妻への手紙(12)
 以下の文章は、私から妻の登志子へ手渡した手紙を、一部の固有名詞等を除き、そのまま掲載しています。
 こうした親書を公開する理由は、同様の問題を抱えている方の参考に少しでもなればという思いからです。
 これを書いたときは、公開することを考慮せずに書いていますので、私と妻の間でしか分からない事情も多少あるかも知れないことを承知の上でご覧下さい。

登志子さんへ(12)

 登志子さんの「お光り」を私に預けて頂き、ありがとうございます。
 この「お光り」は、私が大切に保管しておきます。
 登志子さんは、私に「お光り」を預けたからといって、そのお光りが粗末に扱われたり、ゴミとして廃棄されたり、お光りを開いて中身を切断されるようなことには心理的な抵抗があると思いますので、そのような過激な取り扱いはしませんので安心して下さい。
 日本人の一般的感情として考えた時、神社のお守りを粗末に扱ったりすることには、多くの日本人は何となく抵抗感を感ずるものです。
 そうした感情は迷信のようなものなのかも知れませんが、そうした日本人特有の感情まで否定しようとは思いません。お守りを持つことにより「心の安らぎ」が得られるのであれば、お守りの効果はあったと考えるべきなのでしょう。
 ただし、神慈秀明会のお光りは、一般的なお守りとは違ったカルト独特の意味があるものなので、あなたへの「心理的な悪影響」を絶つために、私が金属製の缶に入れ、封印して保管しておきます。
 時間の経過と共にお光りの存在を忘れてもらったら結構ですが、何年後かに思いだしたとき、もうお光りを処分しても全く大丈夫と思うようでしたら私にその旨を伝えてください。その時点で正式にお光りを処分したいと思います。
 その代わりになるかどうか分かりませんが、私からあなたに先日プレゼントした○○神社の「お守り」を、私からあなたに対する気持ちとして受け取ってください。

 私は、登志子さんの現在の心境が、神慈秀明会を離れ、お光りを私に預けた結果、心の中にぽっかり穴が空いたような状態になっていないか心配しています。
 過去十数年間、本当に神慈秀明会の教えを信じ、それを心の拠り所としてきたのであれば、その大切にしてきた部分が抜け落ちてしまうのは、とても精神的に大きなショックだったのではないかと心配します(しかし、だからと言って神慈秀明会の教えが正しいということではありません)。
 カルトを信じている人は、それが本物の宗教だと思いこんでいますが、実際にはそう思いこまされているだけで、カルトは本当の宗教ではありません。カルトは宗教の皮をかぶった犯罪集団であり、信者から金や労働力を収奪し、自らの富を蓄積することにその本質があります。その過程で信者を騙すために「宗教のような顔」をしてあらゆる活動を行いますが、最終的には多くの被害者が生まれるだけの結果となります。
 あなたの周辺にいた信者の人たちは決してそのような悪い人たちではなかったのでしょうが、彼らもカルトを信じた被害者であり、騙されているのです。神慈秀明会のために多くの人たちが貴重な人生を台無しにされ、多くの家族が離散し、夫婦が離婚している現実を忘れてはいけません。
 あなたが神慈秀明会をやめた決断は決して間違っていなかったという確信を持って頂きたいと思います。


 あなたが脱会を決意したことをインターネットで公表したところ、多くの方から反響がありました。自分のことのように喜んでくれた方もたくさんおられます。
 神慈秀明会の現役信者の方からも、「脱会を迷っていたけれど、奥様が脱会を決意するに至った経過を知り、とても励まされた」、「私も脱会を思っているが、不安が先行してなかなか脱会の決意ができなかった。私が脱会して不安な気持ちになった時に、私にも力を貸してほしい」等というメールが数件ありました。「家族が神慈秀明会の信者だが、その家族を脱会させるための多くのヒントを得ることができた。これからも頑張って下さい」等という激励のメールも沢山頂きました。
 少しずつですが、神慈秀明会の誤りに気づき、脱会を考える方が増えてきました。
 しかしその一方で神慈秀明会には「学生部」、「ジュニア部」等という組織もあり、多くの大学生や、親に連れられた小学生や中学生、高校生等もおり、こうした未成年者に対しても神慈秀明会の教えが今でも刷り込まれています。
 十分な判断能力を持たない未成年者に神慈秀明会の教えが刷り込まれたとき、その子供達の将来を思うと暗たんたる気持ちになります。
 こうした子供達を一日も早くカルトから救い出すことは、私たちに課せられた重大な課題であると思いますが、組織の外にいる人間にとってそれは非常に難しい課題です。
 この課題を達成するには、神慈秀明会という組織そのものを解体しなければ解決しない問題であるように思います。


 ある宗教教団の主宰者の方からメールを頂きました。宗教教団主宰者からのメールということで、私の活動に対するクレームかと思いましたが、その内容は私がこれまで行ってきた家族をカルトから守るための活動に賛同する内容でした。
 この宗教教団は、私のホームページに、「宗教の真贋を見分ける4つの鍵」として掲げた、
1、その教団が他者に入信と金を強制しないこと。
2、教祖が神や仏の生まれ変わりだとか霊感があるなどと言わないこと。
3、教祖と布教者が質素な暮らしをしていること。
4、その教団が病気の治癒や現世の幸福を信仰の代償として保証しないこと。
という4つの条件を全てクリアしているそうです。
 この宗教教団のホームページを詳しく見させてもらいましたが、信者個人の信仰と信者の現世での努力を大切にする姿勢にあふれており、上記4点についても明確にそうした誤りを犯さないように自らを戒める姿勢を公言していました。
 この主宰者の方は、役所の人が生活保護を受けるようにアドバイスをしてくれるほどの経済状態であるようです。
 この方は、自分の信ずる宗教を地道に拡げる活動をしながら、カルト問題で悩んでいる方の相談にものっているそうで、その点で私の活動と共通点があるのでメールを送って頂いたようです。

 この主宰者の方の宗教に対する考え方は、とても自然で、無理のない考え方に思えます。以下に、この方から頂いたメールの一部を紹介しますので参考に読んでもらいたいと思います。ただし、こうした特定の宗教主宰者の方の意見を紹介するからと言って、私がこの宗教をあなたに勧めようということではありません。私自身、この方の意見に同調できる部分が多いのは事実ですが、その一方で私には全く理解できないこの宗教独自の考え方もあり、私がこの宗教を信心しているということではありませんので誤解のないようにお願いします。

(以下の青字部分が、宗教教団主宰者の方からのメールの一部)
 私は宗教というのは、基本的には「色々ななぜ?」について答えを用意するものだと思っています。
 例えば、なぜ、ここに生まれたのか。なぜ、私はこういう環境なのか。なぜ、私はこの地球にいるのか。これは、宗教を「文字通り」に捉える人には怒られるかも知れませんけど、宗教というのは、個々の人にあわせて(人はみんな違いますから)、そういった「仮説」を提供していく体系であるとも言えると思います。

 あるタイプの人にとっては、その「仮説」は、○○のものが一番しっくりくるでしょう。また、ある人にとってはキリスト教やイスラームのそれかもしれない。そして、自分にあった仮説体系を祈りや儀式といった宗教の体験によって、仮説を自分にとっての現実として体感していく、逆にいえばそれだけのものなのだと思うのです。

 ここで、「自分の信仰」が、「万人のための信仰であるべき」となってしまうのが、カルトはもとより、多くの宗教の犯した間違いがあるのだと考えています。

 宗教者である私が、こういうことを言うのもどうかと思いますが、宗教というのはそれが「宗教」である限り、どんなに後の世で「絶対の真理」になるであろうものであっても、しょせんは「形而上学上のもの」にすぎません。宗教は宗教であるといっている以上、「仮説の体系」の域を出ないのです。ですから、間違っても「絶対正しい」などということを人に押し付けることはできるはずがないものなのです。
 いわゆる「宗教的絶対」や「宗教的真理」というものはあくまでも「信仰を共有する集団内」での「閉じられた世界における真理」であり、「閉じられた世界における絶対」でしかないのです。これを勘違いした時にどんなに良い教えでも諸悪の根源になってしまうのです。そしてこれは同時にその「閉じられた世界」の中でさえ、罪悪になってしまいます。なぜなら、そうした「絶対」や「真理」を誰にでも当てはめようとする人はその瞬間に「謙虚さ」という大切なものをなくしてしまうからなのです。

 ですから、そうした謙虚さを常に持ちつづけた上で、自分なりの宗教観を一人一人が持てばよいのだと思うのです。私個人の宗教観は別として、私は私の弟子にさえ、弟子が自分の宗教観を確立できるまでは私自身の宗教観を話さないことがあるくらいです。そのくらい宗教とは個人のものだと思っています。自分の宗教観が確立できた上で、お互いの宗教観を語り合い、その中からよりよいものを創り出して行く、これが本来の信仰者としての姿だと考えているのです。

 余談ですが、幸いこの考えは異教徒の方にも受け入れてもらえるようで、もう去年になってしまいましたが、イラクの戦争の時、日本のイスラームの本部に出向き、イスラームの法学者の方とともに宗教者としての無力さを告白しあった後、大勢のムスリムの方々との暖かい交流の中、ともにイラクの人たちについて祈りました。「ただ祈っているだけ」それだけなのに、平和が訪れることを信じ、ともに励ましあえる仲間をかっこたるものとして作っていく…それが信仰を持つものの喜びの原点だったはずです。そして、平和は個人の幸せの集合体としてしか存在できないもののはずです。

 この宗教教団主宰者の方の考え方と、神慈秀明会ハンドブック等に書かれた内容と比較したとき、その謙虚さは天と地ほどの違いがあります。一つの宗教が純粋に宗教として存続することができるか、当初は宗教であったものがカルトに変容するかのターニングポイントは、こうした謙虚さを持ち続けることができるか否かにかかっているように思います。

 神慈秀明会には、なぜこうした謙虚さが見あたらないのでしょう? その答えは神慈秀明会誕生時の経過にあります。
 神慈秀明会という団体は、その発足において「離脱の神意」という無理を犯しており、この「離脱の神意」が本当であると信者達に思わせるためには「実証」が必要と考え、「地上天国のひな形」としての大規模な神殿建設、美術館建設を至上命題としてその建設に向けて過大なノルマを信者に課してきました。
 その課程でどれだけ多くの信者が犠牲になり、生活を破壊されてきたかは脱会者の人たちの言葉が如実にその実態を語っています。
 奇跡が頻発する我が宗教のすばらしさを誇示するためには、おもちゃのダイヤモンドをばらまいてでも奇跡を演出し、神殿建設、美術館建設のノルマを短期間に達成するためにはなりふり構わぬ布教活動を行い、信者には強制的献金を課してきました。
 その一方で、いかに世界救世教が邪悪な集団であるかを吹聴し、自分たちの離脱が正当なものであったと印象づけようとする筋書きを作り上げましたが、これらは最近になってその多くの部分に矛盾点があることが指摘されています。

 組織の急速な拡大に主眼を置いた神慈秀明会には、謙虚な態度で宗教活動をしているような余裕はなかったのです。しかし、こうした姿勢は、基本的に宗教者のとるべき姿勢ではなく、目的をはき違えたまま出発点に立った神慈秀明会がその後にたどったカルトとしての一連の経過は、「なるべくしてなった」というべきなのでしょう。
 最大の被害者は、その神慈秀明会を信じて自分の人生の多くの時間を費やし、多額の献金を繰り返してきた信者達です。自浄作用を持たない組織、神慈秀明会には自らの過ちを是正し、被害者を救済する発想はありません。
 自浄作用が働かず、自らを軌道修正することができない組織は自滅の道を歩むしかないでしょう。
 今後、神慈秀明会を脱会する信者が増えて行くことにより、彼らもいつかは自らの過ちに気付くときがくることと思います。
 登志子さんの脱会は、そうした動きの一つのきっかけとなるのかも知れません。

 カルトとの戦いの道のりは、まだまだ先が長い道のりです。
 私にできることはそれほどありませんが、インターネットという情報網を活用して正しい情報を提供し、迷っている人や困っている人たちの相談にのることはできます。
 登志子さんも、私のこうした活動に賛同し、力を貸してもらえる時期がきたら是非応援してほしいと思います。

 私は登志子さんに手紙を書いたり、自分の考えをインターネットを通して紹介するために文章を書いてきました。文章を書く行為を通して自らの考えが整理され、徐々に自分が進むべき方向が見えても来ましたが、書くことによってまた新たな疑問も生まれ、その疑問を解くためにまた勉強しました。こうしたことの繰り返しでここまで来ましたが、一連の勉強を通して、今まで知らなかったカルトや宗教の世界についても少し知識が深まったように思います。またそうした行動を通して知り得た知識の積み重ねは自分に対する自信にもなり、自分自身の励みにもなったように思います。
 NHKのテレビ番組で、闘病記を綴ることの効用についての報道がありましたが、それを見ていると、文章を書くという行為を通して自らの病気についての考察を深めるとともに、自分が置かれた現状を正しく認識する効果があり、闘病記を書くことによって自らの病気にうち勝つパワーが生まれた人もいるといっていました。
 登志子さんも、時間があれば自分の現在の心境を書いてみたり、神慈秀明会に対する思いを文章に書いてみてはいかがでしょうか。そこから新たな展開が生まれ、新たな自分を発見することもあるかもしれません。

平成○年○月○日


登志子から預かったお光り

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