この戦いの、”勝者”は誰か?

 東戸塚に集会所を建設しようとしている神慈秀明会と、それに反対している近隣住民の戦いに於いて、真の勝者は誰なのだろうか?

1、集会所が建設された場合
 神慈秀明会が住民の反対を押し切って強引に東戸塚集会所を建設した場合、一見すると神慈秀明会が、”勝者”で住民が、”敗者”であるように思われるかもしれない。
 でも、本当にそうだろうか?

 神慈秀明会が東戸塚に於いてどのような経緯で集会所建設に至ったかについては、詳細な内容がネット上で公開されている。
 すでに公開されている情報だけでもかなりの量になっているが、まだ未公開の詳細な記録も残されており、その中には住民説明会で秀明会側が明らかなウソをついている場面を収録した音声ファイルやビデオ映像もある。
 集会所建設が強行されることになれば、こうした資料も公開せざるを得ないこととなる。現在公開されている情報だけでも秀明会の愚行の数々は十分明らかにされているが、更に詳細な資料が公開されれば、東戸塚で神慈秀明会が行ってきたことが、いかに自分勝手で横暴極まりなく、住民を無視したものであるかを実証することができる。

 表向きは、”真・善・美”等ときれい事を並べているが、東戸塚で彼らが行ってきたことはそれとは正反対のことばかりである。
 これらを見れば、神慈秀明会がまともな宗教団体などではなく、カルトと呼ばれる反社会的集団であることは明白となる。

 彼ら神慈秀明会が平成8年以来、”新体制”という隠れ蓑をまとい、カルトであることを永々として隠してきたことが、この東戸塚集会所建設強行によって暴かれる結果となることが果たして神慈秀明会にとって、”勝利”と言えるのだろうか?

2、集会所建設が断念された場合
 住民の反対運動を受け、松本市や青葉区のように神慈秀明会側が集会所建設を断念した場合は反対運動を続けてきた住民が勝者であるのは当然だ。
 では、敗者は神慈秀明会なのだろうか?
 ”勝者に対する敗者”という意味では神慈秀明会側が敗者であろうが、この場合は完全なる敗者というよりは、神慈秀明会側にも、”住民感情を考えての撤退”という大義名分が成り立ち、カルトのそしりを多少はまぬがれることができるかもしれない。

3、今後の展開
 このまま神慈秀明会が東戸塚での集会所建設を強行するならば、住民側の反対運動は今以上に激化することは目に見えている。
 現在、多くのマスコミが東戸塚に注目しており、反対運動が激化するに従い、多くの媒体で報道がなされることとなる。
 神慈秀明会が、集会所建設と引き替えに、「カルト教団・神慈秀明会」というレッテルを貼られることを望むならば集会所建設を続行したらいいだろう。

 私たちは今まで以上に戦いを強化し、神慈秀明会とその建設を請け負った○林組がいかに住民を無視した団体であるかを徹底して報道し、世間にその実態を知らせ続ける。
 ここ東戸塚で神慈秀明会が集会所建設を強行することは、神慈秀明会が自らの首を絞めることにつながることを思い知る結果となるだろう。

 神慈秀明会には、こうした自らが置かれている状況を大局的な見地から考察し、集会所建設の是非を判断することがいま求められている。



 下記に、「神慈秀明会・集会所建設反対BBS」の[642]に、「最低の精神性」と題して”いつもの通りすがりさん”が書かれた同趣旨のものも掲載させて頂く。

最低の精神性
いままで神慈秀明会というのは、その正体が目立たぬよう、出来るだけ批判にも反応せず、争いを避けようとしてきました。

しかし今回、ついに神慈秀明会は戦う姿勢を見せたのですが、その戦い方というのが、このような汚らしい、こそくな、浅ましい態度を隠そうともせずに、厚顔無恥な姿勢で他者の権利を平気な顔で侵害していく、とうてい信仰者とは思えない下劣な態度を選択したのです。

しかしこの事は、今回初めて明らかになったのではなく、「護られた街」を読むと、神慈秀明会の本質的な態度は、1996年当時と全く変わらないということが分かります。

つまり、これが神慈秀明会の正体であり、本質であり、自分たちが言うところの「精神性」なのです。

さて、ここから先は、信者に向けてのメッセージです。

信者は、離脱の神意という教義で、次のように学びました。

・神慈秀明会というのは戦わない子羊の集団ではない。悪(離脱の神意では世界救世教)に対しては決して負けず徹底的に戦う。
・しかし、その戦い方は、相手(離脱の神意では世界救世教)がどのように卑怯な手を使っても、自分たちは決して悪に手を染めることはなく、正を守り、天に恥じることなく、地に恐れることなく、正々堂々と戦うのだ。

ということを教えてきたはずです。

しかし、今回の戦い方をみてください。

そもそも、反対住民を悪としてとらえることが完全に頭が狂っているのですが、ここで言いたいのは、神慈秀明会の選択した戦い方がいかに卑怯で、いかにこそくで、いかにあさましいかということです。

まさに、離脱の神意で「世界救世教が神慈秀明会に対して行ったこと」とされていることを、今まさに、神慈秀明会が地域住民に対して行っているのです。

離脱の神意で教えている1970年当時の世界救世教の姿とされているものは、そのまま現在の神慈秀明会自身の姿であると言われていますが、それは教義の点だけではなく、今回の件からも分かるように、精神性という意味でも現れているのです。

卑怯な手で、こそくな心で、住民と対立をして、その結果横浜集会所が建設できたとしても、あなた方はそこに嬉々として参拝できるのですか?

あなた方は、自分の献金が原因で人が苦しんても平気なんですか?


今回の横浜集会所の建設における神慈秀明会の態度が、教義になったとしたら、あなたがたはそれに共鳴できるのですか?

いよいよ、神慈秀明会は、また社会に対して迷惑をかけ始めてきました。「一見なにもしていないカルト」から、「社会に迷惑をかけるカルト」にもどり始めたのです。

今回の集会所建設の件から、また流れが変わってきたことを感じ、あなた方もいよいよ自分の身の振り方を考えるべきではないでしょうか。今のままだと、あなたも「社会悪カルト神慈秀明会」の共犯者ということになりますよ。


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