神世界新聞第11号に掲載された尾崎弁護士の記事
私の一言 「悪に立ち向かう」
戦後の我が国で特徴的なことは、悪に対する無気力な負け犬意識である。理不尽なことをされても、いつかは相手も自分の非に気付いてくれるだろうと自らを慰めて泣き寝入りする。しかし、相手はかさにかかってますます攻撃を強める。個人間でも国家間でもその繰り返しで今日まで来た。
社会問題になっているいじめもその一つで、いじめる者が悪いのは当然であるが、いじめられる方にも問題がある。どうして抵抗しないのか。戦えばほとんどの場合相手は退散する。戦う気迫を示すだけでいじめは止む。それなのに忍耐するからますますひどい状態になるのである。
善人は強くならなければならない。悪に屈するならば結果的には悪の味方をすることになる。私は、検事時代、気弱な善人が悪に屈し不幸な日に遭う事件を多数見てきた。悪を処罰しても不幸が完全に回復することはあり得ない。邪悪な意図に基づく攻撃には決して妥協せずに断固対決しなければならない。それが善人の務めである。
(弁護士 尾崎幸廣)
神書P184、「ならぬ堪忍」はするな
昔から「ならぬ堪忍するが堪忍」といって、とにかく我慢・忍耐という教育を根本とし美徳としたがこれは征服者の奴隷に対する教育なのである。
理不尽な事により自分の生命や財産を侵害されても「堪忍しろ」「我慢しろ」というのは、「何に対しても無抵抗でいろ」という事であり、結果的にはマイナスの要素を作ってしまう事になる。したがって苦しむ事自体がマイナスであるため、理不尽な事に対しては決して泣き寝入りや忍耐・堪忍・我慢をしてはいけないのである。苦しんでいる者や弱い者が悪い人間という事になってしまうので、神様の御霊光により自分自身の運を良くして幸福であれば堪忍の必要がなくなるから、良い人であり善人という結果になる訳である。
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