fujiya創価説

 私(fujiya)は、神慈秀明会と対峙して3年間ほど戦ってきた。
 なぜ私が神慈秀明会と戦うこととなったのかは、サイトを見てもらえば分かると思っていたが、神慈秀明会本部が私について流した情報は、とんでもないものだった。

 私の所へは多くの方からメールが来るが、その多くは元秀明信者や現在秀明からの脱会を考えている信者の方からのメールだ。一般の方でメールをくれるのは秀明信者を家族に持つ方で、何とか家族を秀明会から引き離せないかという相談のメールが多い。
 横浜市東戸塚での神慈秀明会集会所建設問題が持ち上がり、当ホームページにも専用ページを作って経過を掲載しているが、あるとき、この件に関してびっくりするメールが舞い込んだ。

 そのメールは、ある秀明関係者からのものだった。あまり手の内を明かすと情報提供者の方に迷惑がかかるので詳細は明らかにできないが、この情報提供者はバリバリの秀明信者で秀明本部中枢にかなり近い人物だ。この方からはこれまでも多くの貴重な情報を提供して頂いている。
 その情報提供者が言うには、「fujiyaはサイトを通して秀明会の拠点建設に反対する運動を支援し、秀明会を潰そうとしている。実はfuijyaは創価学会の信者で、創価学会からの意向を受けて秀明会を潰そうとしている創価のまわし者らしい」という情報が秀明本部から各地の拠点に流されているというのだ。


 秀明会はこれまでも多くのウソをついてきたが、今回のこの話も全く根も葉もない、”横綱級”の大嘘だ。

 私がなぜ神慈秀明会と戦っているのかは、「家族を新興宗教から守ろう」を見てもらえばお分かり頂けると思うが、全てを読むにはかなりの時間がかかる。このページの下部にその理由を簡記するので、あまり私のことをよくご存じない方は参考にして頂きたい。


 今回、神慈秀明会本部がなぜ、”fujiya創価説”という大嘘を信者に流したのか考えてみた。

■理由1
 秀明本部資格者の思考パターンは超単純化しており、”神慈秀明会の活動を妨害する者は、邪神の固まりである創価学会に違いない”、というワンパターンでしか判断ができなくなっている。「神慈秀明会を批判する者=創価」と思い込んでいるので、「fujiya=創価」と判断した。

■理由2
 各地で次々と秀明会の集会所建設に対する反対運動が起こされ、信者の間からも、「なぜ正しい明主様信仰をしている秀明会に対してこのような反対運動が起こされるのか?」といった疑問が出るようになってきた。
 信者に対して、「実は秀明会は批判されるようなことをたくさんやってきました。だからあのような反対運動が起こされるのです」とは言えない虚言体質を秀明会は元々持っているので、こうした信者の疑問に対して、”分かりやすい説明”をするためには、「fujiyaは創価だ」ということにしてしまえば、「批判されることをしてきた秀明会」に信者の目が向かず、「ああソウカ!」ということで信者を納得させることができ、「批判されるべき秀明会」の実態から信者の目をそらすことができる。

■理由3
 「fujiyaは創価だ」というニセ情報を信者に流し、集会所建設反対運動をしている住民にも意図的にその情報をリークさせることにより、反対運動に対するfujiyaの影響力を削ぐことができる。
 私が創価学会の信者であったら、反対運動をしている住民の皆さんは決して私の助言は聞き入れず、むしろ私は「注意すべき人物」になってしまうだろう。

■理由4
 神慈秀明会という団体は、これまでも、”世界救世教”や”創価学会”等の「仮想敵」を作ってそれを信者に吹聴し、「敵の攻撃から神慈秀明会を守らねばならない」として信者の危機感を煽り、信者の秀明会への結束を強めることを秀明会発足以来やってきた。その最たるものが、「離脱の神意」である。
 今回の集会所建設に反対する住民運動を、”創価の攻撃”ということにすれば、上記2の”焦点ぼかし”とともに、秀明会信者の引き締めもできるので一石二鳥である。



 現代の戦いは情報戦に勝利することができるか否かが戦況に大きな影響を及ぼす。
 秀明会を批判している私達も、これまで多くの秀明批判情報(こちらは真実のみ)を提示し、神慈秀明会の実態に多くの人が気付いてもらえるようにしてきた。
 今回の神慈秀明会による、”fujiya創価説”は、「ニセ情報による敵への攻撃」としてはうまく行けばかなりの効果を上げたかもしれないが、この話を聞いた情報提供者ですら、「えっ!、本当に?」と思って私に教えてくれたほどだったので、私のことをある程度知っていただいている方には通用しないニセ情報だった。

 ニセダイヤ、ニセゴールド、ニセご神体、ニセお光り、ニセみ教え、ニセおかげ話(モハマド君問題等)と数え切れないほどのニセ物によって成り立っている神慈秀明会は、ここでまた、”fujiya創価説”という新たなニセ情報を創作した。神慈秀明会の虚言体質が今も昔も変わっていないことを彼ら自身が証明してくれた。
 このようなニセ情報を流布してまで我が意を通そうとするのはまともな宗教団体がやることではない。

 集会所建設に反対する住民運動に水をさすつもりで、”fujiya創価説”というニセ情報を流したのだろうが、このような汚い手を使ってまで集会所建設を強行しようとする神慈秀明会という団体は、ますます住民から警戒されるだけでしかない。
 このような愚かなことしか考えつかない秀明資格者がいるから、いつまでたっても神慈秀明会はまともな団体になれないのだ。
 ”fujiya創価説”を創作した資格者が誰かは知らないが、ウソをつくならもう少し上手なウソをつかないと、ますます神慈秀明会への世間の風当たりは強くなるばかりだ。
 もう少し賢くなれ、神慈秀明会の資格者!


私が神慈秀明会を批判しつづける訳

 「家族を新興宗教から守ろう」のページをまだあまりよくご覧になっていない方は、私がなぜこのような神慈秀明会を批判するサイトを運営しているのかが分からないかもしれないので、下記にその理由を簡単にまとめてみた。よろしければ参考にご覧頂きたい。より詳しくは、当サイトの各ぺージをご覧頂きたい。


 私は特定の宗教を信じていない。
 強いて言えば、親の墓が曹洞宗のお寺にあるので、法要の際にはその墓前で手を合わせる程度のことはするが、儀礼として行うだけであり、特にその宗派を信じているという訳ではない。
 しかし私は人が信仰を持つことを否定するものではない。人間としての生き方を摸索する上で、自分を律する存在として”神”を信じ、崇高な存在から見られて恥ずかしくない生き方をしていくべきと思っている。
 信仰のために特定の宗教団体に入る必要などなく、自分の心の内で内省する課程で「崇高な存在」を意識するだけで十分と思っている。
 信仰のスタイルは人によって様々で良いのであり、自分に合った信仰のスタイルを摸索して行けばいいと思っている。


 私はカルトは宗教ではないと思っている。
 神慈秀明会などのカルトは、「宗教のフリをした集金団体」だ。こんなものをいくら信じても決して信者が幸せになることはなく、信者は不幸せになるばかりだ。

 私は、妻を秀明会から脱会させる過程で秀明会について色々勉強したが、調べれば調べるほど、この団体がとんでもない団体であることが分かった。
 妻を脱会させるにも、私には宗教に関する知識もカルトに関する知識も全くなかった。そこで図書館に行き、本屋に行き、古本屋に行って宗教関係の本を片っ端から読んだ。どのような本を読んだかは「参考図書」のページに記載してある。
 ただし、宗教関係の本といっても、それぞれの宗教そのものを勉強するのではなく、「人はなぜ簡単に悪徳宗教に騙されるのか」といった観点から徹底して勉強した。

 当時は現在のようにたくさんの秀明批判サイトはなかった。
 私はそれまでにも仕事の関係でHPを作る作業をしていたので、「秀明批判サイトを作り、自分の妻を脱会させるまでの経過も含めて紹介し、妻を脱会させるための情報収集も行おう」と考えた。
 こうしてできたのが、「家族を新興宗教から守ろう」というサイトだった。

 妻を脱会させるのは、妻への説得活動を始めてからおよそ1年で無事脱会させることができた。しかし自分の妻が脱会できたからといって他の多くの被害者やその家族を放置しておいていいのだろうか?という疑問が頭をよぎった。
 このままこの団体を放置しておけば、私の妻のような被害者がこの先も出続けることは明白だ。妻を脱会させることができたのはネット上で多くの方から支援して頂いたおかげもあったので、今度はこの知識を新たな被害者の発生防止に役立てようと思った。


 私は、「家族を新興宗教から守ろう」というサイトを運営することで、自分自身も成長することができたように思う。
 サイトを通して多くの方と知り合い、多くの方に助けられてここまでやってきた。
 この先どうなるのかは私にも分からない。ただ、一つだけ言えることは、神慈秀明会が活動を続けている限り、「家族を新興宗教から守ろう」の活動も続くということだ。
 こんなカルトは存在自体が許されるものではなく、市民生活にとって、「百害あって一利なし」の存在でしかない。

 日本には数多くの新興宗教があり、秀明会よりもあくどいところもあるのかもしれないが、その全てをターゲットにして活動することは個人の力では限界がある。
 しかし、こうした悪徳宗教の手口は共通した点が多く、「神慈秀明会」というカルトに的を絞り、これを退治するまでの道筋を明らかにすることは、同じような悪徳宗教問題で苦しんでいる方にもきっと参考にしてもらえる点が多々あるのではないかと思う。
 私がサイト名を、「神慈秀明会から家族を守ろう」とせずに、「新興宗教から・・」という名称にしたのは、そうした思いも含まれている。


 このような流れの中で私の活動が続いてきたのであり、私の活動は特定の思想信条や宗教を背景にした活動ではない。
 それにも係わらず、神慈秀明会はよくぞここまでいい加減な話をでっち上げるものだと思う。
 私のサイトをどこから見ても、私が特定の宗教に荷担しているようには見えないはずだ。0.000001%もその兆しがないのに、『創価学会』などという固有名詞がどうしたら出てくるのか。

 創価学会の噂は私も知っているが、かといってそれ程詳しい訳ではなく、”一般常識的”に創価学会に関していろいろな問題が指摘されているという程度の知識しかない。
 神慈秀明会については色々な角度から勉強してきたのでそこそこ詳しくなったが、創価学会については掘り下げて研究したことがないので素人レベルの知識しかない。
 創価学会についての問題点を指摘するサイトは非常に多いので、私などが口を出す必要はないと思っている。


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