神世界新聞

(下記は、2011.03.09更新)

神世界新聞 第11号(2011.03.01発行)を見て

神世界新聞第11号(2011.03.01発行)
 平成23年2月11日(金)の産経新聞朝刊に、「神世界・近く立件へ」という記事が掲載された。しかし他の新聞社やテレビ局からはそうした報道は一切なかった。神世界事件に関する捜査は続行中であり、立件があっても別段おかしくはないが、2/11時点では、私のところにもそのような情報は入っていなかった。産経新聞社がどこから得た情報に基づいてあのような記事を出したのか不明だ。
 しかし、あの記事を見た神世界関係者はさぞかし慌てたことだろう。産経の記事を読みながら不安な表情で額を寄せ合っている神世界関係者の姿を想像するのは、なかなか愉快である。あの産経の記事によって神世界関係者は、「心の準備」ができたので、いつ”本番”が来ても慌てることなく対処できることだろう(笑)

 産経の記事が出てから約半月後、平成23年3月1日付けで発行された神世界新聞第11号では、早速その件が第二面下段の「法律解説・宗教活動がなぜ?」で取り上げられている。この欄で解説を述べている神世界側弁護士によると、2/11の産経の記事は、「産経新聞の記者が、正確な知識もないまま、それこそイメージ先行で書き上げた結果、このような曖昧で実体のないセンセーショナルな見出しと記事になったのだと思われます」と述べている。更に「産経新聞の”神世界・近く立件へ”なる見出しは、何で今更、という感を拭えない、いい加減なものです」とも述べている。
 「いい加減なもの」と揶揄される産経の記事は3/2(水)にもあった。産経新聞は大学入試で受験生がYahoo知恵袋に試験問題を投稿してカンニングをした件でも、「都内2高校生が関与。1人は外で中継。京都府警ほぼ特定」等と、事実とは全く違った記事を出した。この記事については、後日誤報であったことが判明し、産経新聞は訂正・謝罪している(歯切れの悪い謝罪記事だったが)。あの記事は携帯電話の契約者が判明したという情報と2ちゃんねるなどネット上に書き込まれた「東京の2高校生」の情報を結び付けて記事にしたらしい。京都府警幹部が「あほか、どうなっても知らんぞ」と否定したにもかかわらず担当デスクと編集長が「特ダネや!」と舞い上がって紙面化したとの話も伝えられている。産経新聞を読むときは眉に唾をつけてから読んだ方がよさそうだ。


■一面の記事
 神世界新聞第11号一面の記事を一通り読んでみたが、はっきり言って「つまらない」。なぜつまらないかと言うと、実体のない、独りよがりの思い込みしか書いてないからだ。私がこうした発言をすると、「精神世界のことを論じているのだから実体がないのは当たり前だ」と反論されるかもしれないが、それは違う。目に見えない精神世界のことだからこそ、第三者が読んだ時に少しでも理解されるように丁寧かつ慎重な説明がなされるべきなのだ。
 神世界新聞に書かれていることは、いかに我らが神様は崇高かつ霊験あらたかであるかを強調した内容になっているが、それは信じている者にのみ通用する内容であり、一般的に理解される内容ではない。
 神世界が本気で宗教団体としてやっていくつもりがあるのなら、如何にして教義を広げていくかを考えるべきだ。神書に書かれていることは理解するものではなく、無批判に信じるだけでよいとする主張は極めてカルト的であり、多くの人に受け入れられるものではない。世の中の大多数の人間は、すでに神世界に飲み込まれてしまい視野狭窄に陥った哀れな人間とは違う。

 「すべて予定通り」と題して日原易子が書いている内容は”後出しジャンケン”でしかない。最盛期と比較して大幅に規模を縮小せざるを得ない状態となった神世界の実態を見れば、到底これが「予定通り」とは誰も思わない。それともこのような凋落の道をたどることも予め予定されていたことだったのか?
 宮入英實は神様の奇跡によって救われた話を書いているが、本当に御霊光に奇跡を起こす力があるのなら、御霊光に非常に近い位置にいた神世界関係者の親族が38才の若さで急逝した事実をどのように説明するのか。更に言えば、教祖の子供にはなぜ御霊光の力が及ばないのか(こう書いても意味が分からない神世界関係者の方が多いであろうが)。

 人間には持って生まれた自然治癒力があり、大抵の病気は自然に回復することが知られている。私自身もこれまでそうした経験を何度もしてきたし、私の友人も、くも膜下出血で倒れ、一時は再起不能かと思われたが手術後、奇跡的な回復力を見せ、現在では現職復帰を果たし何の障害もなく活躍している。
 神世界新聞に書かれているような、”神世界が奇跡と呼ぶもの”は世間では日常茶飯事に起きていることに過ぎない。人間がこの世に生を受け、生きていること自体が大きな奇跡であることの認識がないから些細なことを奇跡だと騒ぎ立てることになる。神世界関係者は当たり前のことを勝手に”御霊光のおかげ”と吹聴しているに過ぎない。視野狭窄の極みが神世界新聞にはあふれていると言える。
 病気が回復した事例など、都合のよい事例は大々的に脚光を浴びせて針小棒大に騒ぎ立て、親族が亡くなった事例など、都合の悪い事例はひた隠しにするのが神世界流だ。世間ではそういうのをご都合主義という。神世界新聞にあふれているのは上記視野狭窄と自分たちに都合のよいことだけを吹聴するご都合主義の記事ばかりだ。このような恥ずかしい内容の新聞を出し続け、自らの団体がどれだけ世間の常識からかけ離れた存在であるかをアピールし続けるのは自殺行為でしかなく、それに気づかないのは誠に哀れである。

 神世界は、強制捜査前までは「ここは宗教ではない。会社です」と言い続けてきたが、損害賠償訴訟が始まった途端に、「神世界は宗教だ」と態度を180度豹変させた。これは、”宗教の問題は裁判にはなじまない”として逃げるつもりなのだろうが、そのように都合のよい解釈がまかり通るほど世間や裁判所は甘くない。百歩譲って、「過去にはそのように言ってきたが、これからは神世界は宗教団体になるのだ」と言うのであれば、まだ理解はできる。ただし、その場合でも過去の清算をきちんと行った上で宗教団体への移行を行うべきであり、過去の清算もまともにできないような者が宗教団体を名乗るなど厚かましいにも程がある。
 神世界が宗教団体を装えば装うほど宗教団体らしからぬ面が多々露呈してくる。思いつきとその場しのぎの方策で自転車操業してきたのが神世界だ。付け焼き刃はすぐに刃が欠ける。もうそろそろバカげた宗教ごっこは止めて、年貢の納め時が来ていることを悟るべきなのではないか。


■二面の記事
 二面(裏面)上段に書かれているのは、いつもながらの”奇跡話”の羅列だ。これらの”奇跡話”は、今なお神世界に通っている者達は如何に視野狭窄と医学知識不足に陥った者ばかりであるかを晒すだけのものでしかない。編集者によって内容が脚色され、客達が語った話を針小棒大な内容にして掲載しているのかもしれないが、もしそうではなく、投稿した者が本当にこの通りの内容を述べたのだとしたら、投稿者は直ちに精神科の医師に診てもらった方がいい。本当にこのように思い込んでいるとすれば、本人とその家族を不幸にするだけだ。
 こうした奇跡話のオンパレードはどこのカルトでも見られることだが、こうした現象を見せつけられる度にカルト被害が日本中に蔓延していることを思い知らされる。

 二面の記事で興味深いのは尾崎幸廣弁護士の投稿記事だ。私はこれまで神世界新聞に尾崎氏が投稿した記事を酷評してきたが、今回の尾崎氏の投稿はこれまでとは違い、かなりまともな事を言っているので驚いた。
 「悪に立ち向かう」と題して書かれた今回の記事(下記枠内)は、あたかも神世界被害者に、「泣き寝入りするな。戦えば悪(神世界)は退散する。被害者は強くなって神世界と戦うことが大切だ。諦めてしまい、戦いを止めることは結果的に悪(神世界)の味方をすることになる」と言っているように見える。
 この尾崎氏の文章に近い内容は神書の184ページにも書かれている。「ならぬ堪忍」はするなという項がそれだ。私の「神書批判」の中でも、この項だけはプラス評価をしている。
 神書の「ならぬ堪忍」に感化されて尾崎氏はこのような文章を書いたのか、それとも、つい本音が出てしまったのだろうか。尾崎氏のこの文章が教祖の逆鱗に触れ、神世界顧問弁護士の職を解雇されそうになったときは、「神書の184ページに書いてあることを述べただけです」と言い訳をすれば、「それなら仕方がない」として首がつながるかもしれない。他人事ながら少し心配になったので私からのアドバイスだ(笑)


神世界新聞第11号に掲載された尾崎弁護士の記事

私の一言 「悪に立ち向かう」
 戦後の我が国で特徴的なことは、悪に対する無気力な負け犬意識である。理不尽なことをされても、いつかは相手も自分の非に気付いてくれるだろうと自らを慰めて泣き寝入りする。しかし、相手はかさにかかってますます攻撃を強める。個人間でも国家間でもその繰り返しで今日まで来た。
 社会問題になっているいじめもその一つで、いじめる者が悪いのは当然であるが、いじめられる方にも問題がある。どうして抵抗しないのか。戦えばほとんどの場合相手は退散する。戦う気迫を示すだけでいじめは止む。それなのに忍耐するからますますひどい状態になるのである。
 善人は強くならなければならない。悪に屈するならば結果的には悪の味方をすることになる。私は、検事時代、気弱な善人が悪に屈し不幸な日に遭う事件を多数見てきた。悪を処罰しても不幸が完全に回復することはあり得ない。邪悪な意図に基づく攻撃には決して妥協せずに断固対決しなければならない。それが善人の務めである。

(弁護士 尾崎幸廣)




神書P184、「ならぬ堪忍」はするな
 昔から「ならぬ堪忍するが堪忍」といって、とにかく我慢・忍耐という教育を根本とし美徳としたがこれは征服者の奴隷に対する教育なのである。  理不尽な事により自分の生命や財産を侵害されても「堪忍しろ」「我慢しろ」というのは、「何に対しても無抵抗でいろ」という事であり、結果的にはマイナスの要素を作ってしまう事になる。したがって苦しむ事自体がマイナスであるため、理不尽な事に対しては決して泣き寝入りや忍耐・堪忍・我慢をしてはいけないのである。苦しんでいる者や弱い者が悪い人間という事になってしまうので、神様の御霊光により自分自身の運を良くして幸福であれば堪忍の必要がなくなるから、良い人であり善人という結果になる訳である。





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