岡田茂吉の差別思想

1、差別とは
 人間を差別することの是非について、わざわざ解説するまでもないことだが、差別についての認識が人によって違う場合も考えられるので、岡田茂吉の差別思想について取り上げる前に、差別とは何かを再確認しておきたい。

 「差別」とは、「出身地」、「性別」、「年齢」、「民族」、「病気」、「身体障害」など、「本人の努力によってどうすることもできない事柄で不利益な扱いをしたり、不当な評価を下すこと」をいう。
 小学校の運動会で、『1着、2着などと順位をつけると「差別」になるので順位をつけるのを止めています』という学校があったが、あれは差別と区別の混同をしているのであり、1位は1位として順位をつけ、評価することは決して差別ではない。
 本人が努力して成し得た成果は評価されて然るべきで、それは「区別」である。
 努力した人間も、努力しなかった人間も区別せずに同じように扱うのは、一見「公平」のように見えるが、努力した人間を正しく評価しない「不公平」が生まれる。
 このように、本人の努力で改善が期待できる場合はその評価を公正に行わねばならないが、本人がどのように努力しても変えることのできない事柄で人に順位をつけたり、評価を下し、その結果によって取り扱いを変えることは差別だ。

2、岡田茂吉の差別思想
 岡田茂吉を肯定的に捉えている人にとって、この「岡田茂吉の差別思想」は甚だ心外に感じられ、神慈秀明会批判には賛同頂けても、岡田茂吉にまで批判の矛先が向くことには疑問を感じ、不快感を持たれる方も多いのは十分承知している。
 それでも敢えてこのような批判的文章を公表するのは、私のように信者でない一般人が岡田茂吉を見たとき、どのようにその姿が捉えられているかを信者の方に知っていただくことにより、岡田茂吉思想の研究にプラスになる要素もあると思うからである。
 岡田茂吉について全く予備知識を持たない人がこの文章だけを見ると、岡田茂吉についての正しい認識は得られないということも最初にお断りしておきたい。
 岡田茂吉は多岐にわたって非常に多くの文章を残している。ここではその中から、「岡田茂吉はこのように差別的な発言もしている」という形でその一部を紹介するのであり、岡田茂吉の全体像をつかむには更に多くの書物を読む必要がある。

 岡田茂吉は、人が生まれつき備えている身体的状態を捉えて評価を下したり、病気の原因を先祖の霊のせいにして不当な評価を行うなど、差別発言を繰り返している。
 下記具体例はその一部であるが、例示した差別発言以外にも、彼の発言の随所に、「精神病である」や、「地獄に落ちる」等の言葉が登場し、その原因は霊界の因縁によって決定づけられるとしている。
 彼の思想の根底には、「人間は平等」という考え方は皆無であり、「人間の幸・不幸、順位は霊界によってすでに誕生前から決定づけられている」という、とんでもない差別思想がベースになっているので、例示したような差別的発言が平気で行えるのである。
 彼が説く、「霊界の構成」は180段階に細分化されている。ある者は地獄に落ち、ある者は天国に昇り、またある者は八衢(やちまた[中間帯])に行くとされているが、天国、八衢、地獄の各霊界はそれぞれ60段階に分かれているのだそうで、要するに「180段階の差別化」を行うところが霊界なのだそうである。
 人間は、生まれる前から順位が決まっており、死んでからも180段階のどこかにランキングされるという、差別化のデパートのような思想を持つ人間が岡田茂吉である。

【具体例1】
生まれながらにして奇形や不具者があるが、これは霊界において、完全に浄化が行なわれないうち再生するからである。例えば高所から転落して手や足を折った場合、それが治り切らないうちに生まれてくるからである。
また早く再生する原因として、本人の執着のみでなく遺族の執着も影響する。世間よく愛児が死んでから間もなく妊娠し生まれるという例があるが、これらは全く死んだ愛児が母親の執着によって早く再生するのであるが、こういう子供はあまり幸福ではないのである。
 昭和22年2月5日「生と死」(『聖教書』p.183)

【具体例2】
 また生まれながらにして不具者がある。例えば盲目とか聾唖、奇形とかいうのは、変死に因る死のため、その際の負傷が浄化半途にして再生するからである。この再生について今一つ顕著な事実を書いてみよう。嬰児が出産するや、その面貌が老人のようなのがよくある。これは老人が再生したためで、2、3カ月経ると初めて赤児らしき面貌になるもので、これは経験者は肯(うなず)くであろう。
 昭和23年9月5日「霊線について」(『聖教書』p.144)

【具体例3】
 霊線は死後と雖(いえど)も血族の繋がりがあるから、霊はそれを伝わり人間に憑依しようとするが、憑依せんとする場合衰弱者、産後貧血せる婦人、特に小児には憑依しやすいので、多くは小児に憑依する。これが真症小児麻痺の原因であり、また癲癇(てんかん)の原因ともなるので、小児麻痺は脳溢血の如き症状が多いのはそのためであり、癲癇は死の刹那の症状が現われるのである。例えば泡を吹くのは水死の霊であり、火を見て発作する火癲癇は火傷死であり、その他変死の状態そのままを現わすもので、夢遊病者もそうであり、精神病の原因となる事もある。
 昭和24年8月25日「死後の種々相」(『聖教書』p.191)

【具体例4】
 血の池地獄は妊娠や出産が原因で死んだ霊が必ず一度は行く所であって、これは多くの霊から聞いた話であるが、文字通り一面の血の池で首まで浸っており、血なまぐさい事甚しく、その池にはおびただしい蛆虫(うじむし)様のものがいて、それが始終顔へ這い上がってくるので、その無気味さは堪えられないそうで、始終虫を手で払い落としており、そのような苦痛が普通三十年くらい続くのである。(中略)
 焦熱地獄は焼死したり、三原山の如き噴火口へ飛び込んだりした霊である。それについてこういう例があった。ある中年の男子、一種の火癲癇(ひてんかん)で、彼曰く就寝していると夜中に目が覚める。見ると数間先に炎々と火が燃えながら、だんだん近寄るとみるや発作状態となり、その瞬間身体が火の如く熱くなると共に無我に陥るのである。これは大震災の翌年から発病したとの事であるから勿論震災で焼死した霊であろう。この意味によって今回の空襲による多数の焼死者の霊は無論焦熱地獄に苦しんでいるわけであるから、遺族は供養を怠ってはならないのである。(中略)
 抱合心中の如きは密着したままで離れないから、不便と恥ずかしさのため大いに後悔するのである。生まれた双子の身体の一部が密着して離れないというのは情死者の再生である。
 昭和22年2月5日「霊界の構成」(『聖教書』p.169)

【具体例5】
 先ず精神病なるものの真因は何であるかというと、これがまた破天荒(はてんこう)ともいうべき何人も夢想だもしないことである。勿論真理そのものであるから真の精神病者でない限り、何人も納得のゆくはずである。そうして精神病の真因は肉体的と憑霊現象とである、というと唯物主義教育を受けて来た現代人には一寸分り難いかも知れない。何しろ眼に見えざるものは信ずべからずという教育をサンザ叩き込まれて来た以上、そう簡単には分りようはずのない事は吾等も充分承知の上である。(中略)
 以上述べた如く、十の霊保持者がないとすれば、それ以外は憑霊に多少なりとも左右される訳で、それだけ精神病者といえるわけである。忌憚なくいえば日本人全部が多少の精神病者であるといっても過言ではない。
 これについて私の経験を書いてみるが、私は毎日数人乃至数十人の人に遇い種々の談話を交換するが、いささかも破綻のない人は一人もないといっていい。如何なる人といえどもいくらかは必ず変な処がある。世間から重くみられている人でも、普通では気のつかない位の欠陥はあるにみて、軽度の精神病者はまず全般的といってもよかろう。
 今一つは言語ばかりではない。行為の点も同様である。勿論行往坐臥誰でも出鱈目ならぬはほとんどない。道法礼節など全然関心をもたない。大抵の人は部屋へ入りお辞儀をする場合でもほとんど的外れである。壁へ向ってするもの、障子へ向うもの、庭へ向うもの等、実に千差万別である。また馬鹿丁寧な人があるかと思えば簡単すぎる人もあり、これ等ことごとくは軽度な精神病者であろう。
 昭和24年9月25日「神示の健康法」(『聖教書』p.437)

【具体例6】
 こういう人は不幸の運命を辿るのである。何となれば浄化不充分のため、前生における罪穢が相当残存しており、それの浄化が発生するからである。この理によって世間よく善人にして不幸な人があるが、かかる人は前生において罪を重ね、死に際会し飜然と悔悟し、人間は未来永劫悪は為すまじと固く決心し、その想念が霊魂に染みついており、浄化不充分のまま再生するを以て、悪を嫌い善を行うにかかわらず不幸の境遇を辿るのである。しかしながらこういう人もある期間不幸が続き、罪穢が払拭されるにおいて一躍幸福者となる例もまた尠(すくな)くないのである。
 昭和22年2月5日「生と死」(『聖教書』p.181)

【具体例7】
 救われる人よりも救われない人の方が多いとしたら、この事を信者はよく心得て置かなければならない。というのは、病気を治し救おうとする場合その見分けが必要である。なるほど誰も彼も一人残らず救ってやりたいのはやまやまだが、右の如くであり、時の進むに従い救われる人と救われない人とは自ら分るようになるからで、これは神意である以上如何ともし難いのである。従って浄霊を嫌ったり、話に耳を傾けなかったり、逆にとったりする人は、すでに救われない側に運命づけられたからで、そういう人をどれほど分らせようとしても無駄であり、却って救わるべき人が疎かになるから注意すべきである。
 また折角おかげを頂いても、大病が治り一時は感激しても、時の経つに従い忘れたり、迷ったりする人もあるが、こういう人はすでに縁が切れ、滅びの方へ回ったのだから、手放した方がいいのである。以上によっても分る如く、これからは入信させようとする場合、素直に受け入れる人はいいが、そうでない人は縁なき衆生として諦めるより仕方がないので、この意味に従い最後に近づくにつれて信者諸君はまず善悪を判別する事である。
 昭和28年6月17日「最後の審判とは何か」(『聖教書』p.245)

3、こんな人が神?
 上記のごとく差別発言が多いため、「浄霊協会」という、岡田茂吉を教祖と仰ぐ団体のホームページには、「明主様の御教えには、現在では差別的な表現とみなされる言葉や文章が含まれている場合があります。これは明主様が時代的な制約を受けていたためであって、差別的な表現の対象となる人々を傷つけることは、明主様の本意ではないと考えられます」と書かれている。教祖の発言に対して、それを信奉する団体自らが釈明をせねばならないほど彼の考え方には差別的な部分が多いのである。
 本当に神とあがめられるだけの人物であれば、「時代的な制約」など超越して、人間を差別してはならないことを説くのが本来あるべき姿であると思われるが、所詮彼も時代的な影響を受けて平気で人権を無視した発言をするだけの人間でしかなかったということだ。
 同時代の人々が全て差別的な考え方をしていた訳ではなく、そうした風潮が強かった時代にあっても、市川房枝、平塚らいてう等、先進的な考え方を身につけ、人権擁護活動に奮闘していた人もいた時代にあって、岡田茂吉は平気で差別的発言を繰り返していた。
 このような差別的思想を持った人物を「神」と崇めることに疑問を感じないだろうか?

4、神慈秀明会による岡田思想の活用方法
 ここでは岡田茂吉が書いた多くの文章の中から特に差別的な発言部分だけを取り上げて論じているが、茂吉の書いた文章の中にはしごく当たり前のことを述べている部分も多い。現代のような情報化社会ではなかった時代に於いてあれだけ多くの著述を残している茂吉の才能は評価すべき点も多いのだろうが、その一方でこうした差別的発言も多いのが彼の特徴なのである。
 神慈秀明会と同じように岡田茂吉を教祖としている団体は多数ある。それらの団体が全て神慈秀明会と同様にカルト化しているかというと決してそうではない。
 ではなぜ神慈秀明会だけがこのようにカルト化したのだろう。それは神慈秀明会主宰者の問題だ。世界救世教から神慈秀明会を離脱(独立)させた会主・小山美秀子、そして元会長・小山荘吉の二人に神慈秀明会がカルト化した主原因がある(現会長の小山弘子もその路線を踏襲しているので連帯責任がある)。
 世界救世教から分派した団体は多数ある。それらの中で神慈秀明会を他の離脱団体よりも急成長させ、世界救世教をもしのぐ”一流の宗教団体”にしたいという願望を持ったこの親子は、御神体のねつ造、奇跡のねつ造、おかげ話しのねつ造など、あらゆる方法で信者を騙し、「献金しないと救われない」など、霊界の話を巧みにからめた恐怖信仰で信者を煽り多額の献金をさせてきた。

 彼らが利用したのは岡田茂吉が残した約2000編とされる「み教え」の中から、カルトに都合のよい教えを100編だけ選択して指導の中心に据えてきた。その結果、数多くの岡田茂吉を教祖と仰ぐ団体の中でも際だって差別的側面・カルト的側面が強く現れ、多くの被害者を生む結果となった。
 岡田茂吉が生きていたら、自分の教えをこのように歪んだ形で使ってきた神慈秀明会に対しては、”破門”を言い渡すかもしれない。ある意味では岡田茂吉も神慈秀明会に利用された被害者なのかもしれない。しかし、彼の差別的発言は事実であり、許容することのできないものであることに変わりない。

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