明主様改造

 以下の文章は、anti_cult掲示板に、金色のROTAXさんが書かれたものを再構成したものです。
 神慈秀明会信者が信じている「明主様」が、実は本当の「明主様」ではなく、秀明会が勝手に明主様を改造して創作した「秀明主様」であったという大変示唆に富んだ内容ですので、ぜひご一読下さい。


秀明会信者の明主様は「秀明主様」

 秀明会の組織としての犯罪行為や幹部、専従教師の破廉恥行為を事実として認めつつも、「秀明会の末端信者は、純粋な心で、明主様を信仰している」といった論調で、秀明会を擁護する良識派?がネット上にも存在する。
 こうした主張の背景には、どんなに秀明会が悪のカルト教団であったとしても、ひとりひとりの末端信者は私利私欲なしに、真面目に明主様信仰に励んできたのであるから、旧体制における信者個々人の布教行為は無意味ではなかったと意義づけることにより、論者も含めた秀明会現役信者、元信者の過去の人生を正当化する点に狙いがあることは、もちろん皆気づいている。かわいそうだから、気づいていながら黙っていてあげる優しさをアンチサイトの仲間はみんな持っているのだ。
 秀明会というカルトに騙されたために、自分の人生の貴重な時間と多額の金銭を摩って(すって)しまった、多くの友人も失った、家庭も崩壊した、これは私が馬鹿だから、とんだ詐欺師に全てを奪い取られたのだ、という風に、客観的に自分の愚かさを認めてしまっては、立つ瀬がない。
 そこで、こういった厳しい現実から逃避するために、「秀明会にも、純粋に明主様を信じている末端信者さんたちがいるのだ」と主張して、議論を進めようとする人もいるのだ。

 しかし、厳しいようだが、私はあえて、問いかけたい。秀明会に所属する信者で、「純粋に明主様を信じている末端信者さん」という人たちは、果たして本当にいるのか?
 以下に書くことは、秀明会信者の特質であるが、ここから、上記命題の真偽を確かめたい。

【秀明会信者の特質】


 上記の箇条書きから導き出される結論は何か?
 秀明会信者は、実在の明主様のことを何も知らないということだ。むしろ、実在の明主様を積極的に拒否している。
 このように、秀明会信者は、明主様のことを一切知らないにもかかわらず、「明主様、明主様」と阿弥陀経信者のように唱えているし、自分は熱心な明主様信仰者であると独りよがりな主張を続ける。崇拝対象のことを何も知らないくせに、熱心に信仰していると言い張る、この不気味な齟齬(そご)をいかに分析すべきか? 事実を単純化すると次の通りになる。


 この3つの事実から導かれる結論は、
 秀明会信者が、「明主様」と呼称している存在は、実在の明主様、実在の岡田茂吉師とは別物であるということである。この点、秀明会信者が、「明主様」と呼称する存在は、小山家を経由した明主様であると表現する論者もいるが、私は、小山家を経由した明主様は、実在の明主様とは全く別物に変容していると断言する。
 では、秀明会信者が崇拝している「明主様」(以下「秀明主様」と書く)の実質的な内容は何なのか?
 秀明会は、信者に「秀明主様」を信仰するよう強制しているにもかかわらず、秀明主様に関わる具体的な情報を一切、教えない。このように、秀明主様の具体的な内容は全くないのであるから、秀明主様は秀明会の教祖、秀明会の礼拝対象という形式的な意味しか持たないのである。

 冒頭で書いた秀明会の中の「純粋に明主様を信じている末端信者さん」という言葉を、秀明会内部の特殊な用語ではなく、一般的意味に変換すると、「純粋に秀明会の礼拝対象を信じている末端信者さん」ということになる。つまり、形式的な意味しかないのだ。

 私は、秀明会の中には、「純粋に実在の明主様、実在の岡田茂吉師を信じている末端信者さん」は存在しておらず、「純粋に秀明会の礼拝対象を信じている末端信者さん」だけが存在していると確信している。
 この「純粋に秀明会の礼拝対象を信じている末端信者さん」とは、「何も考えることなく、秀明会の言いなりになっている末端信者さん」と表現したほうが手っ取り早いと思う。

 ただ、きわめて例外的ではあるが、秀明会信者であるにもかかわらず、秀明会の戒律を平気で無視して、救世教発行の明主様の真実の御教えを個人的に勉強し、明主様の教えの通り、体の急所にも浄霊し、箱根・熱海・京都嵯峨野の聖地に勝手に参拝し、明主様と秀明会を明確に切り離して、明主様信仰をしようとする人も中にはいる。しかし、実在の明主様を信仰する行為と「秀明主様」を信仰する行為を両立することは困難であるため、このレベルまで達してしまうと、実質的には、秀明会を辞めているのと同義になってしまうケースが大半だ。

 このように、明主様と秀明会を切り離す能力を潜在的に持っている秀明会信者の数について、秀明会の現役役付信者と意見を交換したこともある。私は経験から、秀明会信者の100人から200人に1人程度の信者が、このような能力を有していると判断する。つまり、現在は秀明会に騙され、「秀明主様」を礼拝させられているが、真実の明主様を希求する気持ちはあるので、きっかけ次第では、秀明会からの束縛より解放され、自主的に、実在の岡田茂吉を探求できる潜在的な能力をもっている人の数が、この割合であると私は推理しているのだ。秀明会の信者数が4万人とすれば、400人から200人程度の数になる。

 以上の理由から、私は、冒頭で書いた「純粋に明主様を信じている末端信者さんたち」という言葉の使用を避けるべきであると考える。あまりにも、意味が不明瞭であり、議論を錯綜化させてしまうきらいがあるからだ。

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