神書批判

(参考)天国の礎 (参考)聖教書 神書・結(あとがき)
神書(赤版・初版)
発行者・千手観音教会
神書(ゴールド版)
発行者・(有)神世界
神書(携帯版)
発行者・(有)神世界

 (有)神世界が発行している、「神書」と呼ばれる教典がある。
 この教典は、この団体の「教主」と呼ばれる者が書いたとされるもので、1冊10,500円〜15,000円(サロンによって値段が違う)で客に売り付けている。
 その内容は強烈なカルト臭に満ちたもので、日本でカルトと呼ばれてきたどの教団の教典よりも、”突っ込みどころ”満載の内容となっている。
 内容は読むに耐えないようなバカげた内容の連続であるが、我慢してこれを読み進めることによって作者・S藤Tの考え方を知ることはできる。
 ただしこれらの文章はS藤Tのオリジナルではなく、多くの部分を世界救世教教祖・岡田茂吉の文章を引用しその一部をアレンジしたものになっている。
 岡田茂吉が書いたものを見てみたい方は、天国の礎をご覧いただきたい。
 また神慈秀明会という、”手かざし”で有名なカルトがあるが、この団体が天国の礎などを基にして勝手に作った聖教書という本もあるので、これらも参考にしながら神世界の神書を眺めてみるとその共通点・相違点が見えてくる。
 上記写真に示したように、神書は3種類あり、中身は同じだが発行者名が赤版は千手観音教会となっており、他の2種類は発行者名が(有)神世界となっている(赤版、ゴールド版は写真をクリックすると発行者名の表示あり)
 この千手観音教会という団体がどのような経過でできたかを知ると(有)神世界の本質が見えてくる。彼らが客を騙して、「神世界は宗教ではない、会社です」と言い続けてきたことが明らかなウソであることが分かる。
 千手観音教会発祥について知りたい方は、参拝の栞のページをご覧いただきたい。

 この記事を作成するに当たり、私の手元には神世界の神書がないため、神書の内容をテキストファイルやPDF、写真など色々な方法でお送り頂いた皆様に深く感謝いたします。


【目次】 (青文字のタイトルをクリックするとその位置へ移動します)

序 (1)
天の岩戸 (10)
太陽神 (14)
神界 (16)
御霊光 (18)
奇跡(23)
雛形の法則(27)
地球は神様の安息所(31)
使えるものは何でも使う(33)
御神業は生命体(36)
神様が主人公のドラマ(38)
人間は神様の最高傑作品(39)
人間は神様の体(41)
人間(43)
神様の道楽(45)
御神業の実行者は私一人(47)
神様に任せよ(50)
御神業は奇跡・人・お金(52)
自然界のすべてに法則がある(56)
自然界と人間を観察する(58)
火・水・土の原理(61)
言霊(72)
美の法則(101)
合理(合利)の法則1自然界(103)
合理(合利)の法則2人間(106)
すべては総合体(109)
大は小の集合体(113)
プラスとマイナスの原理(114)
永続と回転(118)
単純にする(120)
順序は快適さの要素 (124)
本能と感情 (127)
すべてに上中下の階級がある (129)
天秤の法則 (131)
人間関係は取引関係 (133)
価値の基準はプラスとマイナス(134)
すべて結果で判断する(137)
損か得かで判断する(139)
善悪正邪の判断(141)
全てを悪意に解釈する(144)
信頼(信じる事)には実体がない(146)
家相・地相・あらゆる相(149)
幸福(159)
成功の秘訣(164)
貧乏の原因(168)
世のため人のために尽くしてはいけない(173)
やさしさ・思いやり・親切・愛ではない(177)
無償の奉仕と援助は害(180)
「長者の万灯より貧者の一灯」は嘘(182)
「ならぬ堪忍」はするな(184)
自分が一番大切(185)
今がが一番大事(187)
百パーセント信じられるのは自分だけ (192)
苦しむ人間が悪い (193)
嫉妬(195)
悪魔の教え (198)
御玉串 (200)
御玉串の貸し借りは不可 (203)
考え違い (205)
神様への反発 (211)
支障が発生する理由 (214)

素直 (216)
喜び事の御礼が最優先 (219)
常に万全の自分である事 (221)
私の御神業はすべて予定通り (222)
私の教えは正確に (223)
平等 (224)
私の教えは完全無欠である (226)
神様の御霊光を取り次ぐ (228)
御神業のマイナス (230)
信仰は不必要(232)
悪宣伝は今の御神業のプラス (244)
贈物は不可(246)
電車に幸福にしてもらえ (249)
自分が信じている者に救ってもらえ(251)
幸福を遠慮するな(252)
嫌ならやめろ(254)
勝手にしろ(255)
健全化作用と悪化作用(260)
清浄化作用(263)
人体の清浄化作用(265)
風邪は健全化作用(267)
破壊・消滅による清浄化作用(269)
お金の清浄化作用 (272)
健康は幸福の絶対条件 (276)
毒気 (280)
病原体の発生と役割 (282)
言葉の毒 (285)
毒素 (286)
遺伝毒素 (288)
尿毒 (293)
薬の毒素(薬害) (295)
予防注射の害 (305)
髪染めとパーマの薬毒 (307)
肉毒 (310)
栄養剤の弊害 (314)
私の食事(316)
過剰成分は毒素(317)
不快感は毒素(320)
肩こりの原因(322)
アトピー性皮膚炎は喘息の毒(328)
肥満を解消する(330)
盲腸は下半身のごみ袋(335)
扁桃腺は上半身のごみ袋(337)
魚の目は胃癌の毒(339)
水虫は糖尿病の毒(340)
断食の毒(341)
霊界の法則1(346)
霊界の法則2(349)
中間界(人間界)(350)
地獄界上段(奴隷界)(352)
地獄界中段(畜生界)(353)
地獄界下段(極寒凍結界)(356)
再生について(359)
霊線(362)
念の毒(366)
念は伝達する(369)
心と肉体(371)
憑霊(378)
怨霊化による胃癌(379)
水子霊を救う(381)
地縛霊を解消する(384)
結 (387)



     

 時節到来して私が著した『神書』は、神世界の基準であり、内容は永遠の幸福を実現する法則である。一文字一文字が神様とつながっているから御霊光が発生するのは勿論であるが、実行する事によって最大のプラスを生み出すのである。
■批判■
誰がこんな本を「神世界の基準」と認めた? それは書いた本人だけが勝手にそう思いこんでいるだけだ。
 ほとんど全ての内容が荒唐無稽、独りよがり、誤り、認識不足でしかなく、こんな本には何の値打ちもない。
 岡田茂吉やその他の人々が書いたものに勝手なアレンジを付けただけではないか。


 書いてある通りに実行すると同時に幸福への誘導が始まり、奇跡と良い結果が発生するのだから、人間は理解しようと考える必要はない。『神書』の裏付けが奇跡と良い結果であり、それを自分自身が体験する事のみに価値があり、それによって『神書』は自分の血となり肉となって自分の細胞と一体になるのである。
 平成11年2月27日 主
■批判■
 「書いてある通りに実行する」とか、「人間は理解しようと考える必要はない」等と、思考停止をモロに打ち出しており、カルト臭が非常に濃厚な内容である。  他のカルト宗教では、ここまではっきり思考停止を謳ったものにはお目にかかれない。自分たちがカルトであることを明確に打ち出したこの文章を書いた者は、その意味では、”貴重な存在”だ。(ほめているんじゃないよ!)



第一章 神

天の岩戸 (10)

     古代において地上界を主宰していた太陽神が隠退した事を天の岩戸隠れといい、それ以来神様と人間とのつながりはほぼ断絶していたから、人間と人間界は苦悩と毒素によって悪化し続けたのである。
     しかし神様と人間とのつながりが完全に切断していたら、人類はとっくの昔に絶滅していたのであるが、消滅しそうなくらいに極細々と神様とつながっていたためと、自然界の法則によって何とか持ちこたえたのである。だが現在の人間と人間界の毒化・悪化・異常化は極限に達しているから、可能な限り速く強力に神様とつながらないと、破壊によって人間と人間界が消滅する事になっている。
     そこで一番肝腎な神様はというと、現在はまだ天の岩戸から出ていない状態であるが、正確には時節が到来して天の岩戸にほんのわずかな隙間ができて、その瞬間から神様の御霊光が外部である限界へ放射し始めたところなのである。
     そもそも天の岩戸とは神様と人間との間を閉ざして御霊光を遮断している障害であるが、これは人間が神様の教えを拒否して、永遠に神様が現界に出て来ないようにという強力な願望(呪い)によってできたのである。さらに神様が二度と再び現界に出現できないようにと、天の岩戸に幽閉する意味の呪いをかけて「しめ縄」と「豆まき」の行事を始めたのである。
     「しめ縄」の「しめ」は「閉め」「締め」「絞め」の意味で。「閉め」とは天の岩戸を閉め切って永遠に太陽神を閉じ込め暗黒であるようにという呪いであり。「締め」とはがんじがらめにして天の岩戸に封じ込め永遠に封印して開けて出られないようにという呪いであり、「絞め」とは首を絞めて殺すという呪いである。
     しめ縄を張り巡らすのは本当の神様とのつながりを拒否し断絶する意味であるから、人間が幸福になれないのは当然である。
     「豆まき」の豆は「炒豆」で、火で炒った豆は芽も出ないし花も咲かないから、豆まきには「炒豆に花が咲いたら出て来い」という呪いが込められている。だからしめ縄と豆まきには「これでもか、これでもか」というくらいに厳重な封印の呪いであり、この呪いが天の岩戸を人間側から閉ざしていたのである。その結果人間は本当の神様とのつながりを断ち切って悪魔とつながり、悪魔と悪魔の教えによって永続する苦悩が実現し、それが今日に至っているのである。
     そうして天の岩戸が閉ざされた本当の理由は、神様が裏に隠れて悪魔を表に出して現界の主宰を任せたからであり、決して人間に封じ込められた訳ではない。
     悪魔が現界を主宰した時代が夜の世界で、神様が現界を主宰する時代が昼の世界で神世界ある。ちょうど現在は夜の世界から昼の世界への転換期であり、夜の世界では毒素や悪といったマイナスをさらに強力な毒素や悪のマイナスによって凍結したり人間力で屈服さえ抑えつけたりしていたが、昼の世界では毒素や悪といったマイナスを御霊光によって溶解や燃焼や蒸発させて消滅するから、自然にマイナスだけが消滅しプラスだけが増大するため人間力を無理して使って苦労する必要がないのである。
     だから天の岩戸は刻々と開きつつあり、それに伴って御霊光は現界の自然界に増加するから、人間と人間界もマイナスを消滅する変化が発生する。しかし自然界は神様とつながっていない人間はマイナスと判断するから、自然界に御霊光が増加してもマイナスの人間にとっては破壊による消滅という自然界の誘導が始まるのである。
     したがって天の岩戸が開いて神様が現界に出現して、誰が見ても本当の神様である事がわかる時には既に神様とつながっていないと、病気と欠乏と闘争に加えて自然界の火と水と土による破壊で一切が消滅する事になるのである。すなわち、私と私の御神業が世の中に出て世界の桧舞台に立つ時は、人間と人間界の破壊は最小限で完了するが、もし私の御神業が世の中に出られないなどという事があれば最大限の破壊が発生する訳である。
     ついでに、日本の神話で天照大御神が人間に騙されて天の岩戸から出る場面があるが、この場面の天照大御神は偽者で本当の神様ではない。つまり本物が出現する前には偽者が出て、人間はその偽者を信じて祭り上げてしまう事を予言したのもであり、偽者を本物と信じていると本物が出た時に本物を偽者だと決めつけてしまう事を戒めたのである。この偽者は「自分は神様だ」とか「救世主で再臨のキリストだ」とか自分から名乗るのが特徴で、本物は自分が名乗るのではなく全人類が「あれは救世主だ」と言うのである。また本物であれば神様とか救世主とか言われる事が目的ではなくて、神世界を創造し開始する事が目的であるから他人の評判は何の価値もないのである。

    ■批判■
     こらこら、勝手に古事記や日本書紀の解釈を変えるんじゃない!
     一度は岩屋戸に隠れた天照大御神(あまてらすおおみかみ)だが、神々の笑いを不審に思い、岩戸を少し開いたときに待ち構えていた手力男命(すさのうのみこと)が岩戸に手をかけて更に岩戸を開き、同時に、鏡を天照大御神の前に差し出した。これが天地に春の太陽の光が甦る一瞬だ。
     この時、すかさず天太玉命(あめのふとだまのみこと)が、結界としての注連縄(しめなわ)を天照大御神の後方に張った。こうして日の神である天照大御神は岩屋戸に再び帰ることができず、世界は春の太陽の光を取り戻したというのが天の岩戸伝説だ。
     それなのになぜ、「神と人間はそれ以来断絶していた」などという解釈になるんだ?

    「破壊によって人間と人間界が消滅する事になっている」と勝手な解釈をした上で終末論で脅しをかけているが、誰がそんなことを断言したんだい? それはあんたが勝手に言っているだけだ。終末論で人々を脅して金を出させるのはカルトの典型的手口だ。
     天の岩戸の時代は神話の時代で、登場人物は全て神様ばかりだ。
    だから人間なんてまだ登場しない。だから、「人間が神様の教えを拒否して」なんてことではない。
     そして作者はここで決定的な間違いをしている。
     しめ縄は天照大御神(あまてらすおおみかみ)が再び天の岩戸に戻って隠れてしまわないように現界と岩戸の間に結界として張られたものであり、けっして天照大御神(あまてらすおおみかみ)を岩戸に幽閉するために張ったものではない。作者の不勉強ぶりが露呈している。

     しめ縄の解釈も間違っているが、豆まきの解釈も間違っている。
     古来から穀物には「邪気を払う霊力」があるとされており、豆を蒔くことで豆の霊力により邪気を払い、福を呼び込むと考えたことが豆まきの起源と考えられている。
     節分で、「鬼は外、福は内」と言って豆まきをするのはそのためである。
     神にも色々あり、悪い神(邪気・鬼)を追い払うために豆を蒔くのであり、良い神まで追い払う目的で豆を蒔いているのではない。
    (有)神世界に属する邪神には、豆が当たってさぞかし痛いことだろう。
     古事記、日本書紀では天の岩戸はとっくの昔に開いているのである。  それを、「これから天の岩戸が開く」とか、「本当の神様であることがわかる時」等と言って不安を煽り、自分の言うことを聞かないとひどい目に遭うと脅している。
     (有)神世界の教主に世界を救う力があるなどとは、誰も思っていない。自分だけがそう思うのは勝手だが、世間一般ではそういうのを”分裂病性宗教妄想”という。
     病状が悪化しないうちに病院で診てもらった方がいいのではないか?

     天照大御神(あまてらすおおみかみ)を騙して岩戸を開かせたのは、天宇津女命(うずめのみこと)をはじめとする神々であり、”人間に騙されて”というのは作者の完全な間違いだ。
     岩戸から出てきた天照大御神が偽物であったとは、古事記にも日本書紀にも書かれていない。だから、「偽者を本物と信じていると本物が出た時に本物を偽者だと決めつけてしまう事を戒めたのである」などとは、全くの勝手な解釈にすぎない。
     (有)神世界の教主が全人類から、「あれは救世主だ」などと言われることは絶対にないから、そのような心配をする必要は更々ない。言われるとしたら、「あれは詐欺師だ」くらいであろう。







太陽神 (14)

     絶対神には陽と陰の性質と働きがあり、陽極が太陽神で陰極が悪魔である。
     太陽神は御霊光の極にして根源であり、すべての魂と心と体の生命エネルギーの発生源で、永遠の幸福を実現する原動力で唯一の源である。したがって太陽神は人類にとっての唯一の神様であり、他の如何なる高級霊も自然現象も宗教の本尊も天体も神様ではない。だから天照大御神と書こうが、国常立尊と書こうが、観音様の絵や彫刻を作ろうが、神様は宿らないし、降臨もしないし、御霊光は発生しないから幸福化作用も発生しないのは当然で、もし今までの宗教の本尊が神様とつながっていたなら人間はすでに永遠の幸福者となり人間界は神世界となっている筈である。
    ■批判■
     大陽神信仰は世界各地に数え切れないくらい多数存在する。それらが皆、「我こそは人類にとっての唯一の神様だ」と言ったらどうなるのか?
     他を排し、「我こそは唯一の神」と声高に宣言をするのは原理主義(ファンダメンタリズム)の最たるものであり、今どきの日本でそのようなことを平気で言うのは詐欺師くらいのものだ。


     今までの宗教の本尊が神様とつながらなかった理由は、今までの教祖や本尊の作者の魂が神様と一体ではなかったからである。神様とつながるためには神様の媒体となる生きた人間(教祖・本尊の作者)の魂が、神様自身であるか神様と同格である事が絶対条件である。つまり本尊に宿る事ができるのは、教祖や作者の魂と同格の霊だけなのである。
     そうして悪魔は太陽神の補佐として従属し暗黒と無源であり、分裂と破壊を司り欲望を無限に生み出している。だが悪魔はマイナスの存在ではなく必要な存在で、プラスに変化しないマイナスを破壊する働きと欲の働きがあり、太陽神を魂及び生命とする悪魔は物質及び体の関係であり、太陽神と悪魔は一体にして永遠に理想状態を形成しているのである。
     そしてマイナスは人間界だけに存在し、悪魔がマイナスを生み出すのではなくて悪魔と魂が接続して悪魔に支配された人間がマイナスを生み出し、その結果極度の毒化・悪化・異常化により不幸化となった時点で悪魔によって破壊され消滅されるのである。
    ■批判■
     ハーイ、ではここで作者に質問です!
     あなたは絶対神とつながっているから御霊光を発することができると言いたいようだが、そのように素晴らしい人間が行っている行為に対して、なぜこのように批判が渦巻いているのか?
     さあ、答えてもらえるかな?

     おや、答えてもらえない?
     では私が代わって答えてあげよう。批判が渦巻いているのは、あなたが神を騙って人々を騙しているからだ。そうした行為こそが、「悪魔」と言われて当然の行為だ。

     (注)太陽神信仰は世界各地に古代からある信仰(メソポタミア文明、エジプト文明など)だが、この神書の作者が述べているような内容は全くのデタラメだ。






神界 (16)

     神様の安息所が神界で、御霊光が遍満する永遠の幸福世界である。御霊光の強さと幸福度によって神界も上中下の三段階に大別されている。
    ■批判■
     「講釈師、みてきたような嘘をいい」というのは、このようなことを言うのだろう。
     作者はいつ神界とやらに行って来たんだ? その年月日を答えてみろ。
     あんたは丹波哲朗の親せきか?


     神界下段は第三神界で、神様と魂がつながった永遠の幸福者が住む所である。住人は乳幼児や子供が多く最高齢者でも30歳程度で、皆が健全で美しいのは勿論である。そして神界での年齢は魂の古さではなくて外見である。また労働や仕事の意識はなく、趣味や道楽の意識で自分の喜びや楽しみのために活動している。現在は神様の手足として活躍する事が最大の喜びであり、自分にとって最大の利益になっている。第三神界は今のところ東方浄土といわれている。
    ■批判■
     悪魔で脅した後は、「美と若さ」をエサに女性を釣る作戦か。
     女性だけを相手にして荒稼ぎをするような輩は、全女性の敵だ。よほど女性は騙しやすい存在と見ているようだが、これからは被害に遭った女性やその家族から総反撃を食らうことになるので覚悟しておくように。


     神界中段は第二神界で神様の補佐役の階級であり、現在は御神業が生活のすべてになっていて大活躍中である。また神様の言葉を聞く事ができるから、必要に応じて神様の指示を受け、伝達や取り次ぎができる立場にある。今はまだ兜率天ともいわれていて、観音や弥勒菩薩として大勢住んでいて、最上位には神様上段との境界に紫微宮がある。紫微宮には人間界へ下生する際の神様が入るのであるが、その下生の目的は現界を神世界にする事である。この神世界を古来より弥勒の世・神の国・理想世界といともいう。
    ■批判■
     「大活躍」という言葉は、この連中が好きな言葉だ。
     自分の生活も家族も投げうって、(有)神世界にひたすら奉仕することを、「大活躍」という。
     「大活躍」=「(有)神世界の奴隷」になることだ。


     神界上段は第一神界で、神様が太陽神本体となって主宰しているから太陽神界である。太陽神が御霊光の根源で、太陽神界からは極限の御霊光が無限に放射されている。御霊光は幸福の成分のエキスであり、私を媒体として現界に伝達され、神様と魂がつながった人間だけに注入する事ができるのである。
    ■批判■
     見てきたようなウソで神の世界を段階分けし、差別化によって人々を煽り、より多くの貢献をした者は上位の段階に行くことができ幸せになれると脅す・・・。
     これは岡田茂吉が唱えた霊界のランク分けと同じ発想だ。人を差別することに快感すら覚えるような連中に神をかたる資格などない。


     そして神界の建築には黄金・プラチナ・宝石・檜・大理石が主として使われ、屋内には塵埃ではなくて金粉が溜まるのである。それは特に黄金が至る所にふんだんに使われているからである。
    ■批判■
     いよいよ「黄金」とか、「宝石」とか、拝金主義者が喜びそうな名前を出してきた。そんな金ピカで趣味の悪い家を建てたいのは神様ではなく、(有)神世界の代表者だろう。





御霊光 (18)

     原子・生命体・大宇宙の天体、すなわち無限微小から無限大に至るまでのすべての魂からは生命エネルギーが霊光となって発していて、魂の階級が高度であるほど霊光は高級で強力となる。したがって神様の霊光は最高級で最も強力であるから、特に私は『御霊光』と言うのである。
     御霊光は神様(太陽神)のプラスの成分のエキスであり、マイナスをプラスにする作用とプラスを生み出す作用がある。正に生命活動の原動力であり生命エネルギーの根源である。御霊光のプラスの作用を分り易く言えば幸福化作用であり、幸福化作用とは体内の毒素を消滅する毒素消滅作用と毒素の毒性自体を消滅させる無毒化作用である。それによって魂と心と体が清浄化してあらゆる機能が正常化し、これが健全化作用となるのである。
     そうして御霊光による健全化の過程で外見の容姿や体型が美しくなると同時に、内面の心や体内の血液・骨・肉等の全部が美しくなるのは美化作用が発生するからで、御霊光のプラスの作用は美しさを含めて自分が有するすべてのプラスの能力を最大限にまで引き出す事である。
    ■批判■
     おいおい、ちょっと待て。
    1、すべての魂からは生命エネルギーが霊光となって発し
    2、魂の階級が高度であるほど霊光は高級で強力となり
    3、神様の霊光は最高級で最も強力であり
    4、御霊光は神様(太陽神)のプラスの成分のエキスであり
    5、生命活動の原動力であり生命エネルギーの根源であり
    6、プラスの作用を分り易く言えば幸福化作用であり
    7、魂と心と体が清浄化してあらゆる機能が正常化し
    8、健全化の過程で外見の容姿や体型が美しくなり
    9、内面の心や体内の血液・骨・肉等の全部が美しくなる

     この1〜9って、いつ誰がそんなものの存在や効果を認めたんだ?
     それはあんた一人が勝手にそう言っているだけでしかなく、あんた以外の第三者でそれを認めた者など誰もいない。  こんなもの、言うだけだったら誰でも何とでも言える。
     こんな根も葉もないいい加減な話を信ずるのは、よほどのお人好しか、マインド・コントロールにかかり、まともな判断能力が奪われた人間だけだ。

     また御霊光は物質や空間や時間を超越して、どんなに厚い鉛の板でも山でも原子でも一瞬で透過し、どんな長距離であっても一瞬に到達し、無限大から無限微小に至るまで分散あるいは一点に集中して一瞬で進入する事ができる。だから霊界や魂や心や体の中へも自由自在、無限無数に伝達・放射できるのである。そして御霊光には意志があり、その意志は神様の魂に連動しているから、自分の魂が神様の魂と接続してつながった瞬間から御霊光は自分の魂と心と体に伝達され幸福化作用が発生するのだが、御霊光の強さと幸福化の速度は自分の心と言葉と行動に応じて変化するのである。それで御霊光による幸福化現象を奇跡といい、幸福化の奇跡を起す御霊光の力は日本では昔から観音力ともいわれているのである。
    ■批判■
     物理学の法則など最初から無視し、いい加減なことばかりあんたは言っているが、それにしても無茶苦茶な話だ。
    1、御霊光は物質や空間や時間を超越し
    2、どんなに厚い鉛の板でも山でも原子でも一瞬で透過し
    3、どんな長距離であっても一瞬に到達し
    4、無限大から無限微小に至るまで分散あるいは一点に集中し
    5、一瞬で進入する事ができ
    6、霊界や魂や心や体の中へも自由自在、無限無数に伝達・放射でき
    7、御霊光には意志があり
    8、自分の魂と心と体に伝達され幸福化作用が発生し
    9、光の強さと幸福化の速度は自分の心と言葉と行動に応じて変化し
    10、御霊光による幸福化現象を奇跡といい
    11、幸福化の奇跡を起す御霊光の力は日本では昔から観音力ともいわれ
     よくもこれだけ好き勝手なことを並べられたものだ。
     ではこの、”御霊光”はどのようにして発生し、それを伝搬させるエネルギーをどこから得て、どのような方法でコントロールしているんだ? その仕組みを物理的に説明してみろ。

     光通信にしろ、電波にしろ、二点間に信号を伝搬させるにはそれを発生させるエネルギーと伝搬させるパワーが必要だ。”御霊光”は何をエネルギーにして発生し、伝搬の力を得ているんだ?
     きっとあんたは、「太陽だ」と言いたいのだろう。
     じゃあ、太陽ということにしておいてもいいが、鉛の板も簡単に突き抜けるほどのパワーを持っている光を、どのようにしてコントロールしているんだ? 光というのは直進性が非常に強く、光を人為的に曲げるのは不可能に近い。
     アインシュタインの、「重力レンズ」というのは知っているか? 恒星から発せられた光が、質量の大きな星の横を通過するさいに僅かにその経路が変化するというやつだ。これと同じことを人為的にやろうとしても、それはサイクロトロンを使っても不可能だ。光を空間中で曲げることはとても大変なのだ。
     鉛の板をも通り抜けるすごいパワーを持っている光が生身の人間に当たれば一瞬にして人間は蒸発してしまう。「外見の容姿や体型が美しくなる」とか、「全部が美しくなるのは美化作用が発生」等という文言を用いて女性の心を釣ろうとしているが、こんな光に当たった女性は黒こげになってしまい、美しくなるどころか跡形も残らないだろう。
     あんたの言っていることは、最初から最後まで矛盾だらけのデタラメでしかなく、”御霊光”などというものは存在しない。

     「どんなに厚い鉛の板でも山でも原子でも一瞬で透過し」という下りからすると、ひょとしたら神書の作者は、ニュートリノ(神岡地下観測所にある、スパーカミオカンデで観測してるやつね)をイメージして御霊光を思いついたのかもしれないが、ニュートリノを観測するには膨大な観測装置を駆使してもごく希に観測されるだけであり、その値も極めて微弱なものでしかない。このニュートリノについては現在研究が進められている段階だが、ニュートリノは数多くある素粒子の一つであり、神書の作者が述べるようなトンデモパワーを有するものではない。

     百歩譲って、もし仮にこのようなすごいパワーを持った未知の光が実在すれば、この光の仕組みを解明し、とてつもなく強力な軍事兵器の開発も可能だ。御霊光を操ることができる関係者は、テロリストや超大国の軍需産業から誘拐される危険性が今後十分ある。すぐに身辺警備を厳重にした方がいい!(北朝鮮から拉致しに来るかもしれないぞ・・・。いやアメリカのCIAも黙ってはいないだろう・・・[笑])。

     ただし人間は神様と直接に魂を接続する事は絶対に不可能である。それは神様が永遠の幸福であるように造った自然界の法則を、人間は考え違いによって逆用して永遠の不幸になるように生活しているからである。つまり太古から今まで人間は本物の神様を拒否してきたので、神様と人間との魂のつながりは断絶していて人間の方から神様とのつながりを回復する事はできない訳である。だから私が媒体となって神様の御霊光と幸福の法則を人間に伝達し教えを説いているので、全人類は私を通じてのみ神様とつながることが可能になったのである。
     私が神様の媒体になるのは御神業が完成すなわち現界を神世界にするためで、媒体が生きた人間でないと直接限界の人間に接する事ができないから、限界の人間を御神業の手足として思い通りに使う事ができないのである。
     さらに私は肉体的には機能も姿も人間だが霊的には神様と一体であるから、私が描いた絵や書いた文字、あるいは私が決定した事柄や私が気に入った物や使用した物、私の言葉と念からは御霊光が放射している。
     だから私が製作した御神体と御守りと幸福の法則を説いた神書は神様の分身で、御神体に接したすべての人間に御霊光が伝達し、御守りを身に付けたすべての人間は御霊光を取り次ぐ事が可能となり、幸福の法則を説いた神書の内容を読んだり聞いたり手にしたすべての人間は、目や耳や手から御霊光が体内に注入されるのである。
    ■批判■
     ここは完全に岡田茂吉のパクリだ。神慈秀明会に関する批判記事中にある、神人合一を見てもらえばその類似性が分かる。
    1、私は肉体的には機能も姿も人間だが霊的には神様と一体である
    2、私が描いた絵や書いた文字
    3、私が決定した事柄や私が気に入った物や使用した物
    4、私の言葉と念からは御霊光が放射している
    5、私が製作した御神体と御守りと幸福の法則を説いた神書は神様の分身
    6、御神体に接したすべての人間に御霊光が伝達し
    7、御守りを身に付けたすべての人間は御霊光を取り次ぐ事が可能となり
    8、神書の内容を読んだり聞いたり手にしたすべての人間は、目や耳や手から御霊光が体内に注入される
     もうちょっと上手にやらないと、岡田茂吉の霊が怒って神書の作者を懲らしめにくるぞ。






奇跡 (23)

     奇跡とはマイナスを消滅しプラスにする現象で、尚且つ人間の知恵と計算や距離・時間・物質のエネルギーや自然現象を超越した現象であるから、神様の力によって発生する現象なのである。
     神様の力は御霊光となって躍動し、御霊光は無限・永遠・自由自在の性質と働きがあり、最高級の御霊光からは絶対力が発生するのである。そして現界においては、御霊光は私を媒体として伝達されるから、現界における私の魂と心と体のレベルと階級が上昇し境遇が高度になるほど御霊光は強力化し、より多くの奇跡とより大きい奇跡が発生してより迅速に苦痛と苦悩が解消し、より短期間で幸福化するのである。
     また肉体の病的苦痛が短時間で軽快し良くなる奇跡は、御霊光によって苦痛の原因である毒素の毒性が消滅して、生きて活発に躍動していた毒素が死滅するから毒化作用による苦痛が解消するのであり、さらに毒性が消滅しているから無苦痛で楽に死滅した毒素が体外へ排泄され、体内は短時間で健全化するのである。
     そして絶望的苦しみが突発的奇跡的に解消する奇跡だけではなくて、神様の誘導による奇跡もある。それは神様と魂と心と体がつながっている人間には御霊光が伝達されるから自分だけではなくて家族や周囲の運命も好転し、もし自分にとって危険や損や不運等のマイナスの運命となる要素があるとすれば神様はマイナスの要素はプラスに変化するか、プラスに変化しないマイナスは破壊して消滅すべく人間の運命を最適のプラスヘ誘導するのである。
     また奇跡にはマイナスを解消して0の水準にするだけの奇跡と、0以上の水準をよリプラスの水準にする奇跡がある。マイナスを0にするだけの奇跡とは、神様によって病気や貧乏や不和等の苦悩状態(マイナス状態)が解消される事であるが、苦悩が消滅した状態は苦しんだ人間にとっては良い状態であろうが本来は苦悩がないのが通常の人間の境遇であるから、苦悩が解消されマイナスが0になった状態はやっと通常の人間の最低水準に到達してスタートラインに立っただけの事で、これから0の状態をプラスの状態にして初めて幸福の境遇なのであり、よリプラスの状態であるほどより幸福者なのである。
     だから奇跡の第一段階は可能な限り迅速に苦悩というマイナスを消滅して通常の境遇にする事であり、奇跡の第二段階は通常の境遇から可能な限りプラスの境遇にする事である。しかしどんなに偉大な奇跡で幸福になったとしても、それが一時的なものであったら本当の幸福ではない。
     一時的な幸福を体験しただけで再び転落して元通りの不幸の状態になったとしたら、それはやはり不幸な運命であリマイナスの結果になる。永続するプラスの結果が永遠の幸福であり、幸福が永遠に続く状態が本当のプラスである。
     一時的なプラスでその後マイナスが永続するとか、目先の小さなプラスを獲得したために大きなマイナスを発生させた場合は、その一時的で小さなプラスはマイナスヘ誘導しマイナスを実現させるための餌であり、餌は目的の獲物が好むものであるのは当然ではないか。
     したがって神様による奇跡は神様と自分がつながるためのもので、人間にとって取引できる神様である事を神様自身が証明したものであるから、人間は一時的な奇跡に決して満足せずに永続する幸福を神様との取引によって、当然の結果として自分のものにしてもらいたい。だから自分にとって良い出来事が奇跡であるうちは永遠の幸福ではなくて一時的な僥倖であり、その幸福はまだ神様の所有物で人間の所有物ではないから試食や試乗やサンプルのお試し期間と同じ意味である。
     それで人間が幸福を永遠に自分の所有物にするためには神様と永遠に取引するのだが、神様の取引相手になるには神様の教えを生きる基準にして神様とつながる事が絶対条件である。何故なら生きる基準が間違った教えで不幸の法則であると、いくら神様の奇跡によって一時的に幸福化現象が発生しても、確実に再び元通りの不幸に戻るのは時間の問題である。
     だから生きる基準となり、生活の基準となり、心と言葉と行動の基準となる教えは永久不変の法則であり、秦直に実行すると全員が確実に幸福になり、しかもその幸福が自分から子々孫々まで永続するものでなければならない。すなわち神様の教えとは神様が創造した自然界の法則であると同時に幸福の法則であり、実行する人間は法則によって全員が幸福になり、幸福になるのが自然で当然になるから生きる基準なのである。
     神様にとっては幸福である事が正常な状態であるから、生きる基準が正常であれば自動的に幸福状態となり、その幸福が永久に続くのが当然な訳である。したがって永遠の幸福者だけが住む神世界には「奇跡」・「有り難い」・「御利益」・「祈る」等の言葉は不必要で、「病気」や「苦しみ」の意味を理解する人がいない。
     そして神世界創造まで私の御神業は奇跡が原動力となって成長し拡充するのであり奇跡によって必要な人材と資金が自然に集まるのである。

    ■批判■
     色々ともっともらしいことを述べているが、全てが空々しく聞こえる。
     では聞くが、これだけ多くの神世界被害者が全国に発生している現実をどう捉えるのだ?
     ここに書かれたことが事実であるとするならば、全国に数千人以上、被害金額100億円以上と言われている被害はなぜ発生したのだ?
     それはこのような奇跡など存在せず、人々を錯誤させることで多額の金を集めてきたからにほかならない。
     現在の神世界に必要な人材と金が集まったか?
     一時は騙された人々が集まった時期もあったが、現在は大半の人が神世界を後にしている。これ一つをとってみても教主の言っていることが戯れ事でしかないことは明白だ。





雛形の法則 (27)

     雛形とは実物の模型であり縮図であり、雛形にも大中小があり最小の雛形が核であり種子である。最初は一点の雛形で、次第に拡大して実物大になって完成する。
     だから建物の雛形は最初は頭脳に一瞬ひらめいたものが予想見取図・概略間取図・設計図という具合に拡大成長し、次に縮尺模型の雛形になって実際に建設するのであるが、その後建物の着工から完成までと完成後の建物や住人の運命と事業の運命の雛形は、日常生活の超微細な事柄の中に現れているのである。
     個人・団体・企業・国家の運命の雛形も極小さな出来事や物事の中に現れているのだが、考えてばかりいる人間は頭脳の働きが悪くて鈍く、観察力と瞬間のひらめきがほとんど絶無だから運命の雛形を感知できないのである。
     運命の雛形となる現象については、記憶する夢・場所の形や名称や昔の地名や伝説・人間の名前や言葉や態度。金額・数字・自然現象・体調等、最小の雛形は現象や観察したすべてを形や言葉や名や数年に変換してさらに言霊に変換する事によって、過去・現在・未来の運命の情報がわかるのである。
     しかし自然界が表現した最小の雛形をできるだけ正確且つ具体的に読み取るためには、知識は豊富であるほど、マイナスを考えないほど、健全であるほど、瞬間の感じやひらめきがあるほど、単純化する能力があるほど神様に素直であるほど良い。
     何故なら、知識が豊富なほど言霊に変換する際の言葉を見つけやすく内容を理解しやすい・マイナスを考えないほど頭脳は活発化し固定観念や今までの知識等に頭脳が支配されずに自由白在の状態でいられる・健全であるほど正確な観察ができ雛形を読み取った際の心と言葉と行動が正常で最適な対応ができる・瞬問の感じやひらめきがあるほど高度な観察能力が発揮でき、単純化する能力があるほど複雑な状態を単純な言霊に変換しやすいのである。
     そもそも自然界が表現する最小の雛形そのものが過去・現在・未来の複雑で雑多な情報を最も単純化したものであり、それをさらに単純化するのが言霊への変換であるから、言霊に変換したものは神様と自然界からのメッセージであり意志である。
     そうして日本は世界の雛形であり、私の御神業は神世界創造までの雛形で、御神業の最小の雛形は私である。だから私の魂と心と体は御神業の中心点であり核であり活動力の発生源であると同時に、日本の雛形で世界の雛形であり神世界の雛形であるから、最も快適な状態で永遠の幸福者である私の魂と心と体の境遇が、御神業の要素である一人一人の人間に伝わって永遠の幸福が実現し、全世界に拡大した時が実物大の神世界になるのである。
     ちなみに現在私の御神業において活動する人達は全世界の大中小の民族の雛形であり、大活躍する人は大民族の雛形で、今後多数の拠点ができた時は大中小の拠点が大中小の民族の雛形となる。
     したがって私と私の周囲と私の御神業内に発生する現象は、日本へ拡大し世界大になるからよく観察して雛形の情報を読み取ればわかるのである。今までの御神業は神世界創造の準備の段階であり、これから本格的な御神業となり現実の世界を実物大の神世界にするのである。

    ■批判■
     なかなか壮大な話ではないかと言いたいところだが、お前が本心からこれを書いているのだとすると統合失調症の中でも重度の誇大妄想、宗教妄想の疾患を患っている可能性がある。すぐに精神科の医者に言って診察を受けるべきだ。
     こんなちっぽけな神世界などという超ローカルな、それも詐欺容疑で家宅捜索を受けたような団体が一体何の雛形たるのだ?
     もし神世界が雛形となるのであれば、それはヒーリングなどの女性を引き込みやすい方法を巧みに使って霊感商法を行う手口の雛形にはなりうるかもしれない。
     私が神世界犯罪を詳しく検証し、二度とこのような犯罪が繰り返されないようにするため、神世界の手口を雛形として調査、公表してやろう。





地球は神様の安息所 (31)

     大宇宙は地球一個を生かし、最も快適な状態を永続するために存在するのである。 それは神様が地球を自分自身の理想の住居、永遠に快適な安息所とする意志によるのである。
     空と陸と海があり、山と平野と河川があって、鳥獣虫魚と草木が生息分布し、常に寒冷の地域は雪と氷、常に灼熱の地域は密林と砂漠とオアシス、南海の珊瑚礁、最も快適な温帯の地域には春夏秋冬の四季があり、四季の変化に応じた山川草木・鳥獣虫魚の景色が美しく雪月花の風情があり、特に日本は北海道から沖縄まで寒冷・温帯・熱帯の気候や天候の変化と、春には梅や桜や桃の花が咲き、夏には桃の実やブドウが美味であり、秋の紅葉、冬の言景色、海や山の景色は繊細な配慮と大胆な変化が絶妙の美である。中でも富士山とそれを取り巻く海と山の美しさは比類ない。
     景色の他にも自然界には教えきれない美があり、快適さの中で美とは最大の要素であり、自然界は常に美を実現し永続していて、そのために合理の法則や汚濁を清浄化する作用があり、動物の死骸や汚物は他の生物の食物となって最後には土となり植物が吸収し、自然界は永遠にプラスを生み出しプラスに変化させ、より高度な快適さヘと変化して自然の法則の中で進化している。
     最後に神様は最高度の快道さを自分自身が最高度に楽しみ、喜び、満足感と充実感と達成感を味わい、永遠の幸福を実感するために人間を創造したのである。生きた人間が現界(物質界)に存在する事によって、神様は適度に現界へ人間の肉体で生まれる事が可能となり、肉体の寿命がある限りは現界における自然界と人間の快適さを実感する事ができる。
     だから今私は最後の仕上げのために人間を永遠の幸福に誘導し、自分以外の人間を永遠に手足として代行者として、神様が永遠に快適であるように使うのである。
     これで地球は理想境となり楽園となり神様の安息所ができ上がり、永遠の神世界が始まるのである。

    ■批判■
     話は壮大な方が受けはいいのかも知れないが、あまりにも我田引水すぎるんじゃないか?
     すでに自分が世界の中心であると認定されたような記述になっているが、世界にはたくさんの神様がいることは分かっているのか?
     イスラムの国に行ってその理論をぶちまけたらどういうことになるか分かるか?
     日本は多神教の国だからお前のようなバカ話をしても袋だたきにされることはないが、一神教の国に行ってそのような発言をすれば命取りになるぞ。
     山梨の片隅でお山の大将気取りでいるだけの教主がイスラムの国まで行くはずもないが・・。





使えるものは何でも使う (33)

     私の御神業は人間が考え出したのではなく、神様が天地創造以前に計画したのである。したがって私が本格的に神世界創造の活動を始めるまでの地球上の歴史は、全部がそのための準備だったのである。「神が行った天地創造は六日かかり七日を安息日とした」と聖書にあるが、「七日の安息日」が神世界である。
     だからキリスト教・仏教・イスラム教・儒教・神道及び無数の宗教とその教え、発明と発見・絵画・彫刻・書・建築物・人物等今日までの歴史の内容と結果のすべては私の御神業が順調に予定通りに完成するために必要だったのである。
     私は自然界と歴史から神世界の設計図と模型を作り、神様が用意してあったものは必要に応じて私が使い、必要がなくなったら捨てつつ、設計図と模型を基準にして御神業は拡大しているのである。
     もし私が御神業に必要なものをすべて初めから生み出して作るとすれば今までの人類の歴史は全く無意味だった事になり、神様が意味のない時間と労力を費やした事になるから天地創造も無意味で無価値となり、神様は無能という事になるではないか。神様が私に用意しておいたものを私が使っているから御神業は迅速に拡大・成長し、神様の予定通りの時期に神世界を実現できるのである。
     したがって私は使えるものは何でも使い、利用できるものは何でも利用し、真似すべきものは真似をして、御神業完成までの時間を可能な限り短縮して最短時間で現在進行している。
     今の御神業においては、人間が千年かかっても不可能な事を一年から二年で実現しているから、千年かかっても人間には解消できない苦悩も一年から二年で解消して幸福化するのである。
     そうして苦悩解消と幸福実現までの時間はさらに短縮して、最後には神様とつながった瞬間に苦悩は解消し幸福化するのである。

    ■批判■
     またお得意の誇大妄想の始まりか。
     全ての宗教はお前が活動を始めるための準備だったと?
     じゃーすぐに世界宗教者会議に参加して世界の宗教家の前でその意見を発表してみろ!
     ローカルな環境の中で言うだけなら何でも言える。それをもっと広い世界で実行してみろ。できるか?
     お前には公の面前で持論を堂々と話すことなど全くできないではないか。杉本明枝だけに記者会見を押しつけ、お前はどこに隠れていたんだ?
     マスコミの記者が何度お前のところに取材に行った? 一度でも取材に応じて持論を説明したのか?
     何もできないのはなぜなのだ?

     ここに書かれたことで一点だけお前が実践していることがそのまま書かれている部分がある。
     「利用できるものは何でも利用し、真似すべきものは真似をして」とあるが、確かに岡田茂吉が書いた書画はしかり利用し、真似ている。
     しかしそれは卑劣な行為でしかなく、世の中の常識ではそれは盗作と呼ばれる行為だ。恥を知れ恥を!





御神業は生命体 (36)

     天地創造から永遠の神世界までのすべては御神業であり、私が現界で担当しているのは核心の御神業すなわち御神業の中の御神業である。私が現界に出現するまでは御神業の外殻で、私の御神業が中身であり、人間を永遠の幸福者にして永遠の神世界を創造するのである。
     私の御神業の生命エネルギーの根源は神様であり神様の教えであり神様の御霊光であり、これによって発生する奇跡が人間を神様につなげて御神業の要素や成分を集合して拡大する。そうして私の御神業は永遠の事業であり利益を生み出す事を追求する企業であり幸福実現機関であり、私を核とし中心として躍動している生命体である。
     この生命体の脳は神様と一体である私で、神様とつながった人達は手足・器官・高・胴体・骨格・筋内等の重要な働きを私の指令によって任されて担当している。それで活躍が大きく有能であるほど主要器官となるのは勿論であるが、神様とつながっている人達全員が御神業という生命体の血となり肉となり、 一つ一つの細胞になっているのである。
     そうして最初は一点の存在であった生命体は、日々刻々と細胞が増殖して成長拡大しているから、やがて近い将来には地上全土に拡充し完全生命体となって自然界のすべてを自分の要素や成分にして一体となる。
     完全生命体とは、完全機能を有して永久に作動し続け永遠に生き続ける体である。そして御神業という生命体は、完全生命体となった時点で神世界という生命体になり神世界の住人である永遠の幸福者達全員が生命体を構成する細胞なのである。

    ■批判■
     ではその生命体である御神業とやらがここまで凋落の一途をたどっている理由を説明せよ。
     自分は神だなどと発言することに何の抵抗も示さないのはかなり危ない状態であることに気づかないのは哀れですらある。




神様が主人公のドラマ (38)

     神様は大地創造から永遠の神世界へと続く終りのないドラマの主人公であり、すべては神様の描いた筋書通りに進行している。
     舞台は地上で人間界が中心。舞台の背景とセットは大宇宙と自然界。照明・音声・自然現象・大道具・小道具は全部本物で登場人物は全人類。この世に受胎し誕生してから死に至るまでの全生涯をかけて人間は自分自身の役を現実の本番で演じ続け、過去。現在・未来の無数の場面において最大限の迫力と実感が存在する。
     その中で神様は最も重要で面白い場面に主役として舞台に登場するのは当然で人類滅亡の寸前から神世界の始まりまで最大の見せ場で一番良い役を演じるのである。 だから今までの歴史は主役が登場するための準備であり、最大の演出である。
     つまり人間が力の限りを尽して幸福を求め極度に高度な科学を実現させた結果、人類は減亡へと急転直下し、今まさに全滅の場面で神様が主役で大舞台に登場し、一挙に永遠の幸福に転換させると同時に神世界は始まり、神様は永遠の主人公であり続ける予定になっている。
     そこで私は現在、奇跡を現して人材とお金を集め、大舞台で私と共に活躍できる役者を揃え設備を整えている最中である。

    ■批判■
     岡田茂吉の昼夜転換のぱくりか。笑えてくるぞ。
     岡田茂吉も重度の統合失調症だったが、お前はそれに輪をかけた重症なのではないか?
     しかし金を集めることを公言してはばからないのはある意味立派だ。カルト性が明確に表れており、お前が目的とするところが判断しやすい。





人間は神様の最高傑作品 (39)

     人間は生物の中で最高度の美と最高度に合理で快適な機能を有している。
     容姿と動作の美しさと同時に、眼で物体の映像と色彩を正確に鮮明に見る事ができ、耳で音声を聞き、鼻で匂を感じ、舌で味を感じ、手指と皮膚での感触があり、さらに全身の神経と頭脳によって美と快適さを最高度に楽しむ能力と機能がある。
     知能によって工夫し、企画し、造り出す能力と手指の器用な働きにより、衣・食・住の美と快適さを実現するために大中小の物品や料理を作る事もできる。人体の大きさもこの世では最適で、訓練によっては俊敏な動作や強靭な肉体にもなり得るし、頭脳も記憶力や計算力だけではなくて、ひらめき・直感・運気を感じ取ったり、運気を増大させ運命を誘導する事もできるのである。
     さらに体内の構造と機能は最高度に精巧で緻密にできていて、合理と快適さの極致としての機能は、正常に作動していれば完全健全体であるから、神様が求める理想の人間は出来上がりとなるのだが、現在の段階ではまだ人間は未完成で、今から最後の仕上げになるのであるのである。
     未完成の人間だから異常化と苦しみが常に発生するのであり、その原因は不幸の法則を判断の基準として活動したからで、今度は幸福の法則を判断の基準とすれば良いのである。自然界は人間が幸福でいられるように造られ、人体は幸福を実感できるように造られたので、最後に幸福の法則を人間の頭脳に完全にインプットすれば、人間は幸福の法則を基準として活動するから極簡単で楽に永遠の幸福は実現し、代々受け継がれる。
     これによって人間は神様の最高傑作品となって完成するのである。

    ■批判■
     その幸福の法則とやらはどこにあるんだ?
     それをお前が持っているのか? その法則に従って幸福になった人間がどこにいるんだ? お前の身内だけではないのか? 人々を騙して巻き上げた金で贅沢ざんまいをして恥ずかしくないのか。




人間は神様の体 (41)

     神様が最高度の幸福を実感するための理想の体として人間は存在している。
     神様は意識だけの存在だと時間・空間・物質の法則を超越して一瞬にして宇宙の彼方へ移動する事も、過去・現在・未来へ出入する事も、地球上のあらゆる物体や動植物に出入する事もできるので無限・絶対であるが、自分の体を自由自在に使いこなして地上の快適さを楽しみ喜ぶ実感は得られない。
     たとえ頭脳内に侵入したり、憑依して人間の体をコントロールしたとしても、自分自身の体でなければ意識と体との一体感がないし、永続して完全にコントロールするのは手間と労力がかかり過ぎて合理ではない。
     だから神様が自分自身の体を得るのには、人間の母体内に受胎して時満ちてこの世に生まれるのが最も簡単で手間がかからず、意識と体とが完全に一体となれる最適な手段なのである。
     このように人間は神様がこの世に生まれるための体であるから、完全に健全であれば人間は常に最高度の美と機能と快適さを呉えている。
     完全に健全であるには、人間の体内に毒素と不快感の汚濁や汚染、それによって発生する異常と苦痛が絶無である事が必要で、常に体内は清浄で正常な機能が活発に作動している状態であれば良い。
     神様にとって自分自身の体と自分の手足となる人間の体に、いささかでも汚濁や汚染や異常があるとすれば、それだけは快適さが損なわれるのである。
     だから人間の体内の汚濁と汚染を解消するために、毒素と不快感を体内に入れないようにして、すでに体内に蓄積された毒素は神様の御霊光によって消滅可能になったから、これによって人類は完全に健全体となり境遇も永遠に幸福となるのである。
     子々係々に至るまで完全健全体であり続ける人類は永遠に幸福であり、そこに生まれるのは神様との永遠の取引が成立した神人類と神様自身だけである。

    ■批判■

     >すでに体内に蓄積された毒素は神様の御霊光によって消滅可能になった

     ほう、そうかい。じゃー御霊光病院を建てて大儲けをしたらどうだ?
     世界中から難病の人たちが押しかけてきて教主はたちまち大金持ちになれるぞ。詐欺罪で警察に追われる心配もないぞ。ただし御霊光に本当にそれだけの力があればだが。





人間 (43)

     神様と悪魔との中間に位置する生物が人間である。人間が神様とつながれば幸福になり悪魔とつながれば不幸になるのだが、人間はまだ不安定で不完全な未完成品であるから、どうしても愚かな訳で悪魔とつながりやすいのである。
     だから神様は人間を完成品にするために御霊光と教えを下さり、神様とつながった人間は完成に向かって進化でき、悪魔とつながったままの人間は廃棄されるのである。
     そうして人間はすべての運命を全部自分自身の心と言葉と行動で作っているので、偶然は存在しない。だが人間の生きる基準が悪魔の教えであったから幸福は一時的で不幸が永続し、この運命を永遠に繰り返すだけで好転できなかった。だから人間は前世も今世も来世も同様な運命の因縁から脱出できなかったのである。
     したがって人間が神様とつながり永遠の幸福者となるには、御霊光によって幸福化するのと同時に神様の教えを生きる基準にする事であり、それによって幸福は自分の世代だけでなく子々孫々に至るまで、さらに自分が先祖になっても再び自分の子孫に生まれ変わっても永遠に続くのである。その結果完成品となった人間は完全健全体であり、魂は神様の分霊と一体であるから、最早人間ではなくて神人なのである。

    ■批判■
     何をたわけたことを言っているか。人間の主体性はどこへ行った。神だの悪魔だの、そんなものは自分の心の持ち方の問題でしかない。
     神様ごっこは普通は小学生で卒業するものだが、教主はいつまでたっても神様ごっこから抜け出せない子供と一緒だ。
     小学生と違うところは、神様を自分の金儲けの口実に利用するずる賢さを身につけたところだ。
     こんな神を信じてしまえば、子々孫々に至るまで憂いが残ることになるだけだ。




神様の道楽 (45)

     神様にとって、この世を永遠の幸福にして神世界を造るのは道楽であって、人間にとっての仕事や労働や稼ぐ事とは異なる。
     また神様には愛や慈悲の心等はなく、苦しく人間をかわいそうだと思う心もなく、無償で不幸な人間を助けたり救ったりはしない。
     何故なら不幸はその人間が好んで求めた結果として実現したのだから、希望通りの不幸が叶えられた訳で喜ぶべきであるが、不幸は苦しいから幸福にしてもらいたいと求めた場合は、不幸を実現させるまでの時間と労力とお金は無駄で損になり、無駄と損を費やしてまで不幸を求めた訳であるから、幸福を求めるにはそれ以上のプラスを神様に支払う必要がある。
     だから人間は神様との取引によって幸福を実現するので、その幸福に対する対価は神様に支払い、人間がそれまでに費やす時間と労力とお金は必要経費であり手数料である。神様との取引が可能になったのは、現在神様自身がこの世で活動していて、手足となる多数の人間と莫大なお金を必要とするためであり、神様から人間へは幸福をもたらす代わりに人間から神様への代価を労力やお金で支払う事によって、取引は永続して成立するから幸福は永続するのである。
     しかし神様の目的は人間を幸福にする事ではなくて、神様にとって最も快適な世界を造る事で、そのためには手足として使える人間を必要とし、手足となる人間は心も身体もなるべく正常で素直なほど最適であるから、結果として神様と取引が成立している幸福な人間を使うことになる。
     神様の道楽は天地創造と同時に始まり、いよいよ神世界実現の段階で最大の見せ場になる所で神様自身が主役として登場して、最も光り輝く絶対者となる場面を迎えるのである。
     したがって永遠に最高度の楽しさと満足と充実感を味わい、最高度の快適と幸福を永遠に喜び楽しむのが神様の極める道楽である。

    ■批判■
     なんともハチャメチャな神様だなー。そんな神様なら、居てもらっても何の価値もないだろう。
     愛や慈悲の心を持たず、人間を助けたり救ったりはせず、人間から金だけを吸い取るのは神ではなく、それは悪魔でしかない。
     「神様自身がこの世で活動していて、手足となる多数の人間と莫大なお金を必要とするためであり」って、何に金が必要なんだ? 具体的に収支明細書を見せてみろ。
     「神様から人間へは幸福をもたらす代わりに人間から神様への代価を労力やお金で支払う」って、一体どんな幸福がもたらされたんだ? 大半の客は不幸になって行くばかりで誰も幸せになんかなっていないではないか。
     「手足となる人間は心も身体もなるべく正常で素直なほど最適であるから」っていうのは、文句を言わず、疑問を挟まず、盲目的に神世界のいうことを聞いてくれる使いやすい、操りやすい人間を求めているだけでしかない。

     だいたい、神が金を欲しがるなんてことが根本的におかしい。実態は、神が金を欲しがっているんじゃなくて教主が贅沢をするために金が欲しいだけでしかない。
     よくもここまで人をバカにした話をでっち上げたものだ。





御神業の実行者は私一人 (47)

     御神業とは取引によって人間を永遠の幸福者にして現界に神世界を実現する事だから、実際に現界で御神業の要素として活動するのは生きている人間である。勿論御神業の要斉となるのは神様とつながって奇跡や良い結果を得た人間であるが、神様も人間も善意や好意で活動している訳ではなくて、御神業においては神様と人間との取引によって全部が成り立って活動しているのである。
     だから神様から人間への無償の援助もないし、人間から神様への無償の奉仕もない。 また偶然や神様の気まぐれで発生する現象もなく、すべての現象は神様と自然界からの意志であり要求であリメッセージであり誘導であるから、すべての現象には意味があり発生する理由がある。
     神様とつながった初期の段階における奇跡や良い結果は、その人間をできるだけ迅速に神様と取引関係にして御神業の要素にするために発生するのである。そうして神様との取引成立によって良い結果が永続し、幸福度が次第に上昇するから御神業の要素として活動する事が楽しくなり、さらに順調に御神業の大きな要素に成長して大きい活動をするようになると取次者の段階になる。このように御神業の要素となった人間の価値と能力のレベルの上昇に比例して境遇の幸福度も高まるのだが、同時に神様と自然界からの要求も高度になる。
     その要求とは、より効率良くプラスの成果を得るためのものであり、御神業上役に立つ人間で価値と能力のレベルが高度であるほど、その人間の弱点や欠陥や異常等のマイナス要素を解消させようとするし、その人間の容姿・雰囲気・言動・運命等をより好転させてプラスの要素を増やそうとするのである。だからそのために私は、その人間のマイナス要素を具体的に指摘して指導し、御神業の実際の活動の中で訓練させるから、時には「これでもか、これでもか」というように弱点や欠陥や異常等を鍛えて強化し正常化してプラスの要素を増やそうとするため、人によっては苛酷に感じるかも知れないが、この場合は神様と自然界から重大使命を遂行できるかどうかを試験されていると判断すべきである。
     御神業において重大使命を遂行する上で心と体が激務と任務の重大さに耐えられると判断された時点で神様と自然界による試験は合格し、さらに高度なレベルに進み、さらにレベルが上昇すると、一層高度な試験と関門がある。これによって私は御神業の要素である人間の価値や能力のレベルを正確に判断でき、最適な人材を最適な所に使う事ができるから最適な取引関係による最大のプラスを得られるのである。
     だから私以外の人間は自分の価値と能力のレベルに応じて私から御神業の活動を許されている立場であり、御神業の実行者ではない。現界における御神業の実行者は私一人であり、他のすべての人間は取引によって御神業の活動を許され私に使われているのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





神様に任せよ (50)

     私は神様の媒体そのものであり、神様と一体となって使命を遂行しているから、人間的な考えは全くない。種々難問題が生じても『これは神様が行っているのだ』とひらめき、すぐにお任せしてしまうのでいつの間にか自然にすべてが順調に解決してしまうのである。
     しかしながら私以外の普通人にあっては、なかなかこんな訳には行くまい。それは先ず問題が生ずるやすぐに「心配」という念が心の中に充満し一杯になってしまうので、心配は心配を生み、心配事が実現してしまい、ますます問題の解決が困難になるものである。
     ここで誰もが知らねばならない事は「心配」という心についてであるが、この「心配」という心はすなわち人間の我であり執着である。つまり人間的計算という訳で、神様の方で『何とか助けてやろう』と思っても、この心配という執着があるとそれがマイナスの作用を発生させ、神様からのプラスの作用が減少するので、そのため思うように行かないのである。
     すなわち「心配」の心が強いという事は、心配事の解決をあくまで自分の力で何とかしようとする心の表れであって、そこには神様と取引して後は神様に任せようという心が全くない。
     したがって心配事が発生したならすぐに神様の所に来ることで、なるべく心配の執着を持たないようにすれば万事順調に解決して行くから全く心配はない。ただし、この場合私の言った通りに行う事が条件であるのは言うまでもない。心配する暇があったら神様との取引材料を沢山増やし、神様のプラスになる事をどんどん増やせば必ず良い結果になるから心配している時間が勿体無いのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





御神業は奇跡・人・お金 (52)

     御神業は神様を主、人間を従とした神様と人間との共同作業であるのだから神様がいなくても人間がいなくても、神様だけでも人間だけでも御神業は成り立たないし意味がない。
     そうして御神業の原動力は神様が現す奇跡であり、奇跡によって神様である事を証明できるのである。また神様だけにしかできない奇跡だから人間の魂が瞬時に目覚めて心を開き、飛躍的に魂と心と体が健全化して運気が上昇するので、神様の教えも素直に実行し神様の手足となる多数の人達が集まり、労力とお金を御神業に提供するのである。
     すなわち奇跡・人・お金が御神業の要素であり、奇跡がなければ御神業の存在自体もなく、人が存在しなければ御神業運営の労力がなく、お金がなければ現界における御神業は運営できない。それで神様は奇跡によって可能な限り迅速に必要な 人とお金を得て、自由白在に御神業を展開できるから、予定通りの目的達成が可能なのである。
     したがって私の御神業の順調な成長・拡大とは、奇跡に比例して人とお金が増大する事である。

    ■批判■

     私(fujiya)は、いまこの文章を2008年11月24日に書いている。
     神世界が現在どうなっているかを見たとき、ここに書かれている内容がすでに破綻していることは明らかだ。
     2007年12月末に神世界事件が公になり神奈川県警による強制捜査が行われた。それ以後神世界が世間に示した姿勢はここで自らが述べている内容とは全く違う。
     神世界本部の「神世界」の看板を塗りつぶし、新規の客を集めることをストップしたまま残った連中だけで細々と営業を続けているに過ぎない。

     もし御神行とやらが人間にとって本当に有益なものであるならなぜ躊躇する必要があるのだ?
     ケチな詐欺師でしかないからコソコソと看板を塗りつぶしたり、ウソで塗り固めた言葉で残ったスタッフを騙し続けているだけではないか。
     本当に神世界が世界一素晴らしい団体であれば警察の強制捜査を受けることもなかったであろうし、客が激減することもなかったろうし、被害対策弁護団が作られることもなかったであろう。
     一連の事実は神世界がインチキであることを裏付けている。
     上記に書かれている、”奇跡・人・お金”のどれもが破綻状態にあるのが現在の神世界だ。
     彼らは二言目には、”結果”という言葉を使うが、これが神世界の真実を示す結果である。





第二章 法則


自然界のすべてに法則がある (56)

     天体には一定した軌道と周期があり、地球と太陽との距離が常に最適であるから地上には植物や生物が生息し繁殖できるように光と熱が適度になっていて、一年は365日で一日は24時間になっている。
    植物や生物は条件が同じであれば、同じ種類の子孫は容姿・外観・機能・寿命・成長の速度と変化・食物・好み等も同様になる。
     物質を構成する極小単位の原子の構造も正確に一定した機能が作動していて、同じ種類の原子は同じ構造・性質・エネルギーになっている。
     このように原子以下の無限微の世界から天体の無限大の世界に至るまで法則が成り立っていて、法則によって正確に構成され運営されているのは絶対者である造物主が確実に存在する事の証明であり、自然界のすべての存在と現象は偶然に発生するものは何もなく、すべてに意味と価値があり法則によって現象と結果が発生するのである。
     人間が発明・発見・開発して物質文明が高度になったのは、自然界のすべてに正確な法則があり、発明・発見・開発の材料がすべて自然界に存在していて、人間は自然界の一部分の法則を発見して応用し発明したからであるが、人間が無から創造したものは何もなく、人間自体が創造された存在なのである。さらに発明・発見・開発の時期も関係者も頭脳のひらめきも、偶然ではなくて造物主である神様にとって最適の時期と人とひらめきが自然界に仕組まれていたのである。
     そうして人間は神様の肉体となるべく造られたのだから、自然界には人間が永遠に幸福でいられる法則ができている。幸福の法則とは極簡単で単純であり、誰でも今から実行できて実行できた分だけは確実に幸福の現象が発生し、幸福の法則を完全に実行している人間は実行している間は永遠の幸福が完全に実現しているのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





自然界と人間を観察する (58)

     大宇宙を含めた自然界のあらゆる存在とあらゆる現象や活動は、すべて地球を最適な理想境にするためにあり、地球は人間を理想の境遇にするためにある。だから結局は人間が永遠に幸福であるように自然界は仕組まれていて、自然界は法則によって運営され運行されている。したがって自然界を正確に観察していれば自分が幸福になる法則が自然とわかるのである。
     そうして自然界の中の人間界においては、人間を観察する事によって人間界での自分の生活や活動に応用する事ができてより最小の損とより最大の利益が可能になる。人間を観察するとは人間の容姿・体型・年齢・家系・今日までの運命等を自分の五官によって確認する事であり、マイナスを生み出さない観察であるべきなのは勿論だが、どんな人間のどんな内容でも全部が人間の言葉と行動と表面に露出しているから、それを自分の目や耳や鼻等の五官を使って観察すれば何でもわかるし、未来の運命をも具体的且つ的確に把握できるのである。自然界と人間を観察する能力は、日常生活において観察を習慣にすれば誰でもある程度は開発できるが、魂と心と体が健全であるほど高度な観察力を身に付けてプラスを増大する事ができるのである。
     しかし観察力は思考力ではなくて感じる力であるから、人間力を信じたり、人間的物質的計算をしたり、今までの知識で判断したり等あれこれと考える事が観察力の邪魔になる。また観察した内容は意識して頭脳に記憶する必要はない。 自然に忘れても頭脳の中に無理なく観察内容は記録されていて、必要に応じて色々な形で最高度に使われているのであり、健全であるほど運が良いのは頭脳が健全であるほど正常であるから、頭脳内に記録された内容を頭脳は自分の幸福実現のために最高度のプラスを生み出そうとして利用するのである。頭脳では、綺麗・うれしい・楽しい・おいしい・快いという瞬間に発生するプラスの感じを幸福として受け入れて確認するのであるから、考える必要も無理をして言葉にする必要もない。そうすると頭脳は活発になって、記憶力も神経も直感もひらめきも自然に開発されてあらゆる高度な能力を発揮できるようにできているのである。
     そうして観察力にとって、プラスの知識と体験は可能な限り豊富であるほど良いし、幸福な境遇であるほど良い。何故ならプラスの知識と体験と幸福な境遇は幸福の成分であるから、頭脳が記録している幸福の成分が豊富であるほど、観察によって発生するプラスの感じが豊富になり、より高度で充実した幸柄感になるからである。
     今までの発見や発明も人間が考えて生み出したのではなくて、自然界と人間を観察していてヒントがひらめいたり直感が働いたからであり、ただ人間はそのひらめきと直感を無数の実験と試み(単純作業)によって確認したので、その結果が発見や発明となっただけである。美術品や芸術や芸能等においても同様で、苦労して考えて作られた物より、ひらめきや直感による方が活力があり、名品や名作や名演になるのである。
     また天才や名人や達人も同様にしてできるのは勿論である。
     私にしても自然界と人間を観察した結果、自然界は永遠の幸福を実現するために存在する事と、自然界の法則は人問が健全で幸福であるためにある事と、人間が不幸になる共通点を確認できた事によって人間の幸福化に応用でき、御神業のプラスになっているのである。だから自然界と人間は私にとって教材であり、資料であり、教師でもある。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





火・水・土の原理 (61)

     無限大から無限微小のすべての存在は、火の成分と水の成分と土の成分の三要素が一体となってできている。
     火の成分はすべてを熱と光に変化し燃焼する作用があるから、もし水の成分が消滅すれば火の成分によって原子から大宇宙に至るまでの一切が一瞬にして無限の最高温度となり、燃焼・爆発し消滅する。水の成分はすべての熱を奪って冷却・液化・凍結させる作用があるから、もし火の成分が消滅すれば水の成分によって原子から大宇宙に至るまでの一切が一瞬にして無限に最低温度となり、一切の活動が無となるから無音・無明・無熱状態になる。
     土の成分はすべてを物質化する作用があるから、土の成分が消滅すれば一切の存在が無となるのである。火・水・土の成分は、それぞれが単独では成り立たないし、一要素が欠けても存在が成り立たない。ただ三要素の成分の割合によって色々な性質の存在が発生するのである。
     具体的には、強力な光と超高温を発生している巨大な火球で火の成分の塊である太陽であっても、水の成分があるから無限に温度が上昇してしまうのを制御でき、土の成分があるから巨大な物体の塊でいられるのである。だから火炎は火そのもので火の成分を主とするがそれだけではなくて水の成分もあるから温度の上昇が有限となるのである。
     火力が弱いと土の成分だけが燃焼し、火力が強いと水の成分が燃焼し爆発する。また水の成分が原子核の中から瞬時に消滅すると核爆発が発生するが無限に爆発が拡大しないのは周囲の水の成分が制御しているからで、太陽も表面で核爆発が無数に発生しても太陽自体の爆発に至らないのは、太陽内部には相当の割合で水の成分が存在するからである。
     だから大宇宙における星の自然爆発は、星自体に水の成分が絶無か極微量となり火の成分による温度の無限上昇を制御できなくなったためである。 そして水の成分消滅の瞬間に星は自然爆発し、一体化していた火・水・土の成分は光と熱に変化するのである。
     地球において無尽蔵の資源である水も水の成分が主ではあるが、火の成分と土の成分が含まれているから安定した水が存在できるのである。火の成分が消滅すると無限に温度が下がり続け、絶対零度の存在も不可能になる。地球の陸地も土そのものであるが土の成分だけで成り立っているのではなくて火・水・土の成分が一体となって地球全体が最適になっている。
     そして物質を構成する微小単位の分子・原子・原子を構成する原子核と電子・素粒子・さらにすべての存在は最小単位に至るまで火・水・土の成分で成り立っている。それで原子の中で最も火の成分が強力なのが酸素・最も水の成分が強力なのが水素・最も土の成分が強力なのが窒素である。
     そうして物質も肉体も現界において生きている状態で生命がある場合は、霊と一体になって存在する。霊は火の成分を主として水と土の成分を従とし、物質と肉体は水と土の成分を主として火の成分を従としているが、この両者は一体となっていないと現界では存在できない。だから個体である物質や肉体から霊が離脱・分離した場合は、現界においては死の状態であり、生命がなくなったので霊は意志のある気体として存在するのである。
     そして霊が抜けた物質や肉体は通常では原子にまで分解される事ができ、肉体の場合は液体の水分は蒸発し骨や肉は腐乱して分解されカルシウムや窒素等になって土壌に吸収されるが、特に超高温で燃焼すると気化してほとんど二酸化炭素になる。
     また植物や生物は火・水・土の成分を常に太陽光線・空気・水・食物・土そのものから呼吸や飲食によって吸収しながら生きるのである。このように火・水・土の成分が三位一体となってすべては存在し、存在を構成する最小単位でもあるが、火・水・土は成分だけではなくて仕組みや働きにおいても理想の状態を構成する要素である。
     それで大宇宙では太陽は火・月は水・地球は土であると同時に、火・水・土が三位一体となった理想状態が地球であり、地球を最高度に快適な住居にするのが神様の目的である。
     また人間にとって、神様は火・先祖の霊は水・現界の人間は土であると同時に、人間が神様にとって最高度に快適な体になるために火・水・土の三位一体によって理想状態にするのが神様の目的である。だから地球と人間を理想状態にするために一切が存在し法則があり、御神業が仕組まれているのである。
     詳しく説明すると、神霊界は火・人霊界は水・現界は土で、さらに、理想状態になると太陽神界が火・太陽神界以外の霊界は水・現界は土であると同時に現界が火・水・土の三位一体による最高度に快適な神世界となるのである。
     人体では頭は火・胴体は水・手足は土、胴体内では心臓は火・肺は水・胃は土、血液では赤血球は火・白血球は水・血小板は土、肝臓は火・腎臓は水・腸は土、おしべは火・めしべは水・実は土であると同時に火・水・土三位一体の理想状態であり、精子は火・卵子は水・受精卵は土であり火・水・土三位一体の理想状態で出産となり成長し活動するのである。
     経済では商品は火・代金は水・お客様は土、会社では経営者は火・社員は水,株主は土、政治では大統領は火・政府は水・国民は土、心は火・言葉は水・行動は土であり三位一体、魂は火・心は水・念は土、幽体は火・霊体は水・肉体は土で三位一体、魂は火・霊は水・肉体は土、喜は火・肉体の水分は水、・肉体の水分以外は土、神様の教えは火・人間の法則や制度は水・人類の実生活は土、自然界の法則は火・人類の営みは水・地球全土と一切の存在は土、内閣は火・議会は水・役所は土、家庭では家計を支えているのが主人で火・主人の補佐が水・家族は土、樹木では幹は火・枝は水・根は土、木の実や草の実の果実は火・菜っ葉は水・根菜やイモ類は土、果実では種は火・果汁は水・果肉は土、栗等の木の実は火・果汁でできている果実は水・米や麦等の主食となる実は土、知能は火・知識は水・知恵は土、直感は火・霊感は水・五感は土、神力は火・霊力は水・自然力は土であり三位一体が絶対力、神は火・観音(弥勒) は水・メシアは土で三位一体、神界は火・幽界は水・現界は土、御神業においては神(神の働き)は火・観音(観音の働き)は水・永遠の幸福を求める者は土、神様と一体の私は火・取次者は水・神様に魂がつながっている者は土、創造は火・破壊(調節) は水・理想状態(完成)は土、目的は火・過程は水・目的達成は土、教えを説くのは火・教えを実行するのは水・教え通りに実現するのは土、空気を吸うのは火・水分を飲むのは水・食物を食べるのは土、幸福化の成分である御霊光を体内に取り入れ吸収するのは火・生存上必要な空気等の気体を体内に吸収するのは水・生存上必要な飲食物を休内に取り入れるのは土、母屋においては神様を祀ってある所は火・先祖を祀ってある所は水・寝室土、住居では寝室は火・台所や風呂場やトイレや作業場は水・居間は土、最高(陽)は火・最低(陰)は水・最適(和合)は土、等すべては火・水・土の成分や要素や組み合せや働きになっていて成り立っているのである。

    P68-70 表<<火・水・土の原理>> (文章と同じことを言っている 省略)

     すなわち火は縦に燃え上昇するエネルギー源の働きである。だからすべての中心であり、中心のエネルギーが強いのは火の働きが強力な訳で、強力な火の働きは渦巻を起し中心へ引き寄せる求心力が発生する。そして不変で絶対の火の働きはすべての基準であり法則となる。また水は横に流動し隅々まで拡充して、あらゆる状態に応じて変化する働きである。だから水の働きは中心から外へ外へとエネルギーを発散・放出させ、浸透し下降するのである。土はすべての土台であり、成果であり、結果であり、現実である。
     そうして火の働きである求心力は時計の針と同じ方向に回転し、火の働きを主とすると統一力が発生し、水の働きは従となるから火の働きの法則を基準として拡大・発展となる。だが水の働きは時計の針とは逆回転であるから、分裂と放出と混乱によって破壊作用が発生する。したがって火は主で法則であり、水は従で法則に従って変化し拡大し、上から下に至るまで浸透しながら目的に向かって運動・進行する力となり、土は目的の完成であると同時に火・水・土の三位一体による理想状態の実現である。このようにすべて火・水・土の原理に当てはまっていれば理想状態は実現するのだがそのためにはすべての根源となる絶対で永遠である火の働きの存在が不可欠である。
     つまり火の働きの根源である太陽神が中心であり、太陽神の成分である御霊光と自然界の法則で神様の教えである幸福の法則を統一の基準として、火・水土の三位一体の神世界は実現するのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





言霊 (72)

     天体や植物や動物を含めた自然界のすべての存在には音声があり、音声は意志と一体となっていて結果を生み出している。例えば風は空気による音声で空気を清浄にするという結果を生み出す。破損や変形や移動という結果を生み出す。石や木や金属等の物質と物質との衝突による音声は物質の破損や変形や移動という結果を生み出す。そして生物の音声には意志や情報の伝達という生物特有の働きが加わり、それによる結果が生み出される。さらに人間においては音声は文字と言葉にして伝達と記録ができ、人間の文字と言葉自体に意味と働きがある。
     自然界のすべての音声は言霊であり、言霊は意志(心)と音声(言葉)と結果(行動)によってできていて、地上では生きた人間の言字が最も強力な働きを持ち人間は言霊と共に活動している。
     魂と心と体の階級と境遇が高度であるほど言霊の働きは強力で、自分や他人の運命を誘導する力がある。だから例えば会社経営者が社員に「クビだ」と言えばその言霊の働きによって社員は会社を解雇されて失業する運命になり、裁判官が「死刑」と判決を下せばその犯罪者は処刑されて生命を失い、国家の独裁者が「戦争だ」と言えばその言霊は戦争を発生させ多数者の生命と財産を奪う結果となる。また神様と一体化した神人の言葉はマイナスを消滅しプラスを生み出す言霊となって躍動して、神様とつながった人間を永遠の幸福へ誘導する力がある。 
     そして神人の言霊は御霊光そのものであり、文字からも言葉からも御霊光が無限に発生していて、神人が書いた文字やそれを印刷した書物を読んだり神人が話す言葉を聞いたりする際に御霊光が体内に伝達され、さらに周囲全部に御霊光が遍満するのである。
     したがって言霊の働きとは言葉による結果であり、音声だけでは一瞬にして消滅する極稀薄な存在なのである。だからマイナス人間にとって感じの良い言葉だから良い言霊ではなく、感じの悪い言霊だから悪い言霊なのではない。自分にとってプラスの結果をもたらす言葉であるほど良い言霊で、不幸になる人間は不幸をもたらす言葉を快く感じ、それを信じて実行するのである。不幸をもたらす言葉は信じさえしなければ不幸の言霊作用は発生しない。
     不幸をもたらす言葉とは無意味で無価値で実体がないものを、人間にとって重要な価値があり幸福の要素であり善だとする言葉で、価値があり幸福の要素であるものを無価値で非人道的とするのであるから、信じた者は幸福にはなれないのは当り前である。現在の人間は毒素によって異常化しているし神様の教えを知らないから、不幸の言霊作用がある言葉と幸福の言霊作用がある言葉とを、日常生活で多く使っている言葉の中で重要なものについて言霊の意味と働きを、ここで私が詳しく説明してみよう。尚今まで私が説いたものについてはここでは省略する。
     それではこれから一つ一つ言葉を具体的に列挙して、言霊およびそれに関連した事柄について解説していく事にする。

    1.自由
     自然界には完全な自由は存在しない。自然界の法則によってすべてが成り立っているから、人間には幸福になる自由と不幸になる自由があり選ぶ自由だけがある。幸福になる自由は幸福の法則による生き方が決まっていて、不幸になる自由も不幸の法則によって生き方が決まっている。だから自由という言葉は無意味で空虚であり、人間は自然界の変化に応じて常に自分の運命を自分で選んでいる。
     でたらめや無秩序は自由ではなくて自由な行動に見えて錯覚しているだけで、その結果は法律や個人的復警による強力な拘束や制限を受けたり、病気や貧乏や争い等の苦しみや不幸による不自由となる。
     したがって自由という言葉の言霊作用は、存在しないのに存在するとしているから欺瞞とと嘘による異常化であり、信じると毒化作用による不幸化が発生する。悪魔は暴力による破壊や犯罪や不幸を生み出す行動を正当化するために、自由という言葉を発明したのである。

    2.偶然と特別
     自然界はすべてが完全な法則によって運行していて、そのものの価値に応じた境遇になっているから偶然と特別は存在しない。ただ人間は偶然のように感じたり不公平で特別のように感じたりするだけである。もし一つでも偶然と特別が存在すれば、自然界の法則は存在しないのであり、同時に自然界の法則の中の幸福の法則も存在しない事になるから、人間が自然界において永遠の幸福を実現する事は絶対に不可能である。
     だから人間が偶然や特別だと判断するのは異常であり、自然界の法則は完全であるからすべての出来事や存在や運命は当然の結果である。
     神世界においては永遠の幸福であるという事は、幸福の法則を生きる基準にして神様との取引による当然の結果であるから、偶然や特別という言葉は全然使われないのは勿論である。

    3.善悪正邪
     善悪正邪は動機や過程ではなくて結果である。結果が良ければ善であり正義である、が、結果が悪ければ思であり邪となる。勝った者が強者であり勝者は善であり正義であり、負けた者は弱者であり敗者は悪であり邪となるのが自然界の法則であるから、より不幸や苦しみやマイナスが大きいほど悪で邪となり、より幸福や楽しみやプラスが大きいほど善であり正義である。だから永遠の幸福者は永遠の善人であり永遠の正義となるのは勿論である。
     したがって今までの人間が考えて作った道徳や宗教による善悪正邪は全部嘘で間違いであり、人間は「良いか悪いか」「正しいか間違いか」で行動するのではない。人間は「好き嫌い」で行動し、人間は自分に関するすべての事柄を好きか嫌いかで判断するのである。だが異常化して運の悪い不幸な人間は自分にとって損でマイナスで不幸になる方を好んで求め、自分にとって利益でプラスで幸福になる方を嫌う。反対に正常で健全な幸福者は自分にとって利益でプラスになる方を好んで求め、自分にとって損でマイナスになる方を嫌って拒否する。
     以上によって善悪正邪は結果であるから、生きる基準や判断の基準にはならない。 人間にとっては「得か損か」「プラスかマイナスか」で判断するのが最適である。だから人間の一時的計算や気まぐれでできた善悪正邪を判断の基準にするのは人間の本能が求めないから無理であり、人間を偽善にする作用があり、表面上は無理して良く見せ内面はその無理の反動で悪化し異常化するのである。このような偽善者は常に他人の善惑正邪を語り、他人からの自分に対する評判を異常に気にするため、常に他人に良く言われ良く思われたがって表面では偽装して「いい人」になっていて裏では他人の欠点や間違いばかりが気になり、次第に自分にだけ都合の良い理由をつけて自分のマイナスの行動を正当化するようになり遂には表裏を巧妙に使い分ける一人前の偽善者になる。
     こういう人間は何時暴露して犯罪者になるかわからないし、表面上は人間的善人に見えるから油断すると何時だまされるかわからないので危険である。表面上いかにも危険人物に見えれば誰もが避けるが、表面上がよく見えると、油断して接近するから、むしろ危険が現実のものになる可能性が高い。
     また愚人の善とは悪い事をしないのと世のため人のために尽す事だから、自分の幸福を求めていない。そして子供に対する教えも「他人に迷惑をかけるな」とか「悪い事をするな」等と当り前の事であって、こんな教えだと当り前の事が特別立派な事になってしまうからヽプラスを生み出す事は至難の業であり到底幸福にはなれないではないか。幸福とは自分にとってプラスの成分がより多大である事であり、マイナスでない0の状態だと極わずかなマイナスが発生してもマイナスの状態となり不幸になるのだから、プラスを増大させてより高度な幸福を求め続ける事が正常で、健全な人間にとっては通常で当り前の本能の欲求である。
     善悪正邪の観念があるのは今まで人間が異常で不幸だったから、悪と邪である事が普通であり善と正である事が特別であったためで、神様とつながる事ができなかった人間にとっては、マイナスを生み出さないという教えが精一杯の限界で最大限の善であり正だった。しかし私を通じて神様とつながる事ができる人間にとっては、自分が幸福になる事が当然の欲求であり、永遠の幸福者となれば幸福が普通であるから善と正も普通で悪と邪は到底あり得ない事である。だから「良い事をした」という観念もなく、プラスを生み出す事も普通で当り前になるのである。

    4.戒律と修行
     戒律と修行は今までの宗教や信仰集団における主な要素であるが、どうすれば幸福になれるのかが全然わからなかったので、できるだけ不幸の要素(マイナス)を発生させない事しかできなかったために、外部からは戒律によって内部からは修行によって欲望等を制限あるいは禁止しようとしたのであって、それが人間の理想状態(幸福)を実現する唯一の方法と信じて実行したのである。
     それで今までの人間は何等かの宗教や信仰に所属していて、先祖代々から子孫に戒律と修行の教えが浸透しているからどうしても「苦労しないと幸福になれない」とか「苦しみは自分の罪を消滅するために発生する」とか「他人の苦しみを背負う事は最高の善だ」とか「苦しむのが善で楽しむのが悪だ」等の異常な精神から脱出できないのである。
     苦労は苦しみで苦しみはマイナスで不幸の要素だから、苦しみが多いほど不幸の要素も増大してより一層の不幸の状態になるに決り切っているではないか。もし苦しみによって罪が消えるとすれば、だんだん苦しみも消える筈である。苦しみが増大するのはその「罪」とかも増大している訳で、こんな単純な道理もわからないとすれば、その人間の頭脳は異常というよりも最早脳死状態といった方が最適である。
     今までの戒律とは「○○してはいけない」「○○するなかれ」という禁止だけだから、いくら恐れさせても効果は一時的であり無力に等しい。だから戒律は「守る」という訳で、法律や掟と同じで守らなければその集団や組織が成り立たないので、守らせるためには戒律や法律や掟を破った者に対して罰を与えて懲らしめなければならない。
     しかし実際にはいくら罰しても次から次へと破る者が出て来るのは、人間の本能から発生する欲望を「してはいけない」と禁止するのは無理だという証明である。だから守らなければ成り立たないものではなくて、その通りに実行すると健康・富裕・良縁等、あらゆる連が良くなって幸福の要素が増大するものであれば守る必要はなく、素直に実行しなければ損だという事になる。
     人間の本能はより高度な幸福を求めていて、幸福とは自分の利益やプラスになる事が永続する事であるから、永続する幸福が実現するものであれば人間の本能が求めるのである。
     しかしその幸福実現は好意や善意によるものであってはならない。それは好意や善意は一時的な気まぐれで不安定で不確実なものだから不変の法則ではない。永続する幸福を実現するのは永久不変の法則によるものでなければならない。またその法則は単純で誰でも実行可能なものでなければ意味がないのは勿論であるから、その法則は自然界の法則でなければならない。そして自然界の幸福実現の法則を実行すると自然界の好意や善意で幸福になるのではなくて、自然界との取引によって幸福が当然の結果として実現するのである。自然界は神様によって造られ、神様をエネルギー源としているから、自然界との取引とは神様との取引であり、神様の利益と人間との利益が一致して釣り合えば永続して取引は成り立ち、その結果当然の幸福が永続するのである。
     したがって永遠の幸福者には無理して守らなければ成り立たない戒律や難行苦行の苦しむ修行は不必要である。永遠の幸福者にとっての戒律と修行をあえて無理矢理に作るとすれば「苦しんではいけない」という戒律と、「幸福を楽しむ」という修行である。
     この世に生きている期間に可能な限り幸福を味わい、喜び楽しむために人間は生まれたのである。

    5.説教
     説教とは戒律を守らせるために考えたもので、善悪正邪を説いて教える事だが人間の善意や好意という当てにならない気まぐれな感情に訴えるもので、本能では全然求めていないのだから説教は一時的効果でしかない。
     だから説教の効果を高めるには、説教者自身がその説教の実行者であると同時にそれによって良い結果になった事を証明しなければならない。そうすると説教効果は大きいのだが、説教効果がほとんどないのは説教している者からは良い結果になる事を証明できないからである。
     この点は説教だけではなく、すべての教えについても同様で教えはそれだけでは価値と効果を発揮できない。教えとそれによる結果が一体となって正確な価値と効果を発揮する。つまり結果が教えを証明する裏付けとなるのである。結果とは人間の五官で把握できる形や行いであり、実体のある結果はすべて何等かの数値で表す事ができ、それによって自分にとってどのくらい利益があリプラスになっているかが正確にわかるのである。だからプラスの結果の裏付けがない教えや言葉には、言霊によるプラスの作用が発生しないから、現実のプラスの成果にはならない。
     例えば親が子に説教する場合、親の行いと運命が不良でマイナスでは効果がないのと同様に、教育者や指導的立場にある者や説教者は、最低でも説教する相手よりも優良で好運でなければプラスの成果を生み出せないのは当然である。現在の人間は毒素と間違った教えによって程度の差はあっても皆異常化しているから、他人を指導するどころではない危険人物ばかりである。 したがって人間とのつながりは、互いの利益が最適値で釣り合う取引関係でないと互いが最も快適なつながりを永続できない。
     そうして人間とのつながりは取引関係で成り立っている以上、「善意」や「好意」やそれに属する「感謝」や「大事にする」等、普通の事を特別に価値ある事にしてしまう言葉は、全部偽善の作用があるから評価できないし無意味で無価値であり、それらは全部互いの取引材料の中に入っているものだから、取引関係においては全部当然で当り前の事で何でもないありふれたものなのである。

    6.神と仏
     「神」は「かみ」で、「か」は火・日・霊・生命エネルギー・陽・タテ、を表し、「み」は水・月・肉・物質・陰・ヨコを表す。したがって「かみ」の言霊は火と水・陽と陰・霊と肉(物質)・タテとヨヨが結合し結んだ形と働きがある。さらに「か」と「み」が結んだ中心の一点が「神」の本体で生命エネルギーの根源であり、最も理想の神の状態をあらわす形であり、文字にすると「|」はタテで「−」はヨコで結んで「十」となり。プラスの形で、その結んだ一点が中心であり核になる。
     だから霊は物質界の現界では零の存在で0で表すから、「神」は霊だけの存在では現界において理想の力と働きを発動できない。 現界では生きた肉体を有していないと、人間界において神の力と働きができないから「神」の存在は0になる。0とは現界にあらわれていない状態であり、現界では「神」とは生きた人間の容姿と体を有して神の力と働きをあらわす存在である。
     「仏」は「ほとけ」で、霊が離脱して生命エネルギーが消滅した肉体・物質・存在を表し、「かみ」がタテとヨコの「むすび」であるのに対して「ほとけ」はタテとヨコの「むすび」が「ほどけ(る)」形と働きをあらわす言霊である。だから「ほとけ」は「ほどけ(る)」で物事がバラバラに分裂してまとまりを失う意味があり、人間においては一体化していた霊体と肉体が「ほどけ」て分離すると死体となり「ほとけ」という。また死体には「か」の言霊であらわす霊の成分と生命エネルギーが絶無だからタテの形と働きも絶無となる結果、、立って活動しなくなリヨコだけの形と働きになるから横になって寝たままで、「み」の言霊だけになり「身」は「水」になる。
     すなわち「神」は十で「仏」は−が言霊解釈である。

    7.魂
     「たま」と「しい」が一体となって魂であり、現界では生きた肉体と一体である。「たま」が頭(あたま)になり、「しい」は首から下の肉体全部になるが、「しい」の根幹は脊髄を主として腰・腕・手・脚・足等の胴体の骨格となり、神経と血管が無数に張り巡らされていて、内臓と肉が躍動している。
     「たま」と「しい」には別々に活動するのではなくて総合体で、「たま」と「しい」によって肉体が完成し機能している。そして「たま」は玉で球体を表し、しい「し」の形を長く伸ばした状態のもので、「しい」の先端が「しっぽ」で、この「ぽ」は体内からのガス等の放出を表している言霊である。
     そして「しい」の「し」はタテに伸び、「い」はヨコに伸び、尚且つタテとヨコヘの移動・運動・躍動を表している。また「たま」と「しい」のつなぎ目はクビれているから「くび」であり、さらに「しい」の「し」は胴体の中心線の脊髄部を表し、「い」は「し」を中心とした左右を表して左右対称ではあるが右利きを表しているから、「い」の右(向かって左)側の方が発達して力強い形と働きになっている。

     これが「たましい」の言霊の雛形図である。この中の「たま」の中心には核があり、核がエネルギー源で「たましい」の種であり最小の雛形になっている。これを「ヽ」すなわち「ちょん」で表し、これを図にすると(○の中にヽが入った絵文字)で「○」が「たま」全体で「ヽ」が核で種である。そして「ヽ」が「たましい」全体を理想の体・理想の境遇・理想の働き、すなわち理想状態にする時点で、「ヽ」は「たましい」の中において最高最貴の位置と境遇と働きを持つ最高最貴の存在になる。
     「たましい」の中で最高最貴となった「ヽ」は種であると同時に「主」(この場合「しゅ」「ぬし」「す」と三通りの読み方をする)の存在となり、「たま」は玉の形で主の働きとなる。したがって主の働きとなった「たま」、すなわち前図の(○の中にヽが入った絵文字) は「玉」ではなくて「主」(この場合は「す」と読む)である。自然界も人間界も人間もあらゆる存在も理想の状態が「 」であり、理想状態の自然界・人間界・人間の総合体が神世界であるから、神世界は「 」の世界であり、神様の教えは「 」の教えであり、神様は「 」の御魂であり、理想状態においてはすべてが「 」の雛形になっている。
     そうして「 」の中心点である「主」は一点で、この「主」の一点が全体を統一し理想の総合体を形成するエネルギー源である。したがって神世界においては、一人の神様と一つの教えを中心点の「主」として、 一つの理想世界が永遠に続くのである。そして中心点である「主」は、人体において家庭において企業において国家において世界において自然界において大中小の規模の中において、最高最貴のエネルギー源で最高最貴の働きで最高最貴の存在である事によって、理想の最小雛形図である「 」になる事ができるのである。

    8.東・西・南・北
     東は「日頭」で日の出を表す言霊で、これから陽気・プラスの連気・活気が勢いを増して上昇し旺盛になる意味があり、若さ・活力・生命力・勢力が漲って躍動する方位を表している。だから活動と同時に朝日を浴びたり、朝日が充分に入る家にするのが良い。
     西は「日沈む」が「にし」となり日没を表す。西は陽気や活気の躍動は止まって陰気になり、今までの活動で生みだしたプラスを物質にする方位を表し物質は現金や財産等のお金に変化するから、金運と財運が躍動している。だから日没直前の夕日を浴びると陰気になるから、家の西は夕日が入らないように壁にして、西には金庫を設置してお金を入れ納めるのが良い。
     南は「皆見る」が「みなみ」となり、最も明るく最も良く見える意味を表す。だから家の南は明るくて見晴らしが良いのが最適である。
     北は「気足る」の言霊で、気力の充実を意味する。そして人間の気力が最も充実しているのは睡眠時であるから、睡眠時は頭を北の方位へ向けるのが良い。さらに北は自然界では寒冷の気があるから頭に適し、南は温暖と熱の気があるから足に適している。だから頭を北に足を南にして寝る北枕は、生きている人間にとって最適である。

    9.日本
     日本は「にほん」「にっぽん」「ひのもと」「ひほん」「じつほん」「じっぽん」となり、「日」は「 」が変化した文字であるから「日本」は「 の本」になる。だから「日本」は地球世界の「 」の中心となる言霊雛形である。さらに「日本」からは、 「 」の中心点である最高最貴の「ヽ」すなわち「主」が出現して、「主」の最高最貴のエネルギーによって地球全上が神世界になるのである。
     しかし「にほん」の音では、「二本」で「一本に統一できない」と「二つに分裂する」との言霊の音による暗示誘導があり、 「二」は「一番の次」の意味があるから「一番にはなれない」暗示誘導と、「二」は現界において「一」から始まる数字の一時的過程を表すから目的の途中の未完成で不完全な状態の暗示誘導がある。
     そうして日本に出現する「主」の最高最貴の御座所は富士山の頂上であり、「富士」は「不二」と「不死」でもあるから、「統一」と「最高最貴」と「永久不滅」を表す。また富士山は「芙蓉の峰」ともいいこの「芙蓉」とは「蓮の花」で「蓮華」であるから富士山は「蓮華台」になる。「蓮(の花)」は「はちす」ともいい、「はち」は「八」で富士山の雛形で「八」の頂上は平らであるのは、富士山頂が小規模な平らな土地になって「主」の永遠の御座所になるためである。「主」の最高最貴の御座所は「主座」であり、富士山頂以外の御座所は「玉座」という。
     したがって神世界においては「主」の最高最貴の力によって、主座の「主」を中心点として地上の八方へ永遠の幸福が波及して拡充するのである。

    10.高天原
     「高天原」は「たか・あま・はら」と「たか・まが・はら」の言霊では全く反対の意味と働きになる。「たか・あま・はら」は神様と自然界が造った特定の場所ではあるが、現界に神様が出現して幸福化しなければ神様の御座所としての意味と働きにはならない。つまり,「 」になると同時に「高天原」は「たか・あま・はら」になるのであり、「 」は神様とつながって実現する。
     「高天原」は人体にも家にも地域にも企業にも国家にも世界にも、大中小・上中下のありとあらゆる場所にできるのである。人体の「高天原」は頭の中心部(額の奥)と腹部の中心部(臍の奥)の二か所で、頭の中心部は「天の高天原」、願の中心部は「地の高天原」になっている。地球は大宇宙の「高天原」、日本は地球の「高天原」、富士山は日本の「高天原」になっている。そして神様とつながっている場所はすべて「高天原」であると同時に「たか・あま・はら」になっている。したがって神様とつながっている永遠の幸福者は完全健全体で、神世界は完全健全体の人類でできた理想世界であるから、すべての「高天原」は「たか・あま・はら」であり、神様の御座所になる。
     しかし現在はほとんど全部の人間と人間界が悪庵とつながって毒化・悪化・異常化しているから、「高天原」は「たか・まが・はら」になっている。だから「たか・まが・はら」の「まが」は「曲」・「禍」・「魔が」の文字が本当で、悪魔とつながる事を表す言霊である。

    11.数
     「数」の「か」は「プラス」を表し、「ず」は「マイナス「は「プラスとマイナスの結果」を表すのである。だから結果はすべて「数」に表す事ができ、「数」は「数字」になって表れるから実体のある結果は「数字」にできる訳で、「数字」にできない結果は無意味で無価値である。
     そうしてすべての「数」は「0」と「1」で成り立っているのは当然だが、「数」の言霊は「数字」の意味と働きだけではなくて言葉と同様の言霊作用がある。「1」から「9」までは現界の存在で、「0」は現界の形には現れない状態だから全く存在しないか、あるいは形には現れないが永久無限のエネルギーであるかの言霊である。
     「1」は最初の存在と唯一無二の存在と統一を表すが、次の世代につながらない「1」は一時的で永続しない「1」だから、やがては「0」(消減)になる運命を表す。
     「2」は「1」が分裂した場合と「1」と同じ「1」が生み出された場合がある。「1」が分裂して「2」になった場合は「数」だけであり、実際の内容は「1/2」が「2つ」になった訳だから、エネルギーを消費して同じ内容という事は、エネルギーを消費した分だけはマイナスになり、実体はマイナスである。しかし分裂後の「2つ」の「1/2」成長して、内容が「2つ」の「1」になった時点で「数」と内容において正常で健全な「2」となる。したがってすべての「数」において、内容が分裂して「数」が増加しても、内容がプラスでなければ経費の分がマイナスになるから、分裂する前の「数」よりも実質的にはマイナスの「数」になっているのである。尚「二」は「天と地」を表す形になる。
     また「1プラス1」による「2」においても、その「1」と「1」が対立して互いに敵として相手を消滅させようとすれば、その「2」は内容がマイナス化しているから実体は「2」以下の「数」になっている。最低限でもエネルギーを消費して対立する分だけは、確実にマイナスとなっている。だから永続して「数」が内容と共に増加するには、「1」と「1」が最適値で釣り合う取引関係であり、取引によって永続してプラスを生み出す事である。
     「3」は「2」を構成している「1」と「1」との取引によって発生した「プラス1」を加えた「数」であり、「3」が最小単位の完成を表している。何故なら「1」と「1」との取引成立によって結果である「3」が生まれたのだから、「3」以上の「数」は取引によって永続してプラスが発生する結果として生まれるからである。そうして「3」は「火・水・土の原理」による永続するプラスの発生と永続する回転や循環を表し、永続して成り立つ事が可能な最小の「数」を表す言霊である。また「3」は「三」でもあり、「三」は「天と地を表す二」の中に人間界が発生した形であるが「三本ともヨコ棒」で「ヨコ」は「み」の言霊でもあり、「み」は水・肉体・物質・陰の言霊作用がある。「み」の言霊に対する「か」の言霊は火・霊・陽を表し、「か」の言霊作用の「数」は「5」である。「5」の「ご」の音は「火力の上昇」を表し、「いつ」の音は「一」と「厳」と「稜威」で「最高最貴の一点」及び「最高最貴のエネルギー源」、すなわち太陽神である「主」を表す。そして「主」の文字はヨヨ棒が三本と、その中心をタテ棒が一本貫いて、天と地との間を「+」に結んで地上に「+」を実現している形で、その頂点に最高最貴の「ヽ」 が最高最貴の御座所にあってすべてを統べる形になっていて、ヨコ棒三本とタテ棒一本と「ヽ」で合計「五」であり、「五」は「玉」の「ヽ」がつながった形で、「玉」は「ヽ」が最高最貴の御座所から地上界(人間界)に降臨して応身の働きによって活動しているのを表している。
     したがって「5」は「か」で「3」は「み」で、地上に出現する「かみ」は「5と3がタテとヨコに結んだ+」によって「8」の「数字」で表す。「8」には太陽神から無限のエネルギーが「天と地」「頭と体」「たま・しい」の上から下まで、満遍なく隅々に至るまで永遠に循環していて、理想の状態が永遠に無理なく自然に成り立っている形と働きを表す言霊雛形である。だから神様が地上界に出現して活動するにおいては「8」と「八」の数字が付いて回る。
     そして最高最貨の「ヽ」が地上に降臨する際は人間界の底辺の境遇から次第に上昇して最後は地上界の最高最貴の「主」の存在となって主座に安住するのだが、これは「鯉のぼり」と「桃太郎」の話が雛形になっている。「鯉」も「桃太郎」も底辺の境遇から上昇し成長して、「鯉」は出世して最後は極限まで昇りつめて「龍」に変化して「天の位」に達し、「桃太郎」は成長してマイナスの世界をプラスの世界にしたのであり、どちらの話も最後は「主」となる訳である。地上界に下った「ヽ」 は池の水面に落とした小石の波紋の輸が最初は一点であったものが次第に池全体に波及するように、人間界において最初は一点の御神業を生み出したのが結局は世界全土に拡大するのである。外へ外へと波紋の輸が拡大発展する形は「八」になる。
     地上界(現界)における「1」から「9」までの「数」で「8」は地上界が永遠の神世界になっている形であり、人間が完全健全体となって永遠の幸福者になっている形で最も快適な理想状態を表している。しかし「9」と「九」は「極まった状態」を表す「数」だから、 一時的に無理して何等かの頂点を極めても、プラスのエネルギーの永続する回転と循環が無理なく自然に行われていなければ、「9」と「九」の次に待っているのは消滅を表す「0」の「数」であり、「0」ですべてを失うのである。、「9」は下からエネルギーを吸収してそれを消費しながら上昇するだけの形だから、上昇を極めて「0」になる形であり、「九」は無理して時計の針とは逆回転する形で無理によって極まった後に分解する運命を表しているのである。そして「0」は消滅を表す以外に、無限小を表す場合と無限大を表す場合があるが両方の「0」を結んで成り立っているのが「8」であり、無限小から無限大に至るまで永久に循環しているのである。無限のエネルギーを表す「0」は桁を生み出して、「1」・・・「10」「100」「1000」…という「0」の増加による無限増を表し、消滅を表す「0」には現界において形を有する存在がどんなに巨大なプラスでもマイナスでも一瞬にして消滅するエネルギーの形と働きである。尚、「あ」は「最初」と「発生」を表し、「ん」は「最後」と「消滅」を表す言霊である。


     以上が主な言霊の説明と解釈である。、言霊は音声や文字・数字による形だけで実現化作用が発生するのではなくて言霊を発する人間のレベルに応じているから、より健全で幸福な人間ほど言霊作用はより大きいプラスの結果を誘導し、異常で不幸な人間ほどマイナスの言霊作用の発生となリマイナスの結果を誘導するのである。
     したがって現界に出現した神様が最高最貴の中心点になった時点で、自然界のすべての言霊は最高度のプラス作用を発生し、神様の言霊は最高最貴の御霊光となって躍動するから、毒素やマイナス成分は瞬間に消滅して清浄化し、人間も人間界も健全化して、永続するプラスの結果だけが実現するのである。
     だから神様とつながっている言霊は神様と共にあり、神様の働きをする訳である。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





美の法則(101)

     神様が求める快適さの最大の要素は美であるから、自然界はより高度な美を実現するために躍動し、すべての存在は美を実現し永続させるための要素になっている。だから植物・動物・生物・水・空気・水・光等それ自体が美しいものと、美しくするために必要なものがあり、それらの要素の組合せや調和は神様の美意識が基準になっている。それで生命体では人間が物体では地球が最も美しく、美の極致なのである。
     神様が理想とする美の極致を実現するのは地球全土と人間においてであり、特に人間さえ美にすれば自然界はすべて最高度の美になるのである。人間の美とは容姿だけではなくて頭脳を含めた体内の美であり、体内に毒素や苦悩があると異常な心と言葉と行動になり、体内の機能や体型や顔も異常になり醜い状態になって美ではなくなる。だから体内を美にして完全健全体とすれば、自然に神様の美意識を基準にして高度な美の心と言葉と行動となり、容姿も理想の美を実現し、美術品・芸術・芸能や、建築物・衣服・飲食物・庭園等や、政治・経済・宗教等人間に関するすべての事柄が理想の美へと変化するのである。
     自然の法則の中にはすべてを最高度に美しくする法則があるから醜も美に変化するのだが、それには私が説く幸福の法則を素直に実行するのが条件である。もし美に変化できない醜が発生すると、自然界はマイナスだけの存在であると判断して破壊による消滅へと誘導するのである。
     そして理想美を表現した人間が造る人工の美と自然が造る美が最高度に調和して神様が求める美が実現し永続するのである。さらに付け加えると、神様の御霊光には理想美の実現を促進させ迅速化する力があるのは当然である。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





合理(合利)の法則(1)自然界 (103)

     合理とは道理や理屈に合うと同時に割に合う利益を生み出す原理であり、利益とは生み出した成果から時間・労力・お金という経費を差し引いたもので、プラスが大きいほど割に合う利益であり、自然界は合理の法則によって運営され絶対に利益を生み、絶対に損をしない。
     しかも自然界では、一つの働きだけをさせるためにわざわざ存在させているものは何もない。すべての存在と現象は一つの働きからなるべく多くの利益を生み出す事が合理であり、より能率と効率を良くする事で最低でも一挙両得以上で二重二重以上の成果が永続しているほど、高度で理想の合理である。
     例えば死骸は自然界においてはゴミであり、汚物であり、醜い物であり、迅速に消滅する必要があるのだが、自然界は死骸さえ只では消滅させないし、ましてやわざわざ余計な経費をかけたりせずに消滅させている。死骸は付近の他の動物や微生物やバクテリア等の餌になって処理され排泄物になり、その排泄物は小生物の餌となり、次々とより小さい生物の餌と排泄物になる過程で、当初の死骸は分解され土に吸収され植物の養分となり、次々と永続するプラスの成果を生み出している。
     また植物は太陽光線と水と土で生育し繁茂し、季節によって新芽・新緑・色取り取りの花・深緑・果実・落葉・冬枯れの美と同時に、あらゆる生物にとって美味な食料を生み出し、花が実になるための受粉も自然現象と虫が行い、蝶は花の蜜を吸いながら花粉を運ぶと同時に美しく舞う様子は美しい景色の要素になり、蜜蜂は花粉を運ぶと同時に美味な蜂蜜を蓄えている。そして実の中には必ず種が入っていて、一つの種からは多数の実が成り、種は自然現象と鳥獣類が餌として実を食べて排泄物と一緒に運ばれ分布する。
     落葉や冬枯れや自然現象によって朽ちた樹木や植物は小生物以下の餌となり、排泄物となりながら腐養土となり良質の土を作り、そこへ雪や雨が浸透すると活性化しながら水は濾過され良い成分だけが豊富に含まれ、美味な地下水になり、河川から海ヘ流れる水の中の良い成分は魚の餌となるブランクトンや水中微生物を繁殖させるから、上流から下流の海に至るまで魚介類や海草が豊富に育ち品質も良くなる。
     さらに樹木や植物が繁茂すると、土砂流出や風による砂ばこりや農作物の病害虫の繁殖を防ぐ事ができ、良質の地下水と河川の水量が豊富になると同時に空気・水・土が清浄になり、山や河川や海及び地球全体の景色が永遠に美しくなる。
     勿論人間が最高度に快適でなければ自然界は無意味で無価値な存在になるから、原始人の生活が最適という訳ではない。
     人間は自然界を最大限に利用して人間にとって最大限のプラスを永続して生み出す事が人間にとっての合理であるから、人間と自然界の合理は同一であり一体である

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





合理(合利)の法則(2)人間 (106)

     完全健全体であれば人間も美の極致であると同時に合理の極致であり、人体は理想の合理システムになっている。  例えば食物は空腹になると美味に食べる事ができて消化と吸収も良好で、食物は体内で血液・肉・骨になり、体内では体を使う程度と酷使する体の部分に応じて必要な栄養成分が必要な分だけ造られる中だから血液を造るために生き物の血液を飲む必要はないし、筋肉を造るために肉を食べる必要もなく、丈夫な骨を造るために骨の成分(カルシウム)だけを飲食する必要は全くない。
     牛や象と同様に人間も植物性の物だけを飲食すれば、体格もよく頑健な肉体になる。特に人間は米・麦・蕎麦・粟等の主食になる穀類を主として食べたい量だけ食べ、、野菜と果実と植物性食品を副食として主食より少量食べるのが最も合理である。
     それは主食の穀類は毎日三食を習慣にしても美味に食べられるが、毎回同じ物を食べると飽きてしまって食べたくなくなる。主食の方は水と熱を加えるだけの簡単な調理で美味になり、しかも量が増えるから効率良く満腹になれる。
     さらに主食の穀類は一粒の種によって収穫できる数量は数百倍・数千倍以上で、極度に効率良く生産ができるから一粒万倍ともいうべきほどであり、長期保存が簡単であるのも便利で飢餓の心配がない。
     しかし、もし人間が肉を食べないと健康でいられないとしたら極度に効率の悪い存在である。植物なら土と水と太陽光線で成長するから収穫と調理の時だけの労力であるが、肉を生産するためには多数の動物を飼育するために植物に比べて莫大な時問と労力と経費がかかるから値段も高い。
     また多数の動物が一か所で排泄する汚物は自然界では処理が追いつかないから、その周辺の土と水と空気を汚染し、悪臭・寄生虫・病害虫の発生源となり、草が少なくなり過ぎて土砂流出や砂漠化によって美観が損なわれ餌不足解消のため人間の食料を使ったり、人間の食料を生産する耕地を減らして動物の餌を生産する耕地を増やすために将来の食料不足の原因になったりする。
     さらに肉類等の動物性食品は人間の体内に入ると血液を汚濁させ、毒化するので異常と苦痛の発生源になる。それで苦痛によって労働力・生産力が低下すると収入も減少し、苦痛解消のために医療や薬にお金をかけて毒素を増加させ一層悪化して、働けなくなって出費が増えて収入がなくなるとしたらマイナスが増大してしまう。この場合自然界は割に合うと判断すればマイナスをプラスに誘導し、割に合わないと判断すればマイナスを0に誘導するのが合理であり、0とは人体においては死で経済においては破産である。
     したがって神様は自然界と同様に、プラス・利益・得が割に合えば人間に奇跡・良い成果・幸福を合理の法則によって与えるのである

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





すべては総合体 (109)

     自然界のすべての要素は単独で存在しているように見えるが、実はすべての要素がつながり合って融合していて一体化しているので、一つの要素が他の要素と関係なく単独で存在する事は絶対に不可能である。大宇宙のすべての天体も無数の星のつながりによって成り立っていて、地球を最も快適な理想境にするために大宇宙のすべての天体が存在して法則通りに運行している。だから地球は太陽光線や昼夜や寒暖等が永続して最適なのである。また地球内の川や海や地下水等の水の循環、地下のマグマの循環、空気の循環、自然現象等は、すべて大宇宙と密接に関係し法則によって活動している。そして地球を構成している要素である動物や植物やあらゆる生物と水や土や空気やあらゆる物質等は、全部人間が最も快適であるために存在し、法則通りに作用し合って永遠に作動し躍動している。
     人間も全身が一体で分離できないし、たとえ指の先の一点を破損してもその苦痛とマイナスの作用は心や全身に及び、毛髪や爪や一個の細胞や一滴の血液に至るまで全身とつながっていて、肉体を構成するすべての要素は一体であり、人体は総合体として活動している。そして人間が生きるためには総合体としての自然界と一体である事が必要で、自然界のどんな小さなマイナスも全体に作用し人間にも及ぶので、マイナスはどんなに小さくてもできるだけ迅速に消滅する必要がある。
     勿論マイナスとはプラスに変化しなくて、毒化・悪化・異常化するものである。また人間界の大中小無数の組織や団体や企業もつながり合っていて、政治・経済・教育・芸術・医療・科学等も一体であり総合体となっているから、分離して単独では絶対に成り立たない。もし単独で成り立つとすれば、それはマイナスだけであるから破壊・消滅の対象である。
     そうして地球上の全人類も、先祖をさかのぼると皆血のつながりがあり、現在においても人間界を構成する要素として全人類は何等かのつながりがあり作用し合っていて、大中小の国家間においても互いに密接な関係にある。
     それで全人類が遺伝でつながっていて、性質・才能・容姿・運命等が次の世代に強力に直接伝達されるのだが、人間と自然界との一体化の作用で環境・境遇・収入・習慣等の外部の条件にて皮膚の色・骨格・容姿・性能等が変化するから、同じ自然環境で同じ地域に住み、同じ飲食物で同じ労働等であれば皆同様の体型や習性や雰囲気になって同化するのである。
     だから遺伝の内容は遺伝子による肉体についての情報だけではなくて、先祖の運命や境遇や大地創造から今までの全部の情報に及び魂と心と体の健全度によって自分が利用できる遺伝情報で使命と運命が決まりそれがまた子孫に遺伝する。
     そして遺伝は同時に伝染であり感染であるが、伝染や感染は病気だけではなくて、あらゆるマイナスやプラスの要素に及び、念や言葉や行動や癖や運命等も空気中を伝わって伝染や感染するから、感染者は真似をしたり擬態したりして、意識が同化すると生きる基準も同じになり同様の運命となる。
     この場合の伝染や感染も魂と心と体の健全度に応じているから、感染源と感染者は同じレベルの人間という訳である。さらに伝染や感染は生きている人間同志だけではなくて、霊界からのもの、人間から自然界へのもの、自然界から人間へのものもある。だから霊界からの苦悩が現界全体や現界の特定の子孫へ伝わり、自然界の異常が人間へ伝わり、人間の苦悩が自然界へ伝わって天候や気候や自然現象を悪化させ、異常気象や天変地異の発生となったりするのである。
     したがって総合体である自然界は、人間が永遠の幸福者になった時点で完成し、完成した自然界が神世界なのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





大は小の集合体 (113)

     無限大に等しい大宇宙は単独で存在するのではなくて無数の星の集合体である。星は物質の集合体であり、物質は原子の集合体であり、原子も極超微粒子の集合体で、さらに無限に微小の単位によって構成されている。
     つまり無限大を含めて、あらゆる存在は無限に微小の単位によって構成され成り立っていて、微小単位であるほど誤差や狂いはないから正確で完全なのである。何故なら微小単位での誤差や狂いは集合体になって大きい単位になるほど拡大するので、製品になった時には正常に機能しなかったり、誤差や狂いの集合体になったりする訳である。
     人間界の最小単位は一人の個人であるから完全健全体となって永遠の幸福者となった個人が増加して、家庭や地域や国家や世界に拡大して理想境を造るのであり、異常化した個人が増加して拡大すれば、その個人の集合体である家庭も地域も国家もあらゆる集団も異常化するのは当然で、制度や法律や規制によって大集団を健全化するのは不可能である。また企業の繁栄は株主や社員や経営者によるのではなくて、商品を買う一人の個人が最小単位である。
     一兆円のお金も最小単位の一円が多数集合した結果でいきなり大きな金額が存在する訳ではない。
     常に最小単位の集合体で成り立っている場合は次第に大きな成長となり、反対に常に少数の大きい単位によって成り立っている場合は成長力に欠けるから危険である。
     だから事業を始める場合も小規模・小資本・小人数であるほど成長力があり、老若男女の個人を対象として商品は小額であるほど永続して現金収入が増大する。この反対の場合は商品が絶対必要な物で独占しているなら良いが、さもなければ確実に破産する。個人住宅の建設も同様で最初の一軒は最小規模であるほど資産は増大する。大旧需要家や大手企業からの大口注文や、大口顧客だけの最大単位の最少数顧客で成り立っている企業は廃業した方が良いほどである。
     そうして損も得も小さいほど見逃さずに発見する事によって、大きい損に発展しないで消滅できたり、大きい得に発展する可能性が発生するのである。極小さい利益の集合体は確実な大きい利益を構成し、極小さい損の集合体は確実な大損失を構成するのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





プラスとマイナスの原理 (115)

     プラスとマイナスは明と暗・男と女・オスとメス・陽と陰のように、互いに融合し合っていて必要とし合う関係ではない。
     プラスとは実体のある利益・得・良い結果であり、幸福を実現する成分である。幸福の要素は美と健全と快適であり、健康と富裕と円満が充実し、喜び・楽しみ・うれしさの幸福感が永続している状態が最大限にプラスが増大した結果である。
     マイナスとは不利益・損・悪い結果で悪化・異常化・不快化と病気・欠乏・破壊が発生し、マイナスが増大するほど苦悩は永続化して絶望感と不幸の度を増し、最大限にマイナスが増大すると破壊され消滅する。
     神様・自然界・人間は永遠の快適と幸福を求めている以上、自然界にはプラスの存在は必要として生かし、マイナスの存在は不必要として消滅し0にする働きがある。だからより大きいプラスの存在であるほどより必要であり価値も高いから、より高度な幸福に誘導されるのは当然であり、これがプラス化作用である。自然界では結局はすべてをプラス化する作用があるから、マイナスの存在も0以上の存在にする。プラスに変化するマイナスはプラス化作用によって好転し必要な存在となるが、プラスに変化できないマイナスはマイナスにしかならないマイナスだから消滅して0の存在にするのである。
     しかしマイナスを0にする場合に、プラスの時間と労力と経費をかけても成果は0 だから損になる。だから神様と自然界はマイナスを0にするためにマイナスを集中させ、マイナスを増大させる事によって悪化と異常化を促進させ、最大極限のマイナスによる極限の悪化と異常化によって内部から自壊させるか、まとめて一度に外部からマイナスの存在を使って破壊させるかして消滅するのである。つまリマイナス化作用によってマイナスを使ってマイナスを破壊し消滅するので、神様と自然界は損をせずにマイナスを0にする事ができるのである。
     したがってプラスとマイナスは同等で釣り合う事が最適ではなくてマイナスが減るほどプラスは増え、マイナスが増えるほどプラスは減るのであるが、マイナスは絶対に0にする法則があり、神様と自然界は絶対に損をしない法則があるからマイナスは確実に悪化・破壊・消滅に誘導されるのである。プラスとマイナスの法則は自然界のすべての法則とすべての存在における根本原理である。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





永続と回転 (118)

     すべては大中小の回転によって成り立っていて、永続は回転によって実現する。地球や太陽や惑星等それ自体が回転する場合と、宇宙や太陽系等のように全体が回転する場合と、星の周囲を回転する場合と、内部で循環する場合があり、意志に基づいて法則が存在し法則によって回転するから、法則による回転には正確な周期と軌道があり永続性がある。
     回転の法則は天体だけではなくて、人間の体内や運命や人間界や自然界のすべての活動にも存在する。体内での回転は血液等の循環であり、人と人との出会いは巡り合いで自分の軌道と相手の軌道が接近あるいは接した時であり、商売は現金と商品とお客様が循環し回転して成り立ち、国家においては人間とお金と物資が循環して成り立っている。
     人間は霊界と現界とを先祖と現在の自分と未来の子孫となって循環していて、自分が法則によって幸福になれば子々孫々に法則通りの幸福が受け継がれて完全健全体の子孫となり、自分は幸福のままやがて霊界へ行って幸福な先祖となり、さらに完全健全体の子孫となり、自分も先祖も子孫も永遠の幸福者として、永遠に過去・現在・未来を正確な軌道と周期で循環・回転するのである。つまり自分は常に先祖か子孫になっているから、自分が幸福になると先祖になっても子孫になっても幸福であり続ける訳である。
     現界で自分が活動の中心となって回転した場合、やがて回転の輸がどのくらい成長し拡大するかは中心の価値によって決まる。すなわち中心である自分の価値が大きいほど回転の輸も大きくなり、発生するエネルギーも大きくて結果も大きい。また同じエネルギーと成果を生み出す場合、回転の輪が小さいほど高速となり、回転の輪が大きいほど低速となる。
     私の御神業においては、回転の輪の中心は神様であり無限の御霊光であるから、やがては全世界に御神業の輪が拡大して、永遠に幸福が循環し回転する神世界が実現するのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





単純にする (120)

     快適さの要素には幸福の要素が多いほど良いが、複雑であると混乱して不快が発生する。だからすべてを単純にする事が最適な理想状態であるとあるための必要条件になる。
     どんなに科学が進歩しても人間が簡単に利用できて、誰でも簡単に操作できる物でないと快適とはいえない。だから最高度に科学が進歩すると、最高度に単純な操作で最高度に簡単に利用できて、最高度に効率が良いから最高度に安価となるのである。
     身辺の整理・整頓・片付け・清掃も、複雑化による混乱と不快を単純にする事で快適にする作業である。また人間関係がどんなに多くても単純にすると全部が一対一の取引関係になり、自分にとって利益が割に合わなければ取引が成立しないだけの事であり、自分を取り巻く人間や要素がどんなに複雑でも自分にとってマイナスしか生み出さない重荷であれば、全部捨てて自分の幸福だけを求めれば良い。そして自分が幸福になれば今まで失ったものも取り戻す事ができ、さらに新たなプラスの要素を所有できるようになるから、単純にするという事は最短時間・最短距離でマイナスを消滅しプラス化するのを促進する働きがある。
     人問の生活も誰がどんなに複雑でこむずかしい理屈を言っていても単純にすれば飲食をして大小便を排泄して寝るだけであり、余った残りの時間はできるだけ自分にとってプラスであれば最も良い。他人の評判が気になるのは、色々な人間が一人一人自分の事をどう思っているのだろうと複雑に考えるから混乱して頭脳が疲労するのだから、「すべての人間は他人の幸福を不快に思い、他人の不幸を愉快に思っている」と最も悪意に解釈していれば、複雑な思考を単純化できてマイナスの考えを省略できる。大体他人の見る目や他人の口から出る言葉が気になるのは、他人の幸福を願ったり世のため人のためになる事が良いと信じていて判断の基準が自分以外の者が主で自分が従だからで、それを今度は自分の幸福を人生の目的にして自分の利益だけを求めていると正常になるのである。
     そうして複雑なあらゆる変化や情報をできるだけ単純にできるほど、頭脳の働きが良好で知能は高く、逆に単純な事を複雑にしてしまうほど頭脳は低能であり混乱するのである。
     だから国家や企業の組織も複雑になるほど混乱して無駄が増え、エネルギーが分散するから衰弱するのである。全部一体であるものを政治・経済・教育等に分裂させ科目を多数にして複雑化し、法律を増やし、医学においても人体は総合体なのに全身を複雑に分類して多数の各科に分けて専門として、専門外は担当が別になっていて全身を一人が担当できないために生み出す無駄な費用は莫大で、薬の種類も数も治療法も複雑化して増加するのだが、重病や難病が激増する一方なのは医学の教えが間違っている証拠なのである。もし病気を解消できれば年々病院も医者も薬も単純化して激減し、最後は最も単純化して病院も医者も薬も不必要になる筈ではないか。 宗教や信仰が増え続けて無教に存在するのも人間を幸福にできないからであり、もし人間を永遠の幸福にできる存在が出現すれば宗教も信仰も不必要となって消滅するであろう。
     つまり人間が異常化して不幸になるほど人間界のすべてが複雑化して混乱しマイナスが増大する。反対に人間が正常で健全化して幸福になるほどすべてが単純化して、混乱や無駄がなくなリプラスが増加する。したがってすべてを単純にするには、生きる基準を人間が作った間違った考えや教えにするのではなくて神様が作った自然界の法則の中の幸福の法則にして、そして御霊光によって健全化する事が絶対必要である。人間は単純な事を複雑にしてわざわざ苦労して不幸を作り、神様は複雑な事を単純にして、極楽をして簡単に幸福を作るのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





順序は快適さの要素 (124)

     自然界は大中小・上中下の順序が決定していて順序は時期とも一体で、春夏秋冬の季節の順序も、季節毎に芽が出たり花が咲いたり実が成ったりする植物の順序も、正確に毎年繰り返して循環している。だから自然界の順序を人工的に変えるのは無理があるから永続しないし快適ではない。
     人体内も血液が正確な順序によって循環しているし、機械等の製品の組立ても建物の建設も設計図を作り部品を作り、土台から全体の完成まで法則に従って順序が決定していて、仕事や労働も手順という順序によって成り立っている。だから順序が狂ったり間違ったりすると、時間と労力とお金の損失や流通や循環の停滞・停止や失敗によるやり直しが発生して不快であリマイナスとなる。
     また価値による順序は、上座や上席から下座や末席に至るまでの正確な位置を決定するから、上中下の階級が快適なつながりとなリマイナスを防いでプラスの作用が発生する。そして幸福実現の順序も幸福の要素の価値によって決定していて、第一番が自分の生命である。だから健康の実現が最初の要素であり、すべての幸福の要素を実現するための根源で土台になっている。健康であるから他のあらゆる幸福の要素を味わい、楽しみ、喜びを感じる事ができるのである。健康の次はお金で経済の富裕によって物質的に快適な境遇になる事である。快適な衣食住と物資とお金が豊富な境遇は、健康の次に実現する幸福の要素であり、物資とお金の欠乏は幸福の要素ではなく不幸の要素だから不可である。次は快適な人間関係(取引関係)の実現で、快適な人間関係とは自分に利益やプラスのある人間とのつながりで、家族やお客様も含まれるのは勿論である。健康・お金・人間関係の順序で幸福を実現するには、取引可能な神様とつながるのが絶対必要条件であり、取引可能な神様とのつながりは自分の幸福実現にとって最大の価値があり最大のプラスである訳だから、神様と自分とのつながりを邪魔する存在は自分にとって最大のマイナスを生み出している事になり、そのマイナスが自分の家族であっても何程かけがえのない人間関係であっても、そのつながりはマイナスだから迅速に解消するのが最適である。その結果自分の生命以外の何を捨てる事になっても、取引可能な神様とのつながりを解消するよりははるかに利益で得でプラスになる筈である。
     したがって自分の幸福実現にとって絶対不可欠な神様とのつながりは、自分にとって何よりも最優先で何よりも第一番の順序の取引関係であり、この正常な順序が狂ったり間違ったりしない限り支障や障害や再発等のマイナスは発生しない。そして神様とのつながりが第一番という事は、自分の活動や生活の基準が神様なのである。
    ■批判■
     途中までは読むに値しないつまらない文がくどくどと並べられており、単に「健康・お金・人間関係の順序」をいうための前振りとして書かれただけのような印象を受ける文だ。
     自然界には順序のない無秩序なもの、不規則なものなどいくらでもあるだろうとか、無秩序や不規則なものを排除するというのは古臭い考えだとかいう突っ込みもあることだろう。
     しかし、そんなことは些細なことでどうでもよいと思わせてしまうくらい強烈なのが、

    「神様と自分とのつながりを邪魔する存在は自分にとって最大のマイナスを生み出している事になり、そのマイナスが自分の家族であっても何程かけがえのない人間関係であっても、そのつながりはマイナスだから迅速に解消するのが最適である。

    という一文だ。
     「反対する者はたとえ家族であっても縁を切れ」とは何たる暴言か。インターネット上の掲示板には神世界に嵌った家族を救い出そうして家族が必死に説得をしても全く取り合わず、結局一家離散した例が見られるのは、この教えを忠実に守ってしまった結果なのだろう。
     このような腐った教義を信者が妄信してしまい、そのために苦しんでいる家族が全国にはどれだけいることか。
     人間にとって大切なものの順序として、「健康の次はお金である」というのは、教主の金の亡者ぶり、カルト臭さが非常によく表れている。
     日本に無数にある他の集金カルト宗教も、その本質は金集めを目的としており、本心としては「金、金、金」と思っているが、神世界ほどあからさまに「金」を口にする団体にはお目にかかったことがない。

     お金の次に大切なものとして、「人間関係」を上げているが、この作者がいう人間関係とは愛情や友情といった類のものではなく、自分の利益やプラスになるための取引としての人間関係であるとしている。
     このような歪んだ思考回路を身につけるに至った神書の作者は、一体どのような育ち方をしたのだろうか。親の愛情に恵まれず、兄弟や友人にも恵まれず、学校では皆から阻害され、社会に出てからも周囲の人たちから疎んじられ、恵まれない人生を歩んできた結果としてこのような歪んだ人間ができあがってしまったのだろうか。
     あまりにも常識外れで反社会的な内容を平気で羅列した神書を読んでいると、作者である教主の育ち方に興味が湧いてきた。

     会主さんよ、あんたは人間としてある意味ではかわいそうな人だ。




本能と感情 (127)

     人間の心の活動は感情で成り立っていて、感情は本能から発生しているから、人間は本能の要求によって活動し感情がすべてを支配している。本能の成分は欲であり、欲には食欲・性欲・物欲等の体欲(肉体的・衝動的欲望や欲求)と精神的・肉体的・物質的に最も快適で理想の状態を求める幸福欲がある。体欲に心が支配されると幸福は実現しないから、幸福を実現するには幸福欲に心が支配され、幸福欲が主で体欲が従となれば体欲は幸福 欲に支配されコントロールされるため、幸福のプラスの要素になれるのである。
     だから人間には理性はなくて、幸福欲から発生する感情が理性的な感じがするだけで、正常な人間は物事を理性的に考えたりはしない。正常な人間は健全で運が良いから、判断はあらゆる変化に瞬間に反応して最適であり、あれこれと考えて判断するのは頭脳が異常であるか発明や研究等で考える事が仕事になっているかであるが、人間の頭脳は考えれば考えるほど働きが鈍くなり頭が悪くなるのである。人間は五官からの瞬間の感情とひらめきや直感の感情が、楽しさや喜び等のプラスの性質であるほど頭脳は活発になって頭が良くなり、さらに完全健全体となって頭脳が百パーセント作動するようになると人体の全能力も記憶力も第六感も五官の能力も全開となるから、神様の能力の一部(神通力)を発揮できるようになるのである。
    ■批判■
    ●「正常な人間は健全で運が良い」
    ●「正常な人間は物事を理性的に考えたりはしない」
    ●「あれこれと考えて判断するのは頭脳が異常である」
    ●「人間の頭脳は考えれば考えるほど働きが鈍くなり頭が悪くなる」

     上記は、”なんだこれは?”と思ってしまうような、理解し難く、正常な人間の感覚とは大幅に乖離した内容だ。そしてここでもまた思考停止をモロに打ち出している。
     神様((有)神世界の神じゃないよ)から人間に与えられた素晴らしい能力を捨て、本能や感情だけで生きていたら、それは動物と同じだ。掲示板を見ると、教主には邪神が憑いているという書き込みが見られるが、本当に憑いているとしたら邪神ではなく低級動物霊なのではないだろうか。
     これらの記述から推測するに、そもそも教主は物事を考えることが余程嫌いで、本能や感情のままに生きているのだろう。おぞましい限りだ。
     教主は考える事を仕事にしている人に対してコンプレックスをもっているのではないだろうか。
     「なるほど」と思わせる記述はこの本には何一つない。この本は稚拙かつ非論理的・非科学的な記述の塊であり、極端に偏向した考え方をする人間が書いたものであることは常識を持った者が読めば誰でもすぐに分かる。
     「人間の頭脳は考えれば考えるほど働きが鈍くなり頭が悪くなる」なんて、脳科学者が聞いたら卒倒してしまうだろう。
     神書の作者(教主)がこのようにバカげた内容を平気で書いている事実こそが、「考える能力がない」と言える。他のカルト宗教主宰者ならば、もう少し賢く、”牙”を隠し、巧妙に信者を騙すものだが、この本の作者は誰が見てもすぐにウソと分かる内容を羅列している。こんなバカなカルト宗教主宰者でもそこそこの金を稼ぐことには成功したようだが、そろそろ年貢の納めどきだ。

     幸福欲から発生する感情は、自分にとってプラスかマイナスか得か損かを判断して、常に自分にとっての最大の利益を求めて最適な心と言葉と行動を誘導し実現するのである。
     そして幸福欲は神様につながり体欲は悪魔につながるから、幸福欲が減少するほど体欲が心を支配して悪魔化する。それで人間は異常化するほど幸福欲は減少して、幸福欲から発生する永続する利益や永続する幸福の要素や自分にとってのプラスを求める感情よりも、体欲から発生する一時的で目先の利益を求める感情の方が強くなり、一時的な楽しみや喜びに満足する代りに永続する無気力や空虚や不安やイライラ等の心の苦しみと毒素による肉体の苦痛を背負うのである。反対に健全であるほど幸福欲は増大して体欲を自由自在に支配できるから、永続する利益や幸福の要素を実現させるために、食欲や性欲や物質欲は自然に無理なく調節でき最適値の範囲内で満足できるようになり、その代りに永続する楽しみや喜びやプラスが増大するのである。

     だから永遠の幸福を実現する神様があれば、人間的計算や人間的都合によって一時的な目先の小さなお金や利益等を何とか失うまいと考えるよりは、自分が持っている生命以外の全てを神様との取引材料に使った方が得であると判断できる筈である。
    ■批判■
     ここには教主の考え方がよく表れている。
     いま教主が行っている行為は、「自分(教主)にとってプラスかマイナスか得か損かを判断して、常に自分(教主)にとっての最大の利益を求めて最適な心と言葉と行動を誘導し実現する」を地でいく行為だ。自分の利益だけを考え、他人を騙してでも、違法であっても、ただがむしゃらに「金」を自分の懐に入れ、自分だけが幸せになろうとあがいている教主の姿がこの文章によく表れている。
     「体欲から発生する一時的で目先の利益を求める感情の方が強くなり、一時的な楽しみや喜びに満足する」という下りも、教主の姿がそのまま表れている。自分のことなので、こうした内容がすらすらと出てくるのだろう。
     本当の神様は庶民から金を巻き上げ、その結果夫婦が離婚したり、家族を離散させるような行為はしない。金をほしがるのは、”人間=教主”だ。どこの世界に人間界の金をほしがる神がいるか。金と欲にまみれたあんたのやっている行為はまさに、「人間的計算や人間的都合によって一時的な目先の小さなお金や利益等を得よう」とする行為であり、神様の行為とは正反対の行為だ。
     神の名を騙ってこのような悪事を働くものには、そのうち神から天罰が下ることだろう。





すべてに上中下の階級がある (129)

     あらゆるものすべてには定められた基準による価値があり、価値が高いほど上位で価値が低いほど下位であり上位と下位との間には必ず中位が存在し、これによって常に上中下の階級が決定し階級に応じた境遇が実現する法則がある。
    ■批判■
     それを法則と呼べるのか。教主の勝手な思い込みだ。教団にとって都合のよい人間だけが価値があり、そうでない人間は価値が低いという差別思想的な考えを信者に押し付けるために勝手にそんなことを考えただけである。

     宝石の価値が種類・大きさ・美しさ・人気という基準によって上中下に分類される場合、上のクラスにおいても上中下に分類され、その中でまたさらに上中下に分類されるという具合に、まず大別して上中下となり後はどこまでも上中下に分類され最上位と最下位が常に決定されるのである。
     同様に人間の価値も容姿の魅力や収入や境遇といった外観を基準にしたり、人気や名声といった他人の評価を基準にした上中下の階級も存在するのだが、神様が創造した自然界においては幸福度によって人間の価値が決定されている。つまり幸福の要素が多くて幸福でない要素が少ないほど、その人間の価値は高く階級も境遇も上位なのである。
    そして私にとっては御神業上より大きいプラスをより多く生み出す人間ほど価値が高く、階級も境遇も上位になり幸福の要素も増えるのである。私の方では幸福の要素を商品として売り、買った相手は私に対して御神業へのプラスという成果を代金として支払うのである。
    ■批判■
     幸福の度合いで人間の価値を上中下に分けるとはこれまたとんでもない発想だ。
     この作者は、よほど作者は人間を差別化するのが好きなのだろう。幸福の尺度など各人各様であり、自分の尺度で他人の幸福の度合いを推し量ることなど、何の意味もない。ましてや、幸福の度合いで人間の価値や階級までが決まるとは、「バカも休み休み言え」としか言う言葉がない。
     「幸福の要素が多くて幸福でない要素が少ないほど、その人間の価値は高く階級も境遇も上位なのである」とは裏返していえば不幸な人間は価値が低いということだ。ここにもまた強きを助け、弱きをくじく記述がでてきた。「重病で苦しんでいる赤ちゃんが一番悪い」とまで言い切れるのだからこれぐらいのことなど平気でかけるのであろう。
     何が「幸福の要素を商品として売り」だ。結果的に大金を巻き上げて、家庭崩壊させて多くの人を不幸にしているではないか。逆に不幸の代償を支払え!
     そして「お前こそ人間としての価値は最低だ!」と言わせてもらおう。







天秤の法則 (131)

     両者を比べる場合には天秤にかけて自分にとってプラスの方を選び、自分と相手との人間関係においては天秤が水平に釣り合う最適値で取引成立となる。
     自分を中心とした人間関係は常に良好で円満である事が幸福の要素であるが、それは天秤の法則によって互いの最適値での取引が成立する事によってのみ実現する。だから取引が成り立たない人間関係は成り立たないのである。どんな人間関係においても取引するのは商品と代金であり成果と報酬であるから、商品を買った方は相手に代金を支払い、相手が成果を生み出した場合には相手に対して報酬を支払う。この場合互いに相手に支払うものと相手から受け取る利益が常に最適値で釣り合っていると、取引関係が成り立っている間は互いに永続して利益を得られるから、うれしくて楽しい心と言葉と行動になり自然と円満な人間関係になるのは当然である。
    ■批判■
     「取引が成り立たない人間関係は成り立たない。」、「どんな人間関係においても取引するのは商品と代金であり成果と報酬である」、次々項にも「円満を目的とした人間関係と取引が成り立たない人間関係は、自分にとって利益にはならないから、無意味であり無価値であり時間と労力と経費をかけた分は損になるから不可」などとあるが、例えば赤ちゃんとその母親との間でも商品と代金、成果と報酬で取引するものだと教主は本気で思っているのだろうか。多分本気で思っているのだろう。
     教主の頭の中では自分とそれ以外の人間関係を考えるとき常に天秤が動いているのだろう。それを想像するだけで教主の頭は相当イカれていることがうかがいしれる。


     これは自分と神様との関係においても同じで、神様からの奇跡や良い成果は神様の商品で、それに対する自分から神様への御礼は代金の支払いであるから、最適値であれば永続して神様から幸福の商品が届けられるので、自分と神様との関係は良好で毎日が楽しい状態になる。もし天秤が傾いて両者の利益が釣り合っていない状態になると、支障やマイナスが発生するから可能な限り迅速に不足分を補って、以後も不足を発生させないようにすれば再び天秤は水平になり最適値での取引が成立して、永続した利益と円満な取引関係が実現するのである。
    ■批判■
     イエス・キリストは様々な奇跡を起こしたそうだが、それを商品として民衆に売りつけ、または御礼を要求したという話は誰も聞いたことがないだろう。インチキ宗教団体は他にも沢山ありそうだが、ここまで露骨に御礼を要求する団体も珍しいのではないか。しかも、奇跡とまでいえない些細なよいことがあっても高額の御礼を要求するほど強欲であるのは諸々の掲示板で報告されている。
     ここの神は確か太陽神だったような・・・。太陽神が人間を相手に商いをする姿を想像すると笑えてしまう。というかここの神がいかにもインチキ臭い神であることを自ら暴露しているようなもので、教主の愚かさが露呈されている。





人間関係は取引関係 (133)

     親子・兄弟姉妹・親戚知人・夫婦・雇う人と雇われる人・教える人と教わる人・国家と国民・神様と人間・自分と相手・売る人と買う人。
     以上のすべての人間関係は互いに相手から最大の利益を得る事によってのみ最高度の円満を実現できるのであるから、取引関係なのである。だから両者の取引材料や取引条件が天秤の法則によって最適値で釣り合う事によって取引成立となり、互いに相手から得られる利益が現実の喜びと楽しみとなって心と言葉と行動に表れるから、自然に円満になるのは当然である。
     ところが利益の天秤が水平で釣り合っている状態から傾いてしまった場合は、どちらかの利益が多過ぎてどちらかの利益が少な過ぎるためであるから、損をした方は不満と不快感が心と言葉と行動に表れ、取引関係と人間関係は同時に破綻し悪化すると闘争が発生する。そのため両者が永続して利益を得るには利益の天秤を水平にしておく必要があるから、両者の取引材料と条件の価値が変化したり利益の天秤が傾いて支障が発生した場合は、可能な限り迅速に調整し最適値にするのである。
     したがって円満を目的とした人間関係と取引が成り立たない人間関係は、自分にとって利益にはならないから、無意味であり無価値であり時間と労力と経費をかけた分は損になるから不可である。
    ■批判■
     この理論からすると、幼児や老人、身体障害者などの社会的弱者は存在価値のない人間だということなる。
     家族に身体障害者がいたら、「利益が少なくなる」、「取引関係が不利になる」といって放り出すのか?
     身体障害者の家族を抱えて生活するのは大変なことだが、ハンディのある家族をいたわり、深い愛情を持って一緒に生活していくことにより、健常者が身障者から教えられることも多い。むしろそうしたことを知らずに育った人間よりも、身体障害者と供に生活している人たちの方が人間としてより成熟した精神を培うことができるのではないだろうか。
     人間関係とは決して神書の作者がいうような打算的なものではなく、本来の人間関係とはもっと心の通った暖かなものである。残念ながら神書の作者はそうした人間としての暖かさを知らずに育ったため、このように歪んだ理屈しか思いつかない哀れな人間になってしまったのだろう。





価値の基準はプラスとマイナス (134)

     自然界のすべての存在はプラスかマイナスかという基準によって、価値の有る無し・多い少ない・高い低いが決まるのである。
     プラスは大きくて多いほど価値は高く、マイナスは小さくて少ないほど価値は高い。そしてプラスとマイナスを相殺して残った結果が正確な実際の価値である。つまり人間は自分にとってプラスかマイナスかを基準にして人・物・すべての事柄を判断して、プラスであれば受け入れ、取引し所有する価値があり、自分の得になり利益になるのである。だから自分にとって幸福の要素になるものはすべてプラスであり、これを可能な限り自分が吸収する事が自分の価値を高め、価値を高める事がさらに自分の得になり利益を生み出し、これが永続する事によって永遠の幸福が実現するのである。
     逆にマイナスとは自分の価値を下げ、不快や苦しみや異常といった不幸の要素を生み出すもの及びその可能性のあるものすべてであり、マイナスはどんなに小さくても解消しないとやがて大きいマイナスの現象を生み出し、損害や不利益が大きくなるのである。だからマイナスはより小さい時点で解消する事がプラスなのである。
    ■批判■
     ナンセンス!
     何がプラスで、何がマイナスか、その尺度は誰が決めるのだ?




すべて結果で判断する (137)

     現れた結果は絶対に間違いのない正確な事実であるから、言い訳も善意の解釈も主観的説明も現れた結果よりは不正確であり、結果に優る判断材料は存在しない。現れた結果に対抗でき、勝ち、優るのはそれ以上の結果しか有り得ない。つまり結果には結果なのである。
     動機と途中経過と結果に至るまでの過程がどんなに善で正しいように見えても、思いやりがあって親切でやさしいように思えても、一生懸命に努力しても、結果が悪ければその時点で全部悪と判断し決定する。全部とは悪い結果を生み出した者と、その悪い結果によって損失や苦悩等を受けてマイナス化した者すべてである。
     だから自分にとって「善人」とは永続する利益や幸福の要素をもたらす人であり、「悪人」とは自分に損や不幸をもたらす人間である。「働き者」とは年中重労働をしたり肉体を酷使して一生懸命に働く者ではなくて、より沢山のお金を稼ぐ者の事である。「お客様」とは利益になる取引相手であり、「先生」とは利益になる事を教える人の事で、「勉強」とは利益になる事を学ぶ事である。「学校」とは自分の利益となる卒業証書や専門の資格を取得するために行く所であり、立派な人間になるための機関ではではない。「良い会社」とは社員と株主に永続する利益を多くもたらす会社の事であって、世のため人のためにお金を使う会社の事ではない。「株式投資」とは株式相場で儲けようとすることではなくて、配当と増資を得る目的で永続してより多くの利益を生み出す企業の株式を額面の価格で購入する事である。このように自分にとって永続する利益になることが良い結果であり、お金と時間と労力を費やした以上のプラスがなければ悪い結果である。
     だから神様も同様で自分にとって良い結果が発生するほど良い神様で正しい神様であるから取引していた方が得であるが、発生する結果が割に合わなければ自分にとって悪い神様だから一刻も早く捨てた方が得である。家族も自分の損になる場合は自分一人で生活した方が得である。
     そうして事実でない中傷や誤解や根も葉もない噂であっても、その結果自分にとって損害や苦悩等のマイナスが発生した場合は自分が悪い結果を生み出した事になり、悪い結果以上の良い結果を生み出さない限りは「悪」と判断し評価し続けるのである。

    ■批判■
     こんな考え方をする者を親に持った子供はかわいそうだ。全て結果でしか判断されず、途中のプロセスや努力は評価されない。
     教主の子供は一体どんな子供に育つのだろうか。他人事ながら心配になってしまう。
     こんな考え方はナンセンスでしかなく、論評にも値しないが、皮肉として言わせてもらうと、

    ●神世界関連サロンでの金銭被害などへの批判が相次いでいるという結果
    ●神世界関連サロンでの金銭被害に対して損害賠償請求が起こされているという結果
    ●1冊1兆円の値打ちがある筈の神書が、こうして批判の対象にされているという結果
    ●神世界関連サロンから多くの客やスタッフが次々と辞めているという結果
    ●その結果サロンの中には電気代の支払いにも窮するところがあるという結果
    ●多額の金を神世界に投じたが、幸せになっていない人ばかりが目立つという結果
    ●神世界幹部だけは豪勢なマンションで贅沢な暮らしをしているという結果

     こうした、”結果”を教主はどう位置づけるのか?

     私(fujiya)のサイトに掲載した内容を、”誹謗中傷”と言っているようだが、これは誹謗中傷などではなく、全て事実をそのまま伝えているだけだ。
     教主がそれが誹謗中傷と受けとめるのは勝手だが、もしそうであっても、

    そうして事実でない中傷や誤解や根も葉もない噂であっても、その結果自分にとって損害や苦悩等のマイナスが発生した場合は自分が悪い結果を生み出した事になり、悪い結果以上の良い結果を生み出さない限りは「悪」と判断し評価し続けるのである。

    と自らが語っているわけだから、こうした、”神世界批判”という結果を生じさせたのは、”教主自らが悪い結果を生み出した”のであり、自分が「悪」だと判断し評価している訳だ。

     う〜ん、なかなか愉快ではないか(笑)。




損か得かで判断する (139)

     損はだれでも嫌で得をしたいのは人間の正常な本能であり、損は不幸につながり得は幸福につながるのだから、どんな小さな事柄においても常に自分の特になる事を求め、得になる事を実行し、得になる方を選ぶ必要がある。
     だた一時的な損によって永続して得になったり、小さな損によって大きな得をした場合の損は、損ではなく正当な投資であり必要経費である。逆に一時的な得や小さな得をして永続する損や大きい損をした場合の得は、得ではなくて損の始まりだったのである。だから目先の短期的な得や一時的で小さな得に飛び付いたために自分の価値を永続して低下させ安値にしたり、わずかな餌でつられたり、一時的な喜びのために有形無形の大きい財産を失ったりせずに、永続する得やより大きい得を求めるのである。
     損とは自分の所有している得を失い減らす事であり、得とは損をせずに自分の得を増やす事である。この理によって神様と自然界は絶対に損をせず、プラスのエネルギーを減らさず得をするようになっていて、損は0(ゼロ)にされプラスの部分は得になり、得は何かの必要に応じて変化するだけで絶対に減少しないので、永遠にプラスの存在であり続け永遠の幸福が実現できるのである。
     そうして人間にとって最大の損とは自分の生命を自然死以外で失う事で、自然死は無苦痛だか自然死ではないと病気か外傷での肉体破壊による苦痛死であるから、全世界を手に入れた代償としても割に合わない。苦痛死の次に損なのは苦しむ事である。病気の苦しみ・お金の苦しみ・家族やあやゆる人間関係の苦しみ等のすべての苦しみは、自分の時間とお金と労力を損して、自分の所有する幸福の要素を減らし、自分の運命と人生を損なうのであるから、苦しみを解消しなければ得にはならない訳である。
     したがって人間にとって最大の得とは自然死の瞬間まで苦しみがなく、永続して快適であり楽しい事であり、そのために時間とお金と労力を費やすのが一番得になるのである。

    ■批判■
     前半は何を言いたいのか・・・? 長々と書いているが、要は、「損はイヤだ、得をしたい」というだけのことではないか。
     後半にはウソがあるね。自然死が無苦痛で、それ以外の死は苦痛死だなんて誰が決めたんだ? 自然死が全て無苦痛かどうかどうやって調べた? 死んだ人に聞いて見たのか?
     教主は自分が自然死できるとでも思っているのかな? 甘いねー、バカだねー。あんたは絶対に自然死はできないね。刑務所に入れられて獄中死するのが一番ふさわしい死に方だと思うけれど、死因は糖尿病からの合併症か何かだろうね。いつも高級寿司など動物性のごちそうばかり食べているからね。もう少しダイエットしないと早死にするよ。

     それと参考までに教主に教えてあげよう。
     日本人の死因で、「自然死」の割合はどれくらいか知っているかい? それはね、わずかに2.3%しかないの。あとは全部、事故死、病死、自殺なの。
     教主は自分がこの2.3%に入れると思うかい? まあ無理だろうね。
     教主は、みんなの恨みをたくさん買っているから、悪魔に好かれてさぞかし苦しんで死ぬ道を選択してもらえるんじゃないかな・・。




善悪正邪の判断 (141)

     自然界では常に勝者が善であり正しく、善悪正邪を判断して決定する権力を持つ事ができる。だから善が必ず勝ち正義が必ず勝つのは勝った者が善であり正義であると決定できるからである。
     人間界では武力や財力や人間力がより強い者が勝者となり、小集団や大集団の支配者となれたのだが、人間の支配は一時的で限定されていた。それは人間力がどんなに優秀でも強力でも人間の魂と心と体を永遠に子々孫々に至るまで支配するのは絶対不可能だからである。
     だから武力や財力以外の人間力によって生まれた科学・宗教・道徳・哲学・思想・政治・法律・教育等も人間を永遠に支配する事はできなかったし、永遠の善にも正義にもなれなかったし、善悪正邪を判断するための永遠の基準にもなれなかったのである。それは人間の苦悩を解消して永遠の幸福にする力がないからで、人間にとっては自分以外の者がどうであろうと自分にとって得になりプラスであれば善であり正しい存在で、自分にとって損になりマイナスであれば悪であり邪の存在なのである。
     また動機と過程は結果に支配されるから結果が良ければ善であり正しいが、結果が悪いとすべて悪であり邪となる。だから善人は得をして幸福であり悪人は損をして不幸である。何故なら結果において幸福な人は善であり不幸な人は悪だからで、より幸福な人ほど強者で勝者であり、より不幸な人ほど弱者で敗者である。
     それでより幸福な方が善で、より不幸な方が悪であるから、被害者の方が悪で加害者の方が被害者よりは善である。それは被害者の方が損失・苦悩・運の悪さ等のマイナスが大きいからで、加害者の方は刑罰等で被害者よりマイナス化し不幸になった時点で初めて被害者よりも悪人となるのである。
     つまり自然界の善悪正邪の判断は結果であり、結果が絶対に正確で間違いのない判断なのである。人間は自然界の中に生きて自然の法則に絶対支配され絶対服従であるから、人間は生きている間に可能な限りより大きい良い結果と、より多くの良い結果を得る事がより幸福で、より善で、より正しいのである。
     したがって神様が永遠の幸福者にした全部の人間を、神様自身の永遠の幸福の要素にする結果神様が最高の幸福者となり、最高の善であり最高に正しい存在となり、永遠の勝利者であり永遠に人間の支配者となるのである。

    ■批判■
    >被害者の方が悪で加害者の方が被害者よりは善である。
    >それは被害者の方が損失・苦悩・運の悪さ等のマイナスが大きいからで、加害者の方は刑罰等で被害者よりマイナス化し不幸になった時点で初めて被害者よりも悪人となるのである。


     神世界被害者は、”被害者である”ということ自体が悪なのだそうだ。
     同時に、加害者である教主は善だといい切っている。
     教主のものの考え方は異常であるが、それがこの文章にも色濃く出ている。どこの世の中に、「被害者が悪で加害者が善だ」などというとんでもない理論が通用するのか。
     上記のように言っておきながら、「刑罰等で被害者よりマイナス化し不幸になった時点で初めて被害者よりも悪人となる」と正反対のことを言っている。
     つまり教主としては、刑罰を受けるという「結果」を見るまでは加害者は悪ではないと言っているのだ。
     自分自身には善悪の基準がなく、刑罰を受けて初めて自分が間違っていたことを悟るというのは何ともお寒い話ではないか。物事の判断ができない子供にはこうしたことも起こりうるが、教主はいい歳をした大人である。それにも係わらずこんなバカげた判断基準しか持ち合わせていないとは、教主はとんだ笑い者でしかないということを如実に表している。  教主は刑務所に入れられないと自分が間違っていることに気づかないらしいが、それにしては私がこれだけ教主をこき下ろしているにも係わらず一切反論してこないのはどうしたことだ。今はまだ自分が正しいと思っているならば反論して当たり前だろう。それをしてこないところを見ると、ちゃんと自分がやっていることが後ろめたいことであり、自分が悪の首謀者であることを分かってやっているのだろう。
     どこまでもずる賢い男、それが教主だ。




すべてを悪意に解釈する (144)

     結果・現在の状況・境遇・人の言葉と行動・マスコミや政府の発表・情報・使える材料等は刻々と変化しているから、自分の対応も最大の利益を得るために変化し、判断し、準備し、実行するのである。それで最大の利益を得るためには損は最小限であるほど良く、損が絶無であれば最も良いのは当然で、そのためには自分の目や耳に入る情報・嗅覚や触覚や味覚による情報・直感や雰囲気や運気等の第六感による情報を、最大の悪意に解釈して万事準備し予定しておけば、それ以下はない訳だから最悪でもマイナスにはならない。
     逆に最大の善意に解釈して準備し予定しておくと、最大に良い状態になるのが普通で当り前だから絶対に予定以上の良い状態にはならないので、最善でもプラスにはならない。
     すなわち物事の解釈は、今の条件下で可能な限り最大限の悪意であるほど最悪を予定しておくから、最悪でもマイナスが発生しない準備をして実行できるために、プラスだけが発生し最善であれば最大限のプラスとなる。
     逆に解釈が最大限の善意であるほど最善を予定しておくから、最善でも予定以下なのでマイナスだけが発生し、最悪であれば最大限のマイナスとなる。だから悪意は善を生み、善意は悪を生むのである。
     したがって最大の悪意を解釈の基準にするのは、最悪・最低の数値を0の目盛に合わせる事であるから、極わずかでも0を上回ればプラスとなり、0を上回るほどプラスは増大するのでプラスの数値だけを表す仕組みなのである。
     逆に最大の善意を解釈の基準にするのは、最善・最高の数値を0の日盛に合わせるのだから極わずかでも0に到達しなければマイナスとなり、0を下回るほどマイナスが増大するからマイナスの結果にしかならず、マイナスだけを表す仕組みになるので常に悪い結果なのである。

    ■批判■
     これはカルトがよく使う、「基準の置き換え」だね。
     時速50q/hという速度が速い速度か遅い速度かと尋ねられたらなんと答えるだろう?
     高速道路ではそれは遅い速度に感じるが、混雑した商店街では非常に速い速度に感じる。
     それと同じ事で、現在自分が置かれている境遇をどう解釈するかで物事の受けとめ方が変わっていく。
     カルトにはまっている人達は、マインド・コントロールにより基準が置き換えられていることに気づかないので、おかしな理論を受け入れてしまう。




信頼(信ずる事)には実体がない (146)

     信じるという事や信頼関係は、美しい心の表れで、円満な人間関係を実現するためには絶対に必要な要素であると信じられているから、他人を信じられないという人は心に欠陥のある人間だとされている。しかし自然の法則においては信頼は許されていない。信頼によって永続して成り立つ事は自然界にも人間界にも何もない。すべて自分の利益のため、自分の幸福のために取引する事によって成り立っているのである。
     例えば商品を売った場合に、その場で代金を受け取れば相手を信じる必要がなく、信頼関係も全くないから取引は成立となり双方満足できるが、もし代金の支払いが一か月後だという事になればこれは取引関係ではなくて信頼関係となる。信頼関係とは相手を信じなくては成立しない関係であるから危険が発生する。その危険とは相手が代金を支払わない可能性が生じて、売った方は損害を受ける可能性があるという事である。
     また金銭の貸し借りを例にすると、貸す金額に応じた価値のある担保物件を預かる事が、取引関係にするための必要条件となる。それは貸した金銭を相手が返済しなかった場合、代りに担保物件を没収する事によって売買と同じ意味になり取引が成立するからである。
     このように万事信頼を必要としない取引であれば永続する円満が実現する。これはたとえ親子・兄弟姉妹・血族・友人といった親しい人間関係であっても全く同じで、いささかでも信じる必要が発生したなら信頼関係であるから損害の危険が関係でつながってはいけない。
     人間が金銭や労力や成果を神様との取引材料にした場合には、最低でもそれより価値の高い利益や良い結果を神様から貰わなければ釣り合わないし、人間が神様から利益を貰った場合には最低でもその利益の価値に相当する御礼を支払う事が、神様と人間との取引成立には必要な条件となる。だから利益や良い結果は神様の商品であり、それに対する御礼は人間が神様から買った商品に対する代金の支払いという意味である。
     したがって信じなければ成り立たないような関係はマイナスの作用があって損をする危険があるから不可である。自分にとって利益とはプラスであり幸福の要素であり、損とはマイナスであり不幸の要素であるから信頼関係は解消するのが最善である。
     もし解消できないとしても、いずれはマイナスの作用によって損が精神や肉体や金銭や時間や人間関係や境遇に発生するから苦悩の実現となって、嫌でも解消せざるを得ない運命に信じた本人が誘導するのである。
     つまりこの人間は精神や肉体や金銭や時間を無駄に浪費して、結局は苦悩という成果を実現させた訳であるから全く割に合わない。
     本来神様が造った自然界においては、人間は素直に自然の法則通りに実行すれば苦悩が発生する必要は絶無であるから、幸福が永続する以外に運命は誘導されないのである。

    ■批判■
     教主は、よほどひどい人生を歩んできたんだろうねー。人を信じることが全くできない人間に育ってしまったことは教主にとって悲劇であるだけでなく、それによって多くの女性が被害を被ってきたわけで、悲劇の拡大再生産になってしまっている。
     教主の子供時代を知る人はいないのだろか? もし教主という人間の生い立ち、学校での様子などを知っている人がいれば、ぜひお教えいただきたい。




家相、地相、あらゆる相 (149)

     人間には人相があり、家には家相があり、土地には地相があり、自然界のすべての存在と現象には相があり、すべての相は人間にとって吉か凶である。 吉とはプラスで凶とはマイナスであり、人間が存在する事によって相の吉凶が発生する。だから幸福な人間は人相も家相も地相もあらゆる相も吉相で、吉方位へ移動し、吉姓名で良縁なのであるが、不幸な人間はすべてが凶相である。
     つまり人間の魂と心と体のレベルに応じた相が発生するから、いくら人工的に表面上吉相にしても、その人間が不幸の法則を生きる基準にしていれば確実にマイナスが発生して不幸になるのは当然である。
     したがって吉相がプラスの作用を発生して幸福の要素として作動するには、神様とつながっている事が必要であり、神様とのつながりが強力であるほど吉相のプラス作用も強力となる。そうして私が説く家相・地相・あらゆる相は自然界の法則と一体であり、最大限のプラスを生み出すためにすべての人間が応用できるものである。
     家相は家の形と建物の材料と土地が一体になっていて、尚且つ人間のための家だから家、の主人と住人になる人間に応じている。先ず家を建てる場合土地の選定をするのだが宅地の地相とその地域の地相が吉相になるようにする。宅地の地相を判断するには宅地とその周辺の土地の歴史を調べ、古戦場跡・古墓地跡・湖や沼や池や海等の埋立て地・ゴミ捨て場跡・肥料や農薬や有毒物質による汚濁・汚染地・悪臭のする土地・山崩れや上砂崩れや地すべりや洪水等の自然災害が過去において発生した土地・日照時間が少な過ぎる土地・その他不快やマイナス要素のある土地は凶であり、建設用地及びその周辺にもマイナス要素がない事が、人間が住む土地としての最低条件であり、この時点ではまだ無難な地相で吉相とはいえない。
     吉相とは最低条件を充たした上で、土地の形は長方形・周囲に草木が茂る土地・湿度と水はけが適度な土地・南か東がゆるやかに下がっていて北か西がゆるやかに上がっている土地・東から南東に清流がある土地・南東から南に通り抜けができる道路が付いている土地地・北方に森林の丘や山が見える土地であり、以上の要素を多く有するほど良好である。
     こうして地相が吉相の土地に、家相が苦相の家を建てるのである。しかし吉相の家相の第一条件は家の形ではなくて、所得と境遇と必要に応じた規模であり分相応の資金で土地を購入し家を建てるのである。そうして最初に建てる家は可能な限り若年期であるほど良く、遅くとも20歳台であるべきで、若年だと気力も体力も活発で運気も収入も上昇する一方なので家相のプラス作用による発展も運命のあらゆる可能性も大きい。
     ただし最初の家は分相応の最低限の規模で、資金も家も小さいほど良好で、例えば十坪の土地に五坪の家をできるだけ最低資金で建てるとすると、資金調達も返済も楽で順調であると共に短期間での返済が可能となり、そうすると最初の家を基本にして家族の増加等によって必要に迫られた場合に、二軒日の家は最初の家よりも大きいものが最初の家を建設する程度のエネルギーで実現可能である。さらに必要と境遇によって三軒目も無理なく建設でき、人生の最晩年には人生最後の家を分相応の最大限の資金と労力と時間を費やして、自分にとって最大規模の邸宅を建てられるのである。
     つまり最初はできるだけ小さく始まると無理なく次第に大きくなるのが自然界における成長の法則である。だから人生の最後に建てる家だけはできる限り満足できる家にするのだが、それ以外は満足できる家にしてはいけない。規模や内容に不足や不満があるから次はさらに大きくしようとするのである。
     そうして家の材料は木・土・石を使うのが良く、金属やコンクリートは最小限にするのが良い。有毒物質や不快感を発生させるような材料は不可である。またなるべく優秀な技術者による堅固な工法で建設するのは勿論であるが土合の床下を全部コンクリートで固めるのは土からのプラス作用をコンクリートが遮断するから不可で、床下に建設時のゴミを残すのも凶である。床下から天丼に至るまで建物内に適度な空気の流通があるのが良い。そして床下の高さは最低一メートルは必要で、湿度が高い場所では人間が立って歩けるくらいの高さは必要である。家相においては何よりも住む人間の健康が最も重要な要素で、次に重要なのが家が堅固で破損や腐蝕しにくい事で、次に吉相の間取りで便利さとその他の快適さは一番最後の要素である。
     吉相の間取りの形は長方形が吉であるが、一つの棟に台所・便所・浴室等の水廻りと寝室や各部屋が全部含まれて一緒の形は、長年住むと凶であり、自分一代限りで子孫は一緒に永住できない相である。だから一棟建ての家は自分一人の住居か家族が少数の時に短期間(長くて数年)の住居であれば良くも悪くもなく無難である。しかし水廻りと玄関の位置によっては凶となる。  吉相の間取りは二棟以上を必要とし、最低でも台所・便所・浴室等の水廻りは汚濁物や悪臭や過度の湿気の発生源だから別棟にして、寝室や部屋は母屋にし、母屋と別棟の通行は渡り廊下か屋根だけにして、下は土や石やコンクリートだけにするのが良い。 渡り廊下は部屋にすると凶相だから外気が常に流通していて外と同様の構造でなければいけない。そして母屋の家相が最も重要であり、母屋には高窓や腰窓は良いが、掃出し窓は人間が勝手に出入口として使えるから家相上は出入口になるから凶であり、出入口は玄関と出口の二か所あるのが良く、その二か所の出入口は張出しにするのが良い。特に玄関は土間になり、土間は家相上は欠けの部分となり凶であるから土間の部分は張出しにするのである。すなわち張出し部分は吉で欠けの部分は凶となる。さらに玄関から建物の内部に入る所には太陽光線が入る戸を付けて、最小限の掃出し出入口の大きさが吉で、母屋の中心からみて東には腰窓で中窓・水廻りの別棟は母屋の東から南東にかけて造るのが最も吉相(別棟の位置)・玄関は南東で出口は北西・南東と南は腰窓で大窓・南西から西にかけては太陽光線が入らないように壁にする・北西から北にかけては腰窓より少し高い位置で中窓より少し小さい窓・北東は壁にするのが吉相で、天井は建物の規模に応じて適度に高く、天井裏は同様に適度に広くて高い(空気の容積が大きい)のが吉相である。
     水廻りの別棟の家相は欠けの部分は凶だが掃出しはどこに造っても良い。別棟は母屋と土地の規模に応じて多いほど良く、水廻りの別棟の次には、西に窓がほとんどない別棟(倉庫・蔵・価値のある物資で汚濁や悪臭を発生しない物を入れる建物)を造るのが良く、金運と財連のプラス作用が発生する吉相であり、北西の別棟は権威の吉相・北の別棟は人間関係の吉相・東と南東の別棟は水廻りと活動の吉相だから人の出入りが多くて活動の拠点であるのが良い。しかしいくら別棟があっても住人が全く使用していなかったり常に外気が流通している場合は別棟にはならない。
     そして住居のある宅地内の池や水溜り等の泉水や穴や屋敷神社やゴミを宅地内へ埋める事は凶であり、宅地の規模の割に石が多かったり大石があったりするのは凶だから宅地の規模が三百坪程度だったら大石や庭石は不要である。庭も築山は凶。 日当り良好の所には菜園や果樹や落葉樹を適度に植え、北側には常緑樹を植えると、夏は日陰と涼しさの要素となり冬は落葉して日当りが良く暖かさの要素となり、北側の常緑樹は北風を防ぐと同時に、建物からみて北側に常緑樹があると気が休まる働きとなるから吉相である。また宅地の周囲は不要な塀は凶で、塀は必要最小限にしてそれもなるべく生垣が良い。松は建物から見て南西か北東・柿は西・梅は北東・低木は東が良い。さらに隣家側の境界線の近くには葉や幹に水分が多く含まれている防火用の樹木を植えるのが良い。竹は建物から数十メートル以上離れていなければ凶で、土砂崩れや強風等を防ぐ目的なら吉。油分を多く含む樹木は燃えやすいから建物の近くは凶、芝は人がよく歩く所に最小限あれば吉で、芝庭は日常居住する宅地内には凶だが丈が長くならない美的な草類は一面にあっても人が草の上をよく歩けば吉。どんな土地においても観賞だけの目的で草木を植えるのは凶であり、食料となる野菜や穀類や果実等や役に立つ草木を植えるのが吉である。
     なお東西南北の方位は30度の角度で、北東・南東・南西・北西の方位は60度の角度である。別棟の数と母屋との距離は宅地と建物の規模に応じて異なる。
     そうしてあらゆる相は雛形の原理と一体であり、形に現れた相を読み取る事によってプラスに変化するための活動ができるのである。人間に関する相は人相であり、人相の中には顔相・骨相・手相・毛髪相・音声相・歩行相・寝相等ありとあらゆる部分に相があり、これらの相は第一に心と体の健康状態を表し、第二に境遇を表していて、健康と境遇によって過去・現在・未来の運命を表している。
     例えば重病で死に至る相は顔色が悪いだけではなくて苦痛の症状が表れていない時期に暗色や黒色のシミや黒子状等になって病気の発生源まで表しているものである。また心が落ち着かないと眼がキョロキョロしたり、歩いたり走ったりして転ぶ時は体や運命において無理をしてはいけない事を表しているとか、手と足が体格の割に小さいのは肉体労働によって収入を得るのではなくて頭脳で収入を得る運命を表している。 このように内容はすべて表面の形になって現れ、相となっているから相を観察して読み取る事によって過去・現在・未来が把握可能となり未来のマイナスの要素を消滅してプラスの要素を増大する事ができるのである。そしてあらゆる相の吉凶は人間の健全度に応じていて、健全であるほどプラスの要素が多くて幸福だからより吉相が表れるのである。したがって形と内容が吉相であるためには神様とつながってより健全になる事が根本なのである。

    ■批判■
     いまどきの日本で、そんなに恵まれた環境に家を建てられる人間がどれだけいるんだ?寝ぼけたようなご託を並べても、何の役にも立たない。
     教主の人相はどうなんだ? もうそろそろ命運が尽きるという相が出ているんじゃないか?
     岡田茂吉が描いた観音像に、「主」などと勝手に自分のサインを書き加え、とんでもない高額な金額で売りつけていたことがばれて、多くの客から損害賠償請求が来ることを覚悟しておくんだな。




幸福 (159)

     幸福を求めるにおいては、幸福についての正常な認識が必要であり、正確な幸福の基準を知る事から幸福実現の開始となるのである。
     先ず第一に誰が幸福になる事が正常で最適かであり、誰の幸福実現のために神様と取引するのかが正しくなければならないが、それは当然自分自身である。自分の存在がなければ幸福も存在しないし、幸福である事を味わえない。自分が存在しているのに幸福でないとすれば存在の意味も価値もない。自然界の法則においては、人間を含めて正常な生物は自分の幸福だけを求め、自分の幸福のためだけに活動し、決して自分以外の者の幸福を求めたり願ったりしないのである。
     だから会社のため・家族のため・お客様のため・良好な人間関係のため等は、嘘であり偽善であり決して存在しない事である。会社のためではなくて自分が収入を得るためであり、家族のためではなくて自分の所有物のためであり、 お客様のためではなくて自分の利益のためであり、良好な人間関係のためではなくて自分が楽しむためであり、会社も家族もお客様も良好な人間関係も全部自分の幸福の要素であり、自分の所有物だから全部自分の幸福のためである。
     そうして自分が幸福であるための絶対条件は健康であり、頭脳を含めた肉体が正常で健全であるから眼・耳・鼻・目及び身体を使って幸福を体験し味わう事ができ、健康で長寿であれば長年月の間現界で幸福を実感できるのである。反対に病気等で肉体の破損や苦痛があるとすれば、他のどんな幸福の要素も楽しむ事ができないし、もし生命まで失うとすれば一切の幸福の要素も無意味で無価値である。
     健康の次に必要な幸福の要素はお金による経済の富裕である。お金によって希望する物事を相当実現でき衣・食・住の境遇も上昇して物質的財産も増加し、現界のあらゆる豊かさを楽しむ事ができ、物質的に快適な生活が可能となるのである。そして幸福は心の充実感や満足感だけでは決して成り立たない。肉体と物質と心の充実が一体でないと幸福ではない。だから肉体は苦しくても心は幸福だとか、お金がなくても健康だから幸福だ等は、現実に肉体の苦しみや経済の苦しみが発生しているから幸福ではなくて不幸である。したがって幸福とは肉体の健康や経済の富裕等の現実の形に現れた物質的要素と、心の幸福感によって成り立っているものである。
     お金による経済の富裕の次に必要な幸福の要素は、家族や親しい人達等の快適な人間関係である。人間は一人では孤独であり話をしても返事はなく、子孫繁栄の喜びもなく、家族や親しい人達による活気もなく、健康とお金はあっても快適な人間関係がなければ生きる楽しさや喜びが激減するのである。したがって肉体の健康と経済の富裕と快適な人間関係は、自分の幸福を構成する三要素であり三位一体であるから、三要素の内の一つが欠けても幸福は成り立たない。さらに幸福の三要素は心の幸福感と一体である。
     そうして自然界における幸福の基準は、心・肉体・経済・人間関係の苦悩や苦痛が絶無の状態を幸福度0としている。つまり人間はマイナスによる苦しみがない状態が通常で当然だから、苦しみがないだけではプラスでもマイナスでもないから幸福度は0という訳である。だから神様によって不幸が解消された事は、確実に奇跡であり良い結果ではあるが、それは不幸というマイナスが0になって通常の人間のレベルになっただけだから幸福ではない。幸福とは幸福度0から幸福度がプラス以上になった状態で、尚且つ永続する事である。

    ■批判■
     「○○のため」は嘘であり、とのことだが、私が神世界を滅ぼすためにこうして戦っているのは、「困っている人のため」であり、自分の利益のためではない。私が神世界を糾弾したところで私自身には何の利益にもならない。
     私がこうした活動をしているのは、神世界によって多くの人が悲しい思いをしている現実があり、それを見過ごすことができないだけである。「困っている人がいるから助ける」だけのことだが、教主のように、”他人のために何かをする”ことが理解できない者には理解しがたい行動に思えることだろう。
     私がこうした行動をしているのは、「教主を懲らしめるため」という目的もある。
     か弱い女性を騙し、女性達がこつこつと貯めてきた貯金を奪い、金がないと言われると生命保険を解約させてまで金を出させる悪辣な行為を繰り返している神世界という団体を放置することは社会にとって害をなすだけである。

    >健康の次に必要な幸福の要素はお金による経済の富裕である。

     こう言っておきながら、多くの女性から多額の金を巻きあげ続け、彼女たちの生活を破綻寸前に追い込んできたことをどう説明するんだ? お前から数十万円、数百万円、中には1000万円を超える金を奪われた女性達が今どのような思いでいるかわかっているのか?
     買いたい物も買わず、旅行に行きたくても行かず全ての生活費を工面して神世界に金を出し続けてきた女性達が、御霊光なるものの実態を知ったとき、どれだけの精神的ショックを受けたか想像できるか?
     もしそれがお前に分かるならば、自分が犯してきた罪の大きさに身震いせずにはおられないだろう。
     幸福になれると信じて神世界に金を出し続けた結果、本当に幸福になれた者はどこにいるのだ? 客からかき集めた金で豪華な暮らしをしている教主と会主、それを取り巻くごく一部の連中だけがいい思いをしているだけではないか。

    >経済の富裕の次に必要な幸福の要素は、家族や親しい人達等の快適な人間関係である。

     お前にそんなことを言う資格があるか? 結婚している夫婦には平気で離婚を勧め、結婚しようとしている恋人同士には、「これはあなたの相手ではない」とたわけたことを言って別れさせ、「御霊光に反対する者は家族でも捨て去れ」と強要している人間に快適な人間関係を口にする資格は全くない。

     やっていることと書いてあることがこれほど矛盾しているのは、神書がいかにいい加減なものであるかを如実に示していると言える。




成功の秘訣 (164)

     成功の絶対要素は自分自身の存在であり、自分の心と体が健全であるほど成功は容易である。
     その次は職業と仕事の選択であるが、自分にとって好きか嫌いか楽しいか苦しいかを基準にして、成功するためには好きで楽しい職業と仕事でなければならない。次に上手か下手か能力があるかどうかであるが、大多数の人間は早く安定したいために極最低の利益で満足してしまい、最高でも一定した横這の人生にしかならないのである。だから大多数と同じ心と言葉と行動では決して成功しない。
     サラリーマンで成功するためには現在は可能な限リレベルの高い学校を経て、公務員か倒産しない大企業へ就職して出世する事であり、そのためには試験に合格しなければならないから試験に合格するための勉強をして良い成績を得なければならないのである。
     事業で成功するためには、その事業に関して研究し続けるのは勿論だが、事業の目的は利益の追求であるから利益は多いほど良い。利益は独占によって得られる法則があるから、事業の成功のためには商品か販路かサービスかあるいは価値か技術か、何か必ず独占している要素がなければ駄目である。そして事業が成長して規模が拡大するほど合理化して利益率を高め、借金を早く絶無にして財産を蓄積するのである。この場合の財産とは、お金とお金を生み出す人材や技術や商品等とお客様である。
     その他芸術・芸能・技術・学問等で成功するには、自分の代りは誰もできないというほど優秀な成果を表す事であり、自分自身が独占商品になるのである。自分の持っているエネルギーは一点に集中する事によって目的や希望の実現化が始まるのであり、周囲の反対や目先の収入や将来への不安等への対策に自分のエネルギーを分散させると、その後次々に障害が発生して結局は時間と労力とお金を消費して苦労したのみに終るのである。
     さらに成功し始めた場合に満足してはいけない。山登りと同様に自分の連命の頂上に到達するまでは登り続ける事で、途中で停止すると成長も成功も停止してその後は 下降するだけの運命になり、一時的な成功で終ってしまうのである。そして注意すべきは、成功し続けて境遇や地位や名声が高くなるほど転落の危険が増すという事であり、成功の山が高くなると坂も急峻になるから一歩足を踏み外すだけで急転直下の運命となるのである。したがって成功するほど自分の足元を盤石にして一歩一歩焦らず確実に前進していれば自然に難なく山は登れるのである。最も危険なのは頂上の一歩手前の絶好調期であるが、過労と無謀と慢心が発生しなければ無事に頂上に到達できるのである。
     そうして永遠の成功を実現するためには、永遠にプラスを生み出す回転のシステムを完成させて永遠に稼働する必要がある。エネルギーは回転によって発生し、同じエネルギーを生み出すためには小規模の回転であるほど高速で、大規模の回転であるほど低速で実現できるのである。そして始まりは最小の回転であるが、一点を中心にして回転し続けていると周囲も回転し始めて次第に大規模な回転に成長し、やがて一点を中心にした巨大な渦巻に発展する事も可能だが、回転の規模がどのくらい大きくなるかは回転発生の中心である核にどのくらいの価値があるかによって決まるのである。
     したがって核の価値が小さいほど回転も小規模であるべきで、そうすると分相応の成功が永続し、核の価値が大きいほど回転も相応して大規模になり、より大きいエネルギーを生み出す事ができるのであるが、大規模な回転になるほど中心の核は動いてはいけないのである。回転の中心は動かないほど正常であり順調だが中心が動くほど異常な回転となり、やがては永遠にプラスを生み出す回転のシステムの破壊となるのは当然である。回転の核とは中心人物の事である。

    ■批判■
     またまた教主お得意の、「強者の理論」の登場だね。
     学歴偏重、大企業の独占是認・・・、高度経済成長の時代にもてはやされこうした歪んだ目標設定が日本をどれだけ狂わせ、日本社会に種々の問題をまき散らしてきたことか。
     教主の頭には、とにかく競争に打ち勝ち、自分がお山の大将になりたいという願望だけが渦巻いているようだ。
     そのためには、他人がどんな目に遭っても一切関知せず、多くの人を踏みつけてでも自分だけはいい思いをしたいという超利己的、自分勝手な考えに凝り固まっている。
     教主がここまで歪んだ思想を持った人間になった背景に何があったのか? 一度タバコ屋の主人に聞いてみたいものだ。
     通常の日本人には、ここまで他人を踏みつけにしてでも自分だけがいい思いをしようとする者はめったにいない。
     教主がここまで人々を苦しめることに快感を見いだしているのをみると、ひょっとすると教主には民族的な問題があり、日本人に対する復讐をしようとしているのではないかとまで思えてくる。



貧困の原因 (168)

     貧乏の原因は収入よりも支出の方が多いからで、収支の赤字化が貧乏の発生源である。さらに収入は減少するほど、支出は増大するほど貧乏化の速度は増し、貧乏の度合も深刻化する。
     収入が減少する原因は、企業内では景気等による売上げの減少や経費の増大で利益が減少し分配するお金が減少した結果、労働者の賃金や役員の報酬や株主への配当が減少し経営者の所得も減少するからで、不景気になると金利も低下するから利息収入も減少する。個人においては病気や怪我や失業等で働けない状態になると確実に収入は減少するのである。
     商品が売れない原因は、宣伝不足によって商品が知られていないか、商品に魅力がないかであり、商品に魅力がないのはお客様にとって値段が高いか、不必要かである。売上げが増えないのに経費が増えるのは、贅沢になっているか、無能であるか、横領によるかである。
     支出が増大する原因は、必要経費の増加と不必要な出費の増加であり、不必要な出費とは利益を生み出さないことに現金を支払う事である。具体的には以下の通りである。

     ・分不相応の贅沢
     ・税金対策のための事業拡大や設備投資や不動産購入
     ・利益を生み出さない者への現金支出
     ・効率の悪化による経費増大
     ・横領や背任による不正支出
     ・病気や怪我等の医療費
     ・罰金や慰謝料
     ・遊興費やギャンブルでの損
     ・株式相場や商品相場等への投資失敗による損
     ・詐欺や盗難や紛失や災害等での損 
     ・不必要な保険料や教育費や定期掛金
     ・連帯保証人になって保証した相手の借金を背負ってしまつたり、無担保で貸した現金が焦げ付いたり、受け取った約束手形や債券が倒産や破産等によって無価値(紙くず)になったりして発生した損
     ・インフレや国家の混乱でお金の無価値化による損
     ・あらゆる借金

     以上の出費はプラスを生まない全くのマイナスであり、経済が病んでいて経済の毒化・悪化・異常化であり、いくら収入が増加しても経済活動の基準が健全にならなければ破産による経済の破壊消滅が発生するのである。だから心と言葉と行動が貧乏に誘導する事になる。
     貧乏に誘導する心とはお金を大事にしない心であり、収入面においては自分が働いて稼ごうとせずに、常に他人や運命や不確実なものに頼って、一攫千金や濡れ手に粟や都合の良い援助等による一時的な大金を夢見ていて、確実で地道に永続的な収入を得ようとしない。支出面では常に贅沢を求めて高級ブランド品や高級車や高級住宅等を大借金して購入するそして借金して支払う精神と見栄と他人を羨む心から脱出できないのである。また騙されて現金や財産を失うのは、信じる事や世のため人のために尽す事を生きる基準にしているからである。

     貧乏に誘導する言葉と行動とは、お金とお金になる物とプラスのお金を生み出す人を粗末にしたり不快にさせたり不幸にしたりする言葉と行動であり、現金の事を「カネ」「ゼニ」「小銭」と呼んだり、現金を紛失したり破損したり汚したり、お金に関する取引に使用する印鑑や印鑑証明を大事にしなかったり、お命と同じ働きをする小切手や手形を大事にしなかったり金額の数字や契約書を確認しなかったり、自分の永続する幸福にとって利益となる事にお金を使う事ができなかったり、マイナスの出費をしたりする事である。
     そうして貧乏のどん底に誘導する決定力の働きをするのが借金であり、借金の金利が高いほど、金額が多いほど経済を悪化させるのである。借金はプラスの利益を生み出すことだけに使い、必要最小限の規模であっても経済活動においては最適ではない。

    ■批判■
     またまたバカげた内容をくどくどと述べているが、「自分が働いて稼ごうとせずに、常に他人や運命や不確実なものに頼って、一攫千金や濡れ手に粟や都合の良い援助等による一時的な大金を夢見ていて、確実で地道に永続的な収入を得ようとしない・・・」というのは教主自身のことではないか。
     こう言うと教主はすぐに、「いや、俺は貧乏ではないぞ」というだろうが、貧乏になるのは時間の問題だ。「悪銭身につかず」の諺通り、たくさんの女性達から不正な手段でかき集めてきた資金は返金を余儀なくされ、(有)神世界は倒産することになるだろう。え?会社更生法? バカなことを言うんじゃない。なんでこんなバカげた会社を更正させる必要があるんだ。




世のため人のために尽くしてはいけない (172)

     「世のため人のため」というといかにも善美な言葉に聞こえるが、実は人間を不幸にする考え方なのである。
     人間及び動物や植物といった意志を有するものは自分の利益を求めるように造られている。特に人間は神様の体であり、神様が造った最高傑作品であるのだが、人間がまだ未完成なために今までは間違った教えを本当だと思って信じて実行したので、不幸が永続してしまったのである。
     間違った教えの中でも「世のため人のために尽す」というのは代表的なものの一つである。
     人間は自分の利益になる事以外は考えられないし、また自分の利益にならない事を考えてはいけない。ただし私がいうところの自分の利益とは本当の利益の事で、永続する利益とか増え続ける利益という意味である。
     だから他人を苦しめて不幸にして得た利益は一時的で、不幸にした相手からの恨みの念が永続して伝達され、その結果として恨まれている方はその人間の霊体も金銭の霊体も極度に汚れているので、清浄化作用が発生する。勿論清浄化作用とは霊体の汚れや毒素を消滅させるのであるから普通は苦痛の発生となり肉体の病苦や怪我によって汚れが多量な部分を破損する運命となる。
     金銭等の場合も肉体と同様に恨みによる汚れがある程度の量を越えると、清浄化作用によって金銭等を失う連命になる。その場合の失い方は必ず苦悩を伴うのが特徴であり、これは不正によって得た金銭も同様である。
     したがって恨みや不正によって得た利益は決して利益にはなってないどころか、清浄化作用の発生によって一時的に得た利益異常の損失を受け、さらに苦悩というマイナスの利息まで加算されるのであるからこれほど割に合わない事はない。その上不正を行った結果、犯罪者にでもなれば金銭の利益を失うだけではなくて信用を失い、家族を失い、自由を失い、職を失うのであるから何という大損であろうか。そうして本当の利益とは永続した利益の事だがこれは私の教えを実行する以外には得られないのである。
     何故「世のため人のため」ではいけないかというと、自分以外の者のために金銭や時間や労働を無料で提供して尽した場合、尽した相手が自分に対して何等かの形で応えないと必ず不快感が発生するからである。
     「あんなに良くしてやったのに感謝もしない」という心が次第に不平不満や愚痴になり、いつの間にか他人を憎むようになって醜い心になる。
     さらに「自分は生活を犠牲にしてまで世のため人のために尽しているのに全然運が良くない。それに引き替え自分の欲のためだけに稼いでいる人間の方は割と運が良いように見える。神様は不公平だ。
     もともと神様なんていないのだ」と考えるような者は白暴白棄になったり、精神異常になったり、不和争論の毎日となって孤立して人間嫌いになったりするのである。それで世間では「あんなに世のため人のために尽した人が何故あんなに不運なんだろう」と言うのだが、世のため人のために尽している人の心は前述のように悪魔の心になっているか、あるいは表面上は良い人に比えても裏面では不正や他人の恨みを受けるような事を行っているかのいずれかであるから、幸福にはなれないのである。
     人間は金銭や時間や労働といった価値あるものを提供あるいは犠牲にして何かのために尽した場合は、何等かの報酬(利益)がなければ必ず疲れたり、愚痴になったり、憎んだり、集中できなかったりするのが普通で正常である。
     もし皆が無報酬で世のため人のために労働をすればどうなるかというと、共産主義国家と同じ運命になり、誰も欲を出して稼ごうとしなくなるから生産力は低下し労働意欲はなくなり発展も進歩も向上も全くなくなるのである。
     ただ無報酬の労働力を得た者だけが得をする事になる。これとは反対にすべて自分のため、自分の幸福と利益のためであれば同じ事を行っても心は明るく楽しい筈で、下らない事を考えなくなり他人の事なんかは気にならないから、人間関係も良好で円満になるので運命も良くなる。また欲が出るから進歩向上は迅速である。
     したがって人のために尽す事ができるという考えは錯覚に過ぎない。例えば他人が病気で苦しんでいる時に自分が相手の苦しみを代って引き受ける事ができるなら、人のために尽す事ができたといえるが実際には不可能であろう。
     たとえ親子であっても子供の苦悩を親が代る事はできないし、親の苦悩を子供が代る事もできない。すべて幸福も不幸もその人間自身のものだから他人が代る事はできない。
     そもそも不幸というのはその人間の霊体の汚れを苦悩によって清浄化している状態であるから、ある程度清浄化されないと運命は好転しない。それを福祉だとかいって金銭等を恵んでしまうと清浄化されないから、依然として霊体の汚れのために不幸な境遇から脱出できないのである。
     そうして通常霊体の汚れを清浄化する手段は苦悩によるから長年月かかり、場合によってはあまりの苦悩のため耐えられない事もあり清浄化の効果が小さいのである。
     そのために今までは幸福になる事が稀であったが、私の所では太陽神の強力な御霊光によって迅速に清浄化され、たちまち霊体の汚れが消滅され始めるので幸福化するのに時間がかからない。
     神様の御霊光による奇跡としかいえない事が続出するのである。勿論御霊光が伝達されるためには本人自身が心を開いて求めなければならない。つまり「助けてくれ」と心から願って私の教えに素直になり言われた通りの事を実行すれば、その瞬間から御霊光が本人に伝達されるから運命の好転が始まり良い事が次々と表れるのである。

    ■批判■
     全体としては言っていることは支離滅裂であり、バカげた内容でしかないが、少し笑えるとこともある。
     「他人を苦しめて不幸にして得た利益は一時的で、不幸にした相手からの恨みの念が永続して伝達され・・・」とは、まさに教主自身のことを指し示しているようだ。
     お前くらい他人を苦しめ、他人を不幸にしたことで利益を得ている者はいなないだろう。”そうして得た利益は一時的で”とは、まさに的を射ている。こんな悪辣な商売は長続きはしない。早晩教主は検挙され、騙し続けてきた客はおろかスタッフ達からも損害賠償請求を起こされ、無一文になる日もそう遠くはない。え?今のうちに海外に逃走資金を送金しておこうって? それは無駄だ。ICPOってものがあって、どこまででもお前を追いかけて行くぞ。




やさしさ・思いやり・親切・愛ではない (177)

     人間は今まで間違った教えを生きる基準にしていたために異常になっているから、人間が今までに作った言葉の中にも異常なものが多数ある。
     異常な言葉とは、実際には何でもないありふれた事を特別な価値があるように錯覚させる言葉であり、偽善の言葉である。正常で通常レベルの人間の日常生活では当り前で意識もせず特別な価値は全然ない事なのに、それを美徳だとか美しい心の表れだとか、特別に高度なレベルの偉大な価値があるとか、何でもない事なのに特別に大きい価値があるとしてしまうと飲食や労働や睡眠や取引関係(人間関係)等の日常生活が特別なもので奇跡的に有り難い事になってしまつて、そんな評価になってしまうとすれば通常のレベルでは日常生活を営む事はとてつもなく困難であり、ほとんど皆が絶望的な不幸の境遇だという事になるのである。
     異常な言葉の中でも、やさしさ・思いやり・親切・愛は最も多く使われるのであるが、これらの言葉は、好きな相手・好意の対象・自分の利益になる相手・自分が所有しているもの・自分にとって失いたくない大事なもの、に対する通常の感情や言葉や行動や態度であり、相手に気に入られたいとか自分の利益になるとか欲しいものを手に入れたいとかの欲求であり欲望であり通常の人間の本能である。だから相手に対する好意や相手から得る利益が低下したり稀薄になったりするほど、やさしさ・思いやり・親切・愛の度合も低下し稀薄になるのであり、感情の表れだから実に不確実であやふやで当てにならなくて変化しやすいものであるのは当然である。
     そうして中には言葉だけのやさしさ・思いやり・親切・愛を売り物にして、相手からは大きい価値ある物を巻き上げる者もいる。むしろやさしさ・思いやり・親切・愛は、自分ができるだけ格安で最小限の出費で、相手からはできるだけ多くの利益を得るための道具や手段や呼び水になっている。たとえ無償で何も相手から求めなくても、相手に対する「気の毒でかわいそうだ」という見下した無礼な感情からであっても一方的な押し売りで相手が迷惑がっていても、自己満足のための趣味や道楽であっても、やさしさ・思いやり・親切・愛である限りはプラスは生み出さないし永遠の幸福は決して実現しない。
     すべては最適な取引関係における取引材料の要素の一つであれば良いが、取引であれば最早やさしさ・思いやり・親切・愛ではないし、そんな異常で無意味で無価値な言葉は不必要である。
     鳥獣虫魚においても、発情期や出産から子育ての時期にはオスとメスの間や親と子の間には、やさしさ・思いやり・親切・愛ではないかと錯覚するような態度や行動が表れるものだが、これはすべての生物に共通した感情であり、自然界及び自然界のすべての動物や植物や生物においては、本能も感情も自分に最適な取引を実現するためのものであり、すべては最適な取引を求めるための心と言葉と行動であればそれは正常で健全である。

    ■批判■
     屈折してるねー。どうしたらこんなにひねくれた考え方になるのだろう?
     よほど子供の時に親の愛情を受けずに育ったか、学校でいじめにでもあっていたんだろうか? 教主という人間の生い立ちを知ることが、神世界問題を解く上では欠かすことができないポイントなのかもしれない。
     ここに書かれている内容は、”神世界をもっともらしく見せるためのポーズ”を通り越して、”異常”というレベルにまで達しているように思う。
     教主の犯罪を裁く法廷では、被告がなぜこのような歪んだ思考を持つに至ったのかも一つの争点になるかもしれない。
     しかし、生い立ちに問題があったからといって教主の犯した犯罪が免ぜられるというものではないが・・・。




無償の奉仕と援助は害 (180)

     無償の奉仕とはボランティア等のように、自分の時間と労力を無料で提供する事であり、無報酬の労働によって他人に利益を与えようとする行為である。また無償の援助とは無償の奉仕(無報酬の労働)と同様に、自分のお金や物資を見返りや返済や代償を求めないで、只で提供する事によって他人に利益を与えようとする行為である。
     無償の奉仕と援助は大富家の個人的な道楽として匿名で行うなら止めないが、一般大衆を洗脳して巻き込んだり税金を使ったり奨励したりするのは、マイナスを生み出して害だけが発生する。無償の奉仕や援助は肉体的に不幸な人間や経済的に不幸な人間に対して行うものであるが、取引なら互いの利益になるから永続するが、無償の奉仕と援助は一方的に不幸な人間(マイナスにしかならない人間)に対して時間と労力とお金をとぎ込むだけだから決して長続きしない。
     だから無償の奉仕と援助は一時的な気まぐれで何時打切りになるかわからない性格のもので、もし無償の奉仕と援助を受けるのが習慣になっていて、無償の奉仕と援助がなくては生きていけなくなったり、誰かが自分の世話をしてくれる事を当てにしたり、誰かがお金を恵んでくれる事を当てにするようになったらどうであろう。無償の奉仕と援助は、それを受ける側の不幸な人間の生きる意欲や労働意欲や収入を得て良い境遇になろうとする意欲を次第に退化させ乞食根性を発生させ、無償の奉仕と援助をする側の時間的・精神的・経済的な負担というマイナスを増大させプラスの生産力を低下させたりするから、害だけにしかならないのである。
     すべては報酬を得るための労働で代償を得るための資金提供でないと、互いの利益にならないから永続する良い結果にはならないし幸福化しない。したがって不幸な人間に対して只で時間とお金と労力を使うのは止めて、永遠の幸福を実現するために神様との取引に時間とお金と労力を使う事が最大のプラスである。

    ■批判■
     批判文を書くのも嫌になるほど馬鹿らしい内容だが、書かない訳にもいかないので敢えて書こう。
     私が神世界を糾弾するサイトを運営しているのも一種のボランティアのようなものだ。
     教主の説によるとこうした無償の行為は長続きしないものとのことだが、すでにサイトの運営は1年以上継続しており、規模はどんどん大きくなり、掲示板への参加者、情報提供者の数は大幅に増加している。
    神世界の被害に遭って苦しんでいる人がたくさんいて、その人たちはこんな問題をどこに相談したらいいか分からずに苦しんでいるとき、こうしたサイトの存在は、真っ暗な海を航行する船が灯台を見つけた心境ではないかと思う。
     そうした困っている人の手助けをすることは、人間だからこそできることである。自分が生きることに全神経を集中させている野生の動物と人間の違いがそこにある。
     騙しあうのも人間だが、助け合うのも人間なのである。おそらく教主には、騙しあうことは理解できても助け合うことは理解できないだろう。

     私にたいした力がある訳ではないが、たくさんの被害者から寄せられた断片的な情報をつなぎ合わせ、神世界被害の全体像を明らかにし、こうした被害に遭った人たちを一日で早く元通りの生活に戻ってもらえるようにしていきたい。
     こうした活動は無償だからこそ可能なのであり、有償で行えるような活動ではない。




「長者の万灯より貧者の一灯」は嘘 (182)

     これは「お金持の多額の寄進よりも、貧者のたとえ少額であっても真心のこもった寄進の方が貴い」といいたいのであろうが、実際にはお金持が苦労しないで得た現金も貧者が苦労して得た現金も、金額が同じであれば貨幣価値は同じである。もし所得や境遇等によって貨幣価値が異なってお金持の千円は百円の価値しかなくて貧者の千円は一万円の価値があるとすれば、商売も経営も 世の中の経済も国家も成り立たないし、全員が貧者の方が楽だという結果になる。
    そもそも真心とは心で一生懸命に良い事を思う事ではなくて、真心によってどのくらい大きいプラスの結果が現実に生み出されたかであり、真心の千円の真心の価値は千円であり、一万円は真心も一万円である。
     すなわち目に見えない心を正確に測定するには、現実に表れた正確な数値によって判断し決定するのが最適であるから、寄進等の場合は金額が真心の正確な数値になるのである。
     だから本当は真心という言葉自体が無意味であり、相手に真心と感じさせて自分が支払うべき金額を減らそうという意図がある。
     実際に人間界における真心とか誠心誠意とは、少額の御礼や支払いを金額以上に偉大に見せて相手に金額以上の大きい価値があるように思わせて、できるだけ自分の利益になり相手の損になるようにするための嘘である。
     だから自分が正規の金額を支払った場合には、相手には真心とか誠心誠意とはいわない筈で、互いの利益が最適値で釣り合う取引においては、現金を支払った自分は相手から正規の領収書や商品を受け取り、現金を受け取った相手は金額を確認するだけで良い訳であり、相手を幻惑させる嘘の言葉は不必要であり無意味である。
     だから私の御神業においても神様と人間とは取引関係であり、神様の商品である幸福と幸福の要素を人間は代金を支払って購入するのである。私にとっては人間の境遇や性格や評判等は他人の事だから関係ないのであり、神様による良い結果に対して代金さえ支払えば誰でも良い。
     したがって「長者の万灯」は万灯の価値があり、「貧者の一灯」は一灯の価値だけなのは当り前で価値を正確に評価できるのは結果だけであり、結果に至るまでの動機や過程は結果によってのみ正確に評価されるのである。そうして結果はすべて自分の五官で確実に認識でき、すべて数値に表す事ができるのでそれ以外の認識不可能な結果は無意味・無価値・不必要なのである。

    ■批判■
     人が目標に向かって努力する姿勢を評価できない教主に、「長者の万灯より貧者の一灯」という諺を理解するのは不可能だろう。
     「金額が同じであれば貨幣価値は同じである。もし所得や境遇等によって貨幣価値が異なってお金持の千円は百円の価値しかなくて貧者の千円は一万円の価値があるとすれば・・・」って、そんなことわざわざ書くような内容ではないだろう。
     人が目標に向かって努力する行為や課程に価値を見いだせず、結果でしか判断できない教主を親に持った子供がかわいそうだと、人ごとながら思ってしまう。学校教育の現場でも、学校に対してとんでもないクレームや要求をしてくるモンスター・ペアレンツが増えてきて学校の先生は大変だという話を聞くが、教主もきっと、”なんでワシの子供は勉強ができないんだ。先生の教え方が悪いからだろう。結果を示せ、結果を!”なんて言っている口ではないだろうか(笑)。




「ならぬ堪忍」はするな (184)

     昔から「ならぬ堪忍するが堪忍」といって、とにかく我慢・忍耐という教育を根本とし美徳としたがこれは征服者の奴隷に対する教育なのである。
     理不尽な事により自分の生命や財産を侵害されても「堪忍しろ」「我慢しろ」というのは、「何に対しても無抵抗でいろ」という事であり、結果的にはマイナスの要素を作ってしまう事になる。したがって苦しむ事自体がマイナスであるため、理不尽な事に対しては決して泣き寝入りや忍耐・堪忍・我慢をしてはいけないのである。苦しんでいる者や弱い者が悪い人間という事になってしまうので、神様の御霊光により自分自身の運を良くして幸福であれば堪忍の必要がなくなるから、良い人であり善人という結果になる訳である。

    ■批判■
     教主も、たまにはまともなことを言うこともあるようだ。

    >理不尽な事に対しては決して泣き寝入りや忍耐・堪忍・我慢をしてはいけないのである
     それはその通りだ。神世界によって理不尽な被害を受けた被害者は泣き寝入りしたり我慢したりはしない。
     正々堂々と神世界に損害賠償請求をして、理不尽に巻き上げられた金を取り返す行動を起こす。
     教主も、客がたくさんの金を出したにもかかわらず、「幸せになれない」と言ってきたときには、「もっと金を出さないと・・・」等と我慢させずにさっさと幸せにしてあげることだね。もし、御霊光にそのような力があるのなら(ないから無理だと思うけど)。




自分が一番大事 (185)

     自分にとって一番価値、貴重であり、大事な存在は自分自身である。もし自分の存在がないとすれば一切すべてが無意味になる。
     そのうえで自分の意識がある間にできる限りの幸福を実感できれば、幸福を実感できた分だけのプラスの価値と意味が、自分という存在には確実にあった訳である。
     反対に不幸を実感してしまったとすれば、その間の時間と労力と経費は自分にとって損失となり、それは損失というマイナスを生み出すために時間と労力と経費を消費した訳だから、その自分というのは損失というマイナスだけを生み出した存在であり、その時点での自分の価値と意味は0以下である。
     だから自分にとっての利益や得といったプラスは取り入れて、自分にとってのマイナスを排除すればその時点から自分の価値は上昇し続けて、上昇した自分の価値と同じく境遇も上昇し幸福度が増すのである。
     したがって神様・家族・かけがえのない存在といえども自分にとってプラスであれば必要で価値ある存在だが、マイナスであれば不必要であり、もし神様・家族・かけがえのない存在のために自分が儀牲になったり、不幸になったりするなら、それらは自分にとって損失を生み出す存在であり、自分の価値と意味を0以下にするものであるから、排除して捨てる事が自分のプラスとなり自分の価値が上昇するのである。
     どんな場合においても、自分にとって自分自身以上に価値があり大事な存在は絶対にない。次に自分の幸福にとって、より大きいプラスをより多く生み出す存在であるほど、自分にとってより価値があり大事なのである。

    ■批判■
     いつものことながら、「利己主義の極致」だね。
     自分を大切に思うことは大切なことであるが、自分という存在の大切さを知ることで他人も自分と同様に大切な存在であることに気づき、どうすれば皆が幸せになれるかを探っていくのが人間としての正しい生き方ではないのか。
     教主は、”自分だけ”が大切であり、自分の利益にならない者は例え家族であっても切り捨てることを厭わない。
     我が子のために自分の肝臓の一部を生体間移植するなどということは教主には絶対に考えられないことだろう。
     教主の子供は、「こいつは役に立たん」と思われたらいつなんどき教主に捨てられるかもしれないから、物心がついたらさっさと金目のものを売り払って自分の蓄えを作っておいた方がいいぞ。




今が一番大事 (187)

     今の瞬間の連続が過去・現在・未来を作っていて、過去の自分が現在の自分を作り、現在の自分は未来の自分を作っている。常に今が一番良い境遇であるのが運が良いという状態で、自分の価値と幸福度は上昇しているのである。
     だから今が一番大事であり、今が一番今までの中で幸福であるためには、自分の幸福にとってプラスになる要素を今できる限り吸収し生み出す事と同時に、マイナスになる要素はできる限り消滅し捨てる事によって、常に今の自分が未来に進めば進むほど自分の中にプラスの要素が増えるから、自然の法則によって常に今が一番幸福な状態になるのは当然である。
     反対に常に今が一番不幸であるという人間は何でも自分にとってマイナスの要素に変えてしまうので時が経過すればするほど自分の中にマイナスの要素が増え続けて不幸の度合がひどくなるのである。そうなると今が一番大事だとは判断し難いから、今より過去を振り返りたがるのだが、過去も今の自分にとってマイナスの要素に変化させてしまう。
     過去の栄光や成功を思い出しては「あの時は良かった、だが今は最低だ」とか、過去の失敗や損害を思い出しては「あの時ああすれば良かった、そうすれば今よりはましだった」というように、常に過去を振り返っては「今は不幸だ、最低だ、運が悪い、どん底だ」というマイナスの要素に変化させてから頭脳にインプットし続けているから、常に心と言葉と行動でマイナスの現象を生み出してさらに苦悩する結果になるのは当然である。
     過去がどんなに良くても悪くても今の自分自身が実体であり、今の自分という実体が過去より良い状態であればプラスの要素が増え続けていて価値が上昇しているから今が一番良いという運命に誘導されているのである。また過去より今の状態の方が、悪くても、今の瞬間からプラスの要素を増やしてマイナスの要素を消すようにすれば今以降は自分の価値と幸福度は上昇するのである。自分の意識があって生きている間は誰でもこの法則を応用する事ができるから得である。
     そうして自分にとってプラスの要素が増えてマイナスの要素を上回ると、運命を開くチャンスが発生する。チャンスとは人との出会いと商売であるが、チャンスが発生した今の一瞬を確実に自分のものにして目的達成に集中するのである。この時チャンスをものにする行動は今の瞬問からであり、「明日にしよう」とか「一晩ぐっすり眠ってから仕事にかかろう」とか「今の仕事が終ってから電話しよう」というように、今、相手のチャンスを一番大事にしなければ時間の経過と共に自分の状況が変化したり、相手の状況が変化して自分に不利になる可能性が高くなり、何よりも人の心は最も変化しやすいから相手の気が変わる事でチャンスを失う結果になるものである。
     最初の小さいチャンスをものにすると、次には以前より大きいチャンスが発生し、次々とチャンスが発生した今の瞬間を捕えてものにするうちに、人生最大のチャンスか絶好のチャンスが発生するもので、それをものにすると一気に運命上昇が飛躍して自分の最大の夢や希望や目的が実現するのであるが、実現してからマイナスの要素を増加させなければ決して運命は下降したり悪化したりしないのである。
     勿論うまい話というだけでチャンスではない場合もあるから、チャンスかどうかは自然の法則に当てはめて実体だけを観察すれば、誰でも瞬間に判断できるのである。

    ■批判■
     この文章を書いた目的を考えてみた。
     この文章が述べているのは、「チャンスが逃げてしまわないうちに即断で決断せよ」ということだ。
     怪しい話、うまい話には裏がある場合が多いので、普通は誰かに相談したり、よく調べてからどうするか決めるものだが、客にそのような行動をとられてしまうと、神世界のような怪しい団体はとてもじゃないが成り立たなくなる。
     神世界は女性一人を騙すことはできても、他の人に相談されてしまうとこんなところは怪しい、止めておきなさないとアドバイスされるので商売がやって行かれなくなってしまう。
     それを避けるために、

    読んで、まず思ったのが、「刹那主義」という言葉だね。
     今を大切に生きるということは決して悪いことではないのだけれど、教主がいう、「今が一番大切」は意味が違う。
     人間というのは過去の反省の上にたって今後の方針を描いていくものであり、「過去より今の状態の方が悪くても、今の瞬間からプラスの要素を増やしてマイナスの要素を消すようにすれば今以降は自分の価値と幸福度は上昇するのである」とするのは、客が神世界のために以前より悪い状態になってしまっても、その事実に目を向けさせず、「これまでのことは考えずに、今からよくなるようにしたらそれでいいんだ」と更なる騙しに結びつけるための文章になっている。

     「勿論うまい話というだけでチャンスではない場合もあるから、チャンスかどうかは自然の法則に当てはめて実体だけを観察すれば、誰でも瞬間に判断できるのである」という部分を最後に付け足したのは、教主は株か投資に失敗したことがあるんだろうね。他でも同じようなことを書いており、よほどその失敗に懲りたのだろう(笑)





百パーセント信じられるのは自分だけ (192)

     すべての人間は自分という者については生まれてから精神も肉体も一体であり、他のどの人間よりも自分の事を知っていて認識しているのである。自分以外の人間については自分ほどは知らないし、自分と一体ではないからわからない部分もあるのは当り前の事である。
     だから親子・兄弟姉妹・血族・友人といった極親しい人間であっても自分以外の別個の存在であるから、百パーセント理解するとか認識するとか信じるとかは不可能である。信じるという事自体が無意味であり無価値である。価値があるのは自分にとって何がプラスで何が得で利益になるかという事だけである。したがってもし百パーセント信じられるものがあるとすれば今のところ自分自身だけなのである。
    ■批判■
     そうかな? あんたは本当に自分のことが分かっているか?
     もしあんたが自分のことをよく分かっており、自分が今やっていることがどれだけ非道なことかを正しく認識していたら、こんな悪辣なことばかりやっている自分に嫌気がさして生きていられなくなることだろう。
     あんたほど極端ではないにしても、人間は自分のことをそれほど正しく認識できているものではない。かえって周囲にいる人の方が正しく自分を見てくれている場合が多い。
     「灯台もと暗し」という諺もある通り、あまり自分に近すぎるところはよく見えていないことが多く、それは自分自身についても言えることだ。
     あんたは自閉症に苦しんでいる人のことを知っているか? 自閉症の症状にはいろいろなパターンがあるが、自分が分からず苦悩している人もたくさんいる。そうした人たちの苦しみを考えたことがあるか?

     親子・兄弟姉妹・血族・友人を信じることは無意味で無価値だって?
     あんたはよほど寂しい子供時代を送ったんだろうね。あんたの周囲には家族も含めて心の底から信じることができるような人は誰もおらず、あんた自身も人から信用された経験がないのだろう。その結果、こうしたとんでもない暴言が平気で吐けるようなかわいそうな人間にあんたは育ってしまったのだろう。
     人を信じることは難しい。裏切られるかもしれない危険性を冒してまで人を信ずるよりも、あんたのようにすべての人を信じない生き方もあるのかもしれないが、それはあまりにも寂しい生き方だ。
     まあ、あんたのような生き方をしている人間を友達にしたいと思う者はどこにもいないし、きっと家族も縁を切りたいと思っていることだろう。

     皆があんたのような考え方をする人間ばかりならば、この社会はギスギスした本当にいやな社会になってしまう。
     しかし、あんたは知らないだろうが、実際の世の中はそんなに不信感ばかりがあふれているのではなく、暖かい心の通った人もたくさんいるんだ。
     まあ、あんたに言ってもわからないだろうけれど・・・。







苦しむ人間が悪い (193)

     自然界においては結果がすべてであるから、結果が悪ければ動機や原因や過程も悪く、それに関係するすべての人間も悪いと判断するのが当然で正常な判断である。したがって苦しむ人間が悪いのであり、不幸なほど悪人なのである。
    ■批判■
     世の中には動機や原因や過程が良くても結果が悪かったという例はいくらでもあり、そうした場合であっても動機や過程を全く評価しないというのは、作者の考え方がいかに偏っていて異常かが現れている。これほど極端な一面的視野しか持たない者を親にもった子供、このような上司もった部下はさぞかし地獄のような毎日を送らざるを得ないことだろう。
     この理論によれば、いわれもない犯罪被害に遭って苦しんでいる人も、当人が悪いということになる。
     北朝鮮に拉致された被害者が未だに帰還できず苦しんでいる家族もいるが、あの人たちに向かって、「苦しむ人間が悪いのだ」と言えるか!
     神世界なる怪しげな団体に大金をだまし取られたことが原因で家庭が崩壊し、不幸のどん底に突き落とされた人に向かって、「騙されるようなあんたが悪人だ。教主は悪くない」と言うのか?


     たとえ重病で苦しんでいるのが生まれたばかりの赤ちゃんでも、一番悪いのは一番苦しんでいる赤ちゃんであり、次に悪いのは赤ちゃんの次に苦しんでいる親である。
    ■批判■
     この文章を読んでいる皆さん、ここは本当によく読んで頂きたい。
     皆さんの中で、上記文章の内容をそのまま受け入れることができる人はいますか?

     教主は、「たとえ重病で苦しんでいるのが生まれたばかりの赤ちゃんでも、一番悪いのは一番苦しんでいる赤ちゃんだ」と言っているのですよ。

     神書の中には数多くの常識外れ、荒唐無稽、デタラメな部分が多いが、この部分はその中でも特に衝撃的なフレーズだ。
     生まれたばかりの赤ちゃん、それも重病で苦しんでいる赤ちゃんに向かって、「一番悪いのはお前だ」と教主は人間とは思えない暴言を吐いている。教主には弱者をいたわる心は皆無であり、悪魔のような冷酷な心の持ち主であることを示している。
     このような冷徹な考え方を持つ者が、神との仲立ちをする選ばれた人間であるとしたらこの世は闇になる。

     そしてすべての結果は全部自分自身の心と言葉と行動で誘導し実現させたものであるから、最も苦しむ人間に最も罪があり最大の原因を作った本人であり、決して例外はない。
     それは生きる基準が不幸を実現する法則だから、その法則通りに必然的に不幸が実現する訳である。だから幸福を実現する法則を知らないのは知らない人間の都合であり、その本人が悪く、悪い運命によって苦しむのもその本人が悪く、病気・事故・貧乏・人間関係等で苦しむのもその本人が悪いのである。
     何故なら自然界では、信じる事は成り立たないのに人間は信じるから騙され不幸になって苦しむのであり、薬は毒なのに人間は薬を体内に入れて毒化・悪化・異常化して苦しむのであり、人間は自分のためだけにしか活動できないようにできているのに自分以外の者のために尽すから奴隷になって苦しむのであり、自分にとって利益になる人を大事にしなければならないのに得にならない口先だけの者を大事にするから没落して苦しむのであり、取引以外の人間関係は成り立たないのに無償の奉仕や援助をして苦しむのであり、人間は体内の毒素が消滅するほど健全になるのに体内の毒素を増大させるから悪化して苦しむのであり、いじめられたら戦ってやっつけなければならないのに忍耐するからいじめが永続して苦しむのであり、悪意で解釈しなければならないのに善意で解釈するから裏切られて苦しむのであり、その他のすべてにおいて人間は、自然界の法則の中の幸福を実現する法則の正反対の不幸を実現する法則通りに生きているから、当然の不幸によって苦しむのである。
    ■批判■
     上記文章は一段落中に、「・・であり」が8回出てくる。書いている内容のデタラメさもさることながら、こんなにセンテンスの長い訳の分からない文章を平気で書く神書の作者は、作文の仕方から勉強し直した方がいい。

     そうして人間界においては法律を知らなくても法律に違反すれば罰せられる訳だが、自然界の法則においては判断の誤り・狂い・例外・偶然は全くなく、プラス(善)かマイナス(悪)かの結果になって全部現れるのである。だから苦しみの発生は自然界によって「悪い」及び「マイナス」と判断された結果であり、苦しみの中でも病気や外傷による肉体破壊が激しいほど重苦であるから、より「悪人」という判断である。したがって病死・変死・急死は極重苦であるから、自然界が「極悪人」と判断した結果である。
    ■批判■
     上記は、台風や津波、大地震など、自然災害で亡くなった方を冒涜する文章だ。教主は阪神淡路大震災で家族を亡くした遺族の前で上記の言葉を吐けるか?
     あんたの考え方はあまりにも異常だ。





嫉妬 (195)

     嫉妬は妬みとやきもちで怨みの一種であリマイナスの念であるが、すべてを悪意に解釈する点ではマイナス化にブレーキをかけ阻上する働きがあり、さらにブラスに変化すれば活動力と発展力を生み出す情熱になるが、マイナス化して悪化・異常化すると闘争と破壊が発生して人間関係は消一滅する。
     嫉妬は不和・闘争の主な原因の一つであるが、人間は他人の幸福に対しては不快で他人の不幸に対しては愉快であるのが通常であり、自分を中心にして利益を求めるのは正常な本能である。だからすべての人間は互いに永続する利益を求めて最適値で取引が成立しているとマイナスの念は発生しないが、どちらかが損をするとそれを正常にするためにマイナスの念が発生し、正常にならなければプラス化できないから破壊が発生して取引も人間関係も消滅する。
     それで嫉妬は本能から発するのだから、嫉妬してはいけないといつても意味がないし無駄である。嫉妬によるマイナスを発生させないためには、嫉妬を受ける方が嫉妬の原因と材料を発生しない事と、より高度な配慮が必要である。
     有名人・お金持・美男美女・指導者・権力者・脚光を浴びたり注目の的になる者等は特に多数の嫉妬を受けやすいから、自分と家族等の自慢や劣っている人間を意味なく馬鹿にするような言動や態度を止め、不相応の贅沢や思いやりと優しさを売り物にして見せびらかすのを止め、反対に自分が損したり間が悪かったり不自由な点や不安に思っている事柄等の話をするのが良い。特に異性間の会話や態度は、夫婦であっても親密な様子を見せびらかさないで、同性から見て快適な雰囲気であれば良い。
     縁談・入学・入社・商談・成立すると利益になる話は、確実に成立する時まで言い触らさない方が嫉妬が発生しないから結果が良い。良い話ほど確定するまで同外せず、悪い話ほど迅速に口外し宣伝した方がプラスが大きいのである。
     ただし神様との取引によって奇跡と良い成果を得た場合は、その奇跡と良い成果を可能な限り多数の人達に話すほど、神様からはさらに御霊光が伝達されるのである。

    ■批判■
     奇跡話だけは他人に大いに吹聴すべしとしたところは抜け目がない。本当の奇跡話ならいいが、ねつ造奇跡話や誇大に修飾した奇跡話を意図的にサロンで流していたことも神様は知っているのか?
     おまえ達の神は内輪のウソも見抜けない、ウソ話による被害拡大を防ぐことができないバカな神でしかないことを自ら立証している。





悪魔の教え (198)

     (有)神世界[悪魔の教え]の根本原理は、本当を嘘とし嘘を本当とする事・正しい事を間違いとし間違いを正しいとする事・価値のないものを価値があるとし価値があるものを価値がないとする事・善を悪とし悪を善とする事・不幸になる教えを幸福の法則とし幸福の法則を不幸になる教えとする事・プラスをマイナスとしマイナスをプラスとする事である。
     だから(有)神世界[悪魔の教え]の特徴は、偽り・矛盾・無意味・無価値・不合理・不経済・不利益・不確実・空虚であり、信じなければ受け入れられないものだから、信じる事を奨励するのである。
    ■批判■
       上記文章及び下記文章中、「赤色部分」は、原本では黒色のルビ文字で示した内容となっている。
     こうして原本では、「悪魔の教え」または「悪魔」となっていた部分を、「(有)神世界」に置き換えてみると、この文章が(有)神世界の実態を如実に示した内容となっていることに気づく。
     神書をある程度読まれた方はお分かりと思うが、そこに書かれていることは多くの嘘、間違いを正しいこととし、正しいことを間違いとする無理なこじつけ、価値のないものを価値があるように装い、悪と善とを逆さまにしたとんでもない理論展開で埋め尽くされている。正に(有)神世界の特徴は、偽り・矛盾・無意味・無価値・不合理・不経済・不利益・不確実・空虚であり、こんなバカげた内容は、『信じなければ受け入れられない』ものであり、『書いてある通りに実行するように』とか、『人間は理解しようと考える必要はない』などと思考停止でもされていなければ到底受け入れられるものではない。
     更にこの文章はご丁寧にも下記のように、「客を騙すための具体的手口」にまで言及している。

     そして信じさせる手口は、一時的な利益と一時的な快適と一時的な幸福という一時的なプラスで人間を錯覚させ幻惑させ誘惑する事で、それによって人間は(有)神世界[悪魔の教え]を信じて受け入れ、生きる基準にして行動するから習慣となり、やがて中毒化して最後には苦しみと不幸というマイナスが永続し、破壊による消滅となるのである。  その代表例が、薬と手術による現代医学・共産主義・資本主義で、さらに不幸に拍車をかける働きをするのが宗教である。
    ■批判■
     (有)神世界は、ヒーリングサロンという甘い看板で女性客を集め、一時的な快適を与えて客を錯覚させ、幻惑し、誘惑してこの組織に取り込み、神書のデタラメな教義を信じさせている。不幸にもその罠に嵌った客には、「先祖が悪い」とか、「名前が悪い」などと因縁をつけて恐怖心を繰り返しあおり、 5万だ10万だ300万だと、延々と金を吸い上げ続けている。
     その結果、客は多額の金を(有)神世界に投じる結果となり、気づいたときには苦しみと不幸に見舞われ、主婦などの場合は夫に隠れて金を投じた結果それが夫にばれて離婚に至る場合もあり、被害者の人生は破壊される結果となっている。それがヒーリングサロンを利用した(有)神世界の手口だ。
     こうした(有)神世界の実態を、ものの見事に具体的に語っているのがこの「悪魔の教え」と題する文章である。この文章は、客からクレームが付いた時に、「ここにちゃんと組織のことが書いてあるのに、それを承知であなたはここに通い続けたんだから、あなたがどうなろうとそれはあなたの責任だ」と抗弁するためにこのような文章を書いたのだろうか・・・?
     文章中に出てくる、「代表例」とは、まさにあんた(神世界)のことだ!


     そうして(有)神世界[悪魔の教え]を信じて実行する結果、人間と人間界は毒化・悪化・異常化が増大し続け、破壊によって消滅するまで苦悩は激化する訳だが、(有)神世界[悪魔の教え]を受け入れる人間はマイナスの要素があるからで、それによって滅亡するのはプラスに変化できないマイナス人間だけであるのだから結局(有)神世界[悪魔の教え]は未完成で不完全な人間をプラスとマイナスに選別するための試験であり関門なのである。
    ■批判■
     たしかに(有)神世界の教えを信じて実行すれば、毒化・悪化・異常化が増大し続け、破壊によって消滅するまで苦悩は激化するだろう。

     また(有)神世界[悪魔]にとっての理想はマイナス人間の永遠の苦悩と不幸と破減であり、特にマイナス人間をいけにえとして犠牲にするのが無上の喜びである。だから「世のため人のために尽す」とか「他人を助けるために自分が犠牲になる」という教えは、自分が求めていけにえの犠牲になり、生命や財産を自発的に失って不幸になる事を最大の善としているから、(有)神世界[悪魔]が考案したものである事は誰でもわかるのである。そしてサロン[宗教]ではこのような自発的な犠牲を善とし美徳としているという事は、サロンの実態[宗数の本尊]が悪魔あるいは(有)神世界[悪魔]とつながっている事を証明している。

     「尽くす」とは、自分の生命とお金と労力と時間を使い果して尺きるようにする事で、その結果自分の幸福の要素は急激に減少して消減するから、幸福の要素を失った分だけは自動的に確実な不幸になるのは当然で、余程異常な人間でなければできない事である。
     私はこのような人間については重症な精神病患者として扱い指導している。自然界において正常な人間とは、自分の不幸を拒否し自分の幸福だけを求めて活動し、自分以外の者とは最適な取引関係になる事だけを求めているのである。
    ■批判■
     オレオレ詐欺の犯人は、被害者を繰り返し騙し続け、搾り取れるだけの金を奪い取る。その犯人の姿勢は、「被害者をいけにえとして犠牲にするのが無上の喜びである」かのようでもある。(有)神世界に於ける被害実態もこれとよく似ており、一度騙すことに成功した客に対しては、「先祖が・・」、「水子が・・」、「名前が・・」等と次々と不安を煽り金を巻き上げ搾り取って行く。
     (有)神世界の人間にとって、こうした行為は、「被害者をいけにえとして犠牲にするのが無上の喜びである」のだろう。

    「尽くす」以降の文章は、客を騙して(有)神世界に多額の金を投じさせ、スタッフとして低賃金でこき使って「尽くす」ことを強要し、その結果被害者は金と労力と時間を使い果して疲弊し、不幸になっていく様を如実に表した文章だ。
     他の宗教が「生命や財産を自発的に失って不幸になる事を最大の善とし、美徳としている」というのは作者の勝手なこじつけでしかない。そのような短絡的な教義をもった宗教が実際にあるというのなら、その宗教の具体的名称を上げてみろ。もしそのような宗教があったとしたら、それは(有)神世界と同じく、民衆を食い物にしたカルトでしかないだろう。
     こんなブッ飛んだ異常な内容の本を書いておいて、何が「このような人間については重症な精神病患者として扱い指導している」だ! 作者には、「お前こそ死ぬまで精神病院に入院していろ!」といわせてもらおう。




御玉串 (200)

     御玉串は切った木の枝に布や紙等を付けて衣食位の雛形としたもので、木の枝は材木の雛形で布や紙は服等の雛形で、さらに本来は食料となる稲の実や友の実が付いた穂や、季節に収穫した作物を食料の雛形として御玉串に付けたのである。
     現在では御玉串は現金を主としたお金であり、お金は必要な物や必要な事に使えるので都合が良いし、今の世の中は現金によって経済が成り立っているから現金を御玉串としているのである。
     そうして現金も物質と魂が一体となって存在し、価値が決まっているのだが、現金からお金の魂が抜けた時は現金の価値は絶無となるから、その時点で貨幣は金属片になり紙幣は紙切れとなり、それによって物品を購入する事はできない。
     だから現金の価値が絶無になった場合には、価値ある物品が御玉串になるのである。
     そして御玉串は人間の善意や好意で神様に献上するものではない。
     御玉串とは神様との取引における人間側からの神様に対する対価あるいは取引材料の一つである。だから神様からの御霊光と教えを取次者を通じて得る場合の御玉串は手数料であり、神様からの良い結果や幸福の要素やプラスの成果に対する御玉串は神様の商品に対する代金である。
     しかし神様の高額商品に対して一度に代金を支払えない場合には、可能な限りの代金を支払って不足分は月賦払いや分割払いとして、後は可能な限り神様の御神業にとってプラスの結果を生み出す事によって代金支払いや取引材料とすれば最適である。

     もし万が一、神様への代金支払いがあまりにも少な過ぎたり、神様との取引材料があまりにも小さ過ぎたりする場合は、神様との取引は自動的に解消されるから、その後人間の方の結果がどうなろうと当方は一切関知しない。神様と人間との取引が永続して成り立っている場合には、永続して互いのプラスや利益が最適値で釣り合っているから人間の幸福も永続するのである。
     そして神様との取引材料は人間にとってはお金が最も楽で簡単であり、神様にとっても御神業上お金が最も役に立つからお金は可能な限り沢山あるほど良い。
     また御玉串を出費しても人間側の経済が富裕になる訳は、運が良くなり幸福化して生きる基準が幸福の法則であるからマイナスの出費が絶無になり、マイナスの出費がなくなるだけでも御玉串の出費以上のプラスになり、その上幸福化によるプラスの増加は確実な収入増につながり、結局は神様との取引に使ったお金以上の利益になるからである。だから神様との取引関係は永続するほどプラスが増大するのである。
     神様は自然界の法則通りに取引関係の人間に対して利益とプラスの結果を生み出すから、その利益率は植物の種を一粒自然界に植え付けて収穫時に得られるプラス(実)の増加率と同様なのである。

    ■批判■
     神世界教主はインターネットオークションで多数の岡田茂吉関連グッズを購入している。それらを模倣して神書を書いたり観音像を描いたりしていることはこれまでにも知られているが、この「御玉串」は、神慈秀明会ハンドブックに書かれた「玉串」を模倣したものであることが分かる。なおご存じない方もおられるかも知れないが神慈秀明会というのは岡田茂吉を教祖とするカルト宗教団体である。
     神世界では、客に対し繰り返し、「宗教ではない」と言っておきながら神の存在を信じさせ、その神の加護に対する対価として高額な玉串まで出させておいて、一体どこが宗教ではないと言えるのだ?
     確かに神世界の神様は本当の神様などではなく、神世界は詐欺師の集団でしかないのだからその意味では、「宗教ではない」というのは当たっているのかもしれないが、それはブラックユーモアでしかない。
     客の不安を煽り、その脅しにうまく乗った客に対して法外な価格で「高額商品(祈願料、改名料、水、書物等)」の購入を迫り、客がその時点で支払い可能な代金を支払わせた上、わざわざ「不足分は月賦払いや分割払い」と支払い方法を本に記述してまで執拗に金を払わせようとするのには宗教どころか絵画商法や原野商法などの詐欺商法と同じである。
     金蔓(かねづる)として獲得した客を逃がさないようにするため、「神様への代金支払いがあまりにも少な過ぎたり、神様との取引材料があまりにも小さ過ぎたりする場合は、神様との取引は自動的に解消される」と脅す手口はあさましい限りである。

     「神様との取引材料は人間にとってはお金が最も楽で簡単であり、神様にとっても御神業上お金が最も役に立つからお金は可能な限り沢山あるほど良い」は、教主の金の亡者ぶりを強烈に表現した文章だ。日本に数多くある金銭収奪型カルトの中でも、これほどハッキリと主宰者が金を欲しがっていることを明確に文章化した教団はないだろう。

     「神世界の神に玉串として金を出しても、それを上回るだけの見返りがあり、人間側の経済が富裕になる」とあるが、諸々の掲示版の体験談を見ればこれがいかにデタラメであるかがわかる。日本中の多くの家庭で神世界のために貴重な金を奪われ、家族が不幸になっている現状がある。



御玉串の貸し借りは不可 (203)

     神様につながっている人間同志の間で、御玉串の貸し借りを依頼したり立て替えたりする事は、如何なる理由があっても絶対にいけない。
     本来、御玉串とは神様に対する御礼であり取引代金であるから、神様と取引して良い結果を得たいなら必ず自分でお金と時間を作って御玉串を支払うべきである。
     万が一、貸し借りをした者同志で聞き違いによるトラブルが生じたらどうであろう。御玉串の件で不快な思いをし、その不快さに魔が入って争いになるのであるから、神様につながっている人同志は決して御玉串の貸し借りをしてはいけないのである。
     また、すぐにお金を持ってくるからといって中身のない空の御玉串をお上げするのも良くない。何故なら空の袋が勿体無いし、神様にお金が届いていなければ良い結果は発生しないので、先に送金するか、来た時に支払うのが良い訳である。
     それから先生方に伝言や荷物やお金の両替等を頼むのも不可である。何故なら先生方は神様に仕えていて、御神業という大切な仕事をしているのであるから色々な雑用を頼む事によって重要な御神業の方がそれだけ「手抜き」になり、結果的に神様にとってマイナスになるのである。
     したがって神様と取引して良い結果を得たいなら雑用等で先生方の手を焼かせないようにすべきだし、神様につながっている者同志でも人間同志でもお金の貸し借りは絶対に不可なのである。

    ■批判■
     ん!?、これは何だ?
     こんな馬鹿らしいことまでわざわざ載せる必要がなぜあったんだ?
     以前に信者間で金の貸し借りが元で何かいざこざでもあったのか?
     そうしたトラブルが基でマスコミ沙汰になると困るので載せたのか?
     大切な、”御神業”をしている筈のスタッフに教主や会主の家族の雑用をさせるのはどうなんだ? そんなことをさせることは、”神への御神業”とやらの妨げになる行為じゃないのか?
     これまで教主や会主の身の回りの世話をさせられ、奴隷のようにこき使われてきたスタッフの中から次々と目が覚める者が続出している。そしておまえ達の悪行を詳細に証言し始めている。おい、教主。もういいかげんに観念しろ!



考え違い (205)

     神様とつながって良い結果が発生し、神様との取引によって幸福は永続するのだが、人間が考え違いをすると支障が発生する。考え違いをすると瞬間に神様とのつながりが弱まったり断絶したりするからである。

    考え違い(1)
     苦しかった時は何をおいても無我夢中で神様の教え通りに実行したのだが、神様によって健康になって上昇運となり収入も増加して境遇も好転した時点で、自分の都合や人間的な目先の計算を優先して、神様との取引によって幸福化した事を忘れてしまうのである。
     こういう人間は神様の商品(幸福の要素)に対する代金が未納であるか、代金を支払う気が全然ないかであるが、支払っていない代金はその人間に代金分の損害や損失の発生となって回収される。「仕事や用事が多くて忙しくて暇がない」・「子供に手がかかる」・「お金がない」・「家族が反対する」・「世間の人に知られたくない」・「家庭や人間関係に波風を立てたくない」。「神様とつながって神様と取引する事によって、お金や親しい人や仕事を失いたくない」等が、神様との取引を忘れたり、神様との取引を解消したりする主な理由であるが、もし自分か子供か家族が病気になった場合には運命はどういう状態になるかというと、病気が重症や難症になるほど手がかかり、お金がかかり、心配が増えお金がかかり、世間の人に知られて評判になり、家族への精神や経済や時間や労力の負担が増え、病人が自分であれば一層仕事や人間関係にとってマイナスであり、万一病気が重症となって死亡したら仕事もお金も家族も生命も失うのである。その時、仕事やお金や家族や世間の人が助けてくれるのか、あるいは絶対に病気等の不幸にならないように保証してくれるのか、永続する健康を実現できるのか、一体誰が自分を永遠の幸福にしてくれるのかである。それは取引が可能な神様との取引によってのみ人間は苦悩を解消できて幸福化するのであり、その裏付けが奇跡と良い結果である。
     そうしてすべてはプラスかマイナスかであり、人間はどちらか一方を選んで属しているので、すべての人間は幸福か不幸か・健康か病気か・上昇運か下降運(転落)かであり、中間や中途半端は存在しない。だから神様とつながって神様との取引によって幸福になるか、私以外の者の言葉を信じて実行して不幸になるかの、どちらか一方に人間は属するのである。

    ■批判■
       何が「考え違い」かといったら、この神書の作者ほど愚かな考え違いをしている者は他には滅多にいない。
     「神との取り引き」だの、「神様の商品に対する代金未納」など、まともな宗教関係者が聞いたら一笑に付すような馬鹿げたことを次から次と平気で言い放ち、しまいには「神に金を支払わないと、代金分の損害や損失が人間に発生する」と脅しの言葉を発するに至っては、信者に恐怖感を植え付け、脅しによって金を出させる金銭収奪カルトそのものの顔が表れている。
     ここまでくると、もうこれは考え違いの領域を越えており、神の名を騙って人々を欺く犯罪者の姿が見えてくる。

    その脅しの言葉を列挙してみると、

    (神世界の神に金を支払わないと)
    ●病気が重症や難症になり
    ●(そのために)金がかかり
    ●(困窮していることが)世間の人に知られて評判になり
    ●(その結果)家族への精神や経済や時間や労力の負担が増え
    ●病人が自分であれば一層仕事や人間関係にとってマイナスになり
    ●(その)病気が重症となって死亡したら仕事もお金も家族も生命も失う

    と、連鎖的に悪いことが起きると脅している。

    >そうしてすべてはプラスかマイナスかであり、人間はどちらか一方を選んで属しているので、すべての人間は幸福か不幸か・健康か病気か・上昇運か下降運(転落)かであり、中間や中途半端は存在しない。

     こうした断定的な表現は神書の作者お得意の手法である。物事を単純化して一見分かりやすくしているように見えるが、事象をプラスと判断するかマイナスと判断するかはその人の立場によって大きく変わるものであり、それほど簡単に黒白がつけられるものではない。
     それを敢えてこのように断定して表現するのは、読み手を暗示にかけるための文章手法だ。暗示の手法を用いた文章は批判精神の乏しい読み手には強い影響力があり、ある意味では効果的だが、危険な手法であり、フェアな方法ではない。
     しかし神書の作者はこうした断定手法を繰り返し使っており、読み手に、「そう思わせたい」、「読み手を暗示にかけたい」とする意図が濃厚に読みとれる。


    考え違い(2)
     御霊光も良い結果も幸福も神様から伝達されるのを忘れて、取次者が苦悩を解消して幸福にしてくれるものだと錯覚する人が稀にいる。取次者に取り入って気に入られようとしても、取次者は神様から御霊光と教えを取り次ぐ事を許された人間だから、神様に評価されないと良い結果は発生しない。つまり人間には人間を幸福にする力はないから、いくら人間に尽して良く思われてもプラスにはならないのである。幸福は神様との取引によって永続する事を忘れてはいけない。
     このような考え違いに取次者が気が付かないとすると、その取次者も考え違いをしているので取次者失格になる。神様との取引によって取次者になったのだから人間に良く思われても無意味で無価値であり、神様は取次者の御神業におけるプラスの成果だけを評価して取次者の価値と境遇を決定している。御神業におけるプラスの成果だけが神様との取引材料なのである。
     また取次者は治療師ではないから医療行為は厳禁であり、取り次ぐ相手の身体に触れてもいけないのは勿論である、それは現在は無資格医療は法律違反で犯罪となるし、病気に接近したり接触したりするのが危険であるからだけではない。神様からの御霊光は取次者が物理的力や人間力を加えようとするほど弱まり、人間力を抜くほど強まるからである。自分が今まで吸収した科学や医学や宗教等の知識に支配され、自分の力で何とかしようとする念が強いほど神様を拒否する事になるから、神様の方でも人問に対して『自分で勝手にやれ』という事になって神様からの御霊光の伝達が停止して良い結果の発生もなくなる訳である。
     そもそも私の御神業が存在し成長・拡大しているのは、今までの科学や医学や宗教等のレベルが低くて人間の病気や苦悩や不幸を解消できないからであり、科学や医学のレベルが高度になれば私の説く教えに到達できるから、その時点で私の御神業と同化し一体化して御神業に吸収されるのである。

    ■批判■
     こんな文章を挿入しなければならなかったのは、教主がスタッフを信用していないからだろう。
     神の名を騙って人々を騙すことが簡単にできることを知ったスタッフが、勝手に、”個人営業”を始めてしまい、神世界に入るはずの金をかすめ取ってしまう危険性があるのでそれを未然に防止するためにこのような警告を書いたのだろう。
     神書の作者・教主自身も昔世話になった岡田茂吉系の教団を飛び出し、そこで得た知識を基にして神世界を作って荒稼ぎしてきたので、自分と同じように考える者が出てもおかしくないと疑心暗鬼になっている。
     「無資格医療は法律違反で犯罪となる」などとお前(教主)が偉そうに言うな!
     第3章「毒素」などでは医学的にあり得ないデタラメなことばかり書いていながら、何が「科学や医学のレベルが高度になれば私の説く教えに到達できる」だ。ばかばかしい。


    考え違い(3)
     運命や健康や境遇が神様の力で良くなっても、世間の中傷や家族の反対や神様の教えに対する反発・反抗等によって迷う場合がある。そうなると「良くなったのは時期が来たから自然に良くなったんだ」とか、「今まで飲んだりした薬や今までの色々な療法が効いてきたんだ」とか、無理矢理に自分勝手な理由を考えて神様とのつながりを自分から断絶させ解消するようになるのだが、それからは月日の経過と共に次第に以前と同様な苦悩状態に戻ってしまうのである。
     これは神様が大罰を与えたのではなくて、神様とのつながりが切れたので神様からの御霊光の伝達と幸福化の誘導が停止したためと、以前の苦悩時代のように間違った考えを基準にして生活したためである。
     人間は他にも色々な考え違いをしがちであるが、すべての考え違いは神様と御神業を下位にして人間と人間の都合の方を上位にするために発生するのである。
     考え違いによって支障が発生して苦しんだり損をしたりするのは人間であり自分の方であるから、考え違いに気が付いた瞬問から神様に御詫びをして、再び神様とつながった瞬間から御霊光の伝達と幸福化の誘導が始まり、神様との取引が再開するのである。
     神様への御託びとは心や言葉ではなくて御神業におけるプラスの成果であり、マイナスを上回るプラスを結果に現す事である。

    ■批判■
       運命や健康や境遇が変化した場合、それが神の力のなせる業なのか、本人の努力によるものなのか、それ以外の要因によるものなのか、どうやって見分けるんだ?
     私はどこの神も特に信じていないが、家族にも恵まれ、健康にも恵まれ、普通に暮らしていけるだけの収入も得ている。もし私が神世界の神を信ずる人間であった場合、こうした境遇を得ることができたのは神世界の神のおかげだということにされてしまうのだろう。
     逆に私が至って不幸せな状態にあった場合は私が神世界の神を信ずる度合いがまだ足らない、”神への代金の支払いが不十分だから不幸せなのだ”ということにされてしまう。
     どっちに転んでも神は困らず、神への忠誠だけはより強く求められる仕組みになっている。

     もし百歩譲って神世界の神が本当に力を持った神で、どこの宗教の神よりも人々を幸せにする力を持っていると仮定した場合、そのすばらしい”御霊光”とやらの力で一体どれだけの人が幸せになったのか?
     世界中の約66億人の人々の中でどれだけの人が神世界の神を信じているんだ? 神世界の神を信じ、十分に”神との取り引き”を行った者だけが幸せになれるのだとすると、世界の99.999999999%の人は神世界の神など知らず、御霊光の御利益とは無縁の者ばかりなので世界中の大、大、大多数の人々は皆不幸せな人だということになる。
     御霊光のおかげで幸せになれる人間は、日本に住み、偶然”神世界”を知り、潤沢に金を出して神との取り引きが出来た0.0000000001%の者だけだということになる訳だ。
     こんなバカげた話、誰が信ずる?

     神世界のようなインチキカルトに家族が嵌ったことを知ったばあい、他の家族はあらゆる手段を講じてカルトから家族を助け出そうとするのは当然だ。
     ここの神とつながると、明らかにあらゆることに支障が発生する。従業員は忙しくて暇がなくなり、子供はネグレクト状態になり、お金もなく、家族も猛反対し、世間の人に知られるのを恐れ、家庭や人間関係に波風が立ち、神世界の神と取引することによって、お金や親しい人や仕事を失っている人が多数いる。
     運命や健康や境遇は、ここの神と係わることにより悪くなる場合がほとんどだ。
    (有)神世界には人間を不幸にする力は間違いなくあるが、幸福にする力など全くない。



神様への反発 (211)

     人間は先祖代々から今日に至るまで悪魔の教えを信じて実行していたので悪魔とつながっているから、本業の神様が奇跡や良い結果を現しても神様への反発が発生するのである。
     神様への反発は決して御神業のマイナスではなく、神様とのつながりが強まる作用がある。反発とは価値がある存在に対して発生するもので、自分にとって価値のない存在なら反発せずに相手にしない筈である。
     それで神様への反発が言動となって表面に現れている場合は、今度は神様の教え通りの結果になる事によって神様とのつながりが迅速に強まるから、御神業においてより大きいプラスの要素となるのである。だから反発は、神様とつながり始めの早期で初期の段階であるほどプラスの結果となり、むしろ初期の段階で神様による奇跡や良い結果に喜んでいて表面上従順である方が、神様への反発は内蔵されたままだから家族の反対や世間の中傷等に迷いやすく、その迷いに乗じて、内蔵された神様への反発が一度に表面に現れて、神様とのつながりを一時的に断絶させる場合がある。

     そうして表画化した神様への反発によって一時的に神様とのつながりが切れても、神様の教え通りに以前のような状態に悪化し始めたり再発したりして、再び神様とつながって好転して良い結果になると、今度は神様とのつながりによって確実に幸福化する事を確認した訳だから神様への反発も相当消滅し減少するのである。
     さらに神様への反発が減少した分は確実に自分の中に染みきいていた悪魔の教えも減少するから、神様とのつながりは以前よりもはるかに強まるのは当然である。

     また私にとっても、神様への反発者や御神業に対する反対者や敵対者が神様とつながって神様と取引関係になるのは、御神業におけるマイナスの存在がプラスの存在になる訳だから、より大きい価値があり利益も多大である。
     そして本当はすべての人間が、毒素と悪魔の教えによって毒化・悪化・異常化しているから、そのマイナス化が大きいほど神様への反発も大きいのである。したがって御神業とは御霊光によって人間を健全化する事であると同時に、人間から悪魔の教えを抜いて神様の教えを入れる事でもある。

     しかし人間の中には無意識あるいは本能的に御霊光を避けて嫌ったり、神様と一体である神書や私の言葉や私が描いた物を避けて嫌ったりする者がいるが、これは不正や不純な行為を常に企み実行する人間だからであり、最も悪質で危険な者である。したがって神書を手にして読む事ができたり、私の言葉を聞く事ができたり、私が描いた物に接する事ができる人間は、神様とつながる事ができ御神業のプラスの要素になれるのである。つまり御霊光を無意識あるいは本能的に嫌うかどうかが、神様と自然界による一番最初の試験なのである。

    ■批判■
     「ここの神とつながるとろくなことがじゃないか」といわれたときの言い訳のような文章だ。「反発とは価値がある存在に対して発生する」などと、”たわけたこと”を言っているが、神世界については全く逆で、百害あって一利なしだから糾弾されるのである。作者本人もそれがわかってるからこんなくだらない言い訳をしているのだろう。わかってないなら本当のアホだ。神世界から離脱した人は、再びここの神とつながることは絶対にない。

     当然であるが、私も神書や教主は好きではない。ということは、私は、”不正や不純な行為を常に企み実行する者”ということになるのだろう。
     私の存在は神世界にとって目障りであることは間違いない。神世界にとって私は、”最も悪質で危険な者”なのだ。
     では、私のような者が神書を読むことになったという事実を、教主はどう説明するのだろう。神世界の神が類い希な優れた神であるならば、私のような者が神書に巡り会わないようにすることぐらい簡単なことではなかったのか?

     神世界とは縁もゆかりもなかった私が、思わぬ巡り合わせから神書を読むこととなった。神書に書かれた内容に批判を加えるためには、その内容をかなりよく読まないと的確な批判はできない。神書を持っている人の数はたくさんいるのかもしれないが、その中でも私は神書をよく読んでいる者の上位に属すると自負している。私ほど神書をよく読んでいる者は神世界関係者でもあまりいないのではないかと思っている。

     私がこの神書と出会わなければ、これほど神書が公にされ、神世界や教主が批判されることもなかったであろうに・・・・。
     「私と神書の出会い」という事実が、神世界の神には何の力もないことを顕著に表している。



支障が発生する理由 (214)

     毒素等のマイナス成分によって毒化・悪化・異常化した人間に支障が発生するのは当然で、神様につながっていなければマイナス成分の消滅は不可能だからマイナス成分は増加し、それに比例して支障も増大し速く滅亡へ至るのは勿論である。
     神様につながっているとマイナス成分は減少しプラス成分が増加するから、最初から支障がなく良い結果が発生するのが当然だが、中には今まで何の支障もなかったのに神様につながった途端に家庭や人間関係や自分の体内に支障や苦痛が次々に発生する場合がある。
     それは今まで何の支障もなかった状態は自分の犠牲によって成り立っていたか、将来の滅亡を誘導する大きいマイナスを内蔵しているのに自分が気付かなかったか自分がそれに満足していたかであり、実際には不幸を内蔵した日常生活であった訳である。それが神様とつながる事によって、できるだけ迅速にマイナス成分を消滅するためのマイナス消滅作用が発生するから支障や苦痛となるのだが、その際マイナスの人間関係やマイナスを生む仕事やマイナスの住居等のマイナスの要素を捨てる事によって、支障や苦痛はたちまち消滅し良い結果が発生し始めるのである。
     また神様との取引において人間の取引材料の方が小さ過ぎて、極度に不釣合だったり、考え違いや間違いをしていたり、迷ったりすると支障が発生するが、このような場合は一秒でも速く私の耳に入れる事によってより迅速に解消するから、決して遠慮せずに取次者を通じて私に報告すべきである。
     したがってプラスに変化するための一時的支障なら良いが、それ以外の支障は必ず何等かの永続するマイナスを生み出す事柄が存在するから、それを解消する事によって神様とのつながりが自分にとって第一番となり、その瞬間から本格的にプラスの結果が発生するのである。

    ■批判■
     この文章を読んで最初に思ったことは、「伏線を張る」という言葉だ。神書の作者はこれを書いた際に、「まともな神経を持った者」が神書を読んだ時に、どのように思うかを考えたのであろう。まともな神経を持った者がこれを読めば、どのように感じ、そこからどのような反撃を受けるかは神書の作者・教主が一番よく知っている。
     「今まで何の支障もなかったのに神様につながった途端に家庭や人間関係や自分の体内に支障や苦痛が次々に発生する場合がある」という部分は、神世界に関係した大半の人々が感じていることである。
     支障や苦痛が次々に発生するのは、ここに書いてある「実際には不幸を内臓した日常生活であった」からではなく、この教団の「反対する家族とは縁を切れ」や、第3章「毒素」など捻じ曲がっていてデタラメな教義を信じて、本当に家庭を蔑ろにしてしまったり病院にいかなかったりするからだ。

     しかし、次から次と自分にとって都合の良い、くだらない屁理屈を並べることができる、”才能”だけは大したものだ。あっ、誉めているんじゃないからね(笑)。



素直 (216)

     素直にも大中小・上中下のレベルがあり、プラスとマイナスがあり、素直の基準があり、素直の目的がある。
     正常な人間においては自分の幸福実現を目的とした素直だから、言う通りに実行して結果が良ければ従順なのが正常な素直であり、結果が悪ければ反抗したり抗議したり費やしたお金等の返還を求めたり損害賠償を求めたりするのが正常な素直である。
     そうして今まで人間が苦しみを解消できなかったのは、悪魔の教えを生きる基準にして素直に受け入れて悪魔の教え通りに素直に実行したからである。だから自分の苦しみを解消して自分が永遠の幸福者になりたいなら、取引によって人間の苦しみを解消でき永遠の幸福を実現する事ができる神様の教えを生きる基準にして素直に受け入れて素直に実行すれば良い訳である。
     それで自分が神様とつながる最初の時点では、心と言葉と行動で「幸福になりたい」、あるいは「助けてくれ」と求めるのが正常な素直である。
     それに対して私が相手の境遇や能力やあらゆるレベルに応じて神様の教えを基準にした最適な指導をするから、その人間は私が指導した通りに実行する事が素直であり、『できるかできないかではなくて、やるかやらないか』なのである。
     私が指導した通りに実行する事は最短時間で自分が幸福化する事だが、まだ悪魔の教えを生きる基準にしている人間には私の指導自体が苦痛であり実行するのは不可能だから、その場合には私は『無理をしたり苦労したりしてはいけない』と言う訳である。
     また神様によって幸福化しても時には悪魔の教えの名残によって迷いや考え違いや疑問や不安等が発生する場合もあるから、その時には一秒でも速く私の耳に入れるか神様の教えに照らし合せるかして解決するのが最善の素直である。あるいは一時的に神様とのつながりを断絶していたとしても、神様に「助けてくれ」という状態になったら何をおいても神様とのつながりを再開するのが自分のための素直である。
     そうして素直のレベルは、神様によって健全化し幸福度が上昇するほど高度になる。そもそも人間も自然界も自然界の法則も、人間が永遠に幸福であるように神様によって創造されたものであるから、人間は自分の体内の毒化・悪化・異常化が消滅し苦しみが解消して幸福の要素が増加するほど神様に対して高度な素直であり、幸福を魂と心と体で楽しむ事ができるほど神様に対してより高度な素直を実現している事になるのである。
     だから神様との取引によって、健康になった場合にはその健康になった体を使ってできるだけ幸福を楽しみ、経済が豊かになった場合にはそれによってできるだけ幸福を楽しみ、家族や人間関係が円満になり快適になった場合にはそれによってできるだけ幸福を楽しみ、神様との取引によって得た幸福の要素を最高度に楽しみ、さらに神様とのより大きな取引によるより大きな良い結果を楽しみ、自分が御神業の要素の中でより大きな価値ある存在となる事を楽しむのである。
     したがって不幸は神様に対する反抗の結果であり、幸福とは神様に対する素直の結果であり、神様に対する最高度の素直とは自分の魂と心と体における永遠の幸福と自然界における永遠の幸福とを、自分の魂と心と体によって永遠に楽しみ喜ぶ事である。


    ■批判■
     神書の作者(教主)は、なぜここで「素直」という言葉を持ち出したのか?
     「素直」という言葉に悪い感情を抱く人はあまりいない。ほとんどの人は「素直」=「良いこと」と受けとめるだろう。こうした、「素直」など、誰しもが肯定する題材にカルト的思考をからめ、自らの歪んだ考えをすり込もうとするのはどこのカルトでも行われている常套手段だ。
     こうした手法を多用している神書の作者(教主)は、どこでそのテクニックを磨いたのか? 日本にはたくさんのカルト宗教があるが、神世界が”活用”している数々のアイテムや手法を見れば、そのルーツが神慈秀明会など岡田茂吉を教祖と仰ぐカルトに端を発していることは明らかである。

     ここに書かれている内容は、素直とは何の関係もなく、ただ単に神書に書かれていることを無批判に受け入れることを強要するだけの、”カルト思考すり込みのための文章”でしかない。

     敢えて評価?できる点があるとすれば、「結果が悪ければ反抗したり抗議したり費やしたお金等の返還を求めたり損害賠償を求めたりするのが正常な素直」と認めている点だ。
     確かに、ここの神様とつながったために悪い結果がもたらされた人は多く、それらの人が金の返還を求め、損害賠償請求をするのは素直な考えだ。
     教主もそれが、”素直”と認めているのだから、損害賠償請求されたときは、ちゃんと被害金額を返還してもらおう。神世界は、数名から損害賠償請求が起こされている。



喜び事の御礼が最優先 (219)

     人間が神様の所へ来る動機は病気等の苦悩を解消したいとか、あらゆる運が良くなりたいとかである。
     それで最初は苦しんでいて神様の前でしかめっ面をしている人間も、御霊光によっていつの間にか苦悩が消滅するので「良くなって儲かった」という事になるのだが、中にはそこで止めてしまう者もいる。
     そして再び苦悩が発生してからまた再び神様の所へしかめっ面をして来るのである。そしてまた、その苦悩が解消してぱったりと来なくなり、これを繰り返す。
     神様は最初のうちはこれを許すだろう。それは人間は人間的計算によって目先の利益を選ぶ事は仕方がないからである。
     しかし私はもっと上手に神様と付き合う事を教えたい。それは苦悩の時ばかり神様の前に来るのではなく、良い結果や現実の利益を得た時には何をおいても真っ先に神様へ喜び事の報告と御礼をするのである。
     苦しい時には「忙しい」とか「仕事だ」等といってはいられないから神様の所へ真っ先に来るのであるから、喜び事すなわち「こんな良い結果になった」とか「うれしい事が起きた」という時には苦しい時より迅速に神様の所へ来るべきである。
     いつも「苦しみから救ってくれ」といってしかめっ面でいるよりも「うれしい、楽しい」といって笑顔で御礼する方が神様もうれしいのである。「この神様のうれしさがその人に伝わって、さらに次々に良い事が発生するから、人生がますます楽しくなる。
     神様のプラスになる人間は神様との取引が成立しているから利益が発生する訳で、神様は人間がかわいそうだから助けるという事は絶対になく、取引によって利益が発生し、取引によって幸福になるのである。
     だから人間的計算による目先の小さな一時的利益に捕らわれて満足するのではなくて、『取引ができる神様なら、つながらなくては損だ』と判断するのである。
     それで永続して神様との取引関係が成立していると歓喜で充実しているから自然といつも笑顔になり、このような幸福な人の所にはプラスになる人が集まって幸福な人達が増え幸福の地域が拡大するのである。

    ■批判■
     世界中にはたくさんの宗教やたくさんの神がいるが、「神様との人間の取引」という観点で神を位置づけたのは神世界だけだろう。
     神書の作者・教主は、神を求める人々の心には自らの幸せを求めるためという御利益信仰が原点であると思いこんでいるようだが、それ自体が彼の発想の貧困さを露呈している。
     教主は、マザー・テレサを知らないのか? マハトマ・ガンジーを知らないのか?
     本当に神様に近づくことができる者は、己の幸せを願って神に近づくのではない。彼らが求めたのは見返りを求めない人類愛であり、”取引”等という言葉とは正反対のものだ。
     教主をマザー・テレサやマハトマ・ガンジーと比較するだけでもばかばかしいことであるが、「神との取り引きで自分の幸せを得よう」などという利己的で、ずる賢い考えしか持っていない者に神を語る資格など微塵もないことは明白だ。
     教主のようなバカ者には、「神」の”カ”の字も語る資格などない。恥を知れ、恥を!
     しかし、よくもまあ、”これでもか”というくらい金を出させるための口実を次々と考えつくものだ。
     教主という男は、神を語る資格はないが、詐欺師としての素質は十分持っているようだ。
     「神様は人間がかわいそうだから助けるという事は絶対になく、取引によって利益が発生し、取引によって幸福になるのである」とは、なんと無慈悲でインチキ臭い神様なのだろう。こんな神が本当にいたら、神様の世界から即刻レッド・カードを突きつけられることだろう。



常に万全の自分である事 (221)

     私の御神業という大事業に使われる人は、勿論自分が幸福になるために活動するのであるが、私にとってもより大きい利益となるべく人を使っている。だから私に使われる人は常に心身共に万全の自分にしておく必要がある。
     例えば風邪をひいた場合には世間の一般人より迅速に高熱が下がったり毒素排泄があって御神業に何の支障もないというのが当り前で、一般人より日数がかかって良くなるようでは何か考え違いがあるか、神様から御霊光が伝達されていない証拠である。
     特に祭典や行事の日には普段より多数の人達が集まるので、自分が良い見本になっている事自体が周囲に良い作用と良い結果をもたらし、神様にとっても大きな利益となり、役に立つ人材であると私が判断する事になるのである。
     万が一、何等かの問題や支障等のマイナスが発生した場合は、迷わず迅速に私に報告して一秒でも無駄にせずマイナスをプラスの結果にすれば良いのである。

    ■批判■
     良いことは自分のおかげ、悪いことは御神業が足らないとする教主独特の勝手な断定である。
     私も常に万全でありたいとは思っているが、そうした考え方自体はごく普通のことであり、わざわざ教主ごときに言ってもらう必要など微塵もないことだ。
     この団体では、”排泄”という言葉が繰り返し出てくる。カルトの特徴として、”特定の言葉に特別の意味を持たせる”ことがあげられるが、この組織では、”排泄”がそのトップ・バッターだ。排泄の次によく出てくる、”御霊光”は2番バッターかな?






私の御神業はすべて予定通り (222)

     私が現在実行している御神業は神界のプログラム通りで、すべてが予定通りに何の狂いもなく実現するのである。たとえ人間がどんなに反抗しても御神業には全く支障はなく予定通りの時刻、予定通りの内容、予定通りの事柄を神様は実現させて神世界を創造するのである。
    ■批判■
     へえー、そうかい。それではその予定表とやらを見せてもらおうじゃないか。
     きっとその予定表にはこうしてネット上で散々に批判されることも、”想定済み”なんだろうね。
     我々人間は神様が引いた線路の上をひたすら進んでいくだけで、どうあがいても、どんなに努力してもその線路から外れることはできないと言いたいようだが、私は私の好きなように生きている。
     了見が狭く、拝金主義に凝り固まった神様に縛られて生きているのは(有)神世界の連中くらいだろう。

     人類が歩んできた今までの生き方は絶対に幸福になれない悪魔の教えが基準であるから、人間の方が勝手に神様に対して反抗したり妨害したりしているだけなのである。けれども本当は神様はすべてを計算していて人間の反抗も全部初めから神様の予定に含まれている訳である。だから私の御神業を妨害して不幸な運命になり減びたとしても、それは神様が罰を当てて妨害する者を滅ぼしたのではなく、自分で滅びる事を求めた結果勝手に滅んでいったのである。神様がマイナスの人間を0(ゼロ)にするために時間と労力を使う事は勿体無い事で、神様はプラスを生み出す事だけに労力を使うのである。何故なら神様はプラスの成分でプラスを生み出す事が神様の本能だから、罰が当たるとすれば人間が自分で求めた結果自分自身が当てるのである、という解釈をすべきである。
    ■批判■
     もう少しまともな日本語は書けないのか?
     いくらカルト教本と言っても、意味不明な文章を書いていたのでは役に立たないだろう。
     それとも、意味不明な文章によって読んだ者が訳がわからなくなるように仕組んであるのか?

     したがって神様が一番嫌いな事はマイナスであり損をする事なので、神様の商品に対する代金が只同然では神様は利益は得られない訳である。だから天秤の法則による神様との取引が必要になり、取引が成立すると人間は永続して良い結果を得られて幸福の要素が増えるのである。
    ■批判■
     「神様の商品に対する代金が只同然では神様は利益を得られない訳である」とは、なんたることか。
     神はいつから実利主義者に成り下がったのだ? そのような考え方は拝金主義に凝り固まった作者の願望であり、本当の神は人間から対価を求めるような下世話なものではない。







私の教えは正確に (223)

     私の教えは一字一句を正確に目と耳から受け取って、正確に伝えなければならない。人間の頭脳で勝手な解釈をしてはならない。字句を勝子に省略したり、要約したり、部分的に抜粋したり、分解したりする事もいけない。また教えの字句を別の言語に言い変えてもいけない。私の教えが正確に伝わらないと混乱が生じるから厳重に注意するのである。
    ■批判■
     「人間の頭脳で勝手な解釈をしてはならない」とは、なんとも明解なカルト宣言ではないか。
     人間の頭脳は考えるためにあるのだ。人間が人間としての尊厳を保つことができるのは自分の頭で考え行動できる点にある。
     人間に思考を停止させ、手前勝手な一方的解釈を押しつけるのは、カルトが用いる代表的手法だ。「思考停止」をこれほど明確にうたいあげた文章には滅多にお目にかかれるものではない。
     現代のような情報化社会に於いてこのような”暴言”がまだ通用すると思っている作者の知能程度は甚だ???である。






平等 (224)

     プラスの成果が大きいほど価値が高く、評価も高いから地位・収入・待遇も上昇するのが当然で、結果で判断し境遇を決定するのが平等である。御神業においても、人間の世間での地位・名声・財産等は評価されない。それはその人間の世間での地位・名声・財産等は私の所有物ではないからである。
     だから御神業においては人間の世間での肩書や評価は無視するから、取次者以外の大人には「○○さん」と言い、「社長」とか「先生」等とは言わない。
    ■批判■
     これは企業経営者等が口にする、「成果主義」と同じことを言っている。
     競争原理に支配される企業活動であれば一定の成果主義も是認されるかもしれないが、「神」を語る場面で成果主義を持ち出すとは、場違いもいいところだ。
     世の中にはバリバリ仕事をして成果を上げることができる人間もいるが、皆がそのような成果を上げられる者ばかりではない。世の中には、老人や子供、生まれつき体にハンディを持った人など社会的弱者もたくさんいる。
     「結果を出せない者は切り捨てられて当然」と極論を述べる神書の作者には弱者に対するいたわりの心が全く見られない。この者は悪魔の心を持っているようだ。


     そうして神様に対しては無償の奉仕は存在しない。すべては神様との取引であり、人間が神様に対して提供したプラスの成果は神様との取引材料である。永続する幸福は神様との永続する取引によるのであり、決して神様の一時的な気まぐれや不平等によって幸福になるのではない。すべての人間の現在の境遇は全部自分の心と言葉と行動によってできたものであるから、その境遇が苦しいからといっても神様は無料で幸福な境遇にはしない。何故なら人間が勝手に生み出したマイナスによって苦しむのは必然であり平等であり自然界の法則によるので、それをプラスに変化させて幸福になりたいなら神様との取引による以外に方法がないのも自然界の法則であり、神様と自然界は絶対にマイナスや損は生み出さないので、だからこそ自然界は永遠に消滅せずに成り立っているのである。
     したがって神様と自然界と自然界の法則においては完全なる平等と完全なる必然だけが存在し発生するのであり、神様と自然界と自然界の法則には偶然と不平等は絶対に存在しないし発生もしないのである。
    ■批判■
     これは、「強者の理論」であるとともに、著しく神を冒涜した言葉だ。
     「現金取引」を要求する神など、聞いたこともない。この文章は、(有)神世界の代表が金集めをしやすいように伏線を張っているに過ぎない。
     神の名を借りてこのような暴言をはき続ける神書の作者には、神から特大の天罰が下って当然だ。
     この文章のタイトルは「平等」となっているが、書かれている内容は強者を賛美し弱者をけ落とす内容であり、平等とは相反するものだ。
     本当の平等というのは、世界は強者だけのものではなく、この世界に生を受けたみんなのものであり、強者は弱者をいたわり、皆が住みやすい社会を作っていこうとするのが平等の本来の姿だ。






私の教えは完全無欠である (226)

     私の取次者が言った言葉を聞いて「取次者がこう言った」という場合があるが、その内容は私の教えではない事があるので注意したい。取次者や私以外の者が、私の教えではない自分の判断や考えを言った場合には私は一切の責任を持たないのである。
     例えば色々な宗教からの転向者が「その宗教ではこういった」とか「こういう教えがある」等といっても、その宗教でいった事だから私には関係のない事である。そして以前の宗教の延長で来ている人や、何か守っている教えがある人や、栄養学を信じたり医学を信じている人の場合は、その信じているものがある分だけは不純物になる。
     信じるものがあってはならないのだから信じる事自体が不純物であり、私が説いた教えではないから私は責任を持たないのである。
     また他の人間が発明して説いたものや私以外の者が創作した教えに関しても同様に私は責任を持たないのである。だから神様につながっている人間は決して自分で勝手に教えを発明してはいけない。
     そして「神様の教えは人間が理解不可能なほど深遠で、その教えには奥の奥があり、そこまで考えなくてはいけない」という人がいたらそれは間違いである。
     神様の教えは文字通りに受け取って実行すると確実に幸福化するのだから、人間があれこれ考える必要は全くない。だから神様の教えの奥の意志は存在しないし、奥の意志を考えても良い結果がでなければ何の意味もなく、そういう事を考える事自体が混乱の因になるのである。
     私の教えは神様の教えであり自然界の幸福実現の法則であるから、実行する全員が幸福になるのであり、教えの内容は最も単純で誰にでも理解できて誰にでも簡単に実行できるのである。したがって私の教えはすべてが確実で完全であるから、信じる必要が全然なくて文字に表れた通りであり、教えの内容を解釈する必要も考える必要も絶無であり不可である。
    ■批判■
     何が言いたいのかな? 前半は責任回避とも受け取れる意味不明な文章が続いている。”完全無欠”な人間がこのように意味不明な訳の分からない文章を書くか? こんな文章を書いているようでは、”完全無欠”というタイトルが泣くだけだ。
     次から次と馬鹿げた教えを大量生産している張本人(教主)が、『自分で勝手に教えを発明してはいけない』と言うのだから笑ってしまう。作者は自分自身がやっていることの意味が理解できない大○○者であるようだ。
     『神様の教えは文字通りに受け取って実行すると確実に幸福化するのだから、人間があれこれ考える必要は全くない』とは、思考停止を強要するカルト丸出しの内容だ。
     日本には数多くの怪しげなカルト宗教があるが、これほどモロにカルト色を前面に出しているカルトも滅多にない。まあ、軽薄というか警戒心がないというか、女性だけを対象にしているためなのか、人々の判断力をなめきっているようだ。

     『私の教えは神様の教えであり自然界の幸福実現の法則であるから、実行する全員が幸福になる』というのが本当であるならば、なぜこれだけ多くの人々が神世界に反旗を翻し、神世界を痛烈に批判する声がインターネット上にあふれかえっているのか。
     単なる客だった人が逃げていくだけでなく、教主や会主の側近だった人たちが次々と神世界を去っている。教主や会主の近くにいる者ほどその欺瞞に満ちた実態をつぶさに見ており、一旦疑問を持つと急速に神世界の実態に気づき辞めていくようだ。

     「私(教主)の教えは完全無欠である 」ならば、私(fujiya)にこのようにこき下ろされることもないはずだ。欠陥だらけのバカげた教えを大量生産し、善良な市民から暴利をむさぼっている者には厳しい鉄槌が下されることになるだろう。






神様の御霊光を取り次ぐ (228)

     神様の御霊光は普通人には決して取り次ぐ事ができない。「手をかざす」事は誰でもできて、人間の生命エネルギーくらいは手の平から出るだろうが、これは人間力であって非常に微弱である。ちょっと重病になると「病院へ行け」というのも良い結果を得られない事を証明している。所詮、人間力等こんなものであろう。
    ■批判■
     おやおや、昔世話になった教団の教えを否定するのかい?
     神慈秀明会は岡田茂吉の教えを無視して偽物ばかりを取りそろえたので、秀明会の手かざしには力がないことは有名だが、他の岡田茂吉系宗教団体では手かざしを信じている団体もまだ多い。
     そうした教団に、「手かざしはダメだと言っている元同胞が山梨県にいますよ」と教えてあげよう。


     しかし本当の神様の御霊光は現代医学で不治、あるいは原因不明と判断された重病難病を次々と治す事が可能である。例えばアトピー性皮膚炎は現代医学では治癒不可能とされているが、体内に神様からの御霊光を伝達され、さらに私の指導通りに実行する事により百パーセント完治する事を断言する。アトビー性皮膚炎は本来喘息になる毒素であるから、将来喘息になる運命も免れる事になる訳である。
    ■批判■
     何が「百パーセント完治する」だ。私のところには、アトピーが治ると言われてヒーリングサロンに通い、多額の出費をしたが、結局治らなかった人からの体験談が多数届いている。
     「アトビー性皮膚炎は本来喘息になる毒素」だ? どこからそんないい加減な知識を仕入れた? そこまで断言するのなら、その根拠を上げてみろ。


     このように家族が絶望していた病気が簡単に治ってしまうのであるから、この奇跡を見た人々は皆驚くが、神様は取引によって命も与えてくれるのである。そしてこの強力な力は全く人間力によるものではない。神様から無限に放射される御霊光によるもので、私が決定し任命した取次者の手からも放射されるのである。
     そして御霊光の取次者は人間力を全く使ってはいけない。私がいう人間力とは「どうしても毒素を溶かす」とか「自分が治してやる」等と自分の念が入ったり、手に力を入れたり、相手の体に触ったり、医療行為を施したりする事であり、人間力が加わるとそれだけ神様からの御霊光が弱まるのである。神様が治すのだから人間は何も余計な事を考える必要はない。取次者はただ私の言う通りに取り次げば良いのである。そしてすべては神様が行うので、取次者はあまり医学的知識や人体の細部まで知る必要はなく、必要な事柄は神様が取次者に直接体験させるか、私を媒体にして教えるのである。
    ■批判■
     そこまで言うのなら、今すぐに、”御霊光病院”を建てよう。上記が本当ならば、その病院には世界中から難病の人たちが列をなして押し掛け、世界中の医学者は教えを請いに押し掛けてくるだろう。
     そうすれば、たちまちあなたは世界一の有名人、世界一の大金持ちになれる。きっとノーベル医学賞ももらえるだろう。
     女性相手にコソコソと怪しげなヒーリングをしているときではない。すぐに御霊光病院を建てて大金持ちになろう。


     以上により取次者は人間力を抜く事を訓練し、自分の考えで判断してはいけない。私の教えによって万事判断し素直になる事が肝腎である。私の教えに素直であれば極楽をして良い結果を得られるが、私の言う事に素直になれない者は人間力を一生懸命使って苦労して失敗するのである。
    ■批判■
     金に目ざといあなたのことだから、”御霊光病院”は十分うまみのある計画だ。多くの女性から集めた金が十分貯まっているようだから、建設資金もすぐ出せるだろう。聞くところによるとヒーリングサロンの全国展開を考えていたり、東京かどこかに立派な、”本部ビル”を建てる予定らしいが、そんな物を建てるより、まず真っ先に、”御霊光病院”を建てよう(御霊光が本当ならの話だが・・・)。
     何なら、テレビ局に連絡して取材に行ってもらおうか?







御神業のマイナス (230)

     何気なく言った一言が、実は御神業への大変なマイナスとなり、人間が神様より上に立ってしまう事がある。例えばある人が良い結果を得たので神様へ御礼をしたいという際に、本人は「10万円の御礼をさせてもらいたい」としているのに、第三者が「そんなにしなくてもいいさ。その半分でもいいんじゃないか」と言ってしまったとする。この場合の第三者の言葉は神様に対して大きな冒漬となり自分が神様になってしまっているのである。まるで自分が御礼を貰う立場になって言ってしまうのだろうが、良い結果を得たのは本人であり、その御礼というのは神様からの商品に対しての代金であって第三者への御礼ではないのである。
    ■批判■
     そんなものが、「神様に対する大きな冒涜」になるか? それは単なる価値観の違いでしかないだろう。
     「神様への冒涜」というのは、神様を騙って庶民から金を騙し取ろうとする行為の方がはるかに、「神様への冒涜」だ。


     人間は、貧乏であるとか生活に困っているだろうとか、相手の境遇を思いやるのはいけない。他人の不幸はあくまでも他人の事であり、幸福になりたいから私の所へ来ている訳で、お金がないのも皆自分が招いた事なのである。だからお金に困っている人ほどお金の御用をすべきであり、そうする事によって貧乏から早く脱出できるのである。
    ■批判■
     貧乏人から更に金を搾り取ろうとは、なんともあさましい限りだ。恥を知れ!

     そして代金が不足している分は、他人に神様による奇跡の話をしたり、神様にとってプラスになる事をすれば、それがお金として換算される。本当は御礼とは取引代金であり、神様に支払われるべきお金なのである。だから人間が神様により多くのブラスを提供すればそれが取引材料となって良い結果がすぐに実現するが、神様にとってプラスにならないと良い結果は保証できない。
    ■批判■
     「地獄の沙汰も金しだい」というのは聞いたことがあるが、ここでは、「神様の沙汰も金しだい」らしい。
     ここの経営者は全てが、「金、金、金・・・」であり、日本に多々ある新興宗教やカルトも顔負けするほど金欲丸出しだ。


     以上により御礼は私の御神業に使われるのであるから、第三者の間違った言葉によって神様に損をさせた分は刻々と利息がつき、他人の御礼を減らすように言ってしまった者は大きなマイナスを作った事になる。またこのような間違った言葉の通りにする者も愚かで卑しく、全く自分の利益を求めていない訳である。幸福は神様との取引によって実現する事を忘れてはいけない。
    ■批判■
     こんなに金を欲しがる神など、聞いたこともない。
     「私の御神業に使われる?」。 ウソをつくんじゃない。集めた金は、(有)神世界経営者の懐に入るだけだろう。







信仰は不必要(232)

     信仰とは信じて尊び心の支えにしたり生きる基準にする事で、簡単にいえば最も強く信じる事であるから最も危険である。
     「信じる」とは信じる必要があり信じなければ成り立たないから、信じる対象が不安定・不完全・当てにならない・あやふや・実体がわからない事を意味している。もし確実であれば信じる必要がないから信仰も不必要なのである。
     主な信仰を説明を加えて列挙する。

    1.宗教信仰
     大昔の神話や宗他の伝説と教えを信じているのだが、現世で今の人間の苦悩と不幸を解消できないため、体の具合が悪いと病院へ行き医者や薬に頼るのであるから、病気に関しては宗教の本尊よりも医者や薬の方が上である。もし治ったら信仰していた宗教を捨てて病院や医者や薬を礼拝の対象として信仰した方が合理ではないか。肉体の苦痛を治せないなら心の苦悩も治せないのに決まっている。何故なら心は頭脳だから心の苦悩とは頭脳の異常であり、心と肉体は一体だからである。
     そして生きた人間の苦痛を解消できなければ死後の世界の先祖や諸霊の苦痛も解消できる訳がないから、幸福にはなれないと断定できるのである。何故なら死後苦しんでいるのは病死と変死の者がほとんどであり、病死と変死の際の肉体の破損が霊界で修復しないと霊の苦しみは解消しないからで、肉体の破損は死後、霊となっても霊体の破損となって永続するのである。
     つまり生きた人間の魂と心と体を幸福にできなければ死後の霊も幸福にできないし、生れ変っても幸福にはならないのである。だから「現世で不幸でも信仰すれば来世は神様の近くへ行って幸福になる」なんてのは苦し紛れの方便であろうが私に言わせると一種の詐欺であり、宗教での「信仰」とは金品を捧げたり勧誘して信者の数を増やす事で「信仰が足りない」とは「金額が少ない」と訳すのであるが、そういう信者の来世が幸福になったかどうかを確認する手段としては本人に来て話をしてもらうのが一番良いのだが、来られない場合は本人の現世での最後の状態と本人の子孫の運命を見て、魂と心と体が幸福であれば現世の延長で来世も幸福であるとするのである。
     しかし現実には主な世界的大宗教のユダヤ教・キリスト教・仏教においては数千年も活動しているし、全世界では無数の宗教が活動しているのに病気と貧乏と闘争は大昔から今に至るまで継続していて、世界中のどこにも永遠の幸福者の国や地域が存在しない事実は、今までの宗教の教えが全部間違いで人類の幸福実現には無力だった事を証明している。したがって本物の神様が地上に出現して人類の幸福を実現した時には、全世界のすべての宗教は全く不必要な存在となって完全消滅するのである。

    ■批判■
     人が何を信ずるかはその人の自由であり、教主ごときにとやかく言われる筋合いのものではない。
     ましてや、信仰として宗教を信ずることと、病気を治すために病院に行くことを同列に並べて比較対照することにどんな意味があるのだ。
     太古の人間ならば信仰と病気治療は同一の基軸であったろうが、現代人はちゃんと信仰と病気治療とは専門分野が違うことをわきまえている。
     教主の頭の中は原始人と同じ発想レベルであるらしい。

     「死後の世界の先祖や諸霊の苦痛も解消できる訳がない」と断定しているところを見ると、教主にはそれができると言いたいようであるが、これまで多くの人が教主の御霊光を浴び、高額な御祈願をして先祖の霊を弔ったようであるが、それによってその人たちは幸せになったのか?
     「信者の来世が幸福になったかどうかを確認する手段としては本人に来て話をしてもらうのが一番良い」と教主自身が述べているが、私が知っている人たちの中には教主のおかげで幸せになった人は誰もいない。皆金がなくなり、以前にも増して不幸になっただけであり、何も先祖のご利益などはない。教主には最初からそのような力はないのだからそれが当たり前であるが。
     
     『宗教での「信仰」とは金品を捧げたり勧誘して信者の数を増やす事で「信仰が足りない」とは「金額が少ない」と訳すのである』これは神世界のやり方を述べている文章ではないか。
     どこの宗教よりも神世界では金が必要とされる。こんなにカネ、カネとカネばかり要求する団体は私は見たこともない。カネがないとわかると、「人を連れてこい」という。信者の数を増やし新たな資金源とするためにカネのない客に街頭でビラをまかせ、デパートの婦人服売り場で声をかけ、路上で信号待ちの女性にも声をかけ、手当たり次第に新たな客を集めているではないか。
     声をかける相手は身なりのいい、カネのありそうな女性だけ(マニュアルにそう書いてある)とは、詐欺犯罪が丸見えではないか。


    2.共産主義信仰(社会主義信仰)
     お金持の財産を貧乏な人々に与えて、上中下の階級をなくして皆平等にして、働く者も働かない者も能力があってもなくても同じ境遇にして、個人が財産を所有するのではなくて全員の共有財産として国家の所有にすれば、自分は皆のため皆は自分のために働く事になるから、お金持による搾取や争いのない自由・平等・博愛の平和な楽しい理想世界になるのである。
     以上が共産主義信仰の教えであるが、実際には人間には能力の差があるから全員が全く同じ評価であるとすれば不平等で不公平であり、自分の財産を所有できなければ労働意欲が次第に低下し、最後は全員貧乏になり国家の配給で生活する事になるから国家権力の奴隷になるのである。
     つまり共産主義信仰は暴力革命を正当化し、短期間にしかも超格安で国家を破壊・転覆するための手段で、その目的は全員の幸福ではなくて国家権力を絶対者にして無智で貧乏な国民を強制的に全員収隷にする事である。だから革命の最下級兵土として使われた愚民は、最大勢力でありながら奴隷にされてしまうのである。そうして共産主義信仰による本当の狙いは全人類を奴隷化して超格安の労働力を手に入れ、全世界の富と権力を独占する事である。共産主義信仰による政策には、所得が多いほど税率が高くなる累進税や国民のお金を恵んでやる福祉等がある。

    ■批判■
     共産主義を教主が否定するのは当然だろう。富を我が身だけに集中させ、贅沢の限りを尽くすのが大好きな教主にとって、共産主義になり、贅沢の独り占めができななくなるのは我慢がならないことだろう。
     でも、「共産主義信仰は暴力革命を正当化し、短期間にしかも超格安で国家を破壊・転覆するための手段で、その目的は全員の幸福ではなくて国家権力を絶対者にして無智で貧乏な国民を強制的に全員収隷にする事である」って、本当にこんな言い切り方をして大丈夫か? この文章を日本共産党に送ってあげようか? 翌日の赤旗に神世界の名前が出て、その日から連日、日本共産党の街宣車が神世界本部に押しかけることになるぞ。

     教主は福祉も嫌いであるらしい。弱者をいたわる心などまるでない教主にしてみればそれは当然のことだろう。
     「最後は全員貧乏になり国家の配給で生活する事になるから国家権力の奴隷になるのである」って書いていて変だと思わないのかねー? 全員貧乏になってしまい国家の収入もなくなるのに、国家はどこから配給に必要な資金を得るんだろうねー。いつもながらの矛盾だらけの文章だね・・・。



    3.資本主義信仰
     すべての価値をお金に換算し、お金を多く所有するほどより高度の幸福を実現できる、とするのが資本主義信仰の教えである。だからお金に換算できる利益を追求するために働く訳だが、お金に対する欲望に心が支配されるとお金に自分自身が支配され、運命も人生もお金によって決定されてしまうのである。
     しかしお金の価値は絶対不変ではなくて変動しやすく無価値になる場合もあるから、自分にとって一番大事なのはお金ではなくて自分の生命であり健康であり自分自身なのである。それでお金は幸福の要素であるから必要だが、お金を稼いで使うのは自分であり、第一番に健全な自分が存在してその自分自身が最も快適であるためにお金を稼いで使うのだという事が生きる基準になっていれば、自分とお金との関係は最適であるから、お金から得られるプラスは最大である。
     だからお金を得るために自分の寿命を縮めたり自分の価値を下げたりする事は、一時的な利益のために永続する損失を受ける事になるから結果は大損となるのは当然である。
     そうして資本主義信仰による最終目的はお金によって人類を奴隷化して支配する事で、その代表的な政策は借金と投資を奨励し、株式相場や商品相場や不動産相場等のようにあらゆるものを相場化し投機の対象を作って人類が生み出した富を吸収する事である。

    ■批判■
     いろいろな信仰を批判する章のはずなんだけど、あまりこれは批判になってないぞ。
     教主もお金に対しては人一倍執着を持っているので、資本主義を真っ向から批判することはできないようだ。
     「お金に対する欲望に心が支配されるとお金に自分自身が支配され、運命も人生もお金によって決定されてしまうのである」って、これ教主自身のことを言っているように見えるんだけどねー。
     相場を批判しているが、教主は相場に手を出して失敗したことがあるのかもしれないね。欲の皮が突っ張った教主だから、一攫千金を夢見て相場に投資し、大失敗したのかもしれないね。



    4.医学信仰
     あらゆる病気を医学で解決しようとする信仰で、西洋医学と東洋医学による薬や手術等の物理的療法で病気を治そうとしているが、現実には毎年大多数の人類は病気で死亡しているのであるから、今の医学とその治療法に重大な欠陥がある事を証明している。
     もし医学によって人体や病気について解明されていたら病気は治る訳だから、病人と病院の数が年々減少しなければならない筈である。また医学の進歩とは体内に飲食物以外の異物を入れずに、尚且つ肉体を全く破損せずに病気を解消する事であり、薬や手術等の物理的療法の開発は医学の進歩ではなくて後退である。医学信仰の結果健康な人は半病人に、半病人は重病人になっているのである。

    ■批判■
     説得力に欠ける文章だなー。もう少しもっともらしく書けないのかね・・。昔の人は現代人のように長寿命だったか? 人類の平均寿命がどんどん延びてきた背景には医学の進歩があったとは認めない訳かい?
     薬を使うときには薬害にも注意しなければならないのは誰でも知っている。薬害のリスクがあっても、それによって救われた命の数の多さにも目を向けるのがフェアというものだろう。
     医療関係者は日々研究し、できるだけ薬害や医療過誤のない治療を目指している。少なくても教主ごときに批判されるような人たちではない。
     教主の御霊光とやらには現代医学を上回る治療効果があるのか? あるんだったら、さっさと、”御霊光病院”を建てろよ。なんなら資金を貸そうか?
     御霊光病院には、連日、長蛇の列ができて大賑わいするかな? え?どうしてそうしないんだ。ああ、それはそうだな。御霊光なんてウソっぱちだからだね(笑)。


    5.薬信仰と栄養学信仰
     病気は薬で治ると信じていて、薬がないと体が不健康になると思い込んでいて、何でも薬だと思わないと気が済まない。  以上は薬信仰だが栄養学信仰と共通している。栄養学信仰では栄養を充分に摂取していれば健康でいられるという教えを皆信じている。例えば「カルシウムを牛乳から充分に摂取していれば骨は丈夫になり、もしカルシウム不足になると骨粗鬆症になって骨がスカスカになる」と信じて毎日多量の牛乳を自分が飲んだり家族に飲ませたりする。また果実や野菜からビタミンCを摂取しろとか、貧血には鉄分が必要だから動物のレバーを食べろとか、何の食品には何の栄養素が沢山含まれているから何の症状に効果があるとか予防になるとか、肉を食べないと蛋白質不足になるとか体内で肉の成分を造れない等といって、最後は栄養素を栄養剤という薬として摂取しているのである。
     だから飲食に適した食品を薬として摂取するのが栄養学信仰で、飲食に適さない物を薬とするのが薬信仰であり、どちらも毒性の差はあっても休内で毒化するのは勿論である。

    ■批判■
     医学に対する批判をするなら一カ所にまとめておいてよー。また同じ批判を書かないといけないだろう。
     「病気は薬で治ると信じていて、薬がないと体が不健康になると思い込んでいて、何でも薬だと思わないと気が済まない」って、そんなこと考えている人が本当にいるか?
     私も家族も、会社の同僚も、テレビでしゃべっている人たちも、みんな薬はできるだけ飲みたくないと思っているぞ。医者に聞いたって、薬なんか飲まないこしたことはないという。薬には副作用があることは常識だ。でも当面の症状を緩和するために、やむを得ず薬を飲んでいるいるだけだ。
     栄養剤だけで必要な栄養素をとってやろうとか、牛乳を飲んでいればそれだけでカルシウムの摂取は十分なんて思っている単純人間はお前だけだ。



    6.科学信仰と無神信仰
     科学の進歩によって、人間の生活は快適になり、宇宙や地球や人体のすべてが解明され、発明や発見によって科学技術が最高度のレベルになれば人間は病気や貧困や闘争や災害を絶無にする事が可能となり、さらに最高度の便利と快適を実現できるとするのが科学信仰である。だから人間の五官や科学で把握できなければ認めないとして、目に見えない神様や霊の存在を認めないとする無神信仰に結び付くのである。
     しかし今の科学はレベルは低いために、人間や人間界や自然界に害毒を及ぼして破滅に誘導している。だから科学が最高度のレベルに達しなければ理想世界にはならない。
     それで第一番に必要なのは、自然界に無限に存在してしかも無料である水や光や原子中の電子で動くエンジン等の動力であるが、それは水を高いコストをかけて酸素と水素にして燃料にするのではなく、高価な太陽電池を使うのでもなく、超高価な装置を必要とするのでもなく、コストは0で超安価な永久機関でなければならない。
     次に必要なのは高度な知能と視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚を有するコンピューターと、そのコンピューターを内蔵したロボットや家庭電化製品や機械であり、電気は無線で伝達し信号や情報は光で伝達するのでなければならない。
    そうして科学によって御霊光や霊や念を把握する事が可能となれば、神様の存在や自然界には永遠の幸福を実現する法則と機能が存在する事を科学が証明するのである。

    ■批判■
     これを書いた教主は、根本的な考え方が間違っている。
     教主は科学と信仰を同一テーブルの上に載せて論じ、科学が未熟だから精神世界を十分に解明することができず、科学と精神世界が対立し、”無神信仰”になると断定しているが、この二つの問題をそうした同次元で論ずること自体に最初から無理がある。
     科学の発達と精神世界の充実とは平行するものでも相反するものでもなく、両者が車の両輪のようにうまく転がってこそ人間の大切な問題である。それぞれについて考えるべき点は多いが、科学が発達したからと言って信仰がないがしろにされていい訳ではない。ましてや神の存在を科学で解明しようなどと思うこと自体が神への冒涜だ。どんなに科学が発達しても、御霊光の存在が実証されることはない。なぜそんなことが断言できるかって? これまでに誰一人として御霊光によって幸せになった者などいないことがそれを如実に示している。御霊光というのは単なる人間の思いこみによるプラシーボ効果を利用したものでしかない。
     文章の書き出しでは、科学を、”科学信仰”といって批判し否定的な見解を述べておきながら、文章の後段では科学の進歩した状態を望むような内容となっており、支離滅裂な文章を平気で書いているのは毎度のことだ。
     SF小説には「永久機関」なるものも登場するが、永久機関が理論的に不可能であることはすでに証明されている。



    7.農薬信仰と肥料信仰
     これは薬信仰と栄養学信仰と同様である。農案を使わないと害虫と病気によって良い作物ができないとするのが農薬信仰で、化学肥料や有機肥料を使わないと土の栄養分が不足して良い作物ができないとするのが肥料信仰である。
     害虫と病気が発生するのは土中に化学肥料や有機肥料が含まれているからで、それで土中が汚濁していて汚濁成分が多いのである。特に動物の糞や死体や油カスや残飯等は腐敗する際に汚濁ガスや病原菌や害虫類等が発生し、たとえ完全に土化した堆肥でも動物に投与した抗生物質等の薬や体内の病原体や悪性物質が含まれていると作物自体が汚濁している。だから木の葉や枯れ草を上の上に堆積させたり、人工的な肥料や農薬を含んでいない清浄で完全な土を土中に入れるのなら良い。また害虫や病気が発生する他の理由は作物の周囲の雑草を除去するからであり、雑草の役目は土中の水分や自然に含まれている栄養分を調節し作物の根を守り害虫や病気が作物に及ばないようにし、土の流失と乾燥による砂漠化を防ぐ事等である。そして農菜や肥料を多量に含んで雑草を除去した土は生命エネルギーがほとんど消滅して死土と化しているから、自然界は死土を復活させるために特別強力な根を持ち短期間で土中の広範囲に根を伸ばす雑草を発生させたり、特別強力な害虫を発生させ土中の毒素と一緒に植物の根を食べるのである。そして害虫を農薬で殺す事を繰り返すうちに、他の害虫を防いでいた大事な益虫を絶滅させて他の害虫を異常発生させるようになるのである。さらに土中の農薬や肥料等の毒や汚濁の成分は流れて浸透し、河川や地下水に入ってしまい飲料水や農業用水となって最後には海へ流れ込むので、人間の飲食物を汚染し人間の健康を害する原因の一つになるのである。
     清浄な生きた土なら生命エネルギーが充満しているから害虫や病気は発生しないし、何の作物でも香や甘味があって美味である。

    ■批判■
     農薬の害について教主から教えてもらいたいとはおもわないねー。そんなことは常識であり、詳しい話を聞こうと思えば専門的に研究している人はいくらでもいる。
     農薬を使わずに農業が成り立ち、農家が生計を立てていけるならば誰も好きこのんで農薬を使ったりはしない。問題はその具体的な方法であり、教主がいう、「清潔な生きた土」を簡単に得る方法があるのなら是非それを示してもらおう。
     それが簡単にできるのならば、誰も好きこのんで高くて危険な農薬など使わない。理想論を好き勝手に述べるのは誰にでもできるが、その具体的方法を示さなければ、机上の空論でしかない。



    8.その他の信仰
    (1)憑霊や前世や因縁等を売物にする神憑り信仰。
    (2)易占やトランプ占いや星占い等を心の拠とする占い信仰。
    (3)古今東西のUFOや宇宙人や怪物や超能力等に興味を持ち追求するミステリー信仰。
    (4)太陽でも月でも石でも木でも人間でも何の本尊でも何でも彼でも手を合わせて願い事をしないと気が済まない万何でも信仰。
    (5)テレビ・ラジオ・雑誌・新聞等の伝達する内容なら正しいと思い込んでしまうマスコミ信仰。
    (6)大多数が支持する方を自分も支持してしまぅ多数派信仰。

    等ありとあらゆる信仰があるのだが、信じる事自体がすでに信仰であるから信じる数だけ信仰があるのである。
     そうして悪魔は人間の信じる心と信仰を利用して人間を不幸へ誘導するのである。しかし今までの世界では幸福の実現は不可能で、何時不幸が発生するか不安だったから人間は安心を得ようとして、信じなければ成り立たない信仰が発生した訳である。もし確実に幸福を実現し地上が神世界になった時は信仰は不必要となり、完全に消滅するのである。また一切の信仰が消滅すると同時に一切の迷信も消滅するのである。

    ■批判■
    (批判)  「盗人猛々しい」とは、こういうことを言うんだろうねー。「憑霊や前世や因縁等を売物にする神憑り信仰」って、あんたが最も得意とする手口だろう。これまでその手口でどれだけ多くの人を騙してきたんだ?
     「悪魔は人間の信じる心と信仰を利用して人間を不幸へ誘導する」って、これもあんたがやってきたことそのものではないか。さすがに自分がやってきたことだけあって的確に述べているなー。
     客に、「自分で考えるな。神書に書かれている通りにすればよい」として神書を盲信させ服従を強いてきたのは他ならぬ教主自身ではないか。自分への盲信を強いてきた者が、「悪魔は人間の信じる心と信仰を利用して人間を不幸へ誘導するのである」とはよくぞそこまでとぼけたことを言えるものだと感心する。

     「地上が神世界になったら」って、そんなバカげたことが実現すると思っているのか?もし、その言葉をウソと知った上で言っているのならお前の頭の中はまだ正常な部分が残っているのかも知れないが、本当に神世界の世の中が来るかもしれないと思っているのなら、今すぐに精神科に行って診察を受けた方がよい。きっと重度の憑依妄想と診断され、鉄格子の付いた部屋への入院を強く勧められるだろう。
     あんたに騙されている客達にはそんなバカげた話も通用するのかも知れないが、それ以外の99.99999999%の人間は誰一人として地上が神世界になるなんてことは思っていない。こうしてインターネットで神書の内容が暴露された段階で、お前の詐欺師人生は終わったと判断するのが賢明だ。







悪宣伝は今の御神業のプラス (244)

     私の御神業は永遠のプラスを生み出すと同時に、プラスの成分の塊である。にもかかわらず世間で悪い評判が立ったり、悪く言われたりするという場合は、悪く言っている人間の方が私と御神業のマイナスの成分を吸収して取り除いてくれることになるから、私としては非常に有り難い訳である。悪口や陰口は言われた人のマイナスを言った人の方が背負ってしまうので、結局悪く言われる方がマイナスの成分が消えていくので得である。
    ■批判■
     あらかじめ批判を受けることを予測してこのような文章を作成しておいたようだが、私としてはこの内容は文面通りそのまま素直に受けとめさせて頂こう。
     批判を受けることは、「非常に有り難い訳である」と神書の作者自身が述べているのだから、私がこうして批判を連ねることは彼にとって喜ばしいことである訳だ。
     (有)神世界の批判をしたり、内情を暴露することは彼らにとって決して不愉快なことではなく、むしろ歓迎されることなのだそうなので、他の皆さんも遠慮なしに批判をしてあげましょう。


     そうして世間では良い噂より悪い噂の方が速く伝わるのが普通である。それで他人が幸福な時には「あの人は幸福そうだけど本当はこうなんだよ」と幸福な人を妬む気持から悪宣伝をする。反対に不幸な人に対しては「あの人は本当は良い人なのにかわいそうだ」と、不幸になるのは不幸になった人のせいなのに事実よりも良く言うのである。このように事実とは全く逆の言動や行動や態度をとるのが神様とつながっていない人間の性格で、他人の幸福よりも不幸を聞く方がはるかに楽しいのである。だから世間から良く言われるという事はそれから大きく発展しない事が多く、次第に減亡していく人に対して使われる言動である。反対に運が良くなって上昇運になっている人については悪宣伝はつきまとうもので、人の妬みが悪宣伝を発生させている訳である。
     だから本当にマイナスを生み出していないなら悪く言われるという事はプラスの結果だけを生み出し、たとえ悪宣伝であっても世界により速く私の御神業が伝達され、自分のマイナスも吸収してくれるので私にとっては一石何鳥もの得になる。したがって悪宣伝は私の御神業の発展の一つの要素であり、今の私にとっても御神業にとってもプラスの働きになっているのである。人間は本当に自分が良いと思えばわざわざ口に出して「良い」とは言わないもので、実際に行動に現れる結果によって判断するのが良い。そして何事も良い宣伝が広まった後より悪宣伝が広まった後の方が大きく発展するものなのである。
    ■批判■
     うんうん、そう思っておこうね。これからも私たちはどんどん(有)神世界や神書やヒーリングサロンの悪宣伝(事実を述べているだけだけどね)をしてあげるので、あなたにとってそれは、「一石何鳥もの得になる」はずだ。
     まあ、だからといって私に感謝して、おかしな贈り物をしよう等という気遣いは無用だ。ちゃんと、次の項に、「贈物は不可」という内容があるようだから、大丈夫か・・・。







贈物は不可 (246)

     贈物とは相手に気に入られるために無料で品物等を贈る事であるが、これが純粋な贈物で相手から何も求めないし期待しないとしたら絶対に不可である。
     何故なら無償の贈物とは無償の奉仕であり、相手のために尽す事でボランティアで乞食に物品やお金を恵んでやるのと同じ事になるから相手に対して無礼であり、もし相手が喜んで受け取るとすれば相手の心を悪質化させる事になる。
     それはお金を払わなくて品物等を自分の所有にすることができるから、心が乞食化して物乞いの習慣が身に付いて、また誰かが何かをくれるのではないかという怠惰な精神を植え付ける事になるので、プラスを生まないマイナス行為なのである。
     そうして誕生日だとか、何とかの日だとか、特別に贈物をする日だとかの場合に、贈物を貰えなかったり、贈物をやらなかったり、相手によって贈物の価値に格差があったりすると確実に不快な感情を持つ事になったり、誤解を生んだりするから人間関係にとってプラスはない。また食事に招待したりされたり等の無料招待も無償の贈物と同様に不可である。
     だから無料や無償がいけない訳で、適正な代償や見返りを求めるためなら取引になるから合理であるが、取引なら「招待」とか「贈物」という言葉ではなくて取引らしい言葉にしなければいけない。取引であれば互いに無用な気を使ったり使われたりする事がなくて快適であると同時に、取引関係が続く間の人間関係である事が最適なのである。
     そうして中には無償でお金や物品等を贈ったり、貰ったりしたために、贈賄や収賄の犯罪となり、高い地位や名声や収入等を瞬時に失う事になるから、貰った金品や利益よりもはるかに多大な損失になる訳である。
     私の御神業においても、神様の取次者はたとえ鉛筆一本でも紙一枚であっても贈物を貰った事がわかった瞬間に私に解雇されるのである。何故なら贈物を貰った瞬間に相手の便宜を計ろうとするから、そうすると贈物をくれた相手に使役され一瞬でも支配された事になり、その時点で最早神様の取次者失格なのである。私は損害を受けマイナスが発生した訳だから、マイナスをできるだけ迅速に消滅しないとマイナスが次第に増大するため、贈物を貰った取次者は私の耳に入った瞬間に追放するのである。
     実際に貰っていなかったとしても、マイナスの噂や誤解が発化しただけで御神業のマイナスとなり、取次者として最低限の配慮と自覚が絶無である事の証明になるから私にとってもマイナスの存在となる。
     御神業上の取次者は神様との取引が成立していて、取次者は神様にとってのプラスを生み出し、神様は取次者が生み出したプラスに応じた報酬を支払うのであるが、取次者は神様を求めて来る人達に神様の御霊光と教えを取り次ぐ訳だから、取次者は神様以外の何者にも支配されない事が最低限の意識であり自覚なのである。支配されないというのは、魂と心と体であり、言葉と行動においてである。

    ■批判■
     では尋ねるが、神世界ではスタッフが残業をしたときに残業賃金を支払っているか?
     教主一家の世話をしているスタッフ達の深夜に及ぶ労働に対して深夜割増の残業賃金を支払っているか?
     スタッフの雇用保険はちゃんと支払っているか? 厚生年金は払っているか?
     雇用主として当然していなければならない義務を果たしていないために監督官庁から査察を受けたことはないか?

     スタッフを低賃金で長時間労働させている行為は便宜供与であり、スタッフから教主への”贈り物”に相当するのではないか?

     教主は二言目には、”取り引き”という言葉を多様するが、実態のない”御霊光”に対して客やスタッフから多額の金をせしめる行為は対等な取り引きとはいえない。
     神世界がやっていることは、空気や水を売って多額の報酬を得ているのと同じであり、とても正当な取り引きなどといえるものではない。
     デタラメばかりの神書や神慈秀明会のお光りを真似た力ライセンス、岡田茂吉の千手観音図を複写して一部を改変しただけの教主作とされる千手観音図等に一体どのような値打ちがあるのか?
     あのようなものを数万円、数十万円もの高額で客に売り付ける行為は公序良俗に反する行為だ。

     山梨県の高額所得ランキングに名を連ねる程の所得を得ることができたのは、多くの客から多額の金を出させた結果だ。正当な取り引きというならば、それらの客に対してどれだけの代償や見返りを与えたのか?
     多くの客は神世界によって多額の金を失い、途方に暮れているのが実態だ。






電車に幸福にしてもらえ (249)

     神様からの奇跡や良い結果を求めて遠方から来るのだが、遠距離の場合は必ず交通費等の経費がかかるのは当然で、具体的には電車賃や通行料やガソリン代等である。
     この時に注意しなければならないのは交通費等の経費よりも御玉串の金額の方が多くなければならない事である。
     それは神様から良い結果を得る事が目的で来るのだから神様の方が交通費より価値が高いのは当然で、価値が高い事を表すには神様への御玉串の金額の方が交通費の金額より高い事が最低条件になる。心で思うだけでは神様の方も『良い結果をやろうと思っている』だけである。良い結果を求めるなら人間の方も理に合うように行動や形に表す事で、それによって神様との取引が成立し、良い結果は永続して幸福の要素だけが増加するのである。
     だから電車賃の方が神様への御玉串よりも多額であれば、神様からは『電車に幸福にしてもらえ』である。
    ■批判■
     いやー、なかなか面白い冗談で・・・、と思ったが、こんなものに一項目を使っていることから考えると、作者はこれを冗談ではなく、本気でこのように思って書いたようだ。
     客から少しでも多くの金を出させる口実を考えているうちに思いついたのだろうが、ばかばかしくて批判を加える気力も失せてしまいそうだ。
     金に目がくらむと、ここまで人間はバカなことを考えるものなのだろうか。
     どこの世界に電車賃と玉串の金額を比較し、その大小を論ずる宗教者がいるか。他にも失笑を買う内容が多いが、この、「電車に幸福にしてもらえ」はその代表格だ。この一文を読んだだけでもこの団体が、”とんでもない”団体であることが分かる。
     タイトルだけ見たときは、”電車男”の話でも載っているのか思ってしまった(笑)。







自分が信じている者に救ってもらえ (251)

     色々な知識や教えが頭脳に入ってくると、それが邪魔をして私の教えが入らないことがある。例えば、ある医師が提唱する食事療法や健康法を信じていると私が教える食事を実行できなかったり、キリスト教の博愛精神が美しいと信じていると私の『世のため人のためではいけない、自分の幸福のために実行しろ』という教えを受け入れられなかったり、薬を信じていると『薬は毒』という事が理解できなかったりする。
     勿論最初のうちは何も知らないのだから当然だが、私の所で神様の御霊光を伝達されて奇跡や利益を貰ったとすれば、それ以後は私の教えを判断の基準として御神業を中心に生活すべきである。そうすると神様は『素直で使いやすい人間』と判断し御神業に使い、万事順調な運命になるのである。
     しかし中には利益を得て神様に助けて貰っても私の教えを受け入れない者もいる。こういう者は素直でないから、神様は御神業に使えないと判断して利益はなくなるものである。どうしても今までの宗教の教えや間違った医学の知識を信じていて私の教えを受け入れない者に対しては、神様は『おまえが信じている者に救ってもらえ』と言うのである。

    ■批判■
     『素直で使いやすい人間』と判断した客をスタッフとして雇い入れ、新たな客の獲得に奔走させてきたのが神世界とその関連ヒーリングサロンだ。
     教主のいうことを聞かない人間を排除し、教主のいいなりになる扱いやすい人間だけを選別しようとする魂胆が丸見えだ。




幸福を遠慮するな (252)

     人間と人間とのつながりにおいては、最適値で釣り合っていれば正常な取引が成り立っている訳だから、遠慮ではなくて釣り合いが必要条件である。
     神様との取引関係において、人間が取引材料の分量を遠慮する場合は、幸福を遠慮するのと同じだから人間にとって損である。
     御霊光が幸福を生み出す根源だから、御霊光を神様からできるだけ自分に伝達してもらう事によって、迅速に自分が幸福となって永続化するのである。御霊光を伝達してもらうには取次者を通じる場合と、神様との取引による場合がある。神様との取引には取引材料が必要で、人間側の取引材料は神様の御神業にとってプラスになる事を実行する事で、具体的にはお金を神様の商品購入代金にしたり御神業に使ったりする事と、神様の手や足として取次者になったり自分の得意な事や能力を発揮する言である。
     すなわち御神業が順調で快適であるためのあらゆる活動であり、御神業にとってブラスの度合が高いほど価値が高い取引材料になるのは当然である。だから「神様の利益になった」とか「良い事をしたにとか「一生懸命御神業に貢献した」とか、善意や好意とかを考えたり一時的な成果に満足したりしてはいけない。自分が迅速に幸福になりさらに高度な幸福を実現するために、可能な限りのお金と時間と労力を費やして、御神業のより大きいブラスになる成果を神様との取引材料にするのである。
     したがって苦悩が解消して幸福化したからこそ、今までよりさらに大きな取引材料を生み出すのが正常で健全な人間であり、一時的な幸福化に満足して神様との取引関係を解消するのは自分にとって莫大な損失になる訳で勿体無い話である。だから私はこのような欲のない人間に対しては、『幸福を遠慮するな』と言うのである。

    ■批判■
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嫌ならやめろ (254)

     私は永遠の幸福を求めて来る者については拒否しないし、去る者についても追いかける事はしない。それは必要があって人間が集まり、必要がなくなった人間は去るからである。
     私の所へ来て神様から御霊光を伝達されることによって、奇跡や良い結果が現れ、沢山の利益を得た者の中には、いつしか神様への感謝が絶無となり、不平不満や愚痴で心の中が充満して不快な言動をするようになる者がいる。
     他の者に対して私の所をやめるように言ったり、私の教えでない事を一生懸命に宜伝したり、気に入らない人の悪口を言ったりして、私の地位を下げる言動をするのである。こういう者は一刻も早く私の所から去ってもらいたい。ここは義理で来る所ではない。私はいつも皆に『来たければ来い、嫌ならやめろ』と言うのである。

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勝手にしろ (255)

     私は救いを求める人々にあらゆる指導をするが、素直に実行すれば良い結果になるのである。
     ところが中には頭脳が変な者がいる。私が『肉類や乳製品は飲食せずに飯とみそ汁を中心とした植物性の食事にしなさい』と言うと、相手は「野菜は大嫌いで肉がないといられない」と反抗する。また私が『可能な限り私の所へ来て御霊光を浴びなさい』と言うと、また相手は「毎日忙しくて神様の所へ行く時間がない」と反抗するのである。
     私は救いを求めて来た者に対して迅速に苦痛を解消する方法を指導しているのだが、相手は「あれはできない」とか「これはできない」等と反抗して、まるで私が「そうして下さい」と頼んでいるかのように錯覚しているのだが、私の教え通りに実行してくれなくても私は何も困らないのである。
     それは救いを求めているのは苦痛を有する相手であって私ではない。だから私の言う通りに素直に実行できないのであれば、私にとっては他人事であるから用はない。こういう者に対しては『勝手にしろ』と私は言うのである。

    ■批判■
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第三章 毒素

健全化作用と悪化作用 (260)

     人間の体内における健全化作用は悪い成分が減少して良い成分が増加するので、より健康になるための清浄化作用であるから病気ではない。病気とは悪化作用であり、体内に悪い成分が増加し良い成分が減少するために、より悪化し異常になるから、体内は破壊され機能は止まって死となり存在は消滅するのである。
     つまり健全化作用とはより良くなるためのプラスの清浄化作用で、悪化作用は破滅させるためのマイナスの清浄化作用であり、どちらにしても悪い成分・マイナスの要素・不必要な存在を消滅させるのであるが、健全化作用によるか悪化作用によるかは神様と自然界にとって割に合うか役に立つかどうかによって判断される。
     そうして体内と同様に人間の運命・経済・家族・企業・国家・個人の人間関係・人間界のすべてにおいて健全化作用と悪化作用が発生しているが、運命の健全化作用とは健康運・財運・家庭運等が好転し上昇する事で運命の幸福化であるが、運命の悪化作用とは下降・転落して不幸化する事である。
     幸福化の過程においては、体内の毒素溶解排泄作用によって毒素が消滅した分だけは体内全体の毒素は減少し健康が増進する。それと同様に永続する利益にならないマイナスの人間関係・職業・取引・入学・入社・縁談・財産等は短期間に消滅し、それが消滅した分だけは永続する利益となるプラスの人間関係・取引・収入・財産等に迅速に変化し増加する。ただマイナス消滅の時に一時的な苦悩は発生しても、マイナスが消滅した分は喜びと楽しさが永続するのである。反対に不幸化の過程ではマイナスの人間関係・取引・収入等が増加するから一時的短期間の喜びと享楽が発生するが、そのために次第に大きいマイナスと多くのマイナスを求める結果、 一時的喜びと享楽は永続する苦悩と絶望に変化し終点は破滅である。

    ■批判■
     教主の書いた文章は何を言いたいのか訳のわからない文章が多いが、その中でもこの文章は何度読んでも何を言いたいのかわからない文章だ。
     「健全化作用」というが、いったいなにが健全でなにが不健全なのだ? 「体の健康」という一点に限って考えてみても、基準をどこに置くかで健康かどうかの判断は大きく変わる。人間の体は一人一人違うのであり、その人にとって最もバランスのとれている状態は違う。他の人からみれば不健康と思える状態に見えても、本人にとってはそれが一番バランスのとれている状態であるかもしれない。
     虫歯が一本あっても、全く虫歯のない人と比べればそれは「不健全」と烙印を押すのか? その状態を本人が、「これでもOK」と思えばOKだし、本人が、「これはダメだ」と思えばダメになるだけだ。
     要は本人がそれをどう受けとめるかであって、ダメだと思えばそれをダメではない方向に改善する努力をすればいいだけだ。神様なんかが出てくる場面ではない。  神世界というインチキ団体に出会ったことが本人にとって最大の不健全だということは言えるかもしれない。

     「運命の幸福化」、「運命の悪化」って、言葉の使い方からしておかしいだろう。
     「運命」というものが実在するのであればの話だが、「運命」というものの定義付けは、その人の人生に於いてあらかじめ結果が定められたものを言うのであり、本人の意志や周囲の環境でコロコロ変わるものではない。外的要因、内的要因で「変化するのであれば、それは運命とは言わず、人間が生きていく過程で誰もが普通に経験していく日常の姿である。
     外的要因や内的要因をいかにして自分にとって良い方向に変化させるかを考え、その方向に向かって努力していくのが人生だ。

     「幸福化の過程においては、・・・」以降の文章は全くもって訳のわからない文章であり、教主が酒でも飲んで酩酊状態で書いたのではないかと思われる。酒など飲んでいなくても元々訳のわからない文章を書くのが教主の常であるが、この部分は日本語としてもおかしく、何が言いたいのかさっぱりわからない文章だ。こんな物は、「文章」という名にも値しない。
     論評するに値しない駄文であるが、唯一この文章の持つ意味としてあげることができるとすれば、”客の不安を煽る効果”はあるかもしれないということだ。
     文章全体に漂うのは、読む人を不安にさせる怪しげな雰囲気だけだ。





清浄化作用 (263)

     自然界には永遠に美しく快適であるための機能があり、汚いものをきれいにする働きがある。これが清浄化作用である。
     自然界が健全であれば日常の美しくて快適な自然現象や自然界の営みによって、清浄化作用の機能は正常に作動するから、汚濁は簡半に迅速に消滅する。人間も毒素が絶無であれば完全健全体で正常な機能だから、日常の大小便の排泄と分泌物による清浄化作用だけで、日常の活動によって発生する体内の汚濁は毒化せずに簡単に消滅する。だから苦痛や破壊を伴う清浄化作用は発生しない。
     しかし日常の快適な清浄化作用では消滅不可能な汚濁が、人間と人間界と自然界に発生した場合は、毒素となって畜積され異常が発生し、時間の経過と共に毒素の量は増加し毒性は強烈になって、次第に悪化の度を増して最後には破壊によって消消滅となる。
     清浄化作用は毒素の量が多いほど、また毒素の毒性が強いほど激しい苦痛と破壊が発生し、人間の体内・人間関係・経済・全世界の人間界・自然界のすべてにおいて機能している。そうして毒素は人間が生み出すのだから、人間が清浄化されて無毒になり永遠に健全になれば人間界と自然界は自然に健全になるのである。そして汚いものをきれいにするのは、より美しく・より健全に・より快適にするのが目的であるから、その存在が清浄化によって割に合うプラスを生み出せると判断されれば生かされて存在価値が高まるが、その存在自体を0にした方が全体の価値が高まってプラスであると判断されたなら消滅となる。このように消滅する場合、老朽化が極限に達して自然界における寿命が尽きて消滅するのは悪化ではないから苦痛と破壊はないが、汚濁と悪化が極限に達して消滅する場合は極度の苦痛と破壊が発生する。
     人間においても清浄化によって幸福になる場合と悪化によって破減する場合があるが、すべては自分が求めて自分を誘導したと同時に、神様と自然界がその人間の価値を判断して運命を決定し誘導するので、その際最適な清浄化作用が発生するのである。つまり幸福になる清浄化作用と不幸になる清浄化作用があって、幸福になる場合は苦しみは一時的で喜びと楽しみが永続し、不幸になる場合は喜びと楽しみは一時的で苦しみが永続する特徴がある。

    ■批判■
     この文章も訳のわからない文章だー。教主は自分が何を言っているかわかっているのか? こんな訳のわからない文章しか書けない者は小学校の国語の授業から受け直した方がいいぞ。
     例えば、「幸福になる清浄化作用と不幸になる清浄化作用があって・・」という部分がある。「清浄化作用」という言葉は通常、良い方向に向かう作用として用いられる言葉である。それにも係わらずここでは、「不幸になる清浄化作用」などという表現が出てくる。結果として不幸になるのであればそれを清浄化作用と表現するのは間違いだ。

     この文章も論理的には全く意味のない文章でしかないが、御霊光とやらを正当化するための伏線として書かれたものと解釈すると、客を不安に陥れる効果はあるのかもしれない。





人体の清浄化作用 (265)

     体内に毒素が絶無で完全健全体であれば、清浄化作用は日常の老廃物(大小便と分泌物)の排泄だけで充分で、無苦痛で快適なのである。
     体内に毒素が溜って蓄積した場合は、体内の清浄化機能が正常に作動すれば、清浄化作用が活発になるから毒素消滅のために毒素溶解作用が発生する。
     毒素溶解作用が発生すると、発熱によって体内の毒素の塊は溶解し液体化する。この場合の発熱は高熱であるほど良好で、高熱であるほど迅速に毒素は溶解して短時間で解熱する。毒素溶解作用が完了すると同時に毒素排泄作用が発生し、溶解した毒素は体外へ排泄され体内はより健全になる。
     しかし発熱の時に冷して薬で止めると一時的には熱は下がるが時間が経つと再び熱が上がり、これを繰り返すからすっかり解熱するまでに数週間から数か月に及ぶ場合もある。あるいは発熱しても高熱にならずに38度台以下の微熱が長期間続く場合があるが、これは発熱の度に薬で止めたり心臓の働きが弱まったり体内の清浄化機能が弱かったりするためだが、常に微熱しか出せないとすれば毒素による体内の異常化が悪化作用を発生させている証拠だから、普通では回復困難か回復不可能な状態なのである。
     したがって人体の清浄化作用にはマイナス(毒素)を減らしてプラス(健康)を増やす健全化作用とマイナスを増やしてプラスを減らす悪化作用があり、健全化作用の目的は人間をよリプラスの存在にする事であり、悪化作用の目的は人間を死によって存在を消滅させる事である。

    ■批判■
     岡田茂吉が書いた文章の盗作かい。盗作は観音像だけでなく、文章も岡田茂吉の書いたものを盗用している。





風邪は健全化作用 (267)

     風邪は一年に一回か二回、体内の大掃除のために発生する。体内の毎日の掃除は大便・小便・分泌物の排泄による。風邪をひくと同時に熱は迅速に高熱(39度以上)に達し、濃い洟や痰や小便・下痢・発汗等の毒素排泄を伴って解熱する。
     発熱は高熱であるほど毒素溶解が迅速であり、また高熱であるほど毒素の毒性が消滅し病原菌や悪性ウイルスや悪性細胞も死滅するのである。ところが38度台以下の微熱だと毒素が迅速に溶解できないし、毒素の毒性は強いままで毒作用が活発化するから吐き気や目眩等の苦痛が激しくなり、病原菌等も繁殖しやすく感染しやすい。
     だから微熱が長期間続いて高熱に達しないのは悪化であり、重大な異常がある証拠で、もし十年以上も高熱を伴う風邪をひかないとすれば確実に生命の危険な状態である。
     これは体内の毒素が溶解・排泄されないから、長年月の問毒素が極度に蓄積され悪化していると同時に、体内の健全化機能が全く作動しないから、死病が発生しているか急死するかとなる。
     高熱を冷したり薬で抑えたりしなければ悪化作用は発生しないから、よって心も体も運命もより良くなるのである。だから「風邪は万病の因」ではなくて「風邪は健康の因」なのである。
     また麻疹は一生に一度幼児期に発生する毒素溶解排泄作用であり健全化作用で、迅速に40度を超える高熱に達し可能な限り皮膚から多量の毒素が吹き出すほど生命力があり機能が活発なのである。
     麻疹で排泄する毒素は先祖代々からの漢方薬の遺伝毒素で、皮膚から毒素が吹き出すから皮膚が柔軟で生命力が旺盛な幼児期に発生するのが最適で、もし麻疹が発生しなければこの遺伝毒素は特に呼吸器に集中するから、喘息や肺炎等の発生となる。
     癌・膠原病・悪性の伝染病等の死病も、42度から43度の人体が出せる限界の高熱に耐えられれば全快する。この場合は「死病より高熱で死んだ方が良い」と覚悟を決めて、数日から数週間高熱に耐え続けると悪性細胞・ウイルス・病原菌は死滅する。
     たとえ高熱に肉体が耐えられずに衰弱死したとしても、どうせ死病で死ぬ事が確定していたのなら死病で死ぬより高熱で死ぬ方が楽に決まっているし、高熱に耐える事ができれば死病を解消できるのだから選択の余地はない筈である。

    ■批判■
     私(fujiya)は、なぜかとても健康で、10年はおろか20年以上も高熱を出すような病気はしていない。ということは教主の説によれば、「確実に生命の危険な状態である」ということになるわけだ。
     毎年成人病検診を受けているが、成績はオールAをもらい続けている。
     「医者の不養生」という諺もあるのであまり油断してはいけないと思っているが、教主の説には説得力はない。





破壊・消滅による清浄化作用 (269)

     プラスが減ってマイナスが増えるのが悪化作用で、マイナスがプラスを消滅させる事によって、マイナスをプラスに変化させるだけのプラスの能力がなくなると破壊が発生する。破壊の完了はマイナスの消滅となり清浄化作用の終了である。
     人間においては毒素と苦悩による、頭脳及び体内の異常と機能不全や悪性腫瘍と病原体の発生で、血管が切れたり・膿化したり・骨や肉が溶解したり・食い尽されたり等で内部から病気で破壊される場合と、怪我等で外部から破壊される場合があり、肉体の破壊は同時に運命の破壊でもあり、消滅とは死である。
     経済の破壊は個人・企業・国家における収支の赤字化に始まり、破産によって消滅する。そして経済はお金で成り立っているから、マイナスのお金で造られた物も破壊・消滅の対象になるのは当然で、昔からよく国宝級の建築物が炎上するのも建築資金を強制的な寄付と重税で調達したり、強制労働で建築費用を減らそうとしたりするからで、それは盗金というマイナスのお金でできた物であると同時に、多数の人間の犠牲が苦しみや怨みの念を極度に発生させ建築物や為政者や政府に集中するため、建築物の炎上によってマイナスのお金が消滅するのだが、それだけでは多数の苦しみや怨みの念が消滅しない場合は革命や暴動が発生し、さらに悪化すれば国家の破壊・消滅によって清浄化作用は完了するのである。
     そして人間の生命の犠牲や財産の損失による苦しみや怨みの念が、多数で激しいほど毒気と化して自然界と人間界に放出され伝達されるから、不快感や憂鬱感が漂って毒気が充満する。そうすると毒気を消滅させるために暴風雨・洪水・地震・津波・火山噴火・山崩れ等の天災や大事故・暴動・紛争・戦争等の人災が発生して、極度に毒化・悪化・異常化してマイナスの存在となった人間と家屋と財産を破壊・消滅させるのである。
     また人間が製造した有毒物質によって水・空気・土・植物・生物・人間が汚染され、毒化・悪化・異常化してプラスの作用をする菌類・微生物・虫・動物・植物・水と空気との中に含まれる成分・人体内の成分等、あらゆるプラスの成分が減少してマイナスの作用をする病原菌・病原体・有毒生物・害虫・毒の成分が増加して悪化作用が極限に達した時点で、病気・貧困・飢餓・戦争・天変地異による破壊が発生する。勿論最後の仕上げは、人間が造った最大のマイナス製品で最大の破壊力を有する核爆弾によって、自然界と人間と人間界におけるすべてのマイナスを焼却・粉砕し、大地震・大暴風雨・大洪水・大津波によって残骸を完全清掃し、最大の人災と最大の天災によって全人類と地球全上の清浄化作用は完了するのである。

    ■批判■
     「マイナスのお金で造られた物も破壊・消滅の対象になるのは当然」、「・・・盗金というマイナスのお金でできた物であると同時に、多数の人間の犠牲が苦しみや怨みの念を極度に発生させ・・・」
     「財産の損失による苦しみや怨みの念が、多数で激しいほど毒気と化して・・・」
     →そんなこと、お前(=作者)にいわれたくない。
     神世界もいずれここに書いてある運命を辿るだろう。




お金の清浄化作用 (272)

     お金とは現金と有価証券・貴金属・不動産等のように現金化できる財産の事であるが、お金にもプラスとマイナスがあり、マイナスのお金は清浄化作用によって消滅するのである。
     マイナスのお金とは横領・贈収賄・詐欺・盗み・脅迫・脱税等の不正によって得た利益や、商品相場・株式相場・投機・ギャンブル等他人の損によって成立した利益や、他人のお金を搾取したり、高金利でお金を貸したり、借金や賃金や支払うべきお金を踏み倒したり、他人に損害を負わせたりして得た利益である。
     つまり誰かが損を負ったお金が他の誰かの利益となった場合、そのお金は借金または盗金と同様であるから本来の所有者に適正な利息をつけて返すか、盗金であれば自首か公表して即刻所有者へ利息と慰謝料をつけて返すと共に、罰金等の刑罰を受ける事によって、マイナスのお金は解消し悪化作用は発生しない。
     ところがマイナスのお金を返さずに所有し続けると、マイナスのお金は体内における毒素と同様に時間が経過するほど悪化し、マイナスが消滅しなければ異常と苦悩の発生から破滅へと誘導されるのである。
     それにマイナスのお金に対しては常に損をした人間の苦しみ・怨み・妬みの念が集中していて、「くやしい」「お金を取り返したい」との思いがお金を引っ張るために所有者は大損してお金を失う事になる。
     だから昔から「悪銭身につかず」とか、 一獲千金で得たお金を「あぶく銭」とか言ったのである。
     マイナスのお金を返す相手が判らない場合は、国や地方自治体へ献納すれば苦悩しなくてマイナスを消滅できて公共のプラスにはなるが、最大でもマイナスを0にするだけで自分の運命にとってプラスの要素は増えないから健全化作用ではない。
     マイナスのお金を苦悩によって消滅する場合は、天災・人災・投機・ギャンブル・代金や貸金の回収不能・盗まれたり騙されたり等の損害や、病気・浪費等による出費の激増や、脱税・違反・犯罪者となって罰金・慰謝料・賠償金の支払い等、お金を失うあらゆる現象が発生する。
     反対にマイナスのお金が増加するのは悪化作用であり、これには二通りある.一つは表面上お金持になる場合で、蓄積されたマイナスのお金には多数の苦しみ。怨み・妬みの念とそれを晴らそうとする復讐の念が集中し毒化するから、所有者自身の精神と肉体の異常化や配偶者と家族の不幸化が発生する。
     具体的には奇病や死病の発生・家族の不良化・実子が不具か廃人・実子が生まれないか死亡によって子孫断絶・刑罰を宝ける・暴力による襲撃等の現象となり、最後にはマイナスのお金の蓄積である遺産も相続税の支払いで激減し、残りは相続者が所有し悪化作用をも受け継ぐのである。
     もう一つは借金の増加による経済の悪化で、この場合は貧乏化して悪化の極限で破産となり、さらに運命までどん底に転落して生命まで失う事もある.借金はお金を生み出さないで借りて使ってしまうのだから、負債の言葉通り純粋なマイナスのお金であり、経済を直接迅速に悪化させる作用がある。借金は金額が多いほど、金利が高いほど悪化作用が大きい。だから実質上の借金は絶無でないと健全な経済ではないから、常に破産の可能性があり危険な状態なのである。
     これを良くするためには不動産や株式等の財産の中で必要のないものは処分して借金を可能な限り減らすようにし、プラスを生まない出費や必要のない買物は絶無にして、利益になる事だけに必要最小限の出費を惜しまないようにすれば、健全化作用によってマイナスが減ってプラスが増えるから経済は永続して良好になるのは当然である。
    借金の中でも、損の穴埋めのため・利息を返済するため・見栄を張るため・税金や罰金を支払うため・節税対策で無理に建設したり、不動産を購入したり、設備投資や事業を拡大したりするため・他人にお金を貸すため・冠婚葬祭のため・贅沢をするため等の利益を生まない借金は最も経済を悪化させ短期間に破産へ誘導する。
     したがって借金は経済の悪化作用であるから不可で、お金は自分の幸福のために最大のプラスになる事へ優先して使うのが合理であり最大の健全化作用である。

    ■批判■
     これもまた、お前が偉そうにいうな!というべき内容だ。
     神世界に集まった金は、詐欺・脅迫によって集めたマイナスの金だ。
     その上、自分は脱税とは関係ありませんと思わせたいような書き方だが、この先とても楽しみだ。
     ここに書いてあるように、是非「適正な利息をつけて返すか、盗金であれば自首か公表して即刻所有者へ利息と慰謝料をつけて返すと共に、罰金等の刑罰を受け」て貰いたい。それだけじゃ全然足りないと思うが・・・。





健康は幸福の絶対条件 (276)

     健康・富裕・円満は幸福の要素であるが、特に健康はすべての幸福の要素を生み出す絶対条件である。
     例えば金銭を豊富に所有して豪奢な生活であっても精神や肉体が病気で苦しいとすれば幸福感は絶無である。
     病気といっても頭脳を含めた体内の各器官における異常だけではなくて、すべての不幸とそれに伴って苦悩する事が病気なのである。
     借金で苦しむのも、不和や闘争で苦しむのも、迫害されて苦しむのも、怪我や災難に遭うのも、運が悪いのも、犯罪を犯すのも、貧乏なのも、すべては病気である。
     そうしてこれらの不幸という病気は、その人間の体内の毒素に比例していて、毒素の量が多いほどそして毒性が強いほど頭脳や体内の各器官はより異常になり、その結果より異常な心・言葉・行動となって、より不幸な運命を自分で誘導してしまうのである。
     この場合苦痛が発生する箇所に毒素が集中していて、この毒素を清浄化して消滅させるべく発生する苦痛である事が多いのだが、毒素が極度に多量で極度に異常化している場合には怪我等によって毒血と毒化した肉片を体外へ除去するような清浄化作用が発生する事もある。
     だから打撲や骨折や動物に咬まれたり、刺されたりする箇所に毒素が集中していて、その苦痛を発生させるだけの異常性があり、その異常性が心と言葉と行動に表れて運命が誘導された結果なのであるから、すべての出来事は偶然ではなくて自分が作ったものである。
     だから体内の毒素を可能な限り消滅する事が病気を解消する事であり、不幸を解消して健康になる事なのである。
     ところが今までの自然界においては人体内の毒素消滅は高熱(39度以上)によって毒素を溶解して体外へ排泄する以外に方法がなかったから、高熱を出せないくらい悪化している場合は毒素消滅はできなかった。
     また高熱を出しても薬で毒素溶解作用を止めようとするため、毒素の量が増加して体内における毒素溶解排泄機能が作動しないほど悪化して重病が激増したのである。そうして現在の人間のように多量の薬を体内に入れて、乳製品や肉類といった動物性の食品を大量に摂取していては、自然界の清浄化作用では肉体の破壊による毒素消滅以外に方法はない事を断言する。
     もし人間が本来の健康を求めるなら私を通じて御霊光を浴び、私の教えを実行して迅速に可能な限り体内の毒素を消滅する事で、毒素が消滅して減るにつれて苦悩も不幸も解消して健康化し幸福化する。
     これから御霊光が強力になり、やがて極限の強さになる時は自然界における清浄化作用も比例して最高度に活発となるから、人間は体内に毒素を入れておく事が許されなくなり、今まで体内に入れた毒素は全部消滅される事になる。
     したがって肉体の破壊による毒素消滅を免れたとしても、体内の毒素という毒素(先祖からの遺伝毒素と生まれてから体に入れた毒素)がすべて一度に溶解し排泄するとすれば、体内の毒素が消滅する過程で肉体は衰弱して耐えられないであろう。
     とすれば最早人間の運命は自然界の清浄化作用によって肉体が滅びるか、御霊光によって今のうちから毒素を消滅してもらって間に合うかどうかという二者択一しかないのである。
     こうして人体内の毒素が消滅して人間が無毒化すると、清浄化作用も日常の老廃物の排泄だけで充分であるから毒素溶解作用による発熱・痛み・痒みは全く発生しなくなり、毒素排泄作用による濃い洟・痰・下痢等の必要も全くないのである。
     これによって人間に苦悩は発生しなくなるから、人類は永遠の健康を実現すると同時に永遠の幸福を実現し、子々係々にわたって私の教えを実行する限りは良い運命だけが永続するのである。
     無毒化して御霊光を浴びている人間は視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感が正常であるから他の動物より優れていて、常に幸福感で充実している。
     性質は健全でより高度な快適さとより高度な美の感覚と芸術能力を求めるようになる。正常な心と言葉と行動によって極楽しい運気が満ちあふれている。肉体も頑健で、他のどんな動物より体力が優れていて長寿であり、老化しにくく百歳でも外見は今の人間の四十歳台から五十歳台くらいで寿命は短かくても二百歳台で普通は三百歳以上である。
     知能は極度に高度だが快適な程度に頭脳を使っているから疲労というものは全く存在しない。また五感や肉体の能力以外の能力が備わっていて神に近い存在である。というよりも人間の進化の極致は神化した人類であるから神人になるのである。
     神人こそ造物主が求める人類であり、神人の世界こそ永遠の幸福が続く神世界であり神の国なのである。

    ■批判■
     「寿命は短かくても二百歳台で普通は三百歳以上である。」
    この一文を読んだだけでも、この教主という人物は本物のアホだということが確信できる。




毒気 (280)

     本体は体内の毒素で、毒気は毒化した所から発生して体外へ発散し伝達される気体で、毒化作用による副産物である。
     毒気は通常は肉眼では見えないが、ガス状・煙状・霧状・電波状・光線状等になって体外へ常に発散し続けていて、それぞれに毒性の強弱と濃淡があり性質がある。
     念の毒気は頭脳で発生して脳天の所から発散し、言葉の毒気は口から煙状になって発散され、病気や怪我や異常のある部分からの毒気はガス状か霧状になって発散されている。
     そして毒気は悪臭と不快成分を含んでいて、汚濁・異常・不快な所に発生し集中し、湿気の多い所でも繁殖しやすく、高濃度になると物質化が促進され毒素になったり病原体になりやすくなる。
     また毒気の発生源と発散する所は怪我や手術をする場所であったり、病原体が侵入し繁殖しやすく毒気と共に病原体をも発散するから、毒素の多い人間や体が衰弱している人間ほど感染しやすいのは勿論である.だから癌患者を手術したり治療する者は癌が感染し、家族の中で癌思者が発生すると同居している家族が次々と感染するもので、癌に限らずあらゆる不連も毒気によって感染し伝達されるのである。重病や不運な人間の使用物・部屋等は毒気が極度に染み込んでいるから、それを貰ったり使用すると同じ病気になったり同様の不運になるのは感染したためなのである。
     だから極度に毒気が多い物は焼却等によって消滅すれば良い。特に人間の遺体は健康で死んだ場合でもすべて超高温で遺骨も灰も残らないように蒸発させるのが最善で、遺体から毒気を発生させないと同時に墓地は不要にする方が良い。
     また人間以外の家畜やペットは自然界に生息する動物よりも汚物・死骸・餌の腐敗からの毒気によって悪臭と病原体を発散させるので、自然消滅するまでに長期間を要する。  そうして人間を異常化させたり、不快感を発生させたり、不幸に誘導したりする教えや書物・映像・音声・機械・製品・光線・放射線・電波・薬物・有毒物質・人間・住居・場所・飲食物等からの毒気は、強い毒性があり広範囲に放出され、人間の五感から簡単に瞬時に吸収され、他の人間へ感染し伝達されやすいから毒気による毒化・悪化・異常化によるマイナス化は甚大である。

    ■批判■
     肉眼では見えないことをいいことに、「毒気は通常は肉眼では見えないが、ガス状・煙状・霧状・電波状・光線状等になって体外へ常に発散し続けていて」などと好き勝手なことを書いている。読めば読むほどアホらしい。
     この作者の書く珍説はことごとく科学的根拠がなく、全て屁理屈だ。学校でこんな論文を書いていたら絶対卒業できないどころか、小学生にも馬鹿にされ、笑われるだろう。この作者は本当に小学校から通いなおした方がいい。




病原体の発生と役割 (282)

     結核菌や赤痢菌や大腸菌等の病原菌・ウイルス・寄生虫等の病原体が自然界や人体内で発生して他の人体に感染し繁殖するのは、人体の清浄化作用を誘発し促進させるためである。
     初期の極超微粒子の病原体は、人体内の毒素で異常化した部分に発生したり、体内に侵入して繁殖したりするが、毒化した血液や体内の水分や肉は膿を発生させ、膿は毒素と毒化した動物性の蛋白質と脂肪でできているから、病原体を成長させ増殖させる食物としては最適である。理想的な餌によって初期の病原体はウイルスに成長したり、病原菌に成長したり、さらにウイルスから悪性細胞に変化して成長したり、あるいは極超微粒子の病原体のままで餌を食べ尽すまで繁殖し続けるのである。
     健全化作用の役目の病原体は毒素溶解・排泄作用を誘発・促進し、高熱によって毒素が溶解すると同時に毒素の毒性は次第に消滅し、毒素溶解作用が完了する時には病原体の役目はほぼ終了しているから、死滅して溶解した毒素は体外へ排泄されその病原体も消滅する。
     しかし毒素溶解作用の時に抗生物質等の薬によって病原体を一時的に死滅させて抑えた場合は、毒素溶解作用も一時的に停止するが体内の毒素は使った薬の分だけは増加し、しかも薬によって体内のプラスの成分が減少したために以前より強い病原体が発生する。そしてその時の毒素溶解作用は以前の時より苦痛が激しくなるが、それは以前の毒素溶解作用を止めるために体内へ入れた薬の毒によって、体内の機能が悪化したり白血球等のプラスの成分が減少したので、毒素溶解作用の際に高熱が発生しなくなり毒素溶解が微弱となってしまうからである。
     その場合には微熱が長く続くだけだから、毒素は毒性が消滅しないどころか毒素が活性化して苦痛を増加させ、病原体も延々と繁殖し続けて体内を悪化させる役目に変化するのである。
     つまり体内が毒化・悪化・異常化するほど、体内を破壊する力が強い病原体が発生したり感染したりするのだが、肉体の病気を誘発・促進させるだけではなくて人間のすべての不幸を誘発・促進させる役目もある。極超微粒子の病原体は毒気と一体であるから人間の念や言葉や息と共に伝染し感染する。だから人間が狂暴になったり、死にたくなったり、犯罪を犯したくなったりするのも頭脳の破壊を誘発・促進させているためである。
     したがって毒気のある所には病原体も存在するので、病気・貧困・闘争等の不幸や苦悩によって毒化・悪化・異常化が発生している所には病原体も発生し感染しているのである。今は病院関係が最も病原体が集中している場所である。

    ■批判■
     作者はウイルスと細胞について大きな思い違いをしている。思い違いというよりも、”よく知らずにいい加減なことを言っている”といった方がいいだろう。
     ウイルスがどんなに細胞を侵しても、ウイルス自身が細胞になることなどあり得ないことだ。
     この、「病原体の発生と役目」と題した文章をなぜここに載せる必要があったかを考えてみると、その意味がわかってくる。
     本来このような本に病原体やウイルスについての記述をする必要などどう考えてもないだろう。この本は医療関係者が読むわけでもないし、細胞学者が読む本でもない。この本を読むのはごく一般的な女性であり、病原体やウイルスについてはあまり知識がない人たちである。
     実はそこに作者のねらいがある。こうしたことについてあまり知識がない人がこれを読めば、「へえー!」と思ってそれを信じてしまう人もいる。
     要はマインド・コントロールのためにこうした人をたぶらかすようないい加減な内容を書いているだけであり、”ウイルス”や、”病原体”などの言葉で人々の心を不安に陥れ、マインド・コントロールを行いやすくするための材料にしているだけだ。
     ”抗生物質などの薬によって病原体を一時的に死滅させ”といっているが、生物学的にも日本語としてのも間違いだ。
     生物学的に言って、”一時的に死滅”などということはなく、死滅というのはそれで生命が終わることをいうのであり、死滅に一時的などということはあり得ない。
     普通に日本語として考えても、それくらいは小学生でもわかることだ。
     きわめつけのバカさ加減満載の文章が、”肉体の病気を誘発・促進させるだけではなくて人間のすべての不幸を誘発・促進させる役目もある”という部分だ。ウイルスが人体に悪い影響を与えるのは誰でも知ってることだが、それがどうして人間の不幸を誘発することとつながるのか。
     まず最初に誰でもが知っている既成事実を数個並べて、”その通りだ”と思わせておき、その次にとんでもないウソをさも本当のことのように修飾して並べることにより、ウソを本当と思わせる詐欺師特有のテクニックだ。

     このような詐欺的手法を多用する神書の作者・教主が書いた一連の文章には、至る所にこうした罠が仕掛けられており、これを読んだ者を神世界の蟻地獄に引きずり込むようになっている。




言葉の毒 (285)

     愚痴・悪口・怒号・不快な言葉・苦悩の言葉は、発する人間の口から音声と一体になった毒気が出るからその言葉を聞くと不快になるのである。
     しかしこのような誰が聞いても不快な言葉については、我慢や忍耐さえしなければ聞かないようにできるし解消できるから、言葉の毒によるマイナス化の発生も限定される。
     永続して増大するマイナスを発生させる根源は、不幸に誘導する言葉である。
     例えば幸福になる方法を不幸になる方法だと言い不幸になる方法を幸福になる方法だと言ったり、真実を嘘と言い嘘を真実と言ったりするので、信じて実行すると確実に損をしたり結果が悪くなるのである。
     「薬と手術で病気が治る」、「世のため人のために奉仕すると幸福になる」、「何事も善意で解釈して他人を信じるのが良い人間だ」、「不幸な人はかわいそうだから救うべきだ」、「お金持と貧乏な人がいるのは不公平だ」、「世の中に悪い人間はいない」、「肉・魚介類・乳製品。卵は栄養があって、沢山飲食すると健康でいられる」等は特に毒性が強い言葉であり、実行するすべての人間が確実に大損し不幸になる言葉である。

    ■批判■
     「薬と手術で病気が治る」
     「世のため人のために奉仕すると幸福になる」
     「何事も善意で解釈して他人を信じるのが良い人間だ」
     「不幸な人はかわいそうだから救うべきだ」
     「お金持と貧乏な人がいるのは不公平だ」
     「世の中に悪い人間はいない」
     「肉・魚介類・乳製品。卵は栄養があって、沢山飲食すると健康でいられる」

     これらが「特に毒性が強い言葉」であるとは、教主が如何に愚かで偏った考えを持った者であることがわかる。(「世の中に悪い人間はいない」というのは教主を見ていれば確かに間違いだ)
     神書こそ「幸福になる方法を不幸になる方法だと言い不幸になる方法を幸福になる方法だと言ったり、真実を嘘と言い嘘を真実」と言ったりするので、信じて実行すると確実に損をしたり結果が悪くなる。
     すなわちお前が発する言葉こそ不幸に誘導する言葉だ。
     「何事も善意で解釈して他人を信じるのが良い人間だ」と言って多くの女性を騙してきたのだろう。人を信ずることは決して悪いことではない。できることならば誰も疑ったりせず、善意に解釈して生きていきたいものだが、教主のような悪人がこの世にいるかぎり、とてもじゃないが、「何事も善意で解釈する」ことなどできない。お前のような人間がこの世からいなくなったらそうしたことも可能になるかもしれない




毒素 (286)

     人間の体にとって不必要なものは異物とされて体の外へ排泄され、体内は常に清浄で正常であるべく機能しているのだが、人間が飲食に適さない異物を体内へ入れると体内の機能が異常化して異物は毒化し毒素となる。
     勿論異物にも弱い毒性から強い毒性のものがあり、体内に異物が入っている間は異物の毒性と量に応じた毒素が時間の経過と共に発生し増加するので苦痛も増大し、人体が耐えられないほどになると生命がなくなるのである。
     猛毒であれば瞬時に生命がなくなるし、微弱な毒であっても長期間多量に体内へ入れれば同じ結果になるのである。
     人体は異物が侵入しにくいようにできていて、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚及び神経によって異物を認識し排除する事ができる。
     特に味覚は飲食物が適しているか、毒性があるかどうかを認識するために「うまい」と「まずい」の判断ができるようになっている。
     飲食に適さないものや毒性のあるものは「にがい」とか「まずい」という不快感があり、飲食に適するものは空腹である時は常に「うまい」という快感があって、毎回飲食しても体内に不快感や苦痛が発生しないのである。
     だからもしも体内に苦痛が発生したとすれば、苦痛発生以前に異物を飲食したか何らかの方法で体内へ入れたという事であるが、現在の人間は異物を多量に体内へ入れために永続して苦痛が発生しているのである。私がこれから説明する異物とは薬の毒素(薬毒)・遺伝毒素・肉類と乳製品等の毒素・尿毒・不快な感情によって発生する毒素・過剰な摂取による毒素・毒化するもので、これらの毒素によって体内に異常が発生し、機能が衰えたり不全となったり苦痛の発生と不運への誘導が発生するのである。
     私は毒素と苦痛の解明・人体内の毒素を消滅する方法を確立したので、人間の苦痛を解消し幸運への誘導が可能なのである。

    ■批判■
     「私がこれから説明する異物とは・・・」というが、この後の項の文章を読んでも、全然説明になっていない。
     この本全体がそうであるが、毒素、薬毒、肉毒、遺伝毒素、尿毒 etc.とはそもそも何なのか、即ちどんなどんな成分で構成されているのか、どんな化学式で表されるのかも一切書かれていない。
     そしていかにもウソっぽい説をならべたてるがその因果関係にも全く根拠が示されていない。
     読み手を納得させる文章には大抵、筋道立った理論展開、定量的な記述、実験結果や具体的事例・証拠があるものだが、それらが一切なく、大変解りにくい。
     作者が解っていないのだから解りやすく書けるわけがない。科学の手法を学んだ人は皆、これを読んでいてストレスを感じるだろう。
     本を書くなら、科学の手法はこの者には無理としても、せめて小学校レベルの理科から勉強し、自分自身がよく調べて理解してからにしてもらいたいものだ。

     「私は毒素と苦痛の解明・人体内の毒素を消滅する方法を確立したので、人間の苦痛を解消し幸運への誘導が可能なのである」というのが本当なら世界中が驚く大ニュースである。
     しかし神書が発行された平成11年からもう何年も経っているが、そんなニュースは微塵も聞かれないどころかインターネット掲示板には病状が悪化するなど不幸な報告が多い。
     こんな大法螺(おおぼら)を吹かれたら、普通は呆れるか、笑うか、頭をスリッパでひっぱたいてあげるかだが、この本は余りにも法螺(ほら)が多すぎて、「ああ、またか」という感じになってきた。
     それとも法螺ではなく、本当に頭が逝っちゃっているのだろうか?




遺伝毒素 (288)

     遺伝毒素は父母両方から子へ受け継がれる。父の体内の毒素は精子へ、母の体内の毒素は卵子へ遺伝され、受胎後は母体の毒素を約10か月間胎児は吸収する。
     このように両親の毒素が遺伝毒素となって子の体内へ入るのだが、この両親もまたそれぞれの両親から先天的に遺伝毒素を受け継いでいて、さらにその上に生まれてからの後天的な毒素を体内に入れて、毒素の量を増加させ毒性を強くしてから次の世代の自分の子の体内へ遺伝毒素が入るのだから、通常は子孫に至るほど遺伝毒素の毒性が強く量も多いので異常化は促進されるのである。
     それで肉体の極限を越えるほどの遺伝毒素を体内へ吸収した胎児は、その毒素による肉体の膿化・溶解・破壊が発生して流産か死産になる場合が多いが、万が一生きて生まれたとしても先天的奇形・不具・不全・廃疾の状態か、生命力がなくて短命かである。
     また肉体破壊がなくて生まれても時間・年月の経過と共に遺伝毒素の溶解排泄作用が発生し苦痛を伴う症状になる。幼児期では麻疹・百日咳・水痘(水疱瘡)・おできが最も多く、高熱・発疹・咳・濃い洟・濃い痰・排膿によって体内の遺伝毒素が楽に排泄されるから肉体の衰弱もほとんどなく、毒素が減った分は以前より健康になるが、これは天然痘が変化したものである。

    ■批判■
     天然痘が麻疹・百日咳・水痘に変化すると言っているのだろうか?それとも高熱・発疹・咳・濃い洟・濃い痰・排膿に変化すると言っているのだろうか?いかにも根拠のないデタラメな文であるが、デタラメかどうかを論ずる前に日本語が変。もう少し国語を勉強した方がいい。

     父母・祖父母を含めた先祖からの漢方薬の遺伝毒素は天然痘あるいは天然痘系の症状になり、漢方薬の遺伝毒素が極度に大量で毒性が強いとライ病・結核・カリエス等が発生するが、肉体の膿化と破壊の速度が毒素消減による健全化の速度をはるかに上まわるために骨や体の変形・肉の溶解・不具・不全・廃疾になる。漢方薬は古来より飲料水かお茶の代りに飲まれてきたため遺伝毒素は漢方薬の毒素がほとんどであったが、最近では化学合成の新薬や動物性食品の毒素等が激増したから遺伝毒素の毒性は短期間に強烈且つ悪質になったために、毒素による年月をかけた膿化だけではなくて癌・膠原病・肉腫等の悪性腫瘍や悪性細胞となって子係に遺伝し短期間に肉体は破壊されるのである。

    ■批判■
     「漢方薬の遺伝毒素は天然痘あるいは天然痘系の症状になる」、
     「漢方薬の遺伝毒素が極度に大量で毒性が強いとライ病・結核・カリエス等が発生する」
     「癌・膠原病・肉腫等の悪性腫瘍や悪性細胞となって子係に遺伝し短期間に肉体は破壊されるのである。」

     なんじゃこりゃ!?
     天然痘やライ病・結核・カリエスというのは伝染病である。
     しかも天然痘ウィルスは絶滅しているといってよい。
     「漢方薬の遺伝毒素」とは一体何なのか?それがどうつながってこれらの伝染病になるのか?
     最初に読んだときは非常に違和感のある文であったが、作者はこれらの病気が伝染病であることを知らないのだろうと仮定して読んでみると、その違和感の謎が解けたような気がする。
     癌そのものが遺伝するのではなく、癌になりやすい体質が遺伝するというのはよく聞く話だが、「悪性腫瘍や悪性細胞となって子孫に遺伝し」と表現しているということは、おそらく作者は悪性腫瘍・悪性細胞そのものが遺伝するというわけのわからない誤解をしているのだろう(笑)。


     また悪性腫瘍が発生しなくても、生まれたばかりの乳児の体内には遺伝毒素のしこりが多く、血管や神経等を圧迫しているために首・肩が凝っていたり、極度の首・肩凝りのために眠れず夜泣きがひどかったり、頭脳内が貧血状態になって吐いたり等の症状が多いが、これは大人も赤ちゃんも同様である。
     特に最近では母親が妊娠中に牛乳や乳製品を大量に飲食するために、それが遺伝毒素となって胎児の体内の至る所にしこりや結石ができて、生まれてから機能不全になったり先天的に重病や難病になる場合が激増している。そのため近い将来には乳幼児の大多数が被害者になるのである。
     だから生まれた子が健康であるためには先ず遺伝毒素が可能な限り少ない事で、それには父母になる者はできるだけ若年から体内に毒素を入れないようにすべきだが、そのためには私の教えを受け入れなければ不可能である。
     また生まれてから乳幼児期に特に遺伝毒素の溶解排泄作用が活発であれば良好で、体内の毒素が減るにつれて正常に成長し機能も活発になって健全化するのである。
     だから幼児期までには麻疹・百日咳・水痘(水疱瘡)が発生したり、高熱が発生して濃い洟や痰の排泄があり溶解毒素が下痢や濃い尿や発汗となったり、発疹や腫れものと共に皮膚から排膿したりという状態であれば、体内の毒素溶解排泄機能は正常に作動しているから遺伝毒素は順調に減少し解消されつつあり、新たに毒素を体内に入れない限り健康は増進するのである。
     しかし幼児期までに毒素の溶解排泄が全然発生しないとすると、体内の毒素が絶無(現在では絶対に不可能)か体内の毒作用によって毒素溶解排泄機能が全然作動しないほど重症かのどちらかであるが、毒素が絶無である筈がないから重症で生命力が極度に不足していて危険な状態なのである。  このような子は健康そうに見えても突然急変し悪化するもので、遺伝毒素排泄が全然ない場合は近い将来突然重症な喘息・高熱の出ない悪質な肺炎・呼吸器病の発作が頻発して、これを薬で一時的に抑えると心臓・脳が冒され急死する。
     あるいは成長してから血液病・悪性重難病になる。
     だから乳幼児の予防接種によって麻疹・百日咳・水痘(水疱瘡)の発生を阻止して遺伝毒素の溶解排泄をさせないとすれば例外なく私の言う通りに急変悪化するのである。
     したがって遺伝毒素を減少させるには父母になる人間が体内に毒素を入れないようにして生まれた子の毒素溶解排泄作用を阻止しないのは当然で、その上でさらに可能な限り神様の御霊光を浴びる事によって、体内の毒素溶解排泄作用は活発になり迅速に毒素は減少し、やがては無毒化した子が子々孫々にわたって生まれ永遠の健康になるのである。

    ■批判■
     これもまた子供の健康を願う母親の気持ちにつけこんで、根拠のない嘘八百ををならべて脅して不安にさせ、カルトに引きずり込もうとする魂胆丸見えだ。
     命に関わるような高熱を肯定し、薬を否定し、予防接種すると「例外なく私の言う通りに急変悪化するのである。」と言い切っているが、信者さんが本当にこれらを信じて命を落としたらお前は人殺しだ。
     一歩間違うと大事故が起こりかねない大変危険で罪深い文章だ。
     いや、もうすでに大事故が起こっていてもおかしくない。  こら、教主! 一刻の猶予もまかりならんぞ。今すぐに罪を認めて信者さんに謝罪しろ!





尿毒 (293)

     腎臓の機能が弱くなり低下すると尿の量も回数も減少し、たとえ尿が排泄されても血液中の老廃物・毒素等の汚濁成分が充分に排泄されない。
     そうすると本来体の外へ排泄されるべき尿や汚濁成分が体内へ放出され尿毒となる。
     尿毒は先ず腎臓部に集中し毒素のしこりとなって腎臓を外側から圧迫して機能を悪化させ、尿の量が減少するとその尿毒によって主に腰・腎臓部・背面という順に「凝り」による圧迫のため常に重苦しく感じるようになり、さらに首・肩の凝りとそれに伴う頭重や頭痛を引き起す。
     そうして極度の首・肩の凝りが固結して頭脳への血管を圧迫すると首から上が貧血状態となり目眩・吐き気・不眠・憂鬱・精神異常を発生させる。

     また眼が重苦しくなったリショボショボして涙がいつも出たり鼻炎状態になったりする事も多く、アレルギー性鼻炎とか花粉症とかいっているが尿毒が原因なのは勿論である。
     また尿毒による肥満も多く、身体の一部分、特に腹部周辺あるいは全身に及ぶ。そして尿毒が固結して結石になるが最近は牛乳の成分が尿に多く含まれて、それが体内に結石や毒素のしこりを発生させる場合が激増している。
     それから痴呆症・高血圧・歯槽膿漏・咽喉の異物感・肺や心臓や関節に水(尿毒)が溜る・関節が腫れる・肺炎・腹膜炎・常に咳が出る・膀胱炎・残尿感・腹部とその周辺が出っ張っている・浮腫等、尿毒は全身に及び、極度に腎臓機能が悪化すると腎臓病から腎不全となり尿毒で全身が満杯になって尿毒症になるのである。
     このように腎臓の機能が低下し悪化する原因は排尿の我慢と薬の毒素・肉毒・遺伝毒素等の毒作用と打撲等による破損である。
     したがって腎臓の機能が活発になると尿毒は発生しないし、体内に溜っている尿毒も対外へ排泄されるがこの場合は多量の濃い尿となって排泄されるか、固結している尿毒は発熱によって液体化し、下痢・濃い洟や痰・汗・濃い尿等で排泄されるのである。
     それで迅速に機能を活発にするには私の所で神様の御霊光を体内に浴びるのが一番である。

    ■批判■
     「尿毒」が腎臓の近辺を圧迫してその後肩の凝りに及んだり、歯槽膿漏にも結び付けているなどの記述は、次の岡田茂吉の「三毒」の一部によく似ている。

     次に尿毒とは、腎臓の機能的活動の鈍化に因る余剰尿を言うのである。
     それは如何なる訳かというと、元来医学に於ても唱える如く腎臓機能は尿の処理とホルモンの生産である。
     即ち飲食物中の不必要分が糞尿となって排泄せられる場合、曩に述べた如く異物は全部が排泄不能であるから、それが腎臓内部より外部へ滲透し、其の附近に累積固結する、其の固結が腎臓を圧迫する結果萎縮腎となり、余剰尿を生じ漸次脊柱の両側より肩部へかけて溜積固結する。
     それが背や肩の凝りである。次いで延髄部、淋巴腺、耳下腺、扁桃腺部等に移行する。
     故に歯槽膿漏は、之等尿毒が歯根より排泄せられんとする為の病気であるから、此病気は尿が腐敗して口内から排泄さるる訳である。
     此原因を知るに於て、その不潔なるに顰蹙するであろう。斯の如く尿毒は万病の原因になるといっても可いのである。
    「三毒」(昭和22.2.5天国の福音より)

     また いきなり
    ●「アレルギー性鼻炎とか花粉症とかいっているが尿毒が原因なのは勿論である。」
    ●「腎臓の機能が低下し悪化する原因は排尿の我慢と薬の毒素・肉毒・遺伝毒素等の毒作用と打撲等による破損である。」
     などと書いているが、
     アレルギー性鼻炎というのはその名の通りアレルギー性の疾患だ。
     花粉症もまたアレルギー性の疾患といわれている。
     尿毒というわけのわからんものが原因なのがなぜ「勿論」なのか全く説明がない。
     「肥満を解消する」の項でも、小便を我慢して体内に放尿されるといったり、肩こりの原因は様々であることが世間の常識であるにも関わらず全く無視したりしているのも論外であるが、腎臓の機能の低下と打撲等による破損とどんな因果関係があるのか全く説明がない。
     おい、教主、ちゃんと説明しろ!
     まあ、パクってばかりでお前がわかってないから説明できるわけないか。
     説明できないなら何の根拠もないバカ丸出しのひどい文だといわれても仕方なかろう。




薬の毒素(薬害) (295)

     薬には古来からの漢方薬と化学合成によって作った抗生物質やホルモン剤等の新楽があり、これらは自然界に存在する生物・植物・鉱物等の中に含まれている毒の成分を抽出した物を原料としていて、毒性が強い物は毒薬といい、毒性が弱い物は薬といって生きた人間の肉体の中に入れるのである。  それらが人体内に入った場合には毒性が強いと即時に苦痛が発生して生命の危険となり、毒性が強くなければ発生する苦痛も激しくなく、すぐには死亡しないという訳で薬として使っているのだが毒そのものである事には変りない。
     毒性が弱くても長期間使用して多量に人体内へ蓄積されれば生命の危険となるのは勿論である。  薬を使うのは苦痛を感じた時であろうが、苦痛が発生する原因は苦痛発生以前に体内へ入れた何等かの毒素あるいは異物であるから、苦痛を解消するには体内の苦痛の原因となっている物を体の外へ排泄しなければ治る訳がないに決まっている。
     それを一時的に苦痛が緩和(解消するのではない)するからといって薬と称する毒を体内へ入れれば、今度は薬を使う前に体内にあった毒素に使った薬の毒が加算されるから体内の毒素の量が増え、毒素の量が増えたという事は苦痛の原因が増えたという事になり、次の苦痛は薬を使用する前の苦痛より激しくなり悪化するのは当然で、それをまた一時的に苦痛を止めるだけのために再び薬を体内に入れ再び苦痛が発生する時にはさらに激しい苦痛になり、という事を繰り返しているうちに使用する薬の量も次第に増加して苦痛の発生も頻繁になり、苦痛の性質も激烈になり悪質になるのである。
     このように薬の毒素は一時的に苦痛を緩和させる効果があるために薬の使用が習慣となり、それと同時に体内へ蓄積される薬の毒素が増量するために苦痛も増加するので、結局は薬がないといられない状態になり中毒化する。
     そして最後は廃人か死に至るのだから麻薬や毒薬を使用したのと全く同じ結果になるのである。
     勿論人間の体内には侵入した病原菌や異物や毒素を対外へ排泄する機能はあるのだが、薬等の毒素は毒性を有するために体内の各所に異常を発生させる。
     異常は苦痛であるから毒素が排泄されるまでには、毒性の強さによっては激しい苦痛に耐えられないで薬を使ってしまうのである。
     たとえ苦痛に耐えてある程度毒素が排泄されても完全には無毒にならない。
     それは薬の毒素が体内へ入ると血液に混入して血液を極度に汚濁させ、その汚濁を清浄化しようとして血液中の白血球類が吸収するのだが、薬の毒素は消化できないから消滅させられないので吸収できるだけ吸収して白血球類は死減する。あるいは毒性の強さによっては白血球類は短時間で大量に死減する。
     この毒によって死滅した白血球類は膿になって体内へ蓄積され人体各所に集中する。
     血管の内外・各器官・頭脳や内臓・骨の内外・肉といった全身どこへでも集中して異常化させる。
     また血液と共に腎臓へ運ばれるが薬の毒素は完全には尿で排泄されずに腎臓部へ残ってしまい腎臓の機能を低下させる。薬等の毒素の量が多いほど、毒性が強いほど腎臓の機能は悪化する。
     そのため機能が悪化した分だけは毒素の排泄量が減少し、尿を排泄する機能も悪化するため体外へ排泄されるべき尿が充分には排泄されずに体内へ尿毒となって溜り、これも人体各所に運ばれて蓄積され苦痛を発生させるのである。
     また薬の毒素自体の毒作用が直接全身各所の機能を異常化させる。
     麻薬は極端な例であるが、麻薬類の毒作用によって先ず直接頭脳が異常化して幻覚・幻聴・強迫観念・不安感・操鬱感・不眠・興奮・孤独感・無気力等の苦痛が発生するが、苦痛から一時的に免れようとして再び麻薬を使う事になり習慣となって中毒となり、頭脳は多量の麻薬の毒素によって極度に異常化して結局は精神病になって発狂するか凶暴化して殺傷事件を起すようになる。
     助かっても最後は頭脳・内臓・各器官は毒作用によって破壊されて廃人である。
     これは麻薬についてであるが、全部の薬は麻薬と同じ性質があり、毒性の強弱と量で異常化の遅速があるというだけで、習慣になって中毒化すれば麻薬中毒と全く同じ様に頭脳は勿論、心臓・肝臓・腎臓の主要器常の異常化と破壊と機能不全につながるのである。
     よく使用される薬はというと、頭痛・腹痛・生理痛・腰痛・関節痛・歯痛等の痛み止めの薬、血圧を下げる薬、精神安定剤、睡眠薬、各種の発作を抑える薬、胃腸の消化を促進する薬、アトビー性皮膚炎の薬、アレルギー性鼻炎の薬、血糖値を下げる薬、気休めの目薬、便秘薬、貧血の薬、利尿剤等で一時的な効果で病気(異常化)が解消したのではないから、薬を止めると苦痛が起きるため習慣で毎日毎回使用するようになり、今度は使用した薬の毒素が増加した分は確実に病気は重症化して使用する薬の量が増加するから毒性の強い薬でないと効かなくなり中毒化する。
     このようにして薬の毒素が体内に多量に蓄積されるほど、また毒性が強まるほど薬の毒作用による肉体の膿化は促進され肉も骨も溶解し始める。胃腸等の内臓に潰場ができてこれが重症化して肉がくずれて穴が開いたり、肺等に空洞ができたり、脳や内臓や各所が萎縮して小さくなったり、骨がスカスカになったり、生きたまま人体の一部分及び全部が膿化したり腐ったりして、変形または脱落するというのはすべて毒の作用である。昔ではライ病・カリエス・結核・天然痘・軽症ではおできで、これによって排泄される多量の膿は漢方薬の毒素であり、この漢方薬の毒素は本人が服用した物だけではなくて父母・祖父母・先祖が服用した漢方薬の毒素が遺伝によって子孫に受け継がれるのである。
    小児病の麻疹・水痘(水疱瘡)百日咳等も先祖からの漢方薬の毒素が原因であるが、毒素の量も毒性も生命にかかわるほどではないが、これを予防接種によって体外へ出さないようにすると生命にかかわる状態になるのである。それは遺伝毒素を体内へ入れたままにした上で新たに体内へ入れた予防接種の毒性が強いためで、時間の経過と共に脳・心臓・血液・主要器官の異常化が発生するのである。
     昔から服用する漢方薬はドクダミ・ゲンノショウコ・センナ・大黄・朝鮮人参等を煎じて毒の成分を使うのだが、毒性は化学合成の新薬よりは弱いが体内へ入れる毒素の量は多い。
     漢方薬は水やお茶の代りに毎日何回も多量に飲むから、毒性が弱くても半年も飲み続けると大量の漢方薬の毒素が体内に蓄積されて、肉や骨に時問をかけてたっぷり薬の毒素が染み込んでいるから、年月が経過するほど毒による悪化作用が激しく執幼になり膿化しやすくなるので、幼児期に飲んだ漢方薬の毒素によって成人後に重症の苦痛が発生したり、親が子供の時に飲んだ漢方薬の毒素によって生まれた自分の子が何年か成長して重難病になる事が多い。

    ■批判■
     このあたりは岡田茂吉の「恐るべき漢方薬」のパクリだろう。

    恐るべき漢方薬
     吾々が一般の人に薬毒の恐ろしさを話す場合、聞く方の人は薬毒は西洋の薬に限るように思っており、漢方薬は殆ど薬とは思わないくらいであるが、これは大変な誤りである。
     というのは寧ろ薬毒は漢方薬の方が多い位である。成程薬そのものとしては洋薬よりも弱いが、何しろ漢薬の方は量が頗る多い。
     昔から漢薬は土瓶に一杯煎じて、持薬として毎日飲むどころか、お茶の代りに服む人さえあるのだから、洋薬の何十、何百倍にも上るであろう。
     そうして漢薬の種類も相当あり、中でも私の経験によればゲンノショウコが一番の猛毒で、この薬を沢山飲んだ人は、浄化の場合実に執拗で、除っても除っても後から溜ってくるので、衰弱死に至る、実に恐ろしいものである。
     次はドクダミも中々毒が強く、先ずこの二つを多く飲んだ人は、余程注意しなければならない。
    栄光207号(昭和28.5.6)



     特にライ病は毒性が割と強くて大量の漢方薬を何世代にもわたって飲んだ結果子孫に発生するのである。
     現在多量の膿を発生する昔の病気がなくなったのは昔より漢方薬を飲まなくなったからで、その代り化学合成による新薬を使うから毒性は漢方薬よりはるかに強烈で、副作用と称する毒作用によって短期間少量の使用で主要器官の異常化と機能不全あるいは死亡する場合もある。
     癌・膠原病に使用する抗癌剤・副腎皮質ホルモン剤の毒性は、激しい脱毛・食欲不振・全身の浮腫を発生させて機能を悪化させるほど強いので、結果は余分に苦痛を与えて死期を早めるだけである。  そうして薬を中心とするあらゆる毒素は人間に適した飲食物ではないから、人体が完全に無毒で健康であれば毒素排泄機能も正常且つ活発に作動して短時間で排泄されるだろうが、血液中に混入したり肉の中に浸透した毒素は完全には除去できずに体内に残存するのでその分は機能が低下する。
     その残存した毒素がいくら少量で毒性が弱くても体内に異常を発生させ膿化が発生する。
     それで残存した毒素と膿とは一体で、これが毒素のしこりとなって固結する。
     固結した毒素のしこりは血管・神経・各器官を含めた肉・骨といった至る所で発生し、発生した周囲を圧迫するから圧迫された所は血液の循環が悪くなって鬱血してしまう。
     鬱血した血液は毒血となって重苦しく感じるようになる。また毒素のしこりがある程度にまで増大すると、毒素排泄機能が活発ならば毒素のしこりを溶解排泄する作用が体内に発生する。
     これを毒素溶解排泄作用というが、発熱によって毒素は液体化して膿が体外へ排泄される。
     具体的には風邪をひいて高熱(39度以上)が発生して膿は濃い洟・痰・尿・下痢・汗等で排泄されるか、おでき状の腫れものになって膿が排泄されるか、皮膚から湿疹の状態で排泄されるのだが、人体の機能だけでは無毒にはできないから毒素は残存して膿化が発生し、またある程度を超えて毒素の固結によるしこりが増大して体内の毒素溶解排泄作用が作動するという事を繰り返すのである。
     さらに親が毒素を体内に入れてから生まれた子には全員同様の毒素が受け継がれて毒化作用と毒素溶解排泄作用を繰り返すのだから、今までは父母・祖父母・先祖と同じ病気が受け継がれ、異常性が解消されずに運命や性格の異常まで永続してしまったのである。
     それで人間は代々にわたって同様の凶運・同様の病気が発生するから、何かの崇りだとか霊作用だとかが原因ではないかと勘違いをして、御祓や供養をしたのだろうが結果は依然として凶運や病気を解消できないでいる。
     そのため今までの宗教では世のため人のため神様のために尽して奉仕すれば善行となって、死んでから天国や極楽へ行けるとか、生れ変って幸福になれるとか実体のない間違った教えを信じさせたのだが、体内の毒素がすべての不幸の原因だという事を知らなかったのである。

    ■批判■
     思いっきり霊感商法をやっていながら、「何かの崇りだとか霊作用だとかが原因ではないかと勘違いをして、御祓や供養をしたのだろうが結果は依然として凶運や病気を解消できないでいる。」とは厚顔無恥も甚だしい。
     体内の毒素が全ての不幸の原因というなら、お前のところでやっている高額な御祓や御祈願は無意味で効果がないということだ。
     言っていることとやっていることが全く矛盾している。勘違いをしているのはお前の方だ。


     そうして現在の人間の体内には先祖代々からの遺伝毒素及び生まれてからの薬の毒素を中心として、動物性飲食物の毒素・尿毒等のあらゆる毒素が多量に蓄積されているので、体内の毒素排泄機能が正常に作動されず、機能も体内の毒素の量と毒性の強さが増すほど低下し衰弱するから、体内は悪化していても異常を知らせる機能も低下し鈍感になっている。
     だから体内の毒素による異常が極限にならないと感じないほどに悪化しているから、生命が危険な状態にならないとわからないのである。
     体内の毒素排泄機能が作動していると、一年に一回か二回は風邪をひいて高熱を出し、高熱によって溶解した毒素は濃い洟・痰・尿・汗・下痢になって体外へ排泄されるので、新たに毒素を体内に入れない限りは毒素が減って機能が活発になり、その分健康は増進する。
     何年も風邪をひいた事がないというのは毒素排泄が風邪以外の何等かの状態で行われているか、毒素排泄機能が極度に低下して重症になっているかのどちらかである。
     だが毒素排泄機能によって風邪をひく事ができたとしても、体内の毒化作用による異常化(病的苦痛)を解消するほどの威力はないので、苦痛が発生すれば我慢し続けるか薬を体内に入れるかのどちらか以外に普通では手段がないのが現在までの人間の状態であった。

    ■批判■
     この項全体も教主さんが理解して書いているかどうかわからない説のオンパレードなので、教主さんに宿題をだしてみよう。

    ●「薬の毒素が体内に蓄積される」というがその成分は何か?またその証拠をあげよ。どんな理でそのようになるのか?
    ●胃腸等の内臓に潰場ができてこれが重症化して肉がくずれて穴が開いたり、肺等に空洞ができたり、脳や内臓や各所が萎縮して小さくなったり、骨がスカスカになったり、生きたまま人体の一部分及び全部が膿化したり腐ったりして、変形または脱落するというのはすべて毒の作用である。」その証拠をあげよ。
    ●「排泄される多量の膿は漢方薬の毒素」である根拠を述べよ。
    ●「父母・祖父母・先祖が服用した漢方薬の毒素が遺伝によって子孫に受け継がれる」というがその証拠をあげよ。
    ●「小児病の麻疹・水痘(水疱瘡)百日咳等も先祖からの漢方薬の毒素が原因である」証拠をあげよ。

     冒頭だけでも、よくわからない記述がこんなにあり、全て書ききれないのでこれでやめておこう。  答えはまずかえってこないだろうし、かえってきても0点だろう。
     何も知らないくせに、くどくどと何度もしつこくわけのわからないことを書いてしまうのは、自分の頭が整理できていないからである。

     多くの人が病気から救われているのは、医学や薬学、医療技術の進歩が大きく関与しているのは間違いない。岡田茂吉の薬を排除する考えが世の中に普及していかないのは、それを皆が受け入れたら早死にする人が後を絶たないからであろうが、この作者はそれを考えたことがないのだろう。
     教主のような悪党が重病になったとき、薬を使わないで勝手に早死にするのは大変喜ばしいことなのだが、早死にするのは自分だけにしてもらいたい。
     こんなのを教義として人に説くなどもってのほかである。
     「抗癌剤・副腎皮質ホルモン剤の毒性は、余分に苦痛を与えて死期を早めるだけである。」という旨の記述があるが、インターネット掲示板には薬をのまないで癌を再発させた人がいる。もしかしてすでに犠牲者が出ているかもしれない。
     この神書の教えを信じたために犠牲者が出ているととするならば、このようなデタラメな内容を不特定多数に告知する行為は、平成3年6月28日付けで厚生省健康政策局医事課長名で各都道府県衛生担当部(局)長宛に出された、「医業類似行為に対する取扱について」の中にある、『適切な医療受療の遅延防止』に該当する行為だ。

     ところが今、人間の体内の毒化作用とそれによる異常化を短期間で迅速に解消する事が私によって可能になったのである。
     この方法は今までのような医療は全然加えないから薬等の毒素・異物を体内に入れる事は全くなく、注射も手術も一切の物理的な力を加える事も全く必要なく、その他の人間力による治療は一切加えず、人間力を使ってはいけないのが特徴である。
     これは大宇宙を含めた自然界のすべてを創造し運営している無限絶対の存在から発せられ私に伝達されるエネルギーともいうべき力であり、私はこれを御霊光といっているのだが観音力あるいは絶対力と同じ意味である。
     この御霊光はすべてのマイナスをプラスに変える作用があるから、人体内へ入ると毒素を消滅させて異常化による苦痛を迅速に解消するのである。今人類は私によって永遠の無病と健康を実現する事が可能になったのである。

    ■批判■
     もしもーし、教主さん、頭大丈夫かい!?
     「今人類は私によって永遠の無病と健康を実現する事が可能になったのである。」なんて本気で言っているなら、やばいのを通り越して恍惚の人になってしまっているようだ。
     教主さんの側近やお知り合いの方がいたら、今すぐに精神科の病院に連れて行ってあげた方がいい。しかし、もはや手遅れかな・・?




予防注射の害 (305)

     乳幼児の予防注射をよく実施しているが、これは乳幼児の健康を害し寿命を短くしてしまうのである。
     人間が誕生するとその瞬問から必要な飲食物を体内へ取り入れ、不必要な老廃物や体内の毒素を排泄する作用が始まる。
     生まれたばかりの赤ちゃんであっても毒素はかなりある。
     この場合の毒素とは両親及び先祖からの遺伝毒素で、両親の体内に薬等の毒素が多ければ新生児にも相当量の毒素が遺伝している。
     そして生まれてから月日が経過するにつれて体内の毒素を排泄するための清浄化作用が発生する。麻疹・水疱瘡等はその代表的な症状である。
     これによって一時的には苦しむが遺伝毒素がかなり排泄され減少するので、その後は非常に健康な体になるのである。
     しかしこの事を知らない一般の人は、予防注射によって麻疹・水庖盾等を薬で抑え毒素排泄を止めてしまうので、乳幼児の体内には毒素が次第に増加し以前より一層激しい毒素排泄作用が発生する事になる。
     それは発熱・下痢・嘔吐・咳を伴い肺炎になる場合が多い。
     しかし、またこれらの毒素排泄作用を薬で止めてしまうのでさらに一層毒素が増加し、以前と同じ事をまた繰り返すため実に不健康な子供になるのである。
     それで薬によってがっちりと毒素を固めてしまった場合には内臓や脳に大量の毒素が固結するので重症の頭痛・神経症・短気・無気力・慢性の胃腸病・喘息・食欲不振といった極度の虚弱体質になってしまうのである。
     このように遺伝毒素や生まれてからの薬毒等によって次第に重症・難症の病気に発展し、短命になるのである。
     したがって子供の心と体と運命を健全にしたいなら神様の御霊光によって発熱(高熱)・下痢・濃い洟や痰等の毒素排泄を繰り返す事であり、体内の毒素が減少した分は確実に心と体と運命も健全になっているのである。
     予防注射によって遺伝毒素の溶解・排泄作用を停止させただけでも確実に重症・難症の病気となり、確実に極短命になるのであり、この運命は絶対に人間力では止められない。

    ■批判■
     乳幼児の予防注射(予防接種)は厚生労働省がすすめているものであるが、こんなブザマな屁理屈で厚生労働省に逆らうとはいい度胸だ。
     世間では、予防接種の有効性・安全性について疑問視する意見がないでもない。
     しかし、その意見とは、予防しようとする病気の危険性・流行の程度、予防接種の効果の度合い・副作用の程度などについて科学的な考察を加えたものであり、このバカ者が言うところの「毒素排泄を止める」という説得力のない説明によって否定するのとは全く次元が異なる。
     この作者は、予防接種によって麻疹・水疱瘡などを「薬で抑えている」、「薬でがっちりと毒素を固める」と表現しているが、正確にはウィルスや細菌などが作り出す毒素の力を弱めてワクチンをつくり、それを体に接種して軽い病気にかけ、その病気に対する抵抗力(免疫)をつくることである。
     この表現をみた感じでは作者は、そもそも予防接種とは何かさえも全く理解してはいない。
     理解していないくせに、偉そうに口を出すな! まして完全否定するなど言語道断。
     予防接種を受けないことによって、取り返しのつかないことが起こる可能性もある。
     これも厚生労働省に知らせてあげたい内容だが、知らせても余りにも馬鹿らしくて相手にしてくれない可能性大なのが腹立たしい。
     しかし正義は我等にあり。いつまでもゴキブリのようにコソコソと逃げ回れると思うなよ。

    (参考文献)「予防接種へ行く前に 受けるこどもの側にたって」
    (ワクチントーク全国・「予防接種と子どもの健康」攻略本編集委員会編)




髪染めとパーマの薬毒 (307)

     今日、男性も女性も髪を染めパーマをかけるようだが、これらの薬毒は体内に吸収され健康を害する原因になるのである。
     髪染めやパーマは髪の毛だけに薬を付けるので体内への影響はないと思っている人が多いだろうが、髪の毛は常に呼吸していて、体内の栄養が先端にまで届くのであるから髪の毛は体内と流通している事が良くわかる。
     したがって髪の毛に付着したこれらの薬毒は、体内へ浸透し溜って蓄積してしまう。
     溜る箇所は、頭部全体・眼・血管・肺・肝臓・膵臓が多く、重病人のほとんどが髪染めやパーマの薬を長年月使用して、最終的には思い肝臓病になるものである。
     最も多い症状は、髪染めやパーマの薬毒がまず目におりてきて目がショボショボして、頭の皮膚がピリピリしてくる。
     次にアレルギー性鼻炎のようになり、原因不明の咳がでて、喉がいがらっぼくなったり、吐き気がしてむかむかしてくる。
     そして次第に喘息や肺炎のようになっていくのである。これは髪染めやパーマの薬毒が頭部全体に集結し、ある程度溜ると今度は次第に下降し始めて喉を通過し肺へ多量に溜り、これがまたある程度の量になると自然に毒素溶解作用が発生する。
     この場合、必ず発熱・咳・痰・食欲不振となり医師は肺炎と診断するが、普通の肺炎と異なり髪染めやパーマの薬毒による毒素溶解の場合は、一時的に薬で解熟しても二、三日後にはまた直ぐに発熱し肺炎となる。
     そうしてこれを繰り返すうちに次第に肉体が衰弱し危険な状態になる。
     なぜ普通の肺炎と異なり解熱しないのかというと、髪染めやパーマの薬毒がいつも髪の毛・頭部に付着あるいは浸透しているから常に頭から肺へ流れ込んでいるので、肺炎の源は肺ではなくて髪の毛と頭に浸透している髪染めやパーマの薬毒であるからなかなか解熱しないのである。
     この場合髪染めやパーマの薬毒がすっかり頭部から消滅して清浄化しなければ解熱して治らないから、痰によって実毒を排泄するより他に手段がない。
     そのため衰弱して死亡するのだが、肺炎以外では肝臓癌になることも多い「それは髪染めやパーマの薬毒が体内や血液中に浸透し肝臓へ集中するからで、長年月集中し固結する結果癌の発生となるのである。
     また血管がもろくなって脳梗塞・心筋梗塞となり、脳溢血・心臓麻痺になる事も多い。
     以上のように髪染めやパーマの薬毒が人体に及ぼす影響は甚大で、解消できるのは神様の御霊光である。
     御霊光によって嘔吐したり、下痢したりする際には髪染めやパーマの薬の臭いがする場合も多く、一時的苦痛は発生してもその後はとても体が楽になり、確実に薬毒は体外へ排泄されるのである。
     だから健康であるためには毒性のある髪染めやパーマを今すぐに廃止し、一刻も速く薬毒を体外へ排泄・消滅する事である。

    ■批判■
     確かヒーリングサロン告発掲示板に
     教主の義母にあたる○龍さんは、髪の毛を真っ黒毛に染めてるとかなんとか
    という書き込みがあったような・・・。

     髪染めやパーマの薬液は体に良くなさそうなのはわかるが、
     ●衰弱して死亡する
     ●肝臓癌になることが多い
     ●血管がもろくなって脳梗塞・心筋梗塞となり、脳溢血・心臓麻痺になる事も多い
    と、直ちに重い症状に直結するような言い方であるがその証拠が示してみよ。

     必要以上の断定的主張で客の不安を煽り、客を怯えさせて金をださせようとしているのがみえみえだ。
     これを見ている教主! お前を信じている信者さんのためにも少しは反論してみろ!
     サロン(教団)の最高権力者がこんな情けない有様では、客(信者)がどんどん離れていくのも肯ける。




肉毒 (310)

     鳥・獣・魚介類等あらゆる生物の肉・血液・骨あるいは卵や卵製品・乳や乳製品等の動物性飲食物は、乳児が飲む母乳以外は人間の食物には適していないから体内ヘ入れると毒化して血液を極度に汚濁させ、機能の異常と苦痛を発生させる原因となる。
     このような動物性飲食物の毒素を肉毒という。肉毒の成分は動物性の脂肪・蛋白質・膠・コレステロール等といわれているもので、体内で消化され大便や小便として排泄される肉毒もあるが、肉毒のエキスは体内へ取り入れられて蓄積される。
     先ず肉毒の含まれた汚濁血液は腎臓へ運ばれて濾過されようとするが、毒素は全部処理する事はできないから体内へ残留し、時日の経過と共に残留する肉毒が増加して体内を異常化させる。
     肉毒が集中する所は薬の毒・遺伝毒素・尿毒と共通しているが、腎臓で濾過しきれなかった肉毒は腎臓の部分へ溜って次第に蓄積され腎臓の機能を低下させ悪化させるから尿毒の発生となり、肉毒を含んだ尿毒が人体各所へ溜るのだが、特に関節内へ集中して腫れたり激痛を発生させるので関節リウマチ・関節炎・痛風等になる。
     また血液中の肉毒を白血球類が食べるのだが、消化できずに肉毒を吸収しきって死滅してしまい、その肉毒を含んだ白血球の死骸が血管内に付着して年月の経過と共に増加するために血栓ができて血液の循環が悪化し、さらに血管が詰まると梗塞して血液が循環しなくなり、腐ったり血管がもろくなったり切れたりするので、動脈硬化症・動脈瘤・静脈瘤・脳血栓・脳梗塞・心筋梗塞・脳出血・壊死・高血圧等になる。
     そして多量の肉毒が体内に入ると脳・眼・内臓・血管・肉・骨等全身に蓄積されて肉毒の塊ができたり、肉毒の脂肪分で霜降の肉の状態になって肥満したり、全身が冷えたり、重苦しくなったり疲れやすく怠くなるのである。
     そうして肉の成分は体内では時間の経過と体温によって腐敗し、その際植物性の食物の腐敗では発生しない有毒の物質や悪性ウイルスや猛毒の細菌類が発生して繁殖するために、感染症・癌や肉腫等の悪性腫瘍・膠原病・紫斑病といった悪性の重難病発生の主な原因の一つになっている。
     最近では特に牛乳や乳製品を多量に飲食するために、肉毒化した牛乳や乳製品の成分が体内の主要器官に集中して溜り、塊やしこりになるため重難病の発生が激増したり、牛乳や乳製品の成分によって体内に結石が発生する場合も多い。
     また肉毒によって血液が汚濁して体内の機能が低下したり、血液の循環が悪化し停滞して人体各所の活動も衰えて著しく老化し、ひどくなると顔や皮膚や動作も老人のようになったり、年齢が若くても顔や体型が中年太りのようになって実際の年齢よりもはるかに老けて見えるのである。
     さらに汚濁した血液のために顔や体の各所にシミや大小の黒子あるいはアザができたり、肌がカサカサしたり醜い斑点や吹出物等が発生したり、体内から悪臭が発生したりするのである。そして腸に肉の成分が長時間停滞するから腸で腐敗し、有毒物質や有毒な細菌類等が発生して腸の機能を悪化させ便秘になるものである。
     ただし乳児の飲む母乳だけは乳児の体内へ入っても肉毒の悪化作用は発生しない。
     それは乳児は固形物を噛み砕いて胃陽で消化する機能が不完全であるためと、乳児の体内は極度に活発に成長する時期であるために体温が常に大人より高いので、母乳の脂肪分や肉毒化する成分が体内で固まって溜らないで体外へ排泄されるようにできているからである。
     しかし母乳を出す母親が体内に肉毒を入れているとすれば母乳にも母親からの肉毒が含まれているから、その成分だけは母乳と共に乳児の体内へ入って肉毒化するのである。

    ■批判■
     動物性食品と病気との関連については、昔から専門家による研究が多くなされており、ネットなどにも情報があふれている。
     今更お前のような無知なる者が口を出すようなことではない。
     この者は、大したことがないことでも大袈裟に書く傾向があるが、この項もまた同様で、恐ろしい病名を多数列記して読者を不安にさせ、マインドコントロールにかけて金をだましとろうとしているのが手にとるようにわかる。




栄養剤の弊害 (314)

     健康に関心のある人々の多くは、ビタミンCを補給すれば良いとか、ビタミンEだとか、疲労したら全部の栄養が入っているドリンク剤が良いとか、骨がスカスカにならないようにカルシウム剤とか、とにかく栄養剤をよく好む。
     ところがこれらの栄養素だけを抽出した物を体内に入れると一時的には効果があるが、長期において服用していると次第に逆の作用を起すのである。
     そもそも人間の体は種々の食物を食べることによって、食物の中から栄養を取り出そうとして内臓が活発に働き健康を維持しているのである。
     それを栄養剤によって栄養素だけを抽出した物を体内に入れると内臓は活動しなくても栄養が足りているので、あらゆる内臓は次第に働きが衰え栄養剤を常に服用することによって内臓は食物から栄養分を取り出そうとする機能が退化し、その結果体力が低下し不健康になっていく。
     ビタミン剤を服用すると人体はビタミンを製造する能力が退化し、カルシウム剤を服用すると人体はカルシウムを製造する能力が退化するのである。
     人間の内臓は実に神秘霊妙なるもので、しかも道理に合った活動をしている。
     例えば緑葉野菜や穀物を食べると内臓はこれらの食物の中から良質のカルシウム・ビタミン・蛋白質・脂肪等必要な栄養分を造り出す能力を持っている。
     野菜のようにカルシウムや蛋白質のほとんどない食物からでも同様に、必要な栄養は造り出せるのである。
     ただし肉体を使う事によってこの能力は旺盛となるので、体を動かさなければ内臓が栄養を造り出す必要がない訳である。
     そうして神様はあらゆる食物を楽しみながら味わうように人間の味覚を造ってあるので、食物をおいしく料理して食べる事によって健康を維持することができるのである。
     そうして人間の肉体は主食を沢山食べて植物性の副食をなるべくおいしく食べるようにできているのである。
     したがって栄養剤により栄養素のみを摂取する事は、どう考えても不合理であることが理解できるであろう。

    ■批判■
    この辺りは岡田茂吉の「栄養剤の喜劇」に大変よく似ている。

    「栄養剤の喜劇」
     茲で栄養剤に就て説明するが、抑々体内の栄養機能は如何なる食物からでも必要な栄養素即ちビタミンでも何でも自由自在に恰度よい量だけ生産されるのである。
     つまりビタミンの全然ない食物からでも栄養機能の不思議な力は必要だけのビタミンを生産するのである。
     此の様に食物中から栄養素を生産するというその活動の過程こそ即ち人間の生活力である。早く言えば未完成物質を完成させるその過程に外ならないのである。
     此の理によって栄養剤を摂るとすれば、栄養剤は完成したものであるから体内の栄養生産機能は活動の余地がないから、自然退化する栄養機能が退化する以上、連帯責任者である他の機能も退化するのは当然で、身体は漸次弱化する事になるのである。
    (昭和24.6.18 光 13号)より


     そもそもビタミンやカルシウムを体内で「造り出す」「製造する」というのは不適切な表現だ。
     ビタミンの多くは、必要な量を体内では合成することができないので、食事などで、外から補給しなければならない。
     カルシウムも体内で「造り出す」ものではなく外から摂取するものである。作者はわかっていないからそんな表現をするのであろう。
     他人の書き物を正しいかどうか検証しないままそっくり似せて書いたり、その場の思いつきを簡単に覆されるかどうかよく考えもせずに書いたりしているようでは、自らも思考停止しているといわれても仕方あるまい。
     どうだ!教主・・・・・・・、どうもおツムの弱い教主さんじゃ反論できないようだ。
    おい、会主ども! お前ら少しはかばってやらんでいいのか?




私の食事 (316)

     私が 御神業を実行していく上で、日々の食事ができるだけおいしくて味覚を楽しむ事ができるのは、快適さの一つの要素になっている。
     神様は人間には食物をおいしく食べるために視覚・嗅覚・味覚を最大限に使えるように造ってあるから、おいしいと感じる物は食べられる物であり、まずいと感じる物は異物であり毒素となるから体に入れてはいけない物という事が味覚によって判断できるようになっている。
     私の食事については、特別な事は一切していない。肉・乳製品は勿論、魚介類に至るまで生き物を食べる事やダシにする事はない。
     また動物性・植物性の油もとらない。主食は米飯・麦飯・蕎麦・うどん・スパゲッティ等の穀物類であり、副食は植物性食品で主食をおいしく食べるためのおかずとしてあれば良い。
     例えば和食・洋食・中華の色々なメニューの中で、スパゲッティ・餃子・お好み焼き・コロッケ・カレー等、食材を工夫しながら油や動物性食品を使わずに作る事が可能であり、とてもおいしい。
     だから季節の旬の物や、新鮮な食材を工夫しながら最大限においしく調理して味覚を楽しむ事ができて快適であり、おいしい事と食べたい量だけ食べる事によって心も体も満足でき幸福感を味わえるのである。

    ■批判■
     この本全体がウソくさいのはわかっていることだが、教主さんの高級寿司説や陽○さんの髪染説などの記事を目にしてからこの項を読んでみると、この者の言うことは全く信じられなくなる。
     これらの噂が本当ならば、この者どもは病気になったら、医師にかかったり、薬の世話になっているであろうことが容易に想像できる。





過剰成分は毒素 (317)

     本来は毒素ではないが、体内へ多量に取り入れられて過剰になると、その過剰になった成分と過剰になった量が毒素となって体内を異常化させ苦痛を発生させるのである。
     例えば過剰に飲食した場合には胃腸や腹部に苦痛が発生して、過剰な飲食物による毒化作用が激しくなると吐いたり下痢をして体外へ排泄されるのだが、これは過剰な量の飲食物が毒素となり毒化作用が激しくなると共に体内に毒素排泄作用が発生して、毒化した飲食物が排泄され苦痛も解消されるのである。
     また適量の飲食であっても特定の成分が過剰になる場合がある。具体的にいうとカルシウムが健康に効果があると信じてカルシウムを多量に含んだ食品を好んで飲食した場合には、体内ではカルシウム過剰となるから過剰なカルシウムは対外へ排泄されるが、排泄しきれないほど過剰になったカルシウムは毒素として体内へ蓄積され、結石が発生する原因になったり、体内でカルシウムを造る機能が異常化して骨が弱くなったり、成長に関する異常が発生したりする。
     また肉類や乳製品等の油分の多い食品を好んで飲食していると、体内に過剰な脂肪が毒素となってなって内臓に溜って脂肪で黄色くなったり機能が異常化したり、体内の肉が過剰な脂肪によって霜降状態になって肥満や今流行の成人病を発生させたり、体内で脂肪を消化し処理する機能に異常が発生したり、体内の各所に過剰脂肪の塊ができて病的苦痛が発生したりするので毒素とまったく同じ作用をするのである。

     また飲食物や物資的成分以外の過剰もある。騒音や音楽等の音声・絵画や映像や光線等の色彩・文字や数字といったものも過剰に聞いたりみたりすると、音声・色彩・文字や数字といったものもが耳や眼を通して頭脳の中に焼き付いて蓄積され、毒素と同じ作用をする。
     そのため耳や眼等の酷使した場所と、過剰成分が蓄積された頭脳に異常が発生し、悪化して重症になるに従って全身に及ぶのである。
     他にも疲労・刺激・香・糖分や塩分・暑さや寒さ・栄養分・明るさや暗さ・放射線・快感や不快感といった自分に関するあらゆるものは、体内で過剰になれば毒素や毒素と同じ作用をして異常化させ苦痛を発生させる。
     その場合異常化して苦痛が発生するのは頭脳と酷使した所と過剰成分が集中して蓄積している所であるが、悪化すると最後には苦痛は全身に及ぶのである。
     したがって毒素になる過剰成分を発生させないようにするには、常に快適である状態に調整する事であるが、すでに過剰成分による苦痛が発生した場合はその過剰成分を体内に取り入れるのを止めて、御霊光に浴する事によって迅速に解消されるのである。

    ■批判■
     ここに書かれている飲食に関することは何ら目新しい内容ではなく、過食や偏食の害は誰でも知っていることに過ぎない。食事に限らず、何でもそうであるが、「過ぎたるは及ばざるがごとし」であることは常識だ。今さらこんなことをダラダラと書いて教えてもらう必要は全くない。

     「音声・色彩・文字や数字といったものも耳や眼を通して頭脳の中に焼き付いて蓄積され、毒素と同じ作用をする」という下りはアホとしか言いようがない。
     人間の脳には適度に「忘却」する機能が備わっており、どんなに多くのデータを取り入れてもそれが脳に焼き付き害をなすようなことはない。作者(教主)は、よほど勉強が嫌いで苦痛に感じていたのだろう。
     ちゃんと勉強しておかないから、こんな恥ずかしい文章しか書けない、”貧困脳”になったのだ。

     本当に、”過剰成分は毒素”と思っているならば、お前の金庫に隠してある客から巻き上げた数億円の金こそがお前には過剰成分であり、それを返却することを考えるべきだ。
     こんなつまらない文章を書いた理由は、一番最後にある、「御霊光に浴する事によって迅速に解消されるのである」という、”御霊光宣伝”をしたいだけのことだったのだろう。





不快感は毒素 (320)

     不快感とはあらゆる苦しみの事で、毒素と同様に精神と肉体に異常を発生させ運命を悪化させる作用がある。例えば汚物を見て気分が悪くなり吐き気を催した場合、汚物を見た際の不快感が毒素となって一時的に頭脳を異常化させ、反射的に胃に吐き気という吉痛が発生した訳である。あるいは肩こりの不快感によってイライラしていると、些細な事で怒って不和争論となり人間関係が悪化し不快感が増幅する。そこで今度はその不快感を享楽や飲酒やギャンブルといった強い刺激によって一時的に紛らわすようになると、次第に運命は悪化して犯罪者や廃人にまで転落する場合もある。
     そうして強烈な不快感によっては病的発作の症状を誘発し、喘息・てんかん状態・心臓発作になる。この場合の不快感とは突然発生した精神的ショックであり、具体的には自分の生命を失いそうになったり、親・兄弟姉妹・夫・妻子・恋人・愛玩している動物・大事にしている植物・金銭・不動産等の物質的財産、といった自分にとってかけがえのない存在を失う事によるものである。また激しい興奮によって血圧が急上昇したり、血の気を失うような恐怖や心配や絶望によって血圧が急低下する事によって脳や心臓が異常化して倒れたり、極度の精神的ショックによって心臓が停止して急死したり、場合によっては発狂して発作的に自殺や他人を殺傷する事もある。
     あるいは強烈な不快感が、精神や肉体に対する永続的な虐待であると、次第に精神に異常を来し、重症になると廃人になるか自殺するか自暴自棄になって凶暴になるか他人を苦しめたり不幸にする事が快感で楽しくて仕方がないようになるかである。
     このように不快感は毒素となって頭脳を異常化させ精神と肉体に病的苦痛を発生させ、運命をも悪化させる作用があるのだから不快感を発生させないようにして、発生した不快感はできるだけ迅速に解消すべきであるのは当然だが、すでに不快感による病的症状や運命悪化の現象が発生している場合には、不快感による異常化を止めるために不快感の発生源を突き止めて解消するのである。例えば借金苦や心配事で胃が痛かったり食欲がなかったり胸が苦しい場合は、借金と心配事の解消によってこれらの病的苦痛も治るし、学校や職場へ行きたくないという現象が発生するのは、行きたくない場所とその場所に関する人間等が不快感の発生源であるから、それを解消すれば連命は好転するに決まっている。
     しかし不快感の発生源を解消しても強烈な不快感が頭脳に焼き付いている場合は毒素と同様に頭脳内に蓄積され、通常では異常化を解消できない。したがって不快感による精神と肉体の異常及び運命悪化を根本から解消するには、私の教え通りに実行する以外に方法は絶対にないのである。

    ■批判■
     神世界の詐欺商法によって多くの人がとてつもなく大きな不快感を抱く結果となっている。この世の中に神世界が存在すること自体が不快であると言ってよい。この「神書」、そしてそれを生み出した教主こそが不快感の発生源だ。不快感の根元である神世界と教主は一刻も早く消滅すべきだ!




肩こりの原因 (322)

     肩こりは誰もが経験した事がある苦痛で、肩こり解消のためにマッサージや整体や運動や薬の使用等に頼っても、その時だけで治らないのである。その結果肩こりが慢性になり重症になる。重症の肩こりになると肩が石のようにコチコチに硬く、肩に重い荷物がのしかかったように感じられ、さらに手が痺れたり頭痛や眼の痛みを伴うようになる。中には肩こりを感じないという者もあるが、それは肩が極度に凝り過ぎているために苦痛を感じる機能が麻痺しているか、苦痛に鈍感になっているかである。極度の肩こりになると常に肩・首・頭に不快感があるからイライラして激怒しやすく、さらに不眠・激しい頭痛や目眩・吐き気・憂鬱感・不安感といった症状からノイローゼになるのである。
     肩こりを解消するにはその原因を知らなければならないが、それは肩に原因があるのではなくて小便(尿)の我慢が本当の原因なのである。分り易く言うと肩こりとは小便の毒素(尿毒)が「しこり」となって肩を圧迫するために発生する苦痛なのである。では何故小便の毒素が肩にしこりになるかというと、小便の排泄を我慢するからで、小便の我慢によって体の中へ小便を排泄してしまうからである。小便を極度に我慢すると排尿しようとしても極少量しか出なくなるが、それはほとんど体内へ排尿したためである。体内へ放出された小便はまず腹部へ溜り、次に背中へ溜る。腹部へは膀胱からあふれた小便が溜り、背中へは膀胱から腎臓へ逆流した小便が腎臓からしみ出して溜るのだが、腹部に溜った小便は腹痛やそれに伴う下痢となり、背中に溜った小便は背中の凝りとなる。そうして小便の我慢が習慣となるために体内への小便放出量が激増して背面全体に小便が溜り、背中が満杯になると肩甲骨の部分が凝り、さらに満杯になって肩が凝り、さらに首から後頭部にかけて重苦しく凝るようになり、苦しいから肩を採んだり叩いたり物理的な指圧をするために、小便の毒素は肩の指圧等の刺激をした部分に集中するので「しこり」ができて、やがてコチヨチに硬くなって「しこり」が首から頭脳へ通っている血管を圧迫するから、頭脳の中の血液等の量が不足して目眩や吐き気を起したり、頭脳が異常化したりするのである。
     したがって肩こりを解消するには第一番に小便の我慢を決してしない事である。次に水分をよく摂取してよく歩く事だが、これで良くなる肩こりは極軽症で、重症になると長年にわたる多量の毒末が肩に硬くなって回結して毒塊となっている。さらに指圧・マッサージ・鍼灸・整体・電気・注射等ありとあらゆる物理的療法を施しているために肩に毒素が極度に集中しているから、この毒素を解消しなければ肩こりは完治しないのである。事実人間力による治療では一時的な効果はあっても毒素は消滅できないから、苦痛の解消は不可能である。また小便の我慢を長期間にわたって習慣にしていると、腎臓の働きが悪化していたり膀胱の具合が悪くなっているから、小便を排泄する能力が極度に衰えていて、小便の量も回数も極少ないし、場合によっては排尿しなくなって重症の腎臓病になったり、尿毒が体内のあちらこちらに溜って重い苦痛を発生させるのだが、もうこうなると何の療法に頼っても悪化する一方で私の所へ来る運命になれば幸いである。私の所では神様の御霊光によって体内の毒素を消滅する事ができるから、肩こりは解消し、肩こりに伴う頭痛等もなくなるのである。
     その過程は神様の御霊光が体内ヘ注入されると、悪化している器官が毒素消滅によって機能が回復して働きが活発になる。その結果排泄する小便の量も回数もたちまち増加して、今まで溜りに溜っていた小便の毒素は濃い多量の尿となって体外へ排泄され、尿毒による身体各所の重苦しさは軽快するのである。また硬く固結した毒素の場合は39度以上の高熱が発生する事によって液体になり、濃い洟・痰・下痢・尿・汗等となって排泄される。膿・結石が排泄される場合もある。こうして肩こりの原因である毒素が根本から消滅するので肩こりは解消するのである。

    ■批判■
     よくぞここまでデタラメな説をぶちまけてくれたものだ。”尿が体内に排泄される”等という話が医学的にあり得ないことであるのは少し調べてみればすぐに分かる話だ。
     ”肩こり”という身近な題材で興味を引きつけておき、甚だしいインチキ話に引きずり込むあくどい手口だ。  しかもその内容は、”言った者勝ち”的なトンデモ話の羅列であり、ばかばかしくて論評にも値しない。




アトピー性皮膚炎は喘息の毒 (328)

     アトビー性皮膚炎は最近特別多く発生していて現代医学では治癒困難とされているが、この原因は両親からの遺伝毒素と生まれてからの食生活が動物性の飲食物ばかりを好むため、栄養が過剰になり過ぎて過剰な栄養は体内では毒素となるためで、これらの毒素が皮膚から膿となって排出されるのである。
     このような状態になると強い薬によって膿を止めようとするが効果は一時的で、薬を塗ると良くなるが薬を使用しないと再び膿が出るという事の繰り返しとなって次第に症状は悪化し、結局は延々と果てしなく苦痛が続くので絶望してしまう者も多い筈である。
     そうして薬を使い過ぎて皮膚がただれたり、薄くなり過ぎたり、醜怪な面相になったりするのである。薬で一時的に止めても、原因となる体内の毒素が消滅しなければ治癒する事は不可能であるが、それには私の所へ来て神様からの御霊光を伝達される以外に方法はないのである。御霊光が体内に注入されると同時に体内の毒素排泄作用が発生して、アトピー性皮膚炎になるべき毒素が消滅すると、苦痛も解消されて再発する事もなくなるのである。
     この場合、完治するまでの期間は使った薬の量と飲食物によって異なる。アトビー性皮膚炎の薬を全く使用していない乳幼児の場合なら、最も重症でも数か月から半年で良くなる。
     私の所へ来れば実際に完治した例が多いので、誰でも私の言う事が真実である事を認める筈である。薬の使用が多いほど時日はかかるが確実に軽快するのである。
     ただし、御霊光を浴びてしばらく経つと以前の状態より一層悪化したように見える事がある。これは御霊光によって毒素の排泄が促進されたためであるから喜ぶべき事で、迅速に多量の毒素が体外へ排泄されれば早く苦痛が解消するのである。
     そうして、もしアトピー性皮膚炎の毒素を薬で体内へ押し込めてしまうと必ず喘息になるのである。
     アトピ‐性皮膚炎というのは本来喘息になるべき毒素が、皮膚から膿となってかゆみと共に体の外へ排泄されている状態であるから、これを薬等によって阻止すれば今度はその毒素は喘息を発生させて、咳と痰になって排泄される事になっているのである。さらに分かり易く言えば、アトピー性皮膚炎と喘息とは全く同じ病気であり、全く同じ毒素なのである。

    ■批判■
     アレルギー疾患という点では両者に共通点があるが、”アトピー性皮膚炎と喘息とは全く同じ病気であり”等と言うのは全くのデタラメでしかない。
     医学を勉強したこともない者が口から出まかせにいい加減なことを言っているだけの戯言の羅列につき合うのも疲れる。




肥満を解消する (330)

     肥満とは体内の毒素排泄機能が悪化して弱まったために発生する症状で、体内に毒素が溜り続けるから肥満し続けるのである。肥満の毒素は液体か柔軟な性質を持つために体型が膨張するのである。この毒素の成分は尿毒と脂肪で、尿毒は小便の我慢によって体内へ放尿されたものと、薬の毒・遺伝毒素・動物性飲食物の毒素によって血液が極度に汚れているために、腎臓の機能が悪化して体の外へ排泄されるべき尿の量が減少して充分に排泄されないから、その分が体内溜ってしまったものとがある。
     薬の毒性によっては体内の毒素排泄機能が全くなくなる事もある。脂肪は肉類・乳製品・魚介類・卵類と油脂を含んだ飲食物を過剰に摂取したために、過剰な分が毒素となって体内に溜ってしまうのである。また過食も肥満の原因とされるが、米・麦等の主食であれば食べたいだけ食べても良いのである。
    ■批判■
     体内に脂肪がたまるから肥満するというのはわかるが、小便が体内に放尿されたものと、薬の毒・遺伝の毒素が排泄されないから体内に溜るから肥満するというがその根拠が書かれておらず全く説得力がない。上述の通り、そもそも小便が体内に放尿されるということ自体が間違っており、仮にそんなことになったら肥満どころの騒ぎではない。
     尿毒症という病気があるが、尿毒症は、慢性腎不全の最終段階で腎機能が極端に低下し、排出されるべき老廃物や毒素が血液中に蓄積される症状で、そのまま放置すると血液が汚れて死亡する危険がある。
     しかし、腎臓が正常に機能している場合は小便を我慢しただけですぐに体に悪影響を及ぼすようなことはない。


     それで肥満を人間力によって解消しようとして食事の量を制限したり運動をしたりするのだが、効果は一時的ですぐに元通りになり、無理をして食事を制限し続けると貧血して体が弱ったり老化してしまったりするので、なかなか肥満を根本から解消できないのが事実であろう。これは体の中に入れる食事の方を制限するだけで、体の外へ出す排泄の方を活発にしないから効果がないのである。排泄といっても毒素を排泄する事で、毒素が排泄された分は必ず体内は健康になり毒素排泄機能が活発になるから、体内に溜った尿毒や過剰な脂肪分は濃い多量の小便や下痢となって体外へ排泄されるようになるのである。しかし、毒素排泄機能を活発にする事は人間力では不可能であるから、どうしても私の教え通りに実行する必要がある。これによって私の所では迅速な効果が上がり、肥満者のすべてが健康になりつつ正常な体重と体型になるのである。
     その方法は食事の内容を米・麦等の主食を中心として、副食は植物性の食物が少量あれば充分で、主食類は食べたいだけ食べて満腹になったら食事を終了するのである。副食のおかずは主食をおいしく食べるためのものであるから主食ほどの量はいらない。ただし食事は空腹の時にすべきであり、空腹での食事は消化も活発で味覚も美味に感じられ、内臓の各器官も活発に働くから、体内に必要な成分の吸収・合成・生産や不必要な成分の排泄も良好になるのである。だから朝昼晩の一日三回の食事を空腹でとるためには問食(おやつを食べる事)をしない事で、間食をするとその分は空腹感が減って体内の活動も減退するのである。水・茶等は適度にとれば良い。
     また運動についてはわざわざ時間を作ってまで行う必要はなく、何かの用事に体を使って労働するか歩く事で充分であり、通勤・通学を徒歩にすると交通費を節約できるし、歩く必要が発生するから無理なく歩く事が習慣になるものである。という具合でここまでは人間力でできる事だが、これだけでは根本的な肥満解消には至らない。それは体内に溜った肥満の成分(毒素)は通常ではなかなか排泄されないからで、これを活発に排泄するためには強力な神様の力によらなければ不可能である。神様の力とは、神様の御霊光が人間の体内へ注入される事によって体内の毒素が消滅し、毒素排泄機能が回復して活発に毒素の排泄が行われるようになって健康になり、肉体が清浄になった分だけは機能も正常になって体重も体型もより最適に近づき、美しさが増して若返る事である。
     という訳で肥満の解消は第一番に私の所へ来て、神様の御霊光を伝達される事によって体内の肥満の成分が排泄されて健康になる事で、これがすべてである。次に体内ヘ毒素・肥満の成分を入れないようにして、自然の法則(私の教え)に従った生活に変えれば肥満の再発は全くないのである。

    ■批判■
     神世界のトップに君臨する者の体型はどうかな?
     まさか神世界の代表者が、”でっぷりした肥満体型”なんてことはないよね?
     しかし、漏れ伝わってくる話では、神世界の代表者達は高級寿司屋で上等な寿司を食べるが趣味とのことで、なかなか体型もすばらしいとのことだが・・・?
     ”動物性脂肪は体によくない”なんて言っている人間が、自分は高級寿司屋に行って、たらふく高級寿司を食べてもいいのかな・・・?




盲腸は下半身のごみ袋 (335)

     盲腸は下半身の毒素を一時的に溜めておいて、ある程度の量が溜った時点で高熱が発生して、盲腸に溜った毒素は液状となり下痢によって排泄される仕組みになっている。
     これは上半身のごみ袋である扁桃腺と同様の機能である。しかし、今の人間は薬や尿の我慢や乳製品・肉食過多によって多量の毒素を体内に入れているから、盲腸部に溜る毒素も極多量になるために盲腸炎という激烈な毒素溶解作用が発生するのである。
     このような状態になっても、私の所で御霊光を浴びると激痛は軽快して、激しい下痢によって盲腸部の多量の毒素は排泄されるから手術をしなくても良くなるのだが、私の所を知らない世間一般の人間は手術によって盲腸を切除するので、その害の方が甚大なのである。先ず盲腸を切除した箇所に向かって毒素が集中するから、これが年月の経過と共に盲腸部に毒素の塊となって徐々に増大する。
     こうなると「しこり」になっているから自分で触ってみてもわかるだろう。この毒素のしこりが腸を圧迫したり、女性であれば子宮や卵巣を圧迫するから、この器官の血液の循環が悪くなって不快感が発生する。このために腸が詰まったり炎症を起したり、生理不順や生理痛を起すのである。さらに悪化すると血液の流れが極度に圧迫され、鬱血するために腹部にその血液が溜ってしまう。それが体温によって腐敗すると悪性のウイルスや細菌等の発生となり、悪性腫瘍や潰瘍や腹部が膿で満杯になるような重難病になるのである。
     実際に今まで私の所へ救いを求めて来た重症の胃・十二腸潰瘍(癌も含む)の人達は全員が盲腸を切除していた。
     また盲腸部の毒素のしこりが右側の脚部の付け根(鼠径部)にまで達すると、右側脚部へ通じている血管を圧迫するから血液の流れが悪くなり、常に右側脚部が骨の髄から冷えるようになったり、重苦しい痛みが慢性になったり、ひどくなると腰にまで達するものである。
     盲腸を切除しても運の良い人は常に毒素が下痢によって排泄するとか、盲腸部の毒素のしこりが腫脹して排膿することによって前述の病気を免れる場合もあるが、これは私の所で御霊光を浴びた人だけである。それ以外のすべては悪化するだけであるから、やがて苦痛は右半身全体から全身にまで至る事を断言しておく。

    ■批判■
     すみません、どなたかお医者様か医学的知識が豊富な方はおられませんか? もしおられたら、上記のようなデタラメを書きまくっている者を懲らしめてやって下さい。
     上記のような内容は医学的に言って全く根拠のないデタラメでしかなく、このようなウソを真に受けて手遅れになった人が出たら神世界の誰が責任を取るんだ?
     上記のようなデタラメな内容を不特定多数に告知する行為は、平成3年6月28日付けで厚生省健康政策局医事課長名で各都道府県衛生担当部(局)長宛に出された、「医業類似行為に対する取扱について」の中にある、『適切な医療受療の遅延防止』に該当する行為だ。
     厚生労働省宛てに神書の内容を送付しておこう。




扁桃腺は上半身のごみ袋 (337)

     扁桃腺は上半身の毒素を一時的に溜めておいて、ある一定量の限度を超えた時点で高熱が発生し、扁桃腺に溜った毒素が溶解して柔らかくなり、液状化して体外へ排泄するという重要な機能を持っている。
     ところが扁桃腺の本当の機能を知らない人間は扁桃腺が高熱を伴って腫れると、その苦痛から逃れたいために薬や氷冷で毒素の溶解を止めようとする。そして毒素が排泄しないままで止まると扁桃腺には依然として毒素が溜ったままになって固まり、さらに上半身の毒素が常に集中してくるから扁桃腺が肥大化する。
     そして高熱を伴って毒素溶解が発生すると薬や氷冷で止めてしまう。これを繰り返しているうちに扁桃腺が極度に腫れて鼻で呼吸ができなくなったり、飲み込む事が困難になるから扁桃腺を手術で切除するか極強烈な薬によって徹底的に毒素溶解を止めてしまうかになろうが、どちらにしても扁桃腺の機能(ごみ袋)が長年月の間失われる結果として、上半身の毒素は扁桃腺の付近の首の周囲に集中して毒素のしこりができる。このしこりは凝りとなって次第に年月と共に大きく硬くなり、遂には頭脳へ通じている血管を首の所で圧迫するので頭脳内が常に貧血状態になり、頭痛・吐き気・目眩・イライラ・不眠の症状になる。
     そうしてこのような状態で毒素溶解作用が発生し高熱が出た場合は、液状になった毒素は扁桃腺から体外へ出られないので耳へ排泄口を求めて向かって行き中耳炎になる。この時に耳から毒素が膿となって排泄してしまえば良いが、ここでも薬で止めるとすると、毒素は今度は脳の中に進行し集中するので脳に重大な障害が発生したり、精神に障害が発生してしまう事になるのである。さらに扁桃腺の機能が失われると、毒菌が体内に侵入しやすくなって感染しやすくなるので、肺炎や肺結核やその他呼吸器系の病気にかかる原因にもなるのである。

    ■批判■
     この項に関する批判文は現在作成中です。




魚の目は胃癌の毒 (339)

     足の裏に魚の目ができる事がよくあるが、これは胃癌の印とも言うべきもので、魚の目のその根源は胃につながっているのである。
     胃に存在する癌、あるいは癌になるべき毒素が少しずつ足の裏に集まってきて魚の目になるのであるから、魚の目ができる時には相当胃の具合が悪い筈である。この魚の目を物理的に突いたり、揉み解したり、手術したり、焼いたり、薬をつけて取り除いたりすると、魚の目として出ようとした胃の毒素は出口を失って再び元の胃に戻ってしまうから、時を経て必ず胃癌になる。
     したがって魚の目は自然に取れるまで放っておく事で、大きくなっては取れ、取れて再び出てきて、また大きくなって取れるというのが良いのである。
     さらに私の言う通りに実行して、神様の御霊光を充分に浴びる事により、胃癌の発生とはならないから安心である。

    ■批判■
     おいおい、書いていて恥ずかしくないのかい?
     余りにもばかばかしすぎないか?
     どこの世界に魚の目と胃癌を結びつける理論があるんだ?
     実は私も足の裏にはいつも魚の目ができている。毎年成人病検診で胃の検査を受けているが未だかって胃癌の兆候はない。
     私の親もよく魚の目を取っていたのを覚えている。私の親は90歳で亡くなったが癌ではなく他の病気で亡くなった。




水虫は糖尿病の毒 (340)

     手や足に水虫ができる事がよくあるが、これは糖尿病になるべき毒素が排泄しているのである。膵臓に多量の毒素が溜っていて、それが水虫となって悪臭を伴う膿汁や激しい痒みがでてくるのである。これを薬等で毒素の排泄を阻止すると、この毒素は膵臓へ逆戻りするから将来必ず糖尿病となる。
     だから水虫となって毒素が体の外へ出るだけ出れば必ず治るのである。勿論私の所で神様の御霊光を浴びれば自然治癒よりはるかに迅速に毒素は消滅し苦痛もなくなり、迅速に健康となって糖尿病の心配がなくなるのは言うまでもない。

    ■批判■
     教主さんよ、あんたまた間違っているよ。水虫というのはカビの一種であり感染症だよ。個人の体内の毒素なんて関係ないの。  ましてや糖尿病と水虫との因果関係なんてどこから思いついた?
     ひょっとすると、教主自身が水虫で糖尿病なのか? それはあんたの不摂生がそうした病気を招いただけだ。




断食の毒 (341)

     今まで多くの人々が健康法として、あるいは宗教的修行法の一つとして「断食」を行ってきた。「断食」とは勿論「食を断つ」事、すなわち食物を一切食べない事で、水分を摂取するだけの日を数日あるいは数十日続ける事である。これによって腸にこびりついた宿便が取れ、腸の活動が活発になり健康になるというのがその効用とされ、断食によって自分の精神を鍛えて悟りを開くというのが宗教の修行とされてきたのである。
     実際に以上のような結果が得られ、それが人類に幸福を与えるものであれば結構な事であるが、真実はそうではないのである。
     先ず人間という者は食物を食べる事によって肉体を維持し、血液を造り、活動できるように造られている。したがって食物を食べなければ肉体は次第に衰弱する。そうして断食が長期化したり、短期であっても何回も繰り返す事によって肉体は栄養不足となり、内臓、特に肝臓に障害が起きてくるため貧血状態になる。さらに血液を造る機能が極端に弱まるため体内のあちらこちらに血液の流れの悪い所が生じ、ついには血管が詰まってしまい、その結果脳の血管が詰まれば脳出血、心臓の血管が詰まれば心臓麻痺、その他突然死の原因となる。また血液を造る機能が弱まるという事は常に貧血状態にあるため、血液の中の癌細胞や細菌や病原体を抑制し消滅させる免疫力が弱まるので、癌や感染病を始めあらゆる重病や難病にかかりやすくなるのである。
     以上は肉体に及ぼす影響であるが霊的にも非常に悪彰響がある。それは貧血により人間の霊体も霊的な光を失う。何故なら血液は霊と一体化し同化しているから、血液不足は同時に霊の不足であり、霊光(生命体の光)の欠乏となるため霊光を失った分は確実に人間に種々な異常が発生する。例えば事故を起したり怪我をしやすくなったり、精神が不安定になって精神病になったり、見える筈のない霊が見えるようになって気を失ったまま話をしたり、暴力を振ったり、ひどくなると他人を殺傷したり自殺したりするのであるから実に恐ろしいのである。
     私は今までにこのような肉体も心も異常化した例を多数見てきたので、断食を行う事が如何に間違った事であるかを断言する。
     今日、美容と健康のためとか修行のため等といって断食を行うが、その結果は必ず自分自身の運命の悪化を招くのであるから絶対に断食は行ってはならないのである。ただし体内の毒素溶解作用の過程で、一時的に食欲がなくなった場合には無理に食べなくても良い。

    ■批判■
     教主はよほどの食道楽なのだろう。食道楽の教主からは食べる楽しみを奪うことなど考えられないようだ。いつも高級な料理ばかり食べている教主としてはそれも当然かもしれないが、そのうち糖尿病になるかもしれないので注意した方がいいだろう。
     断食の効能については数多くのプラス評価があり、教主が言うようなトンデモない理論の出る幕はない。



第四章 霊
霊界の法則(1) (346)

     霊界は現界の人間には見えないだけで、死後霊体となって生活する世界であり霊体の核が霊魂である。
     人間は現界に生きている時は霊体と肉体は一体となっていて、同時に霊界においても自分自身が存在し生活しているが、これは幽体であり幽体の核は幽魂である。それで死によって霊体と肉体が分離すると肉体は亡骸となって分解・消滅し、霊体は霊界で幽体と一体となり活動するのだが、霊界生活は現界と全く別世界ではなくて現界での生活の延長で続きであるから、現界で不幸な者は霊界でも不幸で、現界で幸福な者は霊界でも全く同じであるのは当然である。
     しかし死の際に心や体に苦悩を持続させていた場合には、正式な霊界生活に入れず幽体と一体になれないで霊体のままで現界にさ迷うのである。具体的には現界への末練や執着(欲望・怨念等)が強過ぎたり、遺族の死者に対する未練や執着が強過ぎると、死後五十日を過ぎても本人が霊界へ入ろうとしないから現界への未練と執着が解消するまで現界にさ迷うのである。そして直ぐに生れ変って直ぐに不幸になったり生きた人間に憑依したり、永久に霊界へ入れないで亡者や餓鬼や無縁霊となり乞食の境遇になったりする。
     そして急死(脳出血・心臓麻痺・変死以外の突然死等)の場合も本人は自分が死んだのを理解できなかったり、突然自分が死んだ事による心と体における極度のショックのために霊界生活どころではなくて無我夢中で生きている人間に憑依したり生れ変ったりするが、このようなマイナスの霊が憑依できるのも毒素によって精神と肉体が。異常化し悪化している人間だからで、健全で幸福な人にはマイナス霊は憑依できない。それで急死の霊が憑依すると小児麻痺・脳性麻痺・身体麻痺・てんかん・ひきつけ・痴呆等になり、通常は憑依した人間が死ぬまで離脱せずに現界で生活するのである。
     さらに変死(自殺・他殺・事故死・焼死)の場合は死亡した地点から数十メートル圏内での移動だけでそこから外へは出られず地に縛られている如くであるから地縛霊ともいい、通常は数十年以上は脱出も正式に霊界へ入る事も不可能である。
     変死の中には医療ミスや手術の失敗や堕胎も含まれ、特に胎児は母親の子宮内が死んだ所であるから母体から離脱できないし、母乳を求めて移動するのである。
     このように自然死以外では正式に霊界生活に入れずに霊体のままで現界にさ迷うので、そのままの状態では全然希望がないから、霊界で地獄へ転落するよりも不幸である。何故なら地獄のどん底であっても正式に霊界に入っていれば地獄の苦しみを味わったり、プラスの成果を生み出す事によってマイナスが減った分だけは確実に運命が好転し、霊界での階級が上昇するから希望があり、意欲が生まれるからである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





霊界の法則(2) (349)

     霊界での階級は魂の階級であり、階級に応じた境遇であるのは勿論である。
     上中下に大別した上層階級は神界で神界はさらに上級神界(第一神界)・中級神界(第二神界)・下級神界(第三神界)に区別し、中層階級も上中ドに区別し、下層階級は地獄界で同様に上中下に区別してあるから合計九階級に分けられる。さらに細別すれば無限に上中下になっているのでこれ以上の区別の説明は意味がない。
     すべての霊は九階級に属していて魂にプラスの成分が多くマイナスの成分が少ないほど上位になり魂にマイナスの成分が多くプラスの成分が少ないほど下位になるのである。プラスの成分とは太陽神の成分で御霊光であるが、太陽神と魂がつながると御霊光が伝達され幸福化するのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





中間界(人間界) (350)

     人間界である中間界は上中下の三段階に大別され、上中下はそれぞれ全く異質の別世界であり、霊界では階級が同じでなければ通常は会う事ができないし、階級が上昇するにつれて現界時代の記憶は自然に消滅する。
     中間界では稼いで収入を得て生活していて、皆職業があり仕事をして報酬は金銭が中心である。金銭によって住宅を購入したり、買物をしたり、家賃を支払ったりしている。ただ階級によって職業も収入も境遇も決定されているから、中間界下段の者が中間界中段に移任する事はできないし、勝手に往来し交流する事もできない。
     日常では下段の階級は下段内での移住や交流で、中段は中段内、上段は上段内での活動ができるようになっていて、一時的に必要な用事が発生する時は下段の者が許可を得て中段へ出入りするのだが、時間も用事の内容によって制限され違反すると罰を受けるのである。
     また思考や念も制限されていて、マイナスの思考や念が発生した瞬間に階級が下降し、場合によっては地獄界へ転落するので階級は常に下降しやすい。
     中間界下段は生活のために雇われて労働する世界で、一般大衆の無産階級である。能力や成績による収入の増減はなく、誰でも簡単にできる仕事で労働時間と労働量によって収入が決まるので低収入で余裕のない生活水準でありその日暮しの状態である。
     中間界中段は人間力によって快適な生活を実現するために稼ぎ、能力と成績に応じた収入と境遇を得られる。専門家や専門職が多く、現界の中産階級である。
     中間界上段は人間界での高級生活を営んでいて資本家や大地主などのお金持で有産階級である。しかし人間界であるから、人間力によって幸福が実現すると信じて活動している以上、絶対に永遠の幸福者にはなれない。幸福感も人間としては高度だが、神様を知らないから心も運命も境遇も一時的で変動しやすく空虚である。今まで人間が西方浄土とか極楽浄土とか天国といっていたのは、実は中間界上段の事だったのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





地獄界上段(奴隷界) (352)

     奴隷の階級で、精神的肉体的重労働や汚物清掃を主とした苦役を無報酬で課せられている。奴隷とは人間と家畜との中間に相応し、人間より低級な境遇だが家畜より上等な境遇である。
     死の瞬間の境遇が自分の収入では生活できない状態であったり、援助や保護によって生活していたり、懲役刑に服していたり、破産状態であったり等の奴隷と同様であった者が死後霊界に入って地獄界上段に転落する。現界においても奴隷状態の者の魂の階級は地獄界上段なのである。
     だから世のため人のため家族のため等、自分以外の者のために自分のお金と労力と時間を使って無償で奉仕したり、忍耐したり、尽したりするのも、その本人は奴隷の階級に転落しているのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





地獄界中段(畜生界) (353)

     肉体が老化の極限に達して死亡した場合を一応自然死としてあり、地獄界下段には転落しない。しかし人間は体内の毒素によって寿命を縮めているから現在の地球上には無毒の人間は存在しないので、厳密にいうと自然死ではないが、肉体破壊ではなくて、無苦痛死であれば地獄界中段が転落の下限となる。
     地獄界中段は畜生界であり鳥獣虫魚や蛇等の畜生の世界で低級霊界である。
     人間が畜生界へ転落する原因は魂が畜生と同格かそれ以下の地位になるからである。それは畜生を崇めたり、信仰の対象としたり、宗教の本尊として願い事をしたりして人間(自分)以上の地位にしてしまうためで、畜生を神としたり、聖なる存在としたり、家の中や邸内に祀って心から尊崇して苔生に手を突いて頭を下げて礼拝した瞬間に、その本人の魂は畜生以下になり生きたまま畜生界へ転落し、死の瞬間まで改心しなかった者が死後霊界の畜生界で畜生の霊と同化して、やがて畜生として現界へ生れ変るのである。
     また多数の畜生の霊が人間に憑依するか、人間の霊が畜生に憑依する事によっても畜生と同化する。多数の畜生霊が憑依するのは畜生を殺したり、料理したり、飼育したり等畜生によって生活が成り立っている場合や、畜生を殺して食べる習慣になっている場合や、畜生と同様の生活・習慣・境遇・意識になっている場合である。そして畜生に憑依するのは無縁や餓鬼となった飢餓状態の人霊であり、食欲を満たすために生きている畜生の意識と一体化し時間の経過と共に人霊は畜生と同化するのだが、純粋な畜生ではないから人間の言語がわかるのである。だから人間に飼われる犬・猫・馬等の大多数は人畜同化霊であり、
     畜生界へ転落した人間が畜生として生れ変ったのであるか、あるいは畜生に憑依したものだが、同時に飼主の先祖や関係者でもある。
     また古い家を住処としている青大将と白蛇は畜生界の中の蛇霊界に転落した先祖の生れ変りで、姿を見せるのは子孫の危機を知らせるためであり、殺すと崇る。そして巨木には木の蛇霊、湖や沼や池には水の蛇霊が住み着いているから、巨木を伐ったり、湖・沼・池を埋めたりすると、蛇霊が関係者やその子孫に崇って変事が発生したり憑依したり生れ変る事がある。それで木の蛇霊が憑依した胎児は聾唖(ろうあ)で生まれ、水の蛇霊が憑依するとリウマチになる。蛇霊あるいは人霊と蛇霊との同化霊の生れ変りは、先天的に肉体の一部か下半身かあるいは大部分が蛇霊化していてグニャグニャの状態になっている。
     そうして今日までの信仰や宗教の本尊とその関係霊の99パーセント以上(ほとんど全部)は、畜生か不幸な霊(低級霊)だから畜生界へ転落する教祖や宗教家や信者が大多数で、特に狐霊界と蛇霊界が多い。そして資本主義と共産主義と薬や手術による医学も信仰であり宗教であり、その本尊は悪魔で配下は毒蛇・毒虫・邪鬼・淫狐の霊であり人間に憑依するのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





地獄界下段(極寒凍結界) (356)

     自然死以外の病死・変死・急死で、肉体破壊によって死亡した者が転落するが、死の瞬間の苦痛や恐怖は死後も継続する。破壊された体と機能が修復するに応じて苦痛と恐怖が軽減して霊階級も上昇し、体が元通りになると同時に死の瞬間の苦痛や恐怖も解消して地獄界下段から脱出するのである。地獄界下段の中にも無数の階級があり、最下位は無熱・無明・無音にして完全凍結境である。最下位の霊は頭から足まで全身が氷の中に閉じ込められ体内も凍結していて、階級が上昇すると手だけ氷の中から出せたり、頭を出せたり、上半身を出せたり、全身を出せたり、体内の凍結が解消され血液が循環し始めたりする。地獄界下段は極寒凍結界(極寒地獄)とも称し、最下位の凍結境(氷獄)から雪原境(雪獄)・極寒の海や湖や河川(水獄)・極寒の風(風獄)等がありさらにその中は無数の階級になっていて階級が上昇するに応じて境遇も気温も上昇する。極寒の程度が異なるという訳である。
     しかし今までは病死の霊は霊界においても永続して病んでいたし、体が破損した霊も破損が修復できないままだったので、先祖代々同様の病気で死亡したり変死や急死が発生する運命が永続して繰り返されたのである。それは霊界の状態と現界とは一体であるからで、霊界が幸福なら現界も幸福で、現界が幸福なら霊界も幸福なのである。
     そもそも病死・変死・急死の極悪の運命になるのは体内に毒素を入れるからで、そのために頭脳と体内の機能が異常化してあらゆる運命が悪化するのである。それで自然界の法則では結果が悪いのが悪であり罪だから、現界での人間の最終結果である死の瞬間が極重苦であれば自然界に極悪人と判定された訳で、霊界に入ると地獄界下段つまり極寒凍結界に転落するのは当然である。したがって人間にとって最大の悪であり最大の罪は、自分の体内に不幸の原因である毒素を入れる事と、それによって肉体が破壊され苦しむ事である。
     だが現在の人間は、最早生まれながらにして多量の毒素を両親から直接受け継いで体内に入れているから、この毒素をできるだけ消滅する必要があるが、自然に任せたのでは少しは減少するがそのままでは何世代経ても決して消滅しない。毒素を消滅する事ができるのは神様からの御霊光であり、御霊光によって迅速に体内の異常と苦痛を解消できれば霊階級も瞬間に上昇し幸福化するのである。
     生きた人間を幸福化し健全化できるから霊界の人間をも同様に幸福化し健全化できるのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





再生について (359)

     世間の人々の中にはよく恐怖症というものを持っている事がある。恐怖症とは非常に嫌いな物とか、恐ろしがる物がある事で、例えば犬や猫・鼠等を見て異常に恐ろしがったり、または蛇・蛙・蟻・毛虫等を恐れたり、水を見ると恐怖のため震え上がったりする事である。これらは如何なる訳かというと、犬や蛇等に噛まれた事が原因で死んだので、その恐怖心が霊魂に染み着いているためである。また前述の生物が何等かの死の原因であったり、水に転落して死ぬ事等によってその恐怖心が霊魂に染み着きそれが全く解消しないうちに再生するからである。そうしてこれら以外のすべての恐怖症も同様の理由によるものである。
     また生まれながらにして奇形や不具の場合があるが、これは霊界での清浄化作用が不充分のまま再生するから起るのである。例えば高所から転落したり、事故等によって手足及び身体の一部分あるいは全部を破損し失った場合、それが霊界において完全に治らないうちに再生してくるから、身体の一部分あるいは全部が奇形または不具であるという訳である。そして死んでから割と早く再生する場合、本人の執着だけでなく遺族の執着が強い場合も影響する。例えば世間でよく愛児が死亡した後、間もなく妊娠し出産する事があるが、これは母親の執着が強いために死亡した愛児が非常に短期間のうちに再生したのである。こういう子はあまり幸福ではないのが普通である。
     また見ず知らずの他人であっても一度会っただけで親子・兄弟姉妹のように親しみを感ずる事があるが、これは前世において親子・兄弟姉妹であったか、または非常に親密な関係であったからである。また旅行の際、ある場所に特別な親しみを感じたり、歴史上のある人物や場面に特別の親しみや憎しみ等を感ずる事があるが、これらは自分がその時代に生まれて何等かの関係があったためで、前世の記憶が残っている訳である。
     そして人は古い霊魂ほど優秀である。それは再生の回数が多いため前世での経験が豊富であるからで歴史上の大人物等は非常に古い霊魂なのである。反対に新しい霊魂ほど経験不足のためどうしても愚鈍で、このような人間は非常に器量が小さく狭いのはやむを得ないのである。
     以上は人間の再生についてであるが、今まで人間は本当の神様とつながる事ができなかったから前世と同じ事を今世も繰り返してきたのである。そして来世もまた今世と同じ事を繰り返すために不幸が永続してしまう訳である。したがって自分の前世を知るのは実に簡単な事で、現在の自分が自分の前世であり、前世は今世と全く変りはないのである。そうして永続する不幸を繰り返さないためには神様の教えを生きる基準にして神様と取引する事によって、神様から御霊光を伝達される事であり、それが永遠の幸福になる唯一の方法である。

    ■批判■

    「具体例:岡田茂吉『聖教書』p.183」から抜粋

     生まれながらにして奇形や不具者があるが、これは霊界において、完全に浄化が行なわれないうち再生するからである。例えば高所から転落して手や足を折った場合、それが治り切らないうちに生まれてくるからである。
     また早く再生する原因として、本人の執着のみでなく遺族の執着も影響する。世間よく愛児が死んでから間もなく妊娠し生まれるという例があるが、これらは全く死んだ愛児が母親の執着によって早く再生するのであるが、こういう子供はあまり幸福ではないのである。





霊線 (362)

     大宇宙・自然界・人間界を含めた一切万有は目に見えない線によってつながっており、この線を『霊線』という。大宇宙全体にも惑星の間にも無数の霊線が存在する。その中でも地球は大宇宙の理想境であり、造物主が地球を造った目的は自分の安息所にする事で、そのために必要な一切万有・森羅万象も創造され人間も自分の手足として使うために造られたのである。
     したがって大宇宙は地球を生かすために創造され、人間は神の代行者とするために造られたのであり、すべては人間を生かすために存在する。だから地球は大宇宙と霊線がつながっており、人間も同様で大人物は巨星との霊線がつながっている。有名人をスターと呼ぶのもこれを暗示している。地上界においても関係あるすべてと霊線がつながっている。人間対人間では夫婦・親子・兄弟姉妹・友人・親族というように親しい関係であるほど霊線は濃くて太いが、互いの心が薄れると霊線は急激に薄く細くなり、完全に心が離れると他人同志の霊線は消滅するが、家族の霊線は完全には消滅できない。
     また所有物・愛用品・ペット・身辺で使用している器物との霊線は、生きている時は勿論死後までもつながっている事もあるから故人の遺品はなるべく焼却した方が良い。故人の執着している遺品を貰うと、使用者に変事が起きたり火事になる事があるから注意すべきである。ただし国宝や重要文化財級の器物とか歴史資料や保存する価値のある物は、一般に公開し展示する事によって故人も満足するから良いのである。
     だが古くからの建築物の中には大勢の人々から無理強軸に取り立てた資金によるものもあり、そのような場合は大勢の怨念の霊線がその建築物につながっているから何等かの手段によって必ず消滅する運命になるのである。同様に株式や商品相場といった投機やギャンブルで儲けた金銭は、損をした者の恨みや妬みの霊線がつながっているから儲けた金銭以上の損失や被害が発生するのである。
     また霊界の先祖諸霊とつながっている霊線によって、先祖諸霊が地獄で苦しんでいると現界の子孫にもその苦しみの一部が霊線を伝わって肉体に入って来る。霊達の苦悩が激しいほどまっ黒い煤状の汚れが濃く多量に霊線の中を通って、先ず現界の子孫の脳に侵入し、次に脊髄や骨髄にまで侵入し身体各所に集中する。
     この霊的汚れは霊界の先祖が苦悩によって清浄化されている時に発生するもので、ちょうどゴミを焼却した後に残る灰や燃えカスと同じ意味である。霊界からの汚れが多量であれば子係の体内では膿化して苦痛が発生する事になる。
     また霊線は神仏ともつながっている。礼拝した時につながる場合もあるが、願い事をしたり御守りや御札や礼拝の対象となる物を貰った時に本尊と霊線がつながるものである。
     だがここで注意しなければならない事がある。それは神仏といえども正と邪があり上中下の階級があるから、低級霊や悪霊と霊線がつながると邪気や悪気が伝達して不幸の原因となるのである。だから人間が対象とすべきは太陽神でなければならない。太陽神とは第一神界に属する神霊であり、その証明は奇跡や利益が多く短期間で幸福化する事である。高級神の名前が本尊に書かれていても実際には全部といって良いほど低級霊が入っている。
     通常は太陽神と現界の普通人とは直接霊線を接続できない。太陽神と直接霊線を接続できる人間は太陽神の魂を持っていなければならないのである。つまり高級霊魂の人間には低級霊は憑依できないし、低級霊魂の人間には、高級霊は憑依しないのである。
     したがって太陽神が現界に肉体を有して人間に生まれ、教えを著し、御守りや御神体を描きそれを人間が心を開いて受け入れる事によってのみ太陽神との霊線は接続されるのである。特に太陽神との霊線は神線という。
    そうして霊線にも色があり稀に喜眼が開けて見える場合もある。邪気や苦悩が強いほど霊線は黒色が濃くなり、これと霊線がつながると運命は悪化する。
     程度の良い人間からの霊線は白色か黄色。感謝や歓喜の心を持っている人は白色や黄色に輝きを帯びた霊線で、「楽しい」とか「うれしい」という心が強いほど霊線に輝きが増すから、こういう霊線が多く来るほど運気が上昇する。
     恋愛している者同志の霊線は赤色。神仏の霊線は霊階級によって異なるが階級が上位であるほど光が強い。太陽神の霊線は紫か金色あるいは強烈な光である。神線が接続している人間の身辺は常に良い事が発生し、永遠の幸福が実現するのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





念の毒 (366)

     不快感・苦悩・怨み・嫉妬等のマイナスの念には毒性があり、自分の体内は勿論体外をも毒化させる。頭脳でマイナスの念を発生させていると、同時に周囲にマイナスの念を放出するから周囲が念の毒によって不快になったリマイナスの現象が発生する。だから本人も周囲も運気が低下するのである。
     また念はどんな遠方でも伝達されるから、怨みや嫉妬が特定の相手に集中して伝達されると相手と周囲の人間の運気を悪化させる。念の毒は肉眼で見えないだけで、実際には超微粒子の毒素の気体で毒気とも言うべき物質の毒素だから、念の毒も特定の人間や物質や地域や空間を毒化させ相手の体内へも毒素となって入ってしまうのである。
     「怨み骨髄に徹す」とは真実で、マイナスの念の毒は相手の骨の髄にまでも侵入し悪化させる。特に怨みの念は相手に対して「死ね」「不幸になれ」「お前の子や孫に取り憑いて死ぬまで苦しめてやる」「無一文にしてやる」「お前の家系が死に絶えるまで呪ってやる」と、具体的で強いから念の毒性も強い。そして相手の気力と体力が弱るほどマイナスの念に誘導されやすくなるのである。
     怨まれている本人がいくら気力と体力が強くても子孫の中の弱い者を狙うから、いつかはやられてしまうものである。怨みの原因のほとんどは異性と金銭であり、割と本人よりも子や係が犠牲になる例が多く、病気・事故で死亡したり廃人になったり不良になって親を苦しめるものである。金銭や財産に関する怨みは相手の金銭や財産が消滅する事によって、ある程度満足して解消するから、災害・火事・盗難・浪費・投資の失敗等は金銭や土地・家屋等の財産を消滅する事になるから、相当マイナスの念が解消され清浄化されて運気が上昇するものだが、あまりにマイナスが大きい場合はマイナスを解消するよりも破滅する方が早い結果になるのであるのである。
     また人間以外の鳥獣虫魚等の生き物を殺生する場合も、生き物のレベルが高いほど数が多いほど、その生き物からの怨みの念による毒化作用は強く、マイナスの現象となるので意味のない殺生や趣味で殺生するのはマイナスが大きい。
     狩猟、漁労、屠殺、料理等で生き物を殺生するのが生活の糧となっている場合も殺生の数が多いので不可であるから、迅速に廃業しマイナスを最小限にくい止めて今までの殺生によるマイナスは私が説く法則通りに実行し、神様の御霊光に浴する事で解消する。
     ただし生き物の殺生を代々にわたって行い、すでに代々にわたって子孫が眼を悪くしたり足を悪くしたり不具になったり等のマイナスが発生している場合は、神様との取引によって迅速に解消できるのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





念は伝達する (369)

     念は頭脳に発生するものであり、意志の通りにどんな遠方でも誰にでも何にでも伝達する。最も稀薄な存在だから普通は一瞬で消滅するが、念は数が多く時間が長く強力であるほど物質化し意志を持ち現実化する力を持つ。  不快感・苦悩・怨み・嫉妬等のマイナスの念は物質化すると毒素となり自分や相手の体内に入ったり周囲の運気を悪化させマイナスの現象を発生させるのである。
     マイナスの念は現界に生きている者からだけではなく、肉眼では見えない霊界の霊魂からの場合もある。霊界における自分自身の幽体から現界の自分自身の肉体に伝達される念と、
     現界から霊界へ伝達される念とがあり、両者は一体であると同時に互いの運命を誘導し構成し合っていて、プラスの念は幸福の成分となリマイナスの念は毒素となり不幸の成分となる。自分と何等かの関りがあれば必ず念の伝達はあるもので、例えば写真の相手を見ただけでも念は伝達するもので、写真であっても誰かが見るのだから軽々しく扱うのは注意すべきである。特に有名人は多数の人間の怨みや嫉妬の念を受けやすいから、幸々しいだけで不運になりやすい。だから多数の念を受けやすい立場であるほど言動の作用は重大である。
     そうして昔から遺跡や古墳や古戦場跡や墓地の跡に、家屋を建設して住んだり発掘した後に関係者に変事や凶事が多発する場合があるが、これはその地に埋葬されたり殺されたりした霊の怨みによるのである。また湖や沼や池を埋めたてたり、大木を伐採したり、古い社や祠を移動または撤去してから難病・奇病・事故・奇形・廃人・あるいは突然の災難が発生するのも、そこに長年住んでいた霊の怨みによるのは勿論で、その他遺品・発掘品・故人の形見・人形・仏像・有名な宝石や美術品や宝物・土地家屋等を所有してから悪い出来事が起きるのは、怨みが所有者とその関係者に対して向けられるからである。このような場合は所有を放棄するか展示公開して可能な限り多数の人々に見せる事によって、見た人々のプラスの念がマイナスの念を相殺するから念によるマイナスの出来事は発生しないのである。
     だから苦悩や怨み等のマイナスの念が伝達して染み込んでいる物は無料で貰っても苦悩が発生して所有していられなくなるか、破減するかの運命に誘導されるから決して利益にならないのである。しかし安価な品物でも健康で好運な人が所有していたとか、プラスの念が染み込んでいる物は高い値段になってもプラスの作用があるから所有した方が得である。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





心と肉体 (371)

     心の本体は頭脳であり、その中心に魂の本体がある。現界で生きている頭脳に本体が位置する魂を本霊あるいは本霊魂といい、本来清浄であるべき自分自身の魂である。そして下腹部を本体の定位置とする魂を副霊あるいは副霊魂といい、畜生類の魂で物欲と体欲の根源であり、肉体内が毒素によって悪化するほど副霊は強力となり、副霊が本霊を支配するようになると、人間は副霊の意の如くに動くから畜生と同様の運命になって不幸化する。
     反対に肉体内が清浄化して健全体になるほど本霊は強力となり副霊は従順となるから幸福化するので、本霊が主で副霊が従であれば最適である。本来は本霊と神様とはつながっていて常に神様からの意図が伝達されるのである。
     だから魂が心を支配し心が肉体を支配するのと同時に、肉体の状態は瞬間に心に伝達して心を支配し、心の状態は瞬間に魂に伝達して魂を支配するのである。
     つまり現界で生きている間は魂と心と肉体は一体であり、個々別々に切り離す事はできない。そして肉体全部が心の全部であり魂の全部であり、現界に生きている間は肉体の状態と全く同時・全く同じ大きさ・全く同じ形・全く同じ境遇の心と魂が存在し融合しているのだが、死と同時に肉体から心と魂が離脱した時はその肉体は亡骸であり死体となり、その心と魂は霊体となって生活し活動するのである。また内体内には内臓や骨や血液等から細胞や原子等に至るまで大中小の無教の肉体と心と魂が存在し、頭脳を中心とし全体が融合して人問ができているのである。
     そうして心の意識界と無意識界は同時に肉体にもあり、意識界と無意識界は一体である。意識界とは現在の自分によってでき、無意識界とは過去の自分と霊界に存在するもう一人の自分(未来の自分)によってできるのである。現在の自分の念や言葉や行動や運命等、意識する自分に関係するすべてが時間の経過と共に無意識界に蓄積され、そうすると自力でこれを消滅する事ができないからプラスの内容なら意識界の自分にプラスの念・言葉・行動・運命等となって現実化するから良いが、マイナスの内容が無意識界に蓄積されるとマイナスが現実化してしまうのである。無意識界に蓄積され記録されている自分の内容は、初めて人間に生まれてから今日までのすべてと、人間となる以前の時代の自分についてのすべてである。
     だから今まで神様とつながる事ができなかったために、人間は前世も前々世も今世も来世も時代は違っても同じ運命を永遠に繰り返しているので、永遠に幸福にはなれなかったのである。無意識界に蓄積されているマイナスは毒素となり、魂と心と肉休を毒化・悪化・異常化させ不幸に誘導するから迅速に消滅しなければならないが、無意識界のマイナス消滅は神様の御霊光によってのみ可能となるのである。御霊光は現界の自分と霊界に存在するもう一人の自分に伝達されるから、現在と未来は同時に好転し幸福化して過去のマイナスが現在と未来の自分に現実化する前に御霊光によって消滅されるという訳である。
     つまり過去の自分が現在と未来の自分を決定し、現在の自分が未来の自分を決定するという事は当然だが、未来の自分が現在の自分を誘導する事も可能なのである。
     この場合の未来の自分とは現界の自分と同時に霊界で生活しているもう一人の自分の事で、霊界の現象は現界に現実化し現界の状態が過去の霊界の状態であるから、霊界は現界からは未来で現界は霊界からは過去であり、霊界の状態は確実に現界に実現するのである。だから現界の自分が神様とつながると同時に霊界の自分も神様とつながり、現界の自分が御霊光によって良い結果が発生すると霊界の自分は現界の自分の未来の状態であるから、御霊光によって現界の自分より幸福化した状態になっている。
     こうなると今度は霊界の自分の方が現界の自分より階級がはるかに上位だから、神様とつながってから幸福化するまでのすべての内容を霊界の自分の方から現界の自分に対して常に伝達してプラスの誘導が可能になるのである。そして霊界の自分から現界の自分への伝達は無意識界へ蓄積されるが、御霊光は意識界へも無意識界へも伝達されるのである。
     そうして肉体の全機能の本体は頭脳であり頭脳の全機能を最も快適に理想状態で実現するために五官・五体・五臓及び全身が存在する。頭脳が全身へ指令するだけではなくて、全身各所からの情報も頭脳へ伝達され、体内の情報伝達や生命エネルギーの伝達は光によって行われその光は人間の霊光であり生命エネルギーである。
     霊光は魂の階級が高いほど、心の喜びや楽しさ等の幸福感が高度なほど、肉体が健全なほど強力であり、頭部からも手足からも胴体からも霊光が放射していて全身を包んでいる状態である。霊光が強力であるほど全身を包んでいる霊光の層が厚くて幸運であるのは言うまでもない。
     肉体内の霊光は全細胞に充満し充実していて、心臓が鼓動と共に吸収した生命エネルギーの霊光は血液等と一体になって全身を循環し、脳から全身へ全身から脳への情報伝達の霊光は全神経を通じて全身に拡充し循環するのである。それが肉体の毒化や破損によって異常化するほど、全身の霊光は弱まり稀薄になって全部の運命も悪化するが、一度異常化した肉体は神様の御霊光を伝達されないと健全化しないのである。そうして異常な肉体には全く同じ異常な心が一体となっているから、病気が重いほど心も異常であり、運が悪いほど心も異常である。さらに肉体の異常な箇所に応じた心の異常がある。
     例えば心臓の異常は心の熱の異常となり、プラスの情熱が弱まると同時にマイナスの情熱が強まって、激怒による異常な攻撃性が発生して冷酷で残忍な心に変化するので、心臓が悪くなると同時に心は冷酷になるという法則である。肺の異常は肺活量の低下となるから、明瞭で大きな声で歌ったり話をしたり笑ったりする事が困難になり、心が陰気になる。胃の異常はお金などの物質的財産に対する異常な独占欲に心が支配されるようになる。
     勿論心が先に異常化して肉体が異常化する場合もあるが心が先に異常化するのは、それ以前に原因となるマイナスの出来事が何か発生したからであるから運が悪い訳で、運が悪いという事は頭脳を含めた肉体内には現在のマイナスの状態に匹敵するだけの異常が発生しているのである。
     そうして心と肉体における異常のすべては腎臓部の異常が根本原因であり、腎臓部とは腎臓本体と副腎である。この腎臓部が肉体内の清浄化作用(毒素消滅)の原動力であるから、腎臓部の働きが悪くなるほど毒素は肉体内に蓄積して、他の器官も頭脳も心も異常化し運命も悪化する。また腎臓部の働きが悪化するほど肩こりも悪化するから、心と肉体が異常化するほど肩こりも重症となり、運が悪いほど肩こりも甚だしいのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





憑霊 (378)

     憑愚霊とは死霊や生霊が人間に憑依する事で、憑依する場合は同じレベルに憑依し、また同じレベルだから憑依できる訳である。したがって高級霊魂の人間には高級霊しか憑依できないし、低級霊魂の人間には低級霊しか憑依できないのである。そして人間の肉体が健全で正常であるほど、また幸福であるほどより高度なプラスの霊が憑き、不幸であるほど不幸な霊(マイナスの霊)が憑くのである。
     だからいくら拝んで憑霊を離しても意味がない。何故なら何の霊が憑いているのかと思って一生懸命に御祓あるいは除霊をして、目的の霊が一時的に離れたとしても、その生きている人間のレベルが上がらなければまた同じレベルの霊が憑くからである。また離しても同じようなものが憑いてくるから、生きている人間は常に健康で健全でなくては駄目で自分が幸福にならなければ絶対にプラスの霊は憑かない。
     よく「あなたには戦国時代の武将の霊が憑いている」等の何の意味も実体もない事を騒ぎ立てる人間がいるが、現実に自分が幸福になってしまえば何でも良い訳である。人間が幸福になれば変なマイナスの霊は憑いていられなくなり幸福な霊しか憑依できなくなる。また守護霊も同様で、その人間の魂のレベルに応じた守護霊が愚く訳である。
     したがって自分のレベルが上がればレベルの上がった霊が憑くのだから、マイナス霊の除去や離脱よりも自分のレベルを高度にする事の方が永続する効果がある。そして自分のレベルを上げる方法は神様の御霊光による以外にはないので、一秒でも速く神様とつながり神様と取引をして御霊光を伝達して貰うのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





憑霊化による胃癌 (379)

     小さい魚・小さい蛙・蛆や芋虫等の幼虫・蚯蚓・蛞蝓・小生物を生きたまま丸呑みにする人間がいるが、この場合丸呑みにされた生き物は人間の胃の中で生きながら消化液で溶解されるので、もがき苦しみつつ時間をかけて殺されるため、自分の生命エネルギーをすべて苦しみと怨みに変化させて死霊となり、怨霊化して胃に取り憑く。
     丸呑みの生き物の数が多いほど胃の中の怨霊が増加し、物質化して癌になるのだが、この癌は怨みの念の塊と化して復讐のために発生したので最も悪性で毒性も強いから人間の苦痛も激しく、取り憑かれた人間は体内の生命エネルギーを吸い尽されるまでもがき苦しむのである。
     小生物の怨みといえども多数が集中して怨霊化すると復讐の意志を持つから、意味のない殺生や必要のない殺生を趣味や趣向で楽しむのはマイナス化現象を発生させるのである。人間にとって殺生しないと危険であるか被害が発生するか等、殺生する必要がある場合はたとえ殺生しても最小限のマイナスでプラスの方が大きいからマイナス化しない。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





水子霊を救う (381)

     世の中の人は水子霊と赤子霊を霊的に同一と思い同じような扱いをしているが、これらはあらゆる点で異なるのである。
     先ず赤子霊の場合は赤子として一度現世に生まれ赤子の状態で死亡したのであるが、生まれるまで母体の中で充分に親の喜びを受け生まれてからも関係者の祝福を受けて命名され、常に「生まれてよかった」、「うれしい」という歓喜の念を一身に浴びるので大いに恵まれている。また死亡してからも親は勿論のこと関係者に惜しまれつつ成人同様の扱いをしてもらえるので何等問題はない。ただしこの場合関係者が一日も早く赤子の事を忘れてやり、法則通りの手続を行う事が条件であり、それにより幸福な霊界生活を送ることができるのである。
     一方水子霊はというと、こちらは大変不幸で寂しいものである。それでも「子供が無事に生まれてほしい」と願いながら運悪く流産した場合は、通常の手続により救われるのであるが、そうでない場合が問題である。
     すなわち意図的に親にとって都合が悪いからといって人工中絶した場合である。これは神様から見ると殺人であって何等弁解の余地はない。どんなに生み育てることが困難な理由があっても、受胎した人間の生命を闇から闇に葬る行為は通常では決して許されない。こんな場合水子としても親を許すことはできないのである。
     何しろ受胎してからというもの「妊娠して困った」とか「早く始末しなくては」等の母親の冷酷非情なマイナスの念を常に受けているため、水子も悲しみ、あるいは恐怖しながら生命を奪われるのでその無念さと憤りは並大抵のものではない。
     さらに中絶後、親は水子を省みる事もなく謝罪の念等は全く頭の中になく、「早く始末できて良かった」という念を持つに至っては水子の悲しみと憤怒は増大するばかりで、その結果年月を経て怨みの念となり、種々の災いやマイナスの出来事となって現界に発生するのである。母親自身は種々な婦人病を患うことが多いが、現界の子供に苦しみが発生することもある。
     この場合子供の非行や精神不安定等はどんなに子供に注意しても無駄で、水子霊を救う以外には方法はないのである。その方法は何かといぅと、先ず親が水子霊に対して心から謝罪する事であるが、形式のみでは決して霊は満足しない。
     心から「申し訳なかった」と詫びなければ許されないのである。そうして水子霊が救われる手続をする場合であるが、法則通りに行う事は勿論であるが、結局は水子霊を救う方法は神様の御霊光による以外にはないのである。人間に出来る事は神様との取引だけであるから、私の所に来て手続をし、水子霊が一日も早く霊界で家族の一員になれるように神様とつながるのである。さらに親が神様と最大限の取引をして御霊光を浴びる事によって一層迅速に救われて行くものである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)





地縛霊を解消する (384)

     地縛霊とは自殺・他殺・事故死等による変死者の霊であって、これらの死霊は通常の手続ではその死亡した場所を離れる事ができないもので、まるでその地に縛られた如くであるから地縛霊というのである。このような霊は死所から教十メートル以外には出られず、また居所が墓場と異なり自分一人しかいないため、非常な孤独感に襲われ無我夢中になって相手を求めたがる。そのためその霊の近くを通行する者を誘って自殺や事故死させようとするのである。
     だから事故死のあった付近や青木ケ原の樹海等には、次々と不幸な人間が誘導され変死者が発生するのである。
     そうして地縛霊は通常は数十年間は死所より離脱できないものであるが、関係者(家族等)のやり方次第によってより速く離脱できるのは言うまでもない。地縛霊を離脱させるためには関係者が神様とつながらないと御霊光が伝達されないから不可能であり、神様とつながると御霊光によって地縛霊は解消されるのである。神様とつながる事によって地縛霊解消の手続も初めて効力が発生し、手続と同時に地縛霊は解消して先祖や諸霊が生活している本来の霊界へ入る事ができるのである。
     地縛霊解消の手続は実に簡単で、死亡した場所へ行って(できるだけ近づいて)「神様の許可によって、○○○○(死者の姓名)を迎えに来ましたから帰りましょう」と声に出して言えば良い。この時に地縛霊の遺骨や遺品があれば回収し、なければそのままその場所から地縛霊の自宅墓地へ帰って、最後に神様に報告して手続は完了である。
     各宗教や信仰の本尊等を返却したり撤去する手続も神様とつながっていると簡単で、「今度神様とつながったので、○○○○(本尊の名前)は元の場所へ帰って下さい」と声に出して言えば良い。将来はさらに簡単になり、マイナスの霊も宗教も神様の御霊光で解消され絶無となるのである。

    ■批判■

    (批判文は現在執筆中)



資料(図・表)
大陽神と人間をつなぐ媒体 (22)

使えるものは何でも使う (35)

御神業の要素は奇跡・人・お金 (54)

水・金・土の原理 (68)

天秤の法則 (136)

理想の吉相図 (158)

幸福の三要素・幸福感 (163)

上昇運・下降運 (191)

神様の教え (257)

清浄化作用 (262)

肩こりの原因・肩こりの解消 (327)

肥満とは (334)

霊界階級(神霊界・人霊界) (358)

生きている人間の本霊・副霊 (386)




 この『神書』は人類が初めて授かった神様からの商品であり、本来なら現在の貨幣価値で一冊につき一兆円以上は欲しいのだが、神様との永遠の取引を求める人には経費と手数料だけの最低価格に設定してあるから、後は人間の方で最適値にすれば良いのである。
 手に入れた人は日常生活において常に身近に置いて最大限にこの『神書』を利用し使用するのが良い。その結果個人の幸福度が高まるほど、また幸福者が増えるほど私の利益となり神様の利益になるという仕組みである。そうしてすべては自然に良くなり、簡単に良くなるのである。
平成11年4月21日 主

■批判■
 「この『神書』は人類が初めて授かった神様からの商品であり」と決めつけているが、それは作者自身が勝手に断定しているだけであり、この組織を離れれば誰一人としてこんな本の存在を認めていない。
 「バカも休み休み言え!」と言いたくなる文章だ。

 文中に、『この本は神様の言葉であるから、本当なら1冊1兆円欲しいところだが・・・』との記述があるが、これほど率直に作者の願望が露呈したカルト本に巡り会うことは滅多になく、この本はそうした意味では貴重な存在だ。
 この団体は、何かにつけて「金、金、金・・・・・」で、神慈秀明会以上に金がかかる団体であるが、「本来なら現在の貨幣価値で一冊につき一兆円以上は欲しいのだが、神様との永遠の取引を求める人には経費と手数料だけの最低価格に設定してあるから、後は人間の方で最適値にすれば良い」というのは、祭りの屋台で香具師(やし)が使う口上と同じで、実際には価値の無いものを、さも価値があるように思わせるときに使うセリフ回しである。
 詐欺師が好んで使うテクニックが随所に盛り込まれたこの「神書」という本は、その全貌を公開し、世間に晒す必要がある。





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