みおしえ改造

 神慈秀明会では、御神体の改造、おひかりの改造、御神床の改造等と併せて聖教書や機関紙「秀明」等の出版物の中で教祖・岡田茂吉の言葉「みおしえ」を勝手に改造して信者に伝えている。
 この「みおしえ」の改造は多岐にわたっており、その詳細は「秀研」に、「わたしんちの聖教書研究」と題して詳細な調査結果が掲載されている。
 詳細はそちらに譲るとして、ここではその一部を画像を使って分かりやすく紹介する。

 下記の画像を見ていただきたい。


 これは聖教書の冒頭に掲げられた「序、神慈秀明会とは何ぞや」と題する文章であるが、この表題の「神慈秀明会とは・・・」は、教祖・岡田茂吉が原文を書いたときは「観音教団とは・・・」であった。
 後に観音教団から世界救世教と名称が変わった際にこの部分は「世界救世教とは・・・」と書き換えられ、更に神慈秀明会が世界救世教から分裂し離脱した後にこれを「神慈秀明会とは・・・」と書き換えたものであり、教祖・岡田茂吉がこの文章を書いた当初から「神慈秀明会」という名称を用いた訳ではない(岡田茂吉は昭和30年2月10日死去、秀明会が離脱したのが昭和45年なのだから当然といえば当然の話)。

 神慈秀明会は、あたかも自分たちだけが岡田茂吉の”直系”であり、明主様を大切にしているような顔をしているが、秀明会ほど教祖の「みおしえ」をねじ曲げ、教祖の教えに反して勝手に各種改造を施している教団は他にはない。

 教祖・岡田茂吉は、「大いに注意すべきこと」と題するみおしえで、教祖が書いた文字の取り扱いについて次のように警告している。

 私のかいた文字を粗末にすると必ずお気付けがあるから、注意して貰いたい。これは“おひかり”に限らず、すべての文字がそうである。何となれば一字々々に神霊が宿られているからである。そのくらいの偉力がなければ、万人を救うことができるはずはないからで、つまり私の文字は生きているので、そのつもりで扱うべきである。
(昭和27年5月14日)『聖教書』 p.356


 この一文があったため、秀明信者は教祖の書いた文字や文章の取り扱いには多大な注意(脅威と言うべきか?)を払ってきた。
 信者が「みおしえ」を書き写す際は、句読点一つ間違えただけでも秀明教師は最初から書き直しをさせるなど、秀明会としても「みおしえ」の取り扱いには非常に厳しい対応をしてきた。

 しかし下記を見ると分かるが、聖教書に掲載されている「神慈秀明会とは何ぞや」の文章と、岡田茂吉が書いた原文と対比させて見てみると、表題以外の細部においても種々の改編が施されていることがわかる。
 下記文章は、上段の黒色文字が岡田茂吉が書いた原文、下段の紫色文字が聖教書の文章である。特に改編に問題があると思われる点を赤色文字にしてある。


観音教団とは何ぞや(世界救世教とは何ぞや)
神慈秀明会とは何ぞや

 本教団は地上天国出現を目的とし、物質文化の進歩と相俟って宗教文化を創成普及せんとするものである。
 本教は地上天国出現を目的とし、物質文化の進歩と相俟って宗教文化を創成普及せんとするものである。

 地上天国とは病貧争絶無の世界、全く人類理想の世界を言うにある事は言うまでもない。
 地上天国とは病貧争絶無の世界、全く人類理想の世界を言うにある。

 彼の釈尊が唱えた五六七の世も、キリストが予言せし「天国は近づけり」という事も、日蓮の叫ばれた義農の世も、天理教の理想とせる「一列揃って甘露台の世」も、吾等の曰う「地上天国」と同様の意味である。
 かの釈尊が唱えた「五六七の世」も、キリストの予言せし「天国は近づけり」という事も、日蓮の叫ばれた「義農の世」も、天理教の理想とせる「一列揃って甘露台の世」も我らの言う「地上天国」と同様の意味である。

 ただ異なる処は『時』の問題であるが、右の諸宗祖は『時』を知らせなかった。
 ただ異なるところは「時」の問題であるが、右の諸宗祖は「時」を知らせなかった。

 然るにその時期が非常に近づきつつある事を、私は覚り得たのである。
 然るにその時期が非常に近づきつつある事を、私は覚り得たのである。

 時が近づきつつあるという事は何を意味するか。それは釈尊の唱えた仏滅であり、法滅尽であり、キリストの世の終り、又は最後の審判の事である。
 時が近づきつつあるという事は何を意味するか、それは釈尊の唱えた仏滅であり、法滅尽であり、キリストの世の終り、または最後の審判の時が切迫した事を想わせるのである。

 もしこの侭にして地上天国が来るとすれば、人類は洵に幸福であるが、新しき理想世界が建設されるというに就いては、その前に旧世界の清算がなくてはならない訳である。
 このままにして地上天国が来るとすれば、人類はまことに幸福であるが、新しき理想世界が建設されるというについては、その前に旧世界の清算がなくてはならないわけである。

 丁度新しき家を建てんとするには旧き家を破壊し、土地を清浄化されなくてはならない。
 ちょうど新しき家を建てんとするには古き家を破壊し、土地を清浄化されなくてはならない。

 勿論旧き家にも役立つものは相当あろうから、それは残さるるであろう。
 勿論古き家にも役立つものは相当あろうから、それは残さるるであろう。

 その取捨選択は神がなし給う事は勿論である。
 その取捨選択は神がなし給う事は勿論である。

 故に人間は残されるもの、即ち新世界に役立つ者とならなければならない。
 故に人間は残されるもの、即ち新世界に役立つ者とならなければならない。

 それによって大いなる切替時を易く越えらるる事で所謂神の試験にパスするのである。
 それによって大いなる切り替え時を易く越えらるる事で所謂神の試験にパスするのである。

 その只一つの方法が信仰である。
 その唯一つの方法としての信仰である事を次に説明してみよう。

 以上説く如く世界の大転換期を乗り越す資格とは、病貧争絶無の世界に生存なし得る人間であって文字通り病気のない健康人、貧苦から脱出した人間、和を好み争を嫌う人間である。
 以上説く如く世界の大転換期を乗り越す資格とは、病貧争絶無の世界に生存なし得る人間であって文字通り病気のない健康人、貧苦から脱出した人間、和を好み争いを嫌う人間である。

 この三大資格を有する人間であれば神は滅し給う必要がないばかりか、来たるべき新世界の有能人として遇されるわけで、神の意図と人間の理想との食違いはないことを私は信ずるのである。
 この三大資格を有する人間であれば神は滅ぼし給う必要がないばかりか、来たるべき新世界の有能人として遇されるわけで、神の意図と人間の理想との食い違いはない事を私は信ずるのである。

 然らば、右の三大資格を得んとする方法ありや。本教団は右の資格者たらしむべく教導し、神の恩恵を取次がんとするものである。
 然らば右の三大資格を得んとする方法ありや、本教は右の資格者たらしむべく教導し、神の恩恵を取次がんとするものである。

(昭和二十三年九月五日)
「信仰雑話」『岡田茂吉全集』著述篇第六巻 p.42
『聖教書』 p.12


 信者に対しては異常なほどの厳格さで教祖の書いた文字・文章の神格化を図っておきながら、秀明会自身は教祖の書いた文章を勝手に改編し、破壊したものを信者に押しつけていたのである。
 教祖・岡田茂吉の「私のかいた文字を粗末にすると・・・」のみおしえを無視し、教祖を冒涜(ぼうとく)する「みおしえ改造」を平気で行ってきたのが秀明会自身なのである。


伊都能売隠し
 神慈秀明会は「観音信仰」をベースにしている。教祖・岡田茂吉は、「その観音様のご本体は『伊都能売(いづのめ)の神様』である」と明言しているが、神慈秀明会では徹底した『伊都能売隠し』が行われている。
 一つの事例として、下記画像を見て頂きたい。これは聖教書30ページの「私の告白」の一部である。


 上記画像で示したように、原文では「ご本体は伊都能売という神様で・・」となっていたものを、聖教書では「伊都能売という」を削除して、「ご本体は神様で・・」と書き換えられている。
 こうした『伊都能売隠し』及びそれに類する改編作業は秀明会が発行している著作物の随所で行われており、秀明紙などで岡田茂吉の「教祖言」を紹介する際も徹底した『伊都能売隠し』を始めとするみおしえの改編が繰り返されてきた。
 「明主様信仰」と思って秀明会の信仰をしてきた信者にとって、こうして改編され、明主様が書いた内容とは違った「みおしえ」を押しつけられてきたことは耐え難い屈辱である。こうした行為を平気で行ってきた秀明会の態度は、信者無視の傲慢な体質を露呈したものであり、許されるものではない。

 こうした教義の改編に対する訴訟が起こされたり、ネット上での厳しい批判によってごく最近になって秀明紙の一部で『伊都能売』の名称を明らかにしたようであるが、なぜ今まで隠し続けてきたのかの説明は一切されていない。

 一説によると、秀明会で繰り返されてきた教祖・岡田茂吉の著作物に対する改編作業は著作権を持たない秀明会が世界救世教から著作権法違反で訴えられるのを防止するために徹底して改編した、という説があるがそれが事実だとすればとんでもない間違いだ。
 著作権法では、内容を改編して公表する場合は事前に著作権者の承諾が必要とされている。
 また、著作権法には、

 著作権法第六十条(著作者が存しなくなつた後における人格的利益の保護)
 著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない。


とする規定があり、著作者が亡くなったあとで、著作者が生きていたら許さないような人格権の侵害をすることを明確に禁じている(罰則:300万円以下の罰金)。
 岡田茂吉が生きていたら、このようなめちゃくちゃな改編は決して許さなかったであろう。

 「みおしえ」を改編し、御神体を改造し、おひかりを改造し、御神床を改造し・・・、こうした数々の教祖を冒涜する反逆行為は教祖に対する明確な叛意を表していると言える。
 私は秀明会の信者ではないが、私のような一般人が見てもこうした一連の行為は神慈秀明会という団体が教祖・岡田茂吉の教えとは全く違った方向に進んでいるように見える



 以上の記事を公開したところ、読者の方から下記のような投稿を頂いた。
 「みおしえ」の著作権は世界救世教が保有しているので、その関係で神慈秀明会はみおしえを十分に公開できなかったのではないかと考える向きもあるかも知れないが、これを読むと決してそうではなかったことが分かる。

投稿(明主様のみおしえについて)

 世界救世教いづのめ教団が、1992年から1999年にかけて発行した、明主様のすべての御教えを網羅した「岡田茂吉全集」の分量であるが、
◎ページ数にして、17736ページ(本の中の最後の数ページだけは、学者の解説です)。
◎冊数にして、著述篇 全12巻、著述篇補巻 全3巻、講話篇 全12巻、詩歌篇 全6巻、詩歌篇索引1巻である。
 これに対して、秀明会発行の聖教書のページ数は、453ページ。しかも、1ページの字数が少ない。
 聖教書は、ページ数で判断すると、岡田茂吉全集の3パーセント未満の分量しかない。字数で判断すると聖教書の分量はさらに少ないことになるであろう。
 秀明会が明主様の御教えの内容を改ざんしたことも、信仰的には問題であるが、教祖である明主様の教えの97パーセント以上を隠す行為も、さらに問題であると私は考える。

 著作権の関係で、秀明会は明主様のみ教えを公開をすることが法律的にできなかったという風説も一部ではある。
 しかし、著作権の関係から、書籍としての発行が困難であるとしても、専従教師などに、内容のみを口頭で教えることは可能であったはずである。
 また、救世教が明主様のみ教えの無断使用を理由に訴訟を起こしたケースは、新聞に広告を出して、一般書籍として発売した事例のみであり、他の離脱教団の中には、膨大な御教えを信者用に印刷、配布したところもあったが、救世教は訴訟を提起していない。
 四代教主が就任された後は、救世教は離脱教団に対して、明主様の御教えや明主様の書いた文字(おひかり、御神体を含む)の使用を理由とした、訴訟の提起を絶対にしない方針を明確に打ち出している。
 さらに、世界救世教いづのめ教団が、この岡田茂吉全集を発行した際、秀明会に対して、和解の申し出をしてきており、秀明会が救世教からの和解の申し出を受諾すれば、友好の証として、この岡田茂吉全集を秀明会に贈呈する話もあったのだ。そして、全集を使用して秀明会の教義の編纂に使用する許可も、和解の内容に含まれていたのだ。
 ところが、この救世教からのインターフェイス的な和解の申し出を秀明会の側が拒絶したのである。
 秀明会とは異なり、明主様のみ教えにより、地上天国を作ろうと真面目に努力している他の離脱教団は、上記の救世教からの和解の申し出を快く受諾して、救世教から、岡田茂吉全集を入手している。このとき、和解した離脱教団は、世界メシヤ教会、救世神教、黎明教会、東京黎明教会、救いの光教団である。(ジェイ・ヒーリングについては、把握していないが、和解はしている。)
この中には、かなりの零細な教団もあるので、60万円する全集を無料で入手できるという和解の特典も魅力であったと考える。
 神慈秀明会の本部教学室には、現在、この救世教発行の岡田茂吉全集があるが、これは、別のルートで入手したものだ。秀明会にとって、60万円という全集の価格はただ同然なのである。

 これだけ書けば、秀明会の御教えに対する姿勢がご理解いただけたであろう。


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