必要がなく、信頼関係も全くないから取引は成立となり双方満足できるが、もし代金の支払いが一か月後だという事になればこれは取引関係ではなくて信頼関係となる。信頼関係とは相手を信じなくては成立しない関係であるから危険が発生する。その危険とは相手が代金を支払わない可能性が生じて、売った方は損害を受ける可能性があるという事である。
また金銭の貸し借りを例にすると、貸す金額に応じた価値のある担保物件を預かる事が、取引関係にするための必要条件となる。それは貸した金銭を相手が返済しなかった場合、代りに担保物件を没収する事によって売買と同じ意味になり取引が成立するからである。
このように万事信頼を必要としない取引であれば永続する円満が実現する。これはたとえ親子・兄弟姉妹・血族・友人といった親しい人間関係であっても全く同じで、いささかでも信じる必要が発生したなら信頼関係であるから損害の危険が関係でつながってはいけない。
人間が金銭や労力や成果を神様との取引材料にした場合には、最低でもそれより価値の高い利益や良い結果を神様から貰わなければ釣り合わないし、人間が神様から利益を貰った場合には最低でもその利益の価値に相当する御礼を支払う事が、神様と人間との取引成立には必要な条件となる。だから利益や良い結果は神様の商品であり、それに対する御礼は人間が神様から買った商品に対する代金の支払いという意味である。
したがって信じなければ成り立たないような関係はマイナスの作用があって損をする危険があるから不可である。自分にとって利益とはプラスであり幸福の要素であり、損とはマイナスであり不幸の要素であるから信頼関係は解消するのが最善である。
もし解消できないとしても、いずれはマイナスの作用によって損が精神や肉体や金銭や時間や人間関係や境遇に発生するから苦悩の実現となって、嫌でも解消せざるを得ない運命に信じた本人が誘導するのである。
つまりこの人間は精神や肉体や金銭や時間を無駄に浪費して、結局は苦悩という成果を実現させた訳であるから全く割に合わない。
本来神様が造った自然界においては、人間は素直に自然の法則通りに実行すれば苦悩が発生する必要は絶無であるから、幸福が永続する以外に運命は誘導されないのである。
■批判■
教主は、よほどひどい人生を歩んできたんだろうねー。人を信じることが全くできない人間に育ってしまったことは教主にとって悲劇であるだけでなく、それによって多くの女性が被害を被ってきたわけで、悲劇の拡大再生産になってしまっている。
教主の子供時代を知る人はいないのだろか? もし教主という人間の生い立ち、学校での様子などを知っている人がいれば、ぜひお教えいただきたい。
家相、地相、あらゆる相 (149)
人間には人相があり、家には家相があり、土地には地相があり、自然界のすべての存在と現象には相があり、すべての相は人間にとって吉か凶である。 吉とはプラスで凶とはマイナスであり、人間が存在する事によって相の吉凶が発生する。だから幸福な人間は人相も家相も地相もあらゆる相も吉相で、吉方位へ移動し、吉姓名で良縁なのであるが、不幸な人間はすべてが凶相である。
つまり人間の魂と心と体のレベルに応じた相が発生するから、いくら人工的に表面上吉相にしても、その人間が不幸の法則を生きる基準にしていれば確実にマイナスが発生して不幸になるのは当然である。
したがって吉相がプラスの作用を発生して幸福の要素として作動するには、神様とつながっている事が必要であり、神様とのつながりが強力であるほど吉相のプラス作用も強力となる。そうして私が説く家相・地相・あらゆる相は自然界の法則と一体であり、最大限のプラスを生み出すためにすべての人間が応用できるものである。
家相は家の形と建物の材料と土地が一体になっていて、尚且つ人間のための家だから家、の主人と住人になる人間に応じている。先ず家を建てる場合土地の選定をするのだが宅地の地相とその地域の地相が吉相になるようにする。宅地の地相を判断するには宅地とその周辺の土地の歴史を調べ、古戦場跡・古墓地跡・湖や沼や池や海等の埋立て地・ゴミ捨て場跡・肥料や農薬や有毒物質による汚濁・汚染地・悪臭のする土地・山崩れや上砂崩れや地すべりや洪水等の自然災害が過去において発生した土地・日照時間が少な過ぎる土地・その他不快やマイナス要素のある土地は凶であり、建設用地及びその周辺にもマイナス要素がない事が、人間が住む土地としての最低条件であり、この時点ではまだ無難な地相で吉相とはいえない。
吉相とは最低条件を充たした上で、土地の形は長方形・周囲に草木が茂る土地・湿度と水はけが適度な土地・南か東がゆるやかに下がっていて北か西がゆるやかに上がっている土地・東から南東に清流がある土地・南東から南に通り抜けができる道路が付いている土地地・北方に森林の丘や山が見える土地であり、以上の要素を多く有するほど良好である。
こうして地相が吉相の土地に、家相が苦相の家を建てるのである。しかし吉相の家相の第一条件は家の形ではなくて、所得と境遇と必要に応じた規模であり分相応の資金で土地を購入し家を建てるのである。そうして最初に建てる家は可能な限り若年期であるほど良く、遅くとも20歳台であるべきで、若年だと気力も体力も活発で運気も収入も上昇する一方なので家相のプラス作用による発展も運命のあらゆる可能性も大きい。
ただし最初の家は分相応の最低限の規模で、資金も家も小さいほど良好で、例えば十坪の土地に五坪の家をできるだけ最低資金で建てるとすると、資金調達も返済も楽で順調であると共に短期間での返済が可能となり、そうすると最初の家を基本にして家族の増加等によって必要に迫られた場合に、二軒日の家は最初の家よりも大きいものが最初の家を建設する程度のエネルギーで実現可能である。さらに必要と境遇によって三軒目も無理なく建設でき、人生の最晩年には人生最後の家を分相応の最大限の資金と労力と時間を費やして、自分にとって最大規模の邸宅を建てられるのである。
つまり最初はできるだけ小さく始まると無理なく次第に大きくなるのが自然界における成長の法則である。だから人生の最後に建てる家だけはできる限り満足できる家にするのだが、それ以外は満足できる家にしてはいけない。規模や内容に不足や不満があるから次はさらに大きくしようとするのである。
そうして家の材料は木・土・石を使うのが良く、金属やコンクリートは最小限にするのが良い。有毒物質や不快感を発生させるような材料は不可である。またなるべく優秀な技術者による堅固な工法で建設するのは勿論であるが土合の床下を全部コンクリートで固めるのは土からのプラス作用をコンクリートが遮断するから不可で、床下に建設時のゴミを残すのも凶である。床下から天丼に至るまで建物内に適度な空気の流通があるのが良い。そして床下の高さは最低一メートルは必要で、湿度が高い場所では人間が立って歩けるくらいの高さは必要である。家相においては何よりも住む人間の健康が最も重要な要素で、次に重要なのが家が堅固で破損や腐蝕しにくい事で、次に吉相の間取りで便利さとその他の快適さは一番最後の要素である。
吉相の間取りの形は長方形が吉であるが、一つの棟に台所・便所・浴室等の水廻りと寝室や各部屋が全部含まれて一緒の形は、長年住むと凶であり、自分一代限りで子孫は一緒に永住できない相である。だから一棟建ての家は自分一人の住居か家族が少数の時に短期間(長くて数年)の住居であれば良くも悪くもなく無難である。しかし水廻りと玄関の位置によっては凶となる。
吉相の間取りは二棟以上を必要とし、最低でも台所・便所・浴室等の水廻りは汚濁物や悪臭や過度の湿気の発生源だから別棟にして、寝室や部屋は母屋にし、母屋と別棟の通行は渡り廊下か屋根だけにして、下は土や石やコンクリートだけにするのが良い。 渡り廊下は部屋にすると凶相だから外気が常に流通していて外と同様の構造でなければいけない。そして母屋の家相が最も重要であり、母屋には高窓や腰窓は良いが、掃出し窓は人間が勝手に出入口として使えるから家相上は出入口になるから凶であり、出入口は玄関と出口の二か所あるのが良く、その二か所の出入口は張出しにするのが良い。特に玄関は土間になり、土間は家相上は欠けの部分となり凶であるから土間の部分は張出しにするのである。すなわち張出し部分は吉で欠けの部分は凶となる。さらに玄関から建物の内部に入る所には太陽光線が入る戸を付けて、最小限の掃出し出入口の大きさが吉で、母屋の中心からみて東には腰窓で中窓・水廻りの別棟は母屋の東から南東にかけて造るのが最も吉相(別棟の位置)・玄関は南東で出口は北西・南東と南は腰窓で大窓・南西から西にかけては太陽光線が入らないように壁にする・北西から北にかけては腰窓より少し高い位置で中窓より少し小さい窓・北東は壁にするのが吉相で、天井は建物の規模に応じて適度に高く、天井裏は同様に適度に広くて高い(空気の容積が大きい)のが吉相である。
水廻りの別棟の家相は欠けの部分は凶だが掃出しはどこに造っても良い。別棟は母屋と土地の規模に応じて多いほど良く、水廻りの別棟の次には、西に窓がほとんどない別棟(倉庫・蔵・価値のある物資で汚濁や悪臭を発生しない物を入れる建物)を造るのが良く、金運と財連のプラス作用が発生する吉相であり、北西の別棟は権威の吉相・北の別棟は人間関係の吉相・東と南東の別棟は水廻りと活動の吉相だから人の出入りが多くて活動の拠点であるのが良い。しかしいくら別棟があっても住人が全く使用していなかったり常に外気が流通している場合は別棟にはならない。
そして住居のある宅地内の池や水溜り等の泉水や穴や屋敷神社やゴミを宅地内へ埋める事は凶であり、宅地の規模の割に石が多かったり大石があったりするのは凶だから宅地の規模が三百坪程度だったら大石や庭石は不要である。庭も築山は凶。 日当り良好の所には菜園や果樹や落葉樹を適度に植え、北側には常緑樹を植えると、夏は日陰と涼しさの要素となり冬は落葉して日当りが良く暖かさの要素となり、北側の常緑樹は北風を防ぐと同時に、建物からみて北側に常緑樹があると気が休まる働きとなるから吉相である。また宅地の周囲は不要な塀は凶で、塀は必要最小限にしてそれもなるべく生垣が良い。松は建物から見て南西か北東・柿は西・梅は北東・低木は東が良い。さらに隣家側の境界線の近くには葉や幹に水分が多く含まれている防火用の樹木を植えるのが良い。竹は建物から数十メートル以上離れていなければ凶で、土砂崩れや強風等を防ぐ目的なら吉。油分を多く含む樹木は燃えやすいから建物の近くは凶、芝は人がよく歩く所に最小限あれば吉で、芝庭は日常居住する宅地内には凶だが丈が長くならない美的な草類は一面にあっても人が草の上をよく歩けば吉。どんな土地においても観賞だけの目的で草木を植えるのは凶であり、食料となる野菜や穀類や果実等や役に立つ草木を植えるのが吉である。
なお東西南北の方位は30度の角度で、北東・南東・南西・北西の方位は60度の角度である。別棟の数と母屋との距離は宅地と建物の規模に応じて異なる。
そうしてあらゆる相は雛形の原理と一体であり、形に現れた相を読み取る事によってプラスに変化するための活動ができるのである。人間に関する相は人相であり、人相の中には顔相・骨相・手相・毛髪相・音声相・歩行相・寝相等ありとあらゆる部分に相があり、これらの相は第一に心と体の健康状態を表し、第二に境遇を表していて、健康と境遇によって過去・現在・未来の運命を表している。
例えば重病で死に至る相は顔色が悪いだけではなくて苦痛の症状が表れていない時期に暗色や黒色のシミや黒子状等になって病気の発生源まで表しているものである。また心が落ち着かないと眼がキョロキョロしたり、歩いたり走ったりして転ぶ時は体や運命において無理をしてはいけない事を表しているとか、手と足が体格の割に小さいのは肉体労働によって収入を得るのではなくて頭脳で収入を得る運命を表している。 このように内容はすべて表面の形になって現れ、相となっているから相を観察して読み取る事によって過去・現在・未来が把握可能となり未来のマイナスの要素を消滅してプラスの要素を増大する事ができるのである。そしてあらゆる相の吉凶は人間の健全度に応じていて、健全であるほどプラスの要素が多くて幸福だからより吉相が表れるのである。したがって形と内容が吉相であるためには神様とつながってより健全になる事が根本なのである。
■批判■
いまどきの日本で、そんなに恵まれた環境に家を建てられる人間がどれだけいるんだ?寝ぼけたようなご託を並べても、何の役にも立たない。
教主の人相はどうなんだ? もうそろそろ命運が尽きるという相が出ているんじゃないか?
岡田茂吉が描いた観音像に、「主」などと勝手に自分のサインを書き加え、とんでもない高額な金額で売りつけていたことがばれて、多くの客から損害賠償請求が来ることを覚悟しておくんだな。
幸福 (159)
幸福を求めるにおいては、幸福についての正常な認識が必要であり、正確な幸福の基準を知る事から幸福実現の開始となるのである。
先ず第一に誰が幸福になる事が正常で最適かであり、誰の幸福実現のために神様と取引するのかが正しくなければならないが、それは当然自分自身である。自分の存在がなければ幸福も存在しないし、幸福である事を味わえない。自分が存在しているのに幸福でないとすれば存在の意味も価値もない。自然界の法則においては、人間を含めて正常な生物は自分の幸福だけを求め、自分の幸福のためだけに活動し、決して自分以外の者の幸福を求めたり願ったりしないのである。
だから会社のため・家族のため・お客様のため・良好な人間関係のため等は、嘘であり偽善であり決して存在しない事である。会社のためではなくて自分が収入を得るためであり、家族のためではなくて自分の所有物のためであり、 お客様のためではなくて自分の利益のためであり、良好な人間関係のためではなくて自分が楽しむためであり、会社も家族もお客様も良好な人間関係も全部自分の幸福の要素であり、自分の所有物だから全部自分の幸福のためである。
そうして自分が幸福であるための絶対条件は健康であり、頭脳を含めた肉体が正常で健全であるから眼・耳・鼻・目及び身体を使って幸福を体験し味わう事ができ、健康で長寿であれば長年月の間現界で幸福を実感できるのである。反対に病気等で肉体の破損や苦痛があるとすれば、他のどんな幸福の要素も楽しむ事ができないし、もし生命まで失うとすれば一切の幸福の要素も無意味で無価値である。
健康の次に必要な幸福の要素はお金による経済の富裕である。お金によって希望する物事を相当実現でき衣・食・住の境遇も上昇して物質的財産も増加し、現界のあらゆる豊かさを楽しむ事ができ、物質的に快適な生活が可能となるのである。そして幸福は心の充実感や満足感だけでは決して成り立たない。肉体と物質と心の充実が一体でないと幸福ではない。だから肉体は苦しくても心は幸福だとか、お金がなくても健康だから幸福だ等は、現実に肉体の苦しみや経済の苦しみが発生しているから幸福ではなくて不幸である。したがって幸福とは肉体の健康や経済の富裕等の現実の形に現れた物質的要素と、心の幸福感によって成り立っているものである。
お金による経済の富裕の次に必要な幸福の要素は、家族や親しい人達等の快適な人間関係である。人間は一人では孤独であり話をしても返事はなく、子孫繁栄の喜びもなく、家族や親しい人達による活気もなく、健康とお金はあっても快適な人間関係がなければ生きる楽しさや喜びが激減するのである。したがって肉体の健康と経済の富裕と快適な人間関係は、自分の幸福を構成する三要素であり三位一体であるから、三要素の内の一つが欠けても幸福は成り立たない。さらに幸福の三要素は心の幸福感と一体である。
そうして自然界における幸福の基準は、心・肉体・経済・人間関係の苦悩や苦痛が絶無の状態を幸福度0としている。つまり人間はマイナスによる苦しみがない状態が通常で当然だから、苦しみがないだけではプラスでもマイナスでもないから幸福度は0という訳である。だから神様によって不幸が解消された事は、確実に奇跡であり良い結果ではあるが、それは不幸というマイナスが0になって通常の人間のレベルになっただけだから幸福ではない。幸福とは幸福度0から幸福度がプラス以上になった状態で、尚且つ永続する事である。
■批判■
「○○のため」は嘘であり、とのことだが、私が神世界を滅ぼすためにこうして戦っているのは、「困っている人のため」であり、自分の利益のためではない。私が神世界を糾弾したところで私自身には何の利益にもならない。
私がこうした活動をしているのは、神世界によって多くの人が悲しい思いをしている現実があり、それを見過ごすことができないだけである。「困っている人がいるから助ける」だけのことだが、教主のように、”他人のために何かをする”ことが理解できない者には理解しがたい行動に思えることだろう。
私がこうした行動をしているのは、「教主を懲らしめるため」という目的もある。
か弱い女性を騙し、女性達がこつこつと貯めてきた貯金を奪い、金がないと言われると生命保険を解約させてまで金を出させる悪辣な行為を繰り返している神世界という団体を放置することは社会にとって害をなすだけである。
>健康の次に必要な幸福の要素はお金による経済の富裕である。
こう言っておきながら、多くの女性から多額の金を巻きあげ続け、彼女たちの生活を破綻寸前に追い込んできたことをどう説明するんだ? お前から数十万円、数百万円、中には1000万円を超える金を奪われた女性達が今どのような思いでいるかわかっているのか?
買いたい物も買わず、旅行に行きたくても行かず全ての生活費を工面して神世界に金を出し続けてきた女性達が、御霊光なるものの実態を知ったとき、どれだけの精神的ショックを受けたか想像できるか?
もしそれがお前に分かるならば、自分が犯してきた罪の大きさに身震いせずにはおられないだろう。
幸福になれると信じて神世界に金を出し続けた結果、本当に幸福になれた者はどこにいるのだ? 客からかき集めた金で豪華な暮らしをしている教主と会主、それを取り巻くごく一部の連中だけがいい思いをしているだけではないか。
>経済の富裕の次に必要な幸福の要素は、家族や親しい人達等の快適な人間関係である。
お前にそんなことを言う資格があるか? 結婚している夫婦には平気で離婚を勧め、結婚しようとしている恋人同士には、「これはあなたの相手ではない」とたわけたことを言って別れさせ、「御霊光に反対する者は家族でも捨て去れ」と強要している人間に快適な人間関係を口にする資格は全くない。
やっていることと書いてあることがこれほど矛盾しているのは、神書がいかにいい加減なものであるかを如実に示していると言える。
成功の秘訣 (164)
成功の絶対要素は自分自身の存在であり、自分の心と体が健全であるほど成功は容易である。
その次は職業と仕事の選択であるが、自分にとって好きか嫌いか楽しいか苦しいかを基準にして、成功するためには好きで楽しい職業と仕事でなければならない。次に上手か下手か能力があるかどうかであるが、大多数の人間は早く安定したいために極最低の利益で満足してしまい、最高でも一定した横這の人生にしかならないのである。だから大多数と同じ心と言葉と行動では決して成功しない。
サラリーマンで成功するためには現在は可能な限リレベルの高い学校を経て、公務員か倒産しない大企業へ就職して出世する事であり、そのためには試験に合格しなければならないから試験に合格するための勉強をして良い成績を得なければならないのである。
事業で成功するためには、その事業に関して研究し続けるのは勿論だが、事業の目的は利益の追求であるから利益は多いほど良い。利益は独占によって得られる法則があるから、事業の成功のためには商品か販路かサービスかあるいは価値か技術か、何か必ず独占している要素がなければ駄目である。そして事業が成長して規模が拡大するほど合理化して利益率を高め、借金を早く絶無にして財産を蓄積するのである。この場合の財産とは、お金とお金を生み出す人材や技術や商品等とお客様である。
その他芸術・芸能・技術・学問等で成功するには、自分の代りは誰もできないというほど優秀な成果を表す事であり、自分自身が独占商品になるのである。自分の持っているエネルギーは一点に集中する事によって目的や希望の実現化が始まるのであり、周囲の反対や目先の収入や将来への不安等への対策に自分のエネルギーを分散させると、その後次々に障害が発生して結局は時間と労力とお金を消費して苦労したのみに終るのである。
さらに成功し始めた場合に満足してはいけない。山登りと同様に自分の連命の頂上に到達するまでは登り続ける事で、途中で停止すると成長も成功も停止してその後は 下降するだけの運命になり、一時的な成功で終ってしまうのである。そして注意すべきは、成功し続けて境遇や地位や名声が高くなるほど転落の危険が増すという事であり、成功の山が高くなると坂も急峻になるから一歩足を踏み外すだけで急転直下の運命となるのである。したがって成功するほど自分の足元を盤石にして一歩一歩焦らず確実に前進していれば自然に難なく山は登れるのである。最も危険なのは頂上の一歩手前の絶好調期であるが、過労と無謀と慢心が発生しなければ無事に頂上に到達できるのである。
そうして永遠の成功を実現するためには、永遠にプラスを生み出す回転のシステムを完成させて永遠に稼働する必要がある。エネルギーは回転によって発生し、同じエネルギーを生み出すためには小規模の回転であるほど高速で、大規模の回転であるほど低速で実現できるのである。そして始まりは最小の回転であるが、一点を中心にして回転し続けていると周囲も回転し始めて次第に大規模な回転に成長し、やがて一点を中心にした巨大な渦巻に発展する事も可能だが、回転の規模がどのくらい大きくなるかは回転発生の中心である核にどのくらいの価値があるかによって決まるのである。
したがって核の価値が小さいほど回転も小規模であるべきで、そうすると分相応の成功が永続し、核の価値が大きいほど回転も相応して大規模になり、より大きいエネルギーを生み出す事ができるのであるが、大規模な回転になるほど中心の核は動いてはいけないのである。回転の中心は動かないほど正常であり順調だが中心が動くほど異常な回転となり、やがては永遠にプラスを生み出す回転のシステムの破壊となるのは当然である。回転の核とは中心人物の事である。
■批判■
またまた教主お得意の、「強者の理論」の登場だね。
学歴偏重、大企業の独占是認・・・、高度経済成長の時代にもてはやされこうした歪んだ目標設定が日本をどれだけ狂わせ、日本社会に種々の問題をまき散らしてきたことか。
教主の頭には、とにかく競争に打ち勝ち、自分がお山の大将になりたいという願望だけが渦巻いているようだ。
そのためには、他人がどんな目に遭っても一切関知せず、多くの人を踏みつけてでも自分だけはいい思いをしたいという超利己的、自分勝手な考えに凝り固まっている。
教主がここまで歪んだ思想を持った人間になった背景に何があったのか? 一度タバコ屋の主人に聞いてみたいものだ。
通常の日本人には、ここまで他人を踏みつけにしてでも自分だけがいい思いをしようとする者はめったにいない。
教主がここまで人々を苦しめることに快感を見いだしているのをみると、ひょっとすると教主には民族的な問題があり、日本人に対する復讐をしようとしているのではないかとまで思えてくる。
貧困の原因 (168)
貧乏の原因は収入よりも支出の方が多いからで、収支の赤字化が貧乏の発生源である。さらに収入は減少するほど、支出は増大するほど貧乏化の速度は増し、貧乏の度合も深刻化する。
収入が減少する原因は、企業内では景気等による売上げの減少や経費の増大で利益が減少し分配するお金が減少した結果、労働者の賃金や役員の報酬や株主への配当が減少し経営者の所得も減少するからで、不景気になると金利も低下するから利息収入も減少する。個人においては病気や怪我や失業等で働けない状態になると確実に収入は減少するのである。
商品が売れない原因は、宣伝不足によって商品が知られていないか、商品に魅力がないかであり、商品に魅力がないのはお客様にとって値段が高いか、不必要かである。売上げが増えないのに経費が増えるのは、贅沢になっているか、無能であるか、横領によるかである。
支出が増大する原因は、必要経費の増加と不必要な出費の増加であり、不必要な出費とは利益を生み出さないことに現金を支払う事である。具体的には以下の通りである。
・分不相応の贅沢
・税金対策のための事業拡大や設備投資や不動産購入
・利益を生み出さない者への現金支出
・効率の悪化による経費増大
・横領や背任による不正支出
・病気や怪我等の医療費
・罰金や慰謝料
・遊興費やギャンブルでの損
・株式相場や商品相場等への投資失敗による損
・詐欺や盗難や紛失や災害等での損
・不必要な保険料や教育費や定期掛金
・連帯保証人になって保証した相手の借金を背負ってしまつたり、無担保で貸した現金が焦げ付いたり、受け取った約束手形や債券が倒産や破産等によって無価値(紙くず)になったりして発生した損
・インフレや国家の混乱でお金の無価値化による損
・あらゆる借金
以上の出費はプラスを生まない全くのマイナスであり、経済が病んでいて経済の毒化・悪化・異常化であり、いくら収入が増加しても経済活動の基準が健全にならなければ破産による経済の破壊消滅が発生するのである。だから心と言葉と行動が貧乏に誘導する事になる。
貧乏に誘導する心とはお金を大事にしない心であり、収入面においては自分が働いて稼ごうとせずに、常に他人や運命や不確実なものに頼って、一攫千金や濡れ手に粟や都合の良い援助等による一時的な大金を夢見ていて、確実で地道に永続的な収入を得ようとしない。支出面では常に贅沢を求めて高級ブランド品や高級車や高級住宅等を大借金して購入するそして借金して支払う精神と見栄と他人を羨む心から脱出できないのである。また騙されて現金や財産を失うのは、信じる事や世のため人のために尽す事を生きる基準にしているからである。
貧乏に誘導する言葉と行動とは、お金とお金になる物とプラスのお金を生み出す人を粗末にしたり不快にさせたり不幸にしたりする言葉と行動であり、現金の事を「カネ」「ゼニ」「小銭」と呼んだり、現金を紛失したり破損したり汚したり、お金に関する取引に使用する印鑑や印鑑証明を大事にしなかったり、お命と同じ働きをする小切手や手形を大事にしなかったり金額の数字や契約書を確認しなかったり、自分の永続する幸福にとって利益となる事にお金を使う事ができなかったり、マイナスの出費をしたりする事である。
そうして貧乏のどん底に誘導する決定力の働きをするのが借金であり、借金の金利が高いほど、金額が多いほど経済を悪化させるのである。借金はプラスの利益を生み出すことだけに使い、必要最小限の規模であっても経済活動においては最適ではない。
■批判■
またまたバカげた内容をくどくどと述べているが、「自分が働いて稼ごうとせずに、常に他人や運命や不確実なものに頼って、一攫千金や濡れ手に粟や都合の良い援助等による一時的な大金を夢見ていて、確実で地道に永続的な収入を得ようとしない・・・」というのは教主自身のことではないか。
こう言うと教主はすぐに、「いや、俺は貧乏ではないぞ」というだろうが、貧乏になるのは時間の問題だ。「悪銭身につかず」の諺通り、たくさんの女性達から不正な手段でかき集めてきた資金は返金を余儀なくされ、(有)神世界は倒産することになるだろう。え?会社更生法? バカなことを言うんじゃない。なんでこんなバカげた会社を更正させる必要があるんだ。
世のため人のために尽くしてはいけない (172)
「世のため人のため」というといかにも善美な言葉に聞こえるが、実は人間を不幸にする考え方なのである。
人間及び動物や植物といった意志を有するものは自分の利益を求めるように造られている。特に人間は神様の体であり、神様が造った最高傑作品であるのだが、人間がまだ未完成なために今までは間違った教えを本当だと思って信じて実行したので、不幸が永続してしまったのである。
間違った教えの中でも「世のため人のために尽す」というのは代表的なものの一つである。
人間は自分の利益になる事以外は考えられないし、また自分の利益にならない事を考えてはいけない。ただし私がいうところの自分の利益とは本当の利益の事で、永続する利益とか増え続ける利益という意味である。
だから他人を苦しめて不幸にして得た利益は一時的で、不幸にした相手からの恨みの念が永続して伝達され、その結果として恨まれている方はその人間の霊体も金銭の霊体も極度に汚れているので、清浄化作用が発生する。勿論清浄化作用とは霊体の汚れや毒素を消滅させるのであるから普通は苦痛の発生となり肉体の病苦や怪我によって汚れが多量な部分を破損する運命となる。
金銭等の場合も肉体と同様に恨みによる汚れがある程度の量を越えると、清浄化作用によって金銭等を失う連命になる。その場合の失い方は必ず苦悩を伴うのが特徴であり、これは不正によって得た金銭も同様である。
したがって恨みや不正によって得た利益は決して利益にはなってないどころか、清浄化作用の発生によって一時的に得た利益異常の損失を受け、さらに苦悩というマイナスの利息まで加算されるのであるからこれほど割に合わない事はない。その上不正を行った結果、犯罪者にでもなれば金銭の利益を失うだけではなくて信用を失い、家族を失い、自由を失い、職を失うのであるから何という大損であろうか。そうして本当の利益とは永続した利益の事だがこれは私の教えを実行する以外には得られないのである。
何故「世のため人のため」ではいけないかというと、自分以外の者のために金銭や時間や労働を無料で提供して尽した場合、尽した相手が自分に対して何等かの形で応えないと必ず不快感が発生するからである。
「あんなに良くしてやったのに感謝もしない」という心が次第に不平不満や愚痴になり、いつの間にか他人を憎むようになって醜い心になる。
さらに「自分は生活を犠牲にしてまで世のため人のために尽しているのに全然運が良くない。それに引き替え自分の欲のためだけに稼いでいる人間の方は割と運が良いように見える。神様は不公平だ。
もともと神様なんていないのだ」と考えるような者は白暴白棄になったり、精神異常になったり、不和争論の毎日となって孤立して人間嫌いになったりするのである。それで世間では「あんなに世のため人のために尽した人が何故あんなに不運なんだろう」と言うのだが、世のため人のために尽している人の心は前述のように悪魔の心になっているか、あるいは表面上は良い人に比えても裏面では不正や他人の恨みを受けるような事を行っているかのいずれかであるから、幸福にはなれないのである。
人間は金銭や時間や労働といった価値あるものを提供あるいは犠牲にして何かのために尽した場合は、何等かの報酬(利益)がなければ必ず疲れたり、愚痴になったり、憎んだり、集中できなかったりするのが普通で正常である。
もし皆が無報酬で世のため人のために労働をすればどうなるかというと、共産主義国家と同じ運命になり、誰も欲を出して稼ごうとしなくなるから生産力は低下し労働意欲はなくなり発展も進歩も向上も全くなくなるのである。
ただ無報酬の労働力を得た者だけが得をする事になる。これとは反対にすべて自分のため、自分の幸福と利益のためであれば同じ事を行っても心は明るく楽しい筈で、下らない事を考えなくなり他人の事なんかは気にならないから、人間関係も良好で円満になるので運命も良くなる。また欲が出るから進歩向上は迅速である。
したがって人のために尽す事ができるという考えは錯覚に過ぎない。例えば他人が病気で苦しんでいる時に自分が相手の苦しみを代って引き受ける事ができるなら、人のために尽す事ができたといえるが実際には不可能であろう。
たとえ親子であっても子供の苦悩を親が代る事はできないし、親の苦悩を子供が代る事もできない。すべて幸福も不幸もその人間自身のものだから他人が代る事はできない。
そもそも不幸というのはその人間の霊体の汚れを苦悩によって清浄化している状態であるから、ある程度清浄化されないと運命は好転しない。それを福祉だとかいって金銭等を恵んでしまうと清浄化されないから、依然として霊体の汚れのために不幸な境遇から脱出できないのである。
そうして通常霊体の汚れを清浄化する手段は苦悩によるから長年月かかり、場合によってはあまりの苦悩のため耐えられない事もあり清浄化の効果が小さいのである。
そのために今までは幸福になる事が稀であったが、私の所では太陽神の強力な御霊光によって迅速に清浄化され、たちまち霊体の汚れが消滅され始めるので幸福化するのに時間がかからない。
神様の御霊光による奇跡としかいえない事が続出するのである。勿論御霊光が伝達されるためには本人自身が心を開いて求めなければならない。つまり「助けてくれ」と心から願って私の教えに素直になり言われた通りの事を実行すれば、その瞬間から御霊光が本人に伝達されるから運命の好転が始まり良い事が次々と表れるのである。
■批判■
全体としては言っていることは支離滅裂であり、バカげた内容でしかないが、少し笑えるとこともある。
「他人を苦しめて不幸にして得た利益は一時的で、不幸にした相手からの恨みの念が永続して伝達され・・・」とは、まさに教主自身のことを指し示しているようだ。
お前くらい他人を苦しめ、他人を不幸にしたことで利益を得ている者はいなないだろう。”そうして得た利益は一時的で”とは、まさに的を射ている。こんな悪辣な商売は長続きはしない。早晩教主は検挙され、騙し続けてきた客はおろかスタッフ達からも損害賠償請求を起こされ、無一文になる日もそう遠くはない。え?今のうちに海外に逃走資金を送金しておこうって? それは無駄だ。ICPOってものがあって、どこまででもお前を追いかけて行くぞ。
やさしさ・思いやり・親切・愛ではない (177)
人間は今まで間違った教えを生きる基準にしていたために異常になっているから、人間が今までに作った言葉の中にも異常なものが多数ある。
異常な言葉とは、実際には何でもないありふれた事を特別な価値があるように錯覚させる言葉であり、偽善の言葉である。正常で通常レベルの人間の日常生活では当り前で意識もせず特別な価値は全然ない事なのに、それを美徳だとか美しい心の表れだとか、特別に高度なレベルの偉大な価値があるとか、何でもない事なのに特別に大きい価値があるとしてしまうと飲食や労働や睡眠や取引関係(人間関係)等の日常生活が特別なもので奇跡的に有り難い事になってしまつて、そんな評価になってしまうとすれば通常のレベルでは日常生活を営む事はとてつもなく困難であり、ほとんど皆が絶望的な不幸の境遇だという事になるのである。
異常な言葉の中でも、やさしさ・思いやり・親切・愛は最も多く使われるのであるが、これらの言葉は、好きな相手・好意の対象・自分の利益になる相手・自分が所有しているもの・自分にとって失いたくない大事なもの、に対する通常の感情や言葉や行動や態度であり、相手に気に入られたいとか自分の利益になるとか欲しいものを手に入れたいとかの欲求であり欲望であり通常の人間の本能である。だから相手に対する好意や相手から得る利益が低下したり稀薄になったりするほど、やさしさ・思いやり・親切・愛の度合も低下し稀薄になるのであり、感情の表れだから実に不確実であやふやで当てにならなくて変化しやすいものであるのは当然である。
そうして中には言葉だけのやさしさ・思いやり・親切・愛を売り物にして、相手からは大きい価値ある物を巻き上げる者もいる。むしろやさしさ・思いやり・親切・愛は、自分ができるだけ格安で最小限の出費で、相手からはできるだけ多くの利益を得るための道具や手段や呼び水になっている。たとえ無償で何も相手から求めなくても、相手に対する「気の毒でかわいそうだ」という見下した無礼な感情からであっても一方的な押し売りで相手が迷惑がっていても、自己満足のための趣味や道楽であっても、やさしさ・思いやり・親切・愛である限りはプラスは生み出さないし永遠の幸福は決して実現しない。
すべては最適な取引関係における取引材料の要素の一つであれば良いが、取引であれば最早やさしさ・思いやり・親切・愛ではないし、そんな異常で無意味で無価値な言葉は不必要である。
鳥獣虫魚においても、発情期や出産から子育ての時期にはオスとメスの間や親と子の間には、やさしさ・思いやり・親切・愛ではないかと錯覚するような態度や行動が表れるものだが、これはすべての生物に共通した感情であり、自然界及び自然界のすべての動物や植物や生物においては、本能も感情も自分に最適な取引を実現するためのものであり、すべては最適な取引を求めるための心と言葉と行動であればそれは正常で健全である。
■批判■
屈折してるねー。どうしたらこんなにひねくれた考え方になるのだろう?
よほど子供の時に親の愛情を受けずに育ったか、学校でいじめにでもあっていたんだろうか? 教主という人間の生い立ちを知ることが、神世界問題を解く上では欠かすことができないポイントなのかもしれない。
ここに書かれている内容は、”神世界をもっともらしく見せるためのポーズ”を通り越して、”異常”というレベルにまで達しているように思う。
教主の犯罪を裁く法廷では、被告がなぜこのような歪んだ思考を持つに至ったのかも一つの争点になるかもしれない。
しかし、生い立ちに問題があったからといって教主の犯した犯罪が免ぜられるというものではないが・・・。
無償の奉仕と援助は害 (180)
無償の奉仕とはボランティア等のように、自分の時間と労力を無料で提供する事であり、無報酬の労働によって他人に利益を与えようとする行為である。また無償の援助とは無償の奉仕(無報酬の労働)と同様に、自分のお金や物資を見返りや返済や代償を求めないで、只で提供する事によって他人に利益を与えようとする行為である。
無償の奉仕と援助は大富家の個人的な道楽として匿名で行うなら止めないが、一般大衆を洗脳して巻き込んだり税金を使ったり奨励したりするのは、マイナスを生み出して害だけが発生する。無償の奉仕や援助は肉体的に不幸な人間や経済的に不幸な人間に対して行うものであるが、取引なら互いの利益になるから永続するが、無償の奉仕と援助は一方的に不幸な人間(マイナスにしかならない人間)に対して時間と労力とお金をとぎ込むだけだから決して長続きしない。
だから無償の奉仕と援助は一時的な気まぐれで何時打切りになるかわからない性格のもので、もし無償の奉仕と援助を受けるのが習慣になっていて、無償の奉仕と援助がなくては生きていけなくなったり、誰かが自分の世話をしてくれる事を当てにしたり、誰かがお金を恵んでくれる事を当てにするようになったらどうであろう。無償の奉仕と援助は、それを受ける側の不幸な人間の生きる意欲や労働意欲や収入を得て良い境遇になろうとする意欲を次第に退化させ乞食根性を発生させ、無償の奉仕と援助をする側の時間的・精神的・経済的な負担というマイナスを増大させプラスの生産力を低下させたりするから、害だけにしかならないのである。
すべては報酬を得るための労働で代償を得るための資金提供でないと、互いの利益にならないから永続する良い結果にはならないし幸福化しない。したがって不幸な人間に対して只で時間とお金と労力を使うのは止めて、永遠の幸福を実現するために神様との取引に時間とお金と労力を使う事が最大のプラスである。
■批判■
批判文を書くのも嫌になるほど馬鹿らしい内容だが、書かない訳にもいかないので敢えて書こう。
私が神世界を糾弾するサイトを運営しているのも一種のボランティアのようなものだ。
教主の説によるとこうした無償の行為は長続きしないものとのことだが、すでにサイトの運営は1年以上継続しており、規模はどんどん大きくなり、掲示板への参加者、情報提供者の数は大幅に増加している。
神世界の被害に遭って苦しんでいる人がたくさんいて、その人たちはこんな問題をどこに相談したらいいか分からずに苦しんでいるとき、こうしたサイトの存在は、真っ暗な海を航行する船が灯台を見つけた心境ではないかと思う。
そうした困っている人の手助けをすることは、人間だからこそできることである。自分が生きることに全神経を集中させている野生の動物と人間の違いがそこにある。
騙しあうのも人間だが、助け合うのも人間なのである。おそらく教主には、騙しあうことは理解できても助け合うことは理解できないだろう。
私にたいした力がある訳ではないが、たくさんの被害者から寄せられた断片的な情報をつなぎ合わせ、神世界被害の全体像を明らかにし、こうした被害に遭った人たちを一日で早く元通りの生活に戻ってもらえるようにしていきたい。
こうした活動は無償だからこそ可能なのであり、有償で行えるような活動ではない。
「長者の万灯より貧者の一灯」は嘘 (182)
これは「お金持の多額の寄進よりも、貧者のたとえ少額であっても真心のこもった寄進の方が貴い」といいたいのであろうが、実際にはお金持が苦労しないで得た現金も貧者が苦労して得た現金も、金額が同じであれば貨幣価値は同じである。もし所得や境遇等によって貨幣価値が異なってお金持の千円は百円の価値しかなくて貧者の千円は一万円の価値があるとすれば、商売も経営も 世の中の経済も国家も成り立たないし、全員が貧者の方が楽だという結果になる。
そもそも真心とは心で一生懸命に良い事を思う事ではなくて、真心によってどのくらい大きいプラスの結果が現実に生み出されたかであり、真心の千円の真心の価値は千円であり、一万円は真心も一万円である。
すなわち目に見えない心を正確に測定するには、現実に表れた正確な数値によって判断し決定するのが最適であるから、寄進等の場合は金額が真心の正確な数値になるのである。
だから本当は真心という言葉自体が無意味であり、相手に真心と感じさせて自分が支払うべき金額を減らそうという意図がある。
実際に人間界における真心とか誠心誠意とは、少額の御礼や支払いを金額以上に偉大に見せて相手に金額以上の大きい価値があるように思わせて、できるだけ自分の利益になり相手の損になるようにするための嘘である。
だから自分が正規の金額を支払った場合には、相手には真心とか誠心誠意とはいわない筈で、互いの利益が最適値で釣り合う取引においては、現金を支払った自分は相手から正規の領収書や商品を受け取り、現金を受け取った相手は金額を確認するだけで良い訳であり、相手を幻惑させる嘘の言葉は不必要であり無意味である。
だから私の御神業においても神様と人間とは取引関係であり、神様の商品である幸福と幸福の要素を人間は代金を支払って購入するのである。私にとっては人間の境遇や性格や評判等は他人の事だから関係ないのであり、神様による良い結果に対して代金さえ支払えば誰でも良い。
したがって「長者の万灯」は万灯の価値があり、「貧者の一灯」は一灯の価値だけなのは当り前で価値を正確に評価できるのは結果だけであり、結果に至るまでの動機や過程は結果によってのみ正確に評価されるのである。そうして結果はすべて自分の五官で確実に認識でき、すべて数値に表す事ができるのでそれ以外の認識不可能な結果は無意味・無価値・不必要なのである。
■批判■
人が目標に向かって努力する姿勢を評価できない教主に、「長者の万灯より貧者の一灯」という諺を理解するのは不可能だろう。
「金額が同じであれば貨幣価値は同じである。もし所得や境遇等によって貨幣価値が異なってお金持の千円は百円の価値しかなくて貧者の千円は一万円の価値があるとすれば・・・」って、そんなことわざわざ書くような内容ではないだろう。
人が目標に向かって努力する行為や課程に価値を見いだせず、結果でしか判断できない教主を親に持った子供がかわいそうだと、人ごとながら思ってしまう。学校教育の現場でも、学校に対してとんでもないクレームや要求をしてくるモンスター・ペアレンツが増えてきて学校の先生は大変だという話を聞くが、教主もきっと、”なんでワシの子供は勉強ができないんだ。先生の教え方が悪いからだろう。結果を示せ、結果を!”なんて言っている口ではないだろうか(笑)。
「ならぬ堪忍」はするな (184)
昔から「ならぬ堪忍するが堪忍」といって、とにかく我慢・忍耐という教育を根本とし美徳としたがこれは征服者の奴隷に対する教育なのである。
理不尽な事により自分の生命や財産を侵害されても「堪忍しろ」「我慢しろ」というのは、「何に対しても無抵抗でいろ」という事であり、結果的にはマイナスの要素を作ってしまう事になる。したがって苦しむ事自体がマイナスであるため、理不尽な事に対しては決して泣き寝入りや忍耐・堪忍・我慢をしてはいけないのである。苦しんでいる者や弱い者が悪い人間という事になってしまうので、神様の御霊光により自分自身の運を良くして幸福であれば堪忍の必要がなくなるから、良い人であり善人という結果になる訳である。
■批判■
教主も、たまにはまともなことを言うこともあるようだ。
>理不尽な事に対しては決して泣き寝入りや忍耐・堪忍・我慢をしてはいけないのである
それはその通りだ。神世界によって理不尽な被害を受けた被害者は泣き寝入りしたり我慢したりはしない。
正々堂々と神世界に損害賠償請求をして、理不尽に巻き上げられた金を取り返す行動を起こす。
教主も、客がたくさんの金を出したにもかかわらず、「幸せになれない」と言ってきたときには、「もっと金を出さないと・・・」等と我慢させずにさっさと幸せにしてあげることだね。もし、御霊光にそのような力があるのなら(ないから無理だと思うけど)。
自分が一番大事 (185)
自分にとって一番価値、貴重であり、大事な存在は自分自身である。もし自分の存在がないとすれば一切すべてが無意味になる。
そのうえで自分の意識がある間にできる限りの幸福を実感できれば、幸福を実感できた分だけのプラスの価値と意味が、自分という存在には確実にあった訳である。
反対に不幸を実感してしまったとすれば、その間の時間と労力と経費は自分にとって損失となり、それは損失というマイナスを生み出すために時間と労力と経費を消費した訳だから、その自分というのは損失というマイナスだけを生み出した存在であり、その時点での自分の価値と意味は0以下である。
だから自分にとっての利益や得といったプラスは取り入れて、自分にとってのマイナスを排除すればその時点から自分の価値は上昇し続けて、上昇した自分の価値と同じく境遇も上昇し幸福度が増すのである。
したがって神様・家族・かけがえのない存在といえども自分にとってプラスであれば必要で価値ある存在だが、マイナスであれば不必要であり、もし神様・家族・かけがえのない存在のために自分が儀牲になったり、不幸になったりするなら、それらは自分にとって損失を生み出す存在であり、自分の価値と意味を0以下にするものであるから、排除して捨てる事が自分のプラスとなり自分の価値が上昇するのである。
どんな場合においても、自分にとって自分自身以上に価値があり大事な存在は絶対にない。次に自分の幸福にとって、より大きいプラスをより多く生み出す存在であるほど、自分にとってより価値があり大事なのである。
■批判■
いつものことながら、「利己主義の極致」だね。
自分を大切に思うことは大切なことであるが、自分という存在の大切さを知ることで他人も自分と同様に大切な存在であることに気づき、どうすれば皆が幸せになれるかを探っていくのが人間としての正しい生き方ではないのか。
教主は、”自分だけ”が大切であり、自分の利益にならない者は例え家族であっても切り捨てることを厭わない。
我が子のために自分の肝臓の一部を生体間移植するなどということは教主には絶対に考えられないことだろう。
教主の子供は、「こいつは役に立たん」と思われたらいつなんどき教主に捨てられるかもしれないから、物心がついたらさっさと金目のものを売り払って自分の蓄えを作っておいた方がいいぞ。
今が一番大事 (187)
今の瞬間の連続が過去・現在・未来を作っていて、過去の自分が現在の自分を作り、現在の自分は未来の自分を作っている。常に今が一番良い境遇であるのが運が良いという状態で、自分の価値と幸福度は上昇しているのである。
だから今が一番大事であり、今が一番今までの中で幸福であるためには、自分の幸福にとってプラスになる要素を今できる限り吸収し生み出す事と同時に、マイナスになる要素はできる限り消滅し捨てる事によって、常に今の自分が未来に進めば進むほど自分の中にプラスの要素が増えるから、自然の法則によって常に今が一番幸福な状態になるのは当然である。
反対に常に今が一番不幸であるという人間は何でも自分にとってマイナスの要素に変えてしまうので時が経過すればするほど自分の中にマイナスの要素が増え続けて不幸の度合がひどくなるのである。そうなると今が一番大事だとは判断し難いから、今より過去を振り返りたがるのだが、過去も今の自分にとってマイナスの要素に変化させてしまう。
過去の栄光や成功を思い出しては「あの時は良かった、だが今は最低だ」とか、過去の失敗や損害を思い出しては「あの時ああすれば良かった、そうすれば今よりはましだった」というように、常に過去を振り返っては「今は不幸だ、最低だ、運が悪い、どん底だ」というマイナスの要素に変化させてから頭脳にインプットし続けているから、常に心と言葉と行動でマイナスの現象を生み出してさらに苦悩する結果になるのは当然である。
過去がどんなに良くても悪くても今の自分自身が実体であり、今の自分という実体が過去より良い状態であればプラスの要素が増え続けていて価値が上昇しているから今が一番良いという運命に誘導されているのである。また過去より今の状態の方が、悪くても、今の瞬間からプラスの要素を増やしてマイナスの要素を消すようにすれば今以降は自分の価値と幸福度は上昇するのである。自分の意識があって生きている間は誰でもこの法則を応用する事ができるから得である。
そうして自分にとってプラスの要素が増えてマイナスの要素を上回ると、運命を開くチャンスが発生する。チャンスとは人との出会いと商売であるが、チャンスが発生した今の一瞬を確実に自分のものにして目的達成に集中するのである。この時チャンスをものにする行動は今の瞬問からであり、「明日にしよう」とか「一晩ぐっすり眠ってから仕事にかかろう」とか「今の仕事が終ってから電話しよう」というように、今、相手のチャンスを一番大事にしなければ時間の経過と共に自分の状況が変化したり、相手の状況が変化して自分に不利になる可能性が高くなり、何よりも人の心は最も変化しやすいから相手の気が変わる事でチャンスを失う結果になるものである。
最初の小さいチャンスをものにすると、次には以前より大きいチャンスが発生し、次々とチャンスが発生した今の瞬間を捕えてものにするうちに、人生最大のチャンスか絶好のチャンスが発生するもので、それをものにすると一気に運命上昇が飛躍して自分の最大の夢や希望や目的が実現するのであるが、実現してからマイナスの要素を増加させなければ決して運命は下降したり悪化したりしないのである。
勿論うまい話というだけでチャンスではない場合もあるから、チャンスかどうかは自然の法則に当てはめて実体だけを観察すれば、誰でも瞬間に判断できるのである。
■批判■
この文章を書いた目的を考えてみた。
この文章が述べているのは、「チャンスが逃げてしまわないうちに即断で決断せよ」ということだ。
怪しい話、うまい話には裏がある場合が多いので、普通は誰かに相談したり、よく調べてからどうするか決めるものだが、客にそのような行動をとられてしまうと、神世界のような怪しい団体はとてもじゃないが成り立たなくなる。
神世界は女性一人を騙すことはできても、他の人に相談されてしまうとこんなところは怪しい、止めておきなさないとアドバイスされるので商売がやって行かれなくなってしまう。
それを避けるために、
読んで、まず思ったのが、「刹那主義」という言葉だね。
今を大切に生きるということは決して悪いことではないのだけれど、教主がいう、「今が一番大切」は意味が違う。
人間というのは過去の反省の上にたって今後の方針を描いていくものであり、「過去より今の状態の方が悪くても、今の瞬間からプラスの要素を増やしてマイナスの要素を消すようにすれば今以降は自分の価値と幸福度は上昇するのである」とするのは、客が神世界のために以前より悪い状態になってしまっても、その事実に目を向けさせず、「これまでのことは考えずに、今からよくなるようにしたらそれでいいんだ」と更なる騙しに結びつけるための文章になっている。
「勿論うまい話というだけでチャンスではない場合もあるから、チャンスかどうかは自然の法則に当てはめて実体だけを観察すれば、誰でも瞬間に判断できるのである」という部分を最後に付け足したのは、教主は株か投資に失敗したことがあるんだろうね。他でも同じようなことを書いており、よほどその失敗に懲りたのだろう(笑)
百パーセント信じられるのは自分だけ (192)
すべての人間は自分という者については生まれてから精神も肉体も一体であり、他のどの人間よりも自分の事を知っていて認識しているのである。自分以外の人間については自分ほどは知らないし、自分と一体ではないからわからない部分もあるのは当り前の事である。
だから親子・兄弟姉妹・血族・友人といった極親しい人間であっても自分以外の別個の存在であるから、百パーセント理解するとか認識するとか信じるとかは不可能である。信じるという事自体が無意味であり無価値である。価値があるのは自分にとって何がプラスで何が得で利益になるかという事だけである。したがってもし百パーセント信じられるものがあるとすれば今のところ自分自身だけなのである。
■批判■
そうかな? あんたは本当に自分のことが分かっているか?
もしあんたが自分のことをよく分かっており、自分が今やっていることがどれだけ非道なことかを正しく認識していたら、こんな悪辣なことばかりやっている自分に嫌気がさして生きていられなくなることだろう。
あんたほど極端ではないにしても、人間は自分のことをそれほど正しく認識できているものではない。かえって周囲にいる人の方が正しく自分を見てくれている場合が多い。
「灯台もと暗し」という諺もある通り、あまり自分に近すぎるところはよく見えていないことが多く、それは自分自身についても言えることだ。
あんたは自閉症に苦しんでいる人のことを知っているか? 自閉症の症状にはいろいろなパターンがあるが、自分が分からず苦悩している人もたくさんいる。そうした人たちの苦しみを考えたことがあるか?
親子・兄弟姉妹・血族・友人を信じることは無意味で無価値だって?
あんたはよほど寂しい子供時代を送ったんだろうね。あんたの周囲には家族も含めて心の底から信じることができるような人は誰もおらず、あんた自身も人から信用された経験がないのだろう。その結果、こうしたとんでもない暴言が平気で吐けるようなかわいそうな人間にあんたは育ってしまったのだろう。
人を信じることは難しい。裏切られるかもしれない危険性を冒してまで人を信ずるよりも、あんたのようにすべての人を信じない生き方もあるのかもしれないが、それはあまりにも寂しい生き方だ。
まあ、あんたのような生き方をしている人間を友達にしたいと思う者はどこにもいないし、きっと家族も縁を切りたいと思っていることだろう。
皆があんたのような考え方をする人間ばかりならば、この社会はギスギスした本当にいやな社会になってしまう。
しかし、あんたは知らないだろうが、実際の世の中はそんなに不信感ばかりがあふれているのではなく、暖かい心の通った人もたくさんいるんだ。
まあ、あんたに言ってもわからないだろうけれど・・・。
苦しむ人間が悪い (193)
自然界においては結果がすべてであるから、結果が悪ければ動機や原因や過程も悪く、それに関係するすべての人間も悪いと判断するのが当然で正常な判断である。したがって苦しむ人間が悪いのであり、不幸なほど悪人なのである。
■批判■
世の中には動機や原因や過程が良くても結果が悪かったという例はいくらでもあり、そうした場合であっても動機や過程を全く評価しないというのは、作者の考え方がいかに偏っていて異常かが現れている。これほど極端な一面的視野しか持たない者を親にもった子供、このような上司もった部下はさぞかし地獄のような毎日を送らざるを得ないことだろう。
この理論によれば、いわれもない犯罪被害に遭って苦しんでいる人も、当人が悪いということになる。
北朝鮮に拉致された被害者が未だに帰還できず苦しんでいる家族もいるが、あの人たちに向かって、「苦しむ人間が悪いのだ」と言えるか!
神世界なる怪しげな団体に大金をだまし取られたことが原因で家庭が崩壊し、不幸のどん底に突き落とされた人に向かって、「騙されるようなあんたが悪人だ。教主は悪くない」と言うのか?
たとえ重病で苦しんでいるのが生まれたばかりの赤ちゃんでも、一番悪いのは一番苦しんでいる赤ちゃんであり、次に悪いのは赤ちゃんの次に苦しんでいる親である。
■批判■
この文章を読んでいる皆さん、ここは本当によく読んで頂きたい。
皆さんの中で、上記文章の内容をそのまま受け入れることができる人はいますか?
教主は、「たとえ重病で苦しんでいるのが生まれたばかりの赤ちゃんでも、一番悪いのは一番苦しんでいる赤ちゃんだ」と言っているのですよ。
神書の中には数多くの常識外れ、荒唐無稽、デタラメな部分が多いが、この部分はその中でも特に衝撃的なフレーズだ。
生まれたばかりの赤ちゃん、それも重病で苦しんでいる赤ちゃんに向かって、「一番悪いのはお前だ」と教主は人間とは思えない暴言を吐いている。教主には弱者をいたわる心は皆無であり、悪魔のような冷酷な心の持ち主であることを示している。
このような冷徹な考え方を持つ者が、神との仲立ちをする選ばれた人間であるとしたらこの世は闇になる。
そしてすべての結果は全部自分自身の心と言葉と行動で誘導し実現させたものであるから、最も苦しむ人間に最も罪があり最大の原因を作った本人であり、決して例外はない。
それは生きる基準が不幸を実現する法則だから、その法則通りに必然的に不幸が実現する訳である。だから幸福を実現する法則を知らないのは知らない人間の都合であり、その本人が悪く、悪い運命によって苦しむのもその本人が悪く、病気・事故・貧乏・人間関係等で苦しむのもその本人が悪いのである。
何故なら自然界では、信じる事は成り立たないのに人間は信じるから騙され不幸になって苦しむのであり、薬は毒なのに人間は薬を体内に入れて毒化・悪化・異常化して苦しむのであり、人間は自分のためだけにしか活動できないようにできているのに自分以外の者のために尽すから奴隷になって苦しむのであり、自分にとって利益になる人を大事にしなければならないのに得にならない口先だけの者を大事にするから没落して苦しむのであり、取引以外の人間関係は成り立たないのに無償の奉仕や援助をして苦しむのであり、人間は体内の毒素が消滅するほど健全になるのに体内の毒素を増大させるから悪化して苦しむのであり、いじめられたら戦ってやっつけなければならないのに忍耐するからいじめが永続して苦しむのであり、悪意で解釈しなければならないのに善意で解釈するから裏切られて苦しむのであり、その他のすべてにおいて人間は、自然界の法則の中の幸福を実現する法則の正反対の不幸を実現する法則通りに生きているから、当然の不幸によって苦しむのである。
■批判■
上記文章は一段落中に、「・・であり」が8回出てくる。書いている内容のデタラメさもさることながら、こんなにセンテンスの長い訳の分からない文章を平気で書く神書の作者は、作文の仕方から勉強し直した方がいい。
そうして人間界においては法律を知らなくても法律に違反すれば罰せられる訳だが、自然界の法則においては判断の誤り・狂い・例外・偶然は全くなく、プラス(善)かマイナス(悪)かの結果になって全部現れるのである。だから苦しみの発生は自然界によって「悪い」及び「マイナス」と判断された結果であり、苦しみの中でも病気や外傷による肉体破壊が激しいほど重苦であるから、より「悪人」という判断である。したがって病死・変死・急死は極重苦であるから、自然界が「極悪人」と判断した結果である。
■批判■
上記は、台風や津波、大地震など、自然災害で亡くなった方を冒涜する文章だ。教主は阪神淡路大震災で家族を亡くした遺族の前で上記の言葉を吐けるか?
あんたの考え方はあまりにも異常だ。
嫉妬 (195)
嫉妬は妬みとやきもちで怨みの一種であリマイナスの念であるが、すべてを悪意に解釈する点ではマイナス化にブレーキをかけ阻上する働きがあり、さらにブラスに変化すれば活動力と発展力を生み出す情熱になるが、マイナス化して悪化・異常化すると闘争と破壊が発生して人間関係は消一滅する。
嫉妬は不和・闘争の主な原因の一つであるが、人間は他人の幸福に対しては不快で他人の不幸に対しては愉快であるのが通常であり、自分を中心にして利益を求めるのは正常な本能である。だからすべての人間は互いに永続する利益を求めて最適値で取引が成立しているとマイナスの念は発生しないが、どちらかが損をするとそれを正常にするためにマイナスの念が発生し、正常にならなければプラス化できないから破壊が発生して取引も人間関係も消滅する。
それで嫉妬は本能から発するのだから、嫉妬してはいけないといつても意味がないし無駄である。嫉妬によるマイナスを発生させないためには、嫉妬を受ける方が嫉妬の原因と材料を発生しない事と、より高度な配慮が必要である。
有名人・お金持・美男美女・指導者・権力者・脚光を浴びたり注目の的になる者等は特に多数の嫉妬を受けやすいから、自分と家族等の自慢や劣っている人間を意味なく馬鹿にするような言動や態度を止め、不相応の贅沢や思いやりと優しさを売り物にして見せびらかすのを止め、反対に自分が損したり間が悪かったり不自由な点や不安に思っている事柄等の話をするのが良い。特に異性間の会話や態度は、夫婦であっても親密な様子を見せびらかさないで、同性から見て快適な雰囲気であれば良い。
縁談・入学・入社・商談・成立すると利益になる話は、確実に成立する時まで言い触らさない方が嫉妬が発生しないから結果が良い。良い話ほど確定するまで同外せず、悪い話ほど迅速に口外し宣伝した方がプラスが大きいのである。
ただし神様との取引によって奇跡と良い成果を得た場合は、その奇跡と良い成果を可能な限り多数の人達に話すほど、神様からはさらに御霊光が伝達されるのである。
■批判■
奇跡話だけは他人に大いに吹聴すべしとしたところは抜け目がない。本当の奇跡話ならいいが、ねつ造奇跡話や誇大に修飾した奇跡話を意図的にサロンで流していたことも神様は知っているのか?
おまえ達の神は内輪のウソも見抜けない、ウソ話による被害拡大を防ぐことができないバカな神でしかないことを自ら立証している。
悪魔の教え (198)
(有)神世界の根本原理は、本当を嘘とし嘘を本当とする事・正しい事を間違いとし間違いを正しいとする事・価値のないものを価値があるとし価値があるものを価値がないとする事・善を悪とし悪を善とする事・不幸になる教えを幸福の法則とし幸福の法則を不幸になる教えとする事・プラスをマイナスとしマイナスをプラスとする事である。
だから(有)神世界[の特徴は、偽り・矛盾・無意味・無価値・不合理・不経済・不利益・不確実・空虚であり、信じなければ受け入れられないものだから、信じる事を奨励するのである。
■批判■
上記文章及び下記文章中、「赤色部分」は、原本では黒色のルビ文字で示した内容となっている。
こうして原本では、「悪魔の教え」または「悪魔」となっていた部分を、「(有)神世界」に置き換えてみると、この文章が(有)神世界の実態を如実に示した内容となっていることに気づく。
神書をある程度読まれた方はお分かりと思うが、そこに書かれていることは多くの嘘、間違いを正しいこととし、正しいことを間違いとする無理なこじつけ、価値のないものを価値があるように装い、悪と善とを逆さまにしたとんでもない理論展開で埋め尽くされている。正に(有)神世界の特徴は、偽り・矛盾・無意味・無価値・不合理・不経済・不利益・不確実・空虚であり、こんなバカげた内容は、『信じなければ受け入れられない』ものであり、『書いてある通りに実行するように』とか、『人間は理解しようと考える必要はない』などと思考停止でもされていなければ到底受け入れられるものではない。
更にこの文章はご丁寧にも下記のように、「客を騙すための具体的手口」にまで言及している。
そして信じさせる手口は、一時的な利益と一時的な快適と一時的な幸福という一時的なプラスで人間を錯覚させ幻惑させ誘惑する事で、それによって人間は(有)神世界[を信じて受け入れ、生きる基準にして行動するから習慣となり、やがて中毒化して最後には苦しみと不幸というマイナスが永続し、破壊による消滅となるのである。
その代表例が、薬と手術による現代医学・共産主義・資本主義で、さらに不幸に拍車をかける働きをするのが宗教である。
■批判■
(有)神世界は、ヒーリングサロンという甘い看板で女性客を集め、一時的な快適を与えて客を錯覚させ、幻惑し、誘惑してこの組織に取り込み、神書のデタラメな教義を信じさせている。不幸にもその罠に嵌った客には、「先祖が悪い」とか、「名前が悪い」などと因縁をつけて恐怖心を繰り返しあおり、 5万だ10万だ300万だと、延々と金を吸い上げ続けている。
その結果、客は多額の金を(有)神世界に投じる結果となり、気づいたときには苦しみと不幸に見舞われ、主婦などの場合は夫に隠れて金を投じた結果それが夫にばれて離婚に至る場合もあり、被害者の人生は破壊される結果となっている。それがヒーリングサロンを利用した(有)神世界の手口だ。
こうした(有)神世界の実態を、ものの見事に具体的に語っているのがこの「悪魔の教え」と題する文章である。この文章は、客からクレームが付いた時に、「ここにちゃんと組織のことが書いてあるのに、それを承知であなたはここに通い続けたんだから、あなたがどうなろうとそれはあなたの責任だ」と抗弁するためにこのような文章を書いたのだろうか・・・?
文章中に出てくる、「代表例」とは、まさにあんた(神世界)のことだ!
そうして(有)神世界[を信じて実行する結果、人間と人間界は毒化・悪化・異常化が増大し続け、破壊によって消滅するまで苦悩は激化する訳だが、(有)神世界[を受け入れる人間はマイナスの要素があるからで、それによって滅亡するのはプラスに変化できないマイナス人間だけであるのだから結局(有)神世界[は未完成で不完全な人間をプラスとマイナスに選別するための試験であり関門なのである。
■批判■
たしかに(有)神世界の教えを信じて実行すれば、毒化・悪化・異常化が増大し続け、破壊によって消滅するまで苦悩は激化するだろう。
また(有)神世界[にとっての理想はマイナス人間の永遠の苦悩と不幸と破減であり、特にマイナス人間をいけにえとして犠牲にするのが無上の喜びである。だから「世のため人のために尽す」とか「他人を助けるために自分が犠牲になる」という教えは、自分が求めていけにえの犠牲になり、生命や財産を自発的に失って不幸になる事を最大の善としているから、(有)神世界[が考案したものである事は誰でもわかるのである。そしてサロン[ではこのような自発的な犠牲を善とし美徳としているという事は、サロンの実態[が悪魔あるいは(有)神世界[とつながっている事を証明している。
「尽くす」とは、自分の生命とお金と労力と時間を使い果して尺きるようにする事で、その結果自分の幸福の要素は急激に減少して消減するから、幸福の要素を失った分だけは自動的に確実な不幸になるのは当然で、余程異常な人間でなければできない事である。
私はこのような人間については重症な精神病患者として扱い指導している。自然界において正常な人間とは、自分の不幸を拒否し自分の幸福だけを求めて活動し、自分以外の者とは最適な取引関係になる事だけを求めているのである。
■批判■
オレオレ詐欺の犯人は、被害者を繰り返し騙し続け、搾り取れるだけの金を奪い取る。その犯人の姿勢は、「被害者をいけにえとして犠牲にするのが無上の喜びである」かのようでもある。(有)神世界に於ける被害実態もこれとよく似ており、一度騙すことに成功した客に対しては、「先祖が・・」、「水子が・・」、「名前が・・」等と次々と不安を煽り金を巻き上げ搾り取って行く。
(有)神世界の人間にとって、こうした行為は、「被害者をいけにえとして犠牲にするのが無上の喜びである」のだろう。
「尽くす」以降の文章は、客を騙して(有)神世界に多額の金を投じさせ、スタッフとして低賃金でこき使って「尽くす」ことを強要し、その結果被害者は金と労力と時間を使い果して疲弊し、不幸になっていく様を如実に表した文章だ。
他の宗教が「生命や財産を自発的に失って不幸になる事を最大の善とし、美徳としている」というのは作者の勝手なこじつけでしかない。そのような短絡的な教義をもった宗教が実際にあるというのなら、その宗教の具体的名称を上げてみろ。もしそのような宗教があったとしたら、それは(有)神世界と同じく、民衆を食い物にしたカルトでしかないだろう。
こんなブッ飛んだ異常な内容の本を書いておいて、何が「このような人間については重症な精神病患者として扱い指導している」だ! 作者には、「お前こそ死ぬまで精神病院に入院していろ!」といわせてもらおう。
御玉串 (200)
御玉串は切った木の枝に布や紙等を付けて衣食位の雛形としたもので、木の枝は材木の雛形で布や紙は服等の雛形で、さらに本来は食料となる稲の実や友の実が付いた穂や、季節に収穫した作物を食料の雛形として御玉串に付けたのである。
現在では御玉串は現金を主としたお金であり、お金は必要な物や必要な事に使えるので都合が良いし、今の世の中は現金によって経済が成り立っているから現金を御玉串としているのである。
そうして現金も物質と魂が一体となって存在し、価値が決まっているのだが、現金からお金の魂が抜けた時は現金の価値は絶無となるから、その時点で貨幣は金属片になり紙幣は紙切れとなり、それによって物品を購入する事はできない。
だから現金の価値が絶無になった場合には、価値ある物品が御玉串になるのである。
そして御玉串は人間の善意や好意で神様に献上するものではない。
御玉串とは神様との取引における人間側からの神様に対する対価あるいは取引材料の一つである。だから神様からの御霊光と教えを取次者を通じて得る場合の御玉串は手数料であり、神様からの良い結果や幸福の要素やプラスの成果に対する御玉串は神様の商品に対する代金である。
しかし神様の高額商品に対して一度に代金を支払えない場合には、可能な限りの代金を支払って不足分は月賦払いや分割払いとして、後は可能な限り神様の御神業にとってプラスの結果を生み出す事によって代金支払いや取引材料とすれば最適である。
もし万が一、神様への代金支払いがあまりにも少な過ぎたり、神様との取引材料があまりにも小さ過ぎたりする場合は、神様との取引は自動的に解消されるから、その後人間の方の結果がどうなろうと当方は一切関知しない。神様と人間との取引が永続して成り立っている場合には、永続して互いのプラスや利益が最適値で釣り合っているから人間の幸福も永続するのである。
そして神様との取引材料は人間にとってはお金が最も楽で簡単であり、神様にとっても御神業上お金が最も役に立つからお金は可能な限り沢山あるほど良い。
また御玉串を出費しても人間側の経済が富裕になる訳は、運が良くなり幸福化して生きる基準が幸福の法則であるからマイナスの出費が絶無になり、マイナスの出費がなくなるだけでも御玉串の出費以上のプラスになり、その上幸福化によるプラスの増加は確実な収入増につながり、結局は神様との取引に使ったお金以上の利益になるからである。だから神様との取引関係は永続するほどプラスが増大するのである。
神様は自然界の法則通りに取引関係の人間に対して利益とプラスの結果を生み出すから、その利益率は植物の種を一粒自然界に植え付けて収穫時に得られるプラス(実)の増加率と同様なのである。
■批判■
神世界教主はインターネットオークションで多数の岡田茂吉関連グッズを購入している。それらを模倣して神書を書いたり観音像を描いたりしていることはこれまでにも知られているが、この「御玉串」は、神慈秀明会ハンドブックに書かれた「玉串」を模倣したものであることが分かる。なおご存じない方もおられるかも知れないが神慈秀明会というのは岡田茂吉を教祖とするカルト宗教団体である。
神世界では、客に対し繰り返し、「宗教ではない」と言っておきながら神の存在を信じさせ、その神の加護に対する対価として高額な玉串まで出させておいて、一体どこが宗教ではないと言えるのだ?
確かに神世界の神様は本当の神様などではなく、神世界は詐欺師の集団でしかないのだからその意味では、「宗教ではない」というのは当たっているのかもしれないが、それはブラックユーモアでしかない。
客の不安を煽り、その脅しにうまく乗った客に対して法外な価格で「高額商品(祈願料、改名料、水、書物等)」の購入を迫り、客がその時点で支払い可能な代金を支払わせた上、わざわざ「不足分は月賦払いや分割払い」と支払い方法を本に記述してまで執拗に金を払わせようとするのには宗教どころか絵画商法や原野商法などの詐欺商法と同じである。
金蔓(かねづる)として獲得した客を逃がさないようにするため、「神様への代金支払いがあまりにも少な過ぎたり、神様との取引材料があまりにも小さ過ぎたりする場合は、神様との取引は自動的に解消される」と脅す手口はあさましい限りである。
「神様との取引材料は人間にとってはお金が最も楽で簡単であり、神様にとっても御神業上お金が最も役に立つからお金は可能な限り沢山あるほど良い」は、教主の金の亡者ぶりを強烈に表現した文章だ。日本に数多くある金銭収奪型カルトの中でも、これほどハッキリと主宰者が金を欲しがっていることを明確に文章化した教団はないだろう。
「神世界の神に玉串として金を出しても、それを上回るだけの見返りがあり、人間側の経済が富裕になる」とあるが、諸々の掲示版の体験談を見ればこれがいかにデタラメであるかがわかる。日本中の多くの家庭で神世界のために貴重な金を奪われ、家族が不幸になっている現状がある。
御玉串の貸し借りは不可 (203)
神様につながっている人間同志の間で、御玉串の貸し借りを依頼したり立て替えたりする事は、如何なる理由があっても絶対にいけない。
本来、御玉串とは神様に対する御礼であり取引代金であるから、神様と取引して良い結果を得たいなら必ず自分でお金と時間を作って御玉串を支払うべきである。
万が一、貸し借りをした者同志で聞き違いによるトラブルが生じたらどうであろう。御玉串の件で不快な思いをし、その不快さに魔が入って争いになるのであるから、神様につながっている人同志は決して御玉串の貸し借りをしてはいけないのである。
また、すぐにお金を持ってくるからといって中身のない空の御玉串をお上げするのも良くない。何故なら空の袋が勿体無いし、神様にお金が届いていなければ良い結果は発生しないので、先に送金するか、来た時に支払うのが良い訳である。
それから先生方に伝言や荷物やお金の両替等を頼むのも不可である。何故なら先生方は神様に仕えていて、御神業という大切な仕事をしているのであるから色々な雑用を頼む事によって重要な御神業の方がそれだけ「手抜き」になり、結果的に神様にとってマイナスになるのである。
したがって神様と取引して良い結果を得たいなら雑用等で先生方の手を焼かせないようにすべきだし、神様につながっている者同志でも人間同志でもお金の貸し借りは絶対に不可なのである。
■批判■
ん!?、これは何だ?
こんな馬鹿らしいことまでわざわざ載せる必要がなぜあったんだ?
以前に信者間で金の貸し借りが元で何かいざこざでもあったのか?
そうしたトラブルが基でマスコミ沙汰になると困るので載せたのか?
大切な、”御神業”をしている筈のスタッフに教主や会主の家族の雑用をさせるのはどうなんだ? そんなことをさせることは、”神への御神業”とやらの妨げになる行為じゃないのか?
これまで教主や会主の身の回りの世話をさせられ、奴隷のようにこき使われてきたスタッフの中から次々と目が覚める者が続出している。そしておまえ達の悪行を詳細に証言し始めている。おい、教主。もういいかげんに観念しろ!
考え違い (205)
神様とつながって良い結果が発生し、神様との取引によって幸福は永続するのだが、人間が考え違いをすると支障が発生する。考え違いをすると瞬間に神様とのつながりが弱まったり断絶したりするからである。
考え違い(1)
苦しかった時は何をおいても無我夢中で神様の教え通りに実行したのだが、神様によって健康になって上昇運となり収入も増加して境遇も好転した時点で、自分の都合や人間的な目先の計算を優先して、神様との取引によって幸福化した事を忘れてしまうのである。
こういう人間は神様の商品(幸福の要素)に対する代金が未納であるか、代金を支払う気が全然ないかであるが、支払っていない代金はその人間に代金分の損害や損失の発生となって回収される。「仕事や用事が多くて忙しくて暇がない」・「子供に手がかかる」・「お金がない」・「家族が反対する」・「世間の人に知られたくない」・「家庭や人間関係に波風を立てたくない」。「神様とつながって神様と取引する事によって、お金や親しい人や仕事を失いたくない」等が、神様との取引を忘れたり、神様との取引を解消したりする主な理由であるが、もし自分か子供か家族が病気になった場合には運命はどういう状態になるかというと、病気が重症や難症になるほど手がかかり、お金がかかり、心配が増えお金がかかり、世間の人に知られて評判になり、家族への精神や経済や時間や労力の負担が増え、病人が自分であれば一層仕事や人間関係にとってマイナスであり、万一病気が重症となって死亡したら仕事もお金も家族も生命も失うのである。その時、仕事やお金や家族や世間の人が助けてくれるのか、あるいは絶対に病気等の不幸にならないように保証してくれるのか、永続する健康を実現できるのか、一体誰が自分を永遠の幸福にしてくれるのかである。それは取引が可能な神様との取引によってのみ人間は苦悩を解消できて幸福化するのであり、その裏付けが奇跡と良い結果である。
そうしてすべてはプラスかマイナスかであり、人間はどちらか一方を選んで属しているので、すべての人間は幸福か不幸か・健康か病気か・上昇運か下降運(転落)かであり、中間や中途半端は存在しない。だから神様とつながって神様との取引によって幸福になるか、私以外の者の言葉を信じて実行して不幸になるかの、どちらか一方に人間は属するのである。
■批判■
何が「考え違い」かといったら、この神書の作者ほど愚かな考え違いをしている者は他には滅多にいない。
「神との取り引き」だの、「神様の商品に対する代金未納」など、まともな宗教関係者が聞いたら一笑に付すような馬鹿げたことを次から次と平気で言い放ち、しまいには「神に金を支払わないと、代金分の損害や損失が人間に発生する」と脅しの言葉を発するに至っては、信者に恐怖感を植え付け、脅しによって金を出させる金銭収奪カルトそのものの顔が表れている。
ここまでくると、もうこれは考え違いの領域を越えており、神の名を騙って人々を欺く犯罪者の姿が見えてくる。
その脅しの言葉を列挙してみると、
(神世界の神に金を支払わないと)
●病気が重症や難症になり
●(そのために)金がかかり
●(困窮していることが)世間の人に知られて評判になり
●(その結果)家族への精神や経済や時間や労力の負担が増え
●病人が自分であれば一層仕事や人間関係にとってマイナスになり
●(その)病気が重症となって死亡したら仕事もお金も家族も生命も失う
と、連鎖的に悪いことが起きると脅している。
>そうしてすべてはプラスかマイナスかであり、人間はどちらか一方を選んで属しているので、すべての人間は幸福か不幸か・健康か病気か・上昇運か下降運(転落)かであり、中間や中途半端は存在しない。
こうした断定的な表現は神書の作者お得意の手法である。物事を単純化して一見分かりやすくしているように見えるが、事象をプラスと判断するかマイナスと判断するかはその人の立場によって大きく変わるものであり、それほど簡単に黒白がつけられるものではない。
それを敢えてこのように断定して表現するのは、読み手を暗示にかけるための文章手法だ。暗示の手法を用いた文章は批判精神の乏しい読み手には強い影響力があり、ある意味では効果的だが、危険な手法であり、フェアな方法ではない。
しかし神書の作者はこうした断定手法を繰り返し使っており、読み手に、「そう思わせたい」、「読み手を暗示にかけたい」とする意図が濃厚に読みとれる。
考え違い(2)
御霊光も良い結果も幸福も神様から伝達されるのを忘れて、取次者が苦悩を解消して幸福にしてくれるものだと錯覚する人が稀にいる。取次者に取り入って気に入られようとしても、取次者は神様から御霊光と教えを取り次ぐ事を許された人間だから、神様に評価されないと良い結果は発生しない。つまり人間には人間を幸福にする力はないから、いくら人間に尽して良く思われてもプラスにはならないのである。幸福は神様との取引によって永続する事を忘れてはいけない。
このような考え違いに取次者が気が付かないとすると、その取次者も考え違いをしているので取次者失格になる。神様との取引によって取次者になったのだから人間に良く思われても無意味で無価値であり、神様は取次者の御神業におけるプラスの成果だけを評価して取次者の価値と境遇を決定している。御神業におけるプラスの成果だけが神様との取引材料なのである。
また取次者は治療師ではないから医療行為は厳禁であり、取り次ぐ相手の身体に触れてもいけないのは勿論である、それは現在は無資格医療は法律違反で犯罪となるし、病気に接近したり接触したりするのが危険であるからだけではない。神様からの御霊光は取次者が物理的力や人間力を加えようとするほど弱まり、人間力を抜くほど強まるからである。自分が今まで吸収した科学や医学や宗教等の知識に支配され、自分の力で何とかしようとする念が強いほど神様を拒否する事になるから、神様の方でも人問に対して『自分で勝手にやれ』という事になって神様からの御霊光の伝達が停止して良い結果の発生もなくなる訳である。
そもそも私の御神業が存在し成長・拡大しているのは、今までの科学や医学や宗教等のレベルが低くて人間の病気や苦悩や不幸を解消できないからであり、科学や医学のレベルが高度になれば私の説く教えに到達できるから、その時点で私の御神業と同化し一体化して御神業に吸収されるのである。
■批判■
こんな文章を挿入しなければならなかったのは、教主がスタッフを信用していないからだろう。
神の名を騙って人々を騙すことが簡単にできることを知ったスタッフが、勝手に、”個人営業”を始めてしまい、神世界に入るはずの金をかすめ取ってしまう危険性があるのでそれを未然に防止するためにこのような警告を書いたのだろう。
神書の作者・教主自身も昔世話になった岡田茂吉系の教団を飛び出し、そこで得た知識を基にして神世界を作って荒稼ぎしてきたので、自分と同じように考える者が出てもおかしくないと疑心暗鬼になっている。
「無資格医療は法律違反で犯罪となる」などとお前(教主)が偉そうに言うな!
第3章「毒素」などでは医学的にあり得ないデタラメなことばかり書いていながら、何が「科学や医学のレベルが高度になれば私の説く教えに到達できる」だ。ばかばかしい。
考え違い(3)
運命や健康や境遇が神様の力で良くなっても、世間の中傷や家族の反対や神様の教えに対する反発・反抗等によって迷う場合がある。そうなると「良くなったのは時期が来たから自然に良くなったんだ」とか、「今まで飲んだりした薬や今までの色々な療法が効いてきたんだ」とか、無理矢理に自分勝手な理由を考えて神様とのつながりを自分から断絶させ解消するようになるのだが、それからは月日の経過と共に次第に以前と同様な苦悩状態に戻ってしまうのである。
これは神様が大罰を与えたのではなくて、神様とのつながりが切れたので神様からの御霊光の伝達と幸福化の誘導が停止したためと、以前の苦悩時代のように間違った考えを基準にして生活したためである。
人間は他にも色々な考え違いをしがちであるが、すべての考え違いは神様と御神業を下位にして人間と人間の都合の方を上位にするために発生するのである。
考え違いによって支障が発生して苦しんだり損をしたりするのは人間であり自分の方であるから、考え違いに気が付いた瞬問から神様に御詫びをして、再び神様とつながった瞬間から御霊光の伝達と幸福化の誘導が始まり、神様との取引が再開するのである。
神様への御託びとは心や言葉ではなくて御神業におけるプラスの成果であり、マイナスを上回るプラスを結果に現す事である。
■批判■
運命や健康や境遇が変化した場合、それが神の力のなせる業なのか、本人の努力によるものなのか、それ以外の要因によるものなのか、どうやって見分けるんだ?
私はどこの神も特に信じていないが、家族にも恵まれ、健康にも恵まれ、普通に暮らしていけるだけの収入も得ている。もし私が神世界の神を信ずる人間であった場合、こうした境遇を得ることができたのは神世界の神のおかげだということにされてしまうのだろう。
逆に私が至って不幸せな状態にあった場合は私が神世界の神を信ずる度合いがまだ足らない、”神への代金の支払いが不十分だから不幸せなのだ”ということにされてしまう。
どっちに転んでも神は困らず、神への忠誠だけはより強く求められる仕組みになっている。
もし百歩譲って神世界の神が本当に力を持った神で、どこの宗教の神よりも人々を幸せにする力を持っていると仮定した場合、そのすばらしい”御霊光”とやらの力で一体どれだけの人が幸せになったのか?
世界中の約66億人の人々の中でどれだけの人が神世界の神を信じているんだ? 神世界の神を信じ、十分に”神との取り引き”を行った者だけが幸せになれるのだとすると、世界の99.999999999%の人は神世界の神など知らず、御霊光の御利益とは無縁の者ばかりなので世界中の大、大、大多数の人々は皆不幸せな人だということになる。
御霊光のおかげで幸せになれる人間は、日本に住み、偶然”神世界”を知り、潤沢に金を出して神との取り引きが出来た0.0000000001%の者だけだということになる訳だ。
こんなバカげた話、誰が信ずる?
神世界のようなインチキカルトに家族が嵌ったことを知ったばあい、他の家族はあらゆる手段を講じてカルトから家族を助け出そうとするのは当然だ。
ここの神とつながると、明らかにあらゆることに支障が発生する。従業員は忙しくて暇がなくなり、子供はネグレクト状態になり、お金もなく、家族も猛反対し、世間の人に知られるのを恐れ、家庭や人間関係に波風が立ち、神世界の神と取引することによって、お金や親しい人や仕事を失っている人が多数いる。
運命や健康や境遇は、ここの神と係わることにより悪くなる場合がほとんどだ。
(有)神世界には人間を不幸にする力は間違いなくあるが、幸福にする力など全くない。
神様への反発 (211)
人間は先祖代々から今日に至るまで悪魔の教えを信じて実行していたので悪魔とつながっているから、本業の神様が奇跡や良い結果を現しても神様への反発が発生するのである。
神様への反発は決して御神業のマイナスではなく、神様とのつながりが強まる作用がある。反発とは価値がある存在に対して発生するもので、自分にとって価値のない存在なら反発せずに相手にしない筈である。
それで神様への反発が言動となって表面に現れている場合は、今度は神様の教え通りの結果になる事によって神様とのつながりが迅速に強まるから、御神業においてより大きいプラスの要素となるのである。だから反発は、神様とつながり始めの早期で初期の段階であるほどプラスの結果となり、むしろ初期の段階で神様による奇跡や良い結果に喜んでいて表面上従順である方が、神様への反発は内蔵されたままだから家族の反対や世間の中傷等に迷いやすく、その迷いに乗じて、内蔵された神様への反発が一度に表面に現れて、神様とのつながりを一時的に断絶させる場合がある。
そうして表画化した神様への反発によって一時的に神様とのつながりが切れても、神様の教え通りに以前のような状態に悪化し始めたり再発したりして、再び神様とつながって好転して良い結果になると、今度は神様とのつながりによって確実に幸福化する事を確認した訳だから神様への反発も相当消滅し減少するのである。
さらに神様への反発が減少した分は確実に自分の中に染みきいていた悪魔の教えも減少するから、神様とのつながりは以前よりもはるかに強まるのは当然である。
また私にとっても、神様への反発者や御神業に対する反対者や敵対者が神様とつながって神様と取引関係になるのは、御神業におけるマイナスの存在がプラスの存在になる訳だから、より大きい価値があり利益も多大である。
そして本当はすべての人間が、毒素と悪魔の教えによって毒化・悪化・異常化しているから、そのマイナス化が大きいほど神様への反発も大きいのである。したがって御神業とは御霊光によって人間を健全化する事であると同時に、人間から悪魔の教えを抜いて神様の教えを入れる事でもある。
しかし人間の中には無意識あるいは本能的に御霊光を避けて嫌ったり、神様と一体である神書や私の言葉や私が描いた物を避けて嫌ったりする者がいるが、これは不正や不純な行為を常に企み実行する人間だからであり、最も悪質で危険な者である。したがって神書を手にして読む事ができたり、私の言葉を聞く事ができたり、私が描いた物に接する事ができる人間は、神様とつながる事ができ御神業のプラスの要素になれるのである。つまり御霊光を無意識あるいは本能的に嫌うかどうかが、神様と自然界による一番最初の試験なのである。
■批判■
「ここの神とつながるとろくなことがじゃないか」といわれたときの言い訳のような文章だ。「反発とは価値がある存在に対して発生する」などと、”たわけたこと”を言っているが、神世界については全く逆で、百害あって一利なしだから糾弾されるのである。作者本人もそれがわかってるからこんなくだらない言い訳をしているのだろう。わかってないなら本当のアホだ。神世界から離脱した人は、再びここの神とつながることは絶対にない。
当然であるが、私も神書や教主は好きではない。ということは、私は、”不正や不純な行為を常に企み実行する者”ということになるのだろう。
私の存在は神世界にとって目障りであることは間違いない。神世界にとって私は、”最も悪質で危険な者”なのだ。
では、私のような者が神書を読むことになったという事実を、教主はどう説明するのだろう。神世界の神が類い希な優れた神であるならば、私のような者が神書に巡り会わないようにすることぐらい簡単なことではなかったのか?
神世界とは縁もゆかりもなかった私が、思わぬ巡り合わせから神書を読むこととなった。神書に書かれた内容に批判を加えるためには、その内容をかなりよく読まないと的確な批判はできない。神書を持っている人の数はたくさんいるのかもしれないが、その中でも私は神書をよく読んでいる者の上位に属すると自負している。私ほど神書をよく読んでいる者は神世界関係者でもあまりいないのではないかと思っている。
私がこの神書と出会わなければ、これほど神書が公にされ、神世界や教主が批判されることもなかったであろうに・・・・。
「私と神書の出会い」という事実が、神世界の神には何の力もないことを顕著に表している。
支障が発生する理由 (214)
毒素等のマイナス成分によって毒化・悪化・異常化した人間に支障が発生するのは当然で、神様につながっていなければマイナス成分の消滅は不可能だからマイナス成分は増加し、それに比例して支障も増大し速く滅亡へ至るのは勿論である。
神様につながっているとマイナス成分は減少しプラス成分が増加するから、最初から支障がなく良い結果が発生するのが当然だが、中には今まで何の支障もなかったのに神様につながった途端に家庭や人間関係や自分の体内に支障や苦痛が次々に発生する場合がある。
それは今まで何の支障もなかった状態は自分の犠牲によって成り立っていたか、将来の滅亡を誘導する大きいマイナスを内蔵しているのに自分が気付かなかったか自分がそれに満足していたかであり、実際には不幸を内蔵した日常生活であった訳である。それが神様とつながる事によって、できるだけ迅速にマイナス成分を消滅するためのマイナス消滅作用が発生するから支障や苦痛となるのだが、その際マイナスの人間関係やマイナスを生む仕事やマイナスの住居等のマイナスの要素を捨てる事によって、支障や苦痛はたちまち消滅し良い結果が発生し始めるのである。
また神様との取引において人間の取引材料の方が小さ過ぎて、極度に不釣合だったり、考え違いや間違いをしていたり、迷ったりすると支障が発生するが、このような場合は一秒でも速く私の耳に入れる事によってより迅速に解消するから、決して遠慮せずに取次者を通じて私に報告すべきである。
したがってプラスに変化するための一時的支障なら良いが、それ以外の支障は必ず何等かの永続するマイナスを生み出す事柄が存在するから、それを解消する事によって神様とのつながりが自分にとって第一番となり、その瞬間から本格的にプラスの結果が発生するのである。
■批判■
この文章を読んで最初に思ったことは、「伏線を張る」という言葉だ。神書の作者はこれを書いた際に、「まともな神経を持った者」が神書を読んだ時に、どのように思うかを考えたのであろう。まともな神経を持った者がこれを読めば、どのように感じ、そこからどのような反撃を受けるかは神書の作者・教主が一番よく知っている。
「今まで何の支障もなかったのに神様につながった途端に家庭や人間関係や自分の体内に支障や苦痛が次々に発生する場合がある」という部分は、神世界に関係した大半の人々が感じていることである。
支障や苦痛が次々に発生するのは、ここに書いてある「実際には不幸を内臓した日常生活であった」からではなく、この教団の「反対する家族とは縁を切れ」や、第3章「毒素」など捻じ曲がっていてデタラメな教義を信じて、本当に家庭を蔑ろにしてしまったり病院にいかなかったりするからだ。
しかし、次から次と自分にとって都合の良い、くだらない屁理屈を並べることができる、”才能”だけは大したものだ。あっ、誉めているんじゃないからね(笑)。
素直 (216)
素直にも大中小・上中下のレベルがあり、プラスとマイナスがあり、素直の基準があり、素直の目的がある。
正常な人間においては自分の幸福実現を目的とした素直だから、言う通りに実行して結果が良ければ従順なのが正常な素直であり、結果が悪ければ反抗したり抗議したり費やしたお金等の返還を求めたり損害賠償を求めたりするのが正常な素直である。
そうして今まで人間が苦しみを解消できなかったのは、悪魔の教えを生きる基準にして素直に受け入れて悪魔の教え通りに素直に実行したからである。だから自分の苦しみを解消して自分が永遠の幸福者になりたいなら、取引によって人間の苦しみを解消でき永遠の幸福を実現する事ができる神様の教えを生きる基準にして素直に受け入れて素直に実行すれば良い訳である。
それで自分が神様とつながる最初の時点では、心と言葉と行動で「幸福になりたい」、あるいは「助けてくれ」と求めるのが正常な素直である。
それに対して私が相手の境遇や能力やあらゆるレベルに応じて神様の教えを基準にした最適な指導をするから、その人間は私が指導した通りに実行する事が素直であり、『できるかできないかではなくて、やるかやらないか』なのである。
私が指導した通りに実行する事は最短時間で自分が幸福化する事だが、まだ悪魔の教えを生きる基準にしている人間には私の指導自体が苦痛であり実行するのは不可能だから、その場合には私は『無理をしたり苦労したりしてはいけない』と言う訳である。
また神様によって幸福化しても時には悪魔の教えの名残によって迷いや考え違いや疑問や不安等が発生する場合もあるから、その時には一秒でも速く私の耳に入れるか神様の教えに照らし合せるかして解決するのが最善の素直である。あるいは一時的に神様とのつながりを断絶していたとしても、神様に「助けてくれ」という状態になったら何をおいても神様とのつながりを再開するのが自分のための素直である。
そうして素直のレベルは、神様によって健全化し幸福度が上昇するほど高度になる。そもそも人間も自然界も自然界の法則も、人間が永遠に幸福であるように神様によって創造されたものであるから、人間は自分の体内の毒化・悪化・異常化が消滅し苦しみが解消して幸福の要素が増加するほど神様に対して高度な素直であり、幸福を魂と心と体で楽しむ事ができるほど神様に対してより高度な素直を実現している事になるのである。
だから神様との取引によって、健康になった場合にはその健康になった体を使ってできるだけ幸福を楽しみ、経済が豊かになった場合にはそれによってできるだけ幸福を楽しみ、家族や人間関係が円満になり快適になった場合にはそれによってできるだけ幸福を楽しみ、神様との取引によって得た幸福の要素を最高度に楽しみ、さらに神様とのより大きな取引によるより大きな良い結果を楽しみ、自分が御神業の要素の中でより大きな価値ある存在となる事を楽しむのである。
したがって不幸は神様に対する反抗の結果であり、幸福とは神様に対する素直の結果であり、神様に対する最高度の素直とは自分の魂と心と体における永遠の幸福と自然界における永遠の幸福とを、自分の魂と心と体によって永遠に楽しみ喜ぶ事である。
■批判■
神書の作者(教主)は、なぜここで「素直」という言葉を持ち出したのか?
「素直」という言葉に悪い感情を抱く人はあまりいない。ほとんどの人は「素直」=「良いこと」と受けとめるだろう。こうした、「素直」など、誰しもが肯定する題材にカルト的思考をからめ、自らの歪んだ考えをすり込もうとするのはどこのカルトでも行われている常套手段だ。
こうした手法を多用している神書の作者(教主)は、どこでそのテクニックを磨いたのか? 日本にはたくさんのカルト宗教があるが、神世界が”活用”している数々のアイテムや手法を見れば、そのルーツが神慈秀明会など岡田茂吉を教祖と仰ぐカルトに端を発していることは明らかである。
ここに書かれている内容は、素直とは何の関係もなく、ただ単に神書に書かれていることを無批判に受け入れることを強要するだけの、”カルト思考すり込みのための文章”でしかない。
敢えて評価?できる点があるとすれば、「結果が悪ければ反抗したり抗議したり費やしたお金等の返還を求めたり損害賠償を求めたりするのが正常な素直」と認めている点だ。
確かに、ここの神様とつながったために悪い結果がもたらされた人は多く、それらの人が金の返還を求め、損害賠償請求をするのは素直な考えだ。
教主もそれが、”素直”と認めているのだから、損害賠償請求されたときは、ちゃんと被害金額を返還してもらおう。神世界は、数名から損害賠償請求が起こされている。