プライバシー権と表現の自由

 ホームページや掲示板で神慈秀明会やその代表者を名指しで批判することが法的に問題にならないかを心配される方もあるかも知れませんので、そうした点について整理しておきたいと思います。

 「プラバシー権」や、「表現の自由」は憲法で保障された国民の基本的権利です。
 個人のプライバシーは尊重されるべきであり、むやみにこれを侵してはなりません。週刊誌やスポーツ新聞などによる興味本位の記事によって個人のプライバシーが侵されるようなことはあってはならないことであり、「悪質で意図的なプライバシー侵害」は憲法違反です(憲法13条・プライバシー権)

 言論・出版の自由も尊重されねばならない権利です。
 自由な言論を圧殺する行為は国をも滅ぼすことになることを先の大戦は証明しています。個人の自由な意見は国家といえどもこれを封じてはならないことは憲法に規定されています(憲法21条・表現の自由)
 このプライバシー権と表現の自由はどちらが優先するのかが問題になることが時折あります。そうした場面でまず注目すべきはプライバシー権を主張している人物が、「私人」なのか、「公人」なのかということです。過去の判例においてもここが判断の分かれ目となる場合が多く、「私人」のプライバシーは厳重に保護されねばならないという結論に至る場合が大半です。
 一方、「公人」のプライバシーについてはかなり制限されています。何によって公人のプライバシーが制限されるかというと、「公共の利害」との関係です。首長や団体役員、政治家、会社役員などのプライバシーは公共の利害を守るためであれば公表されてもやむを得ないとする考え方が主流です。
 公共の利益を守るために公人の言動などを具体的に伝える必要があるときは、それが明らかな嘘やデタラメでなく、かつ極端に不穏当な表現でない限り適法行為とみなされます。公共の利益を守るためであれば、プライバシー権よりも表現の自由が優越的権利となることは過去の判例から明らかです。

 もともと、「憲法13条・プライバシー権」と、「憲法21条・表現の自由」とは同等の権利ではなく、プライバシー権は、「公共の福祉に反しない限り」という条件の下で「最大の尊重を必要とする」という「尊重権利」であるのに対し、言論・出版の自由は、「言論・出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と明快にいいきられた「国家保障権利」です
 憲法に規定された権利だから両者は同等の権利があると誤解している人が多いのですが、「憲法21条・表現の自由」の方がはるかに上位の権利であることに注目すべきです。
 つまり、公共の福祉に反する個人や団体の行為があった場合、これを告発するためにその内容をインターネットの掲示板に書き込んだり、ホームページでその内容を明らかにすることは何ら法に違反する行為ではありません。
 神慈秀明会が行ってきたことは退学強要、退職強要、献金させるためのサラ金での借金強要、「献金しないと家族に不幸がある」と心理的不安を煽っての脅しなどによって多くの人々の人生を狂わせ、家庭を破壊してきた明らかに公共の福祉に反する行為であり、小山美秀子、小山荘吉、小山弘子などの代表者は厳しくその責任を追及されて当然です。このようなエセ宗教被害を防止するためにインターネットによってその犯罪内容を公表することは公益に繋がる正当な活動であり、彼ら神慈秀明会を代表する公人の氏名をインターネット上で名指しして批判することは適法な行為です。
 しかし、末端の世話人や助教師なども公人と言えるかどうかは、その係わり方によって判断が分かれるように思いますので、こうした者については実名を上げての告発は慎重に行うべきです。

 他の宗教団体(といってもインチキ宗教ですが)では、宗教団体が告発者を名誉毀損等で告訴する事例がかなりあります。しかし、大半の告訴は途中で取り下げられ、判決まで至らない場合が多いようです。これは政治家等の場合でもよくあるケースですが、一方的に告発されるばかりでは周囲に「悪印象」を与えてしまうので、「身の潔白を証明するためのポーズ」として相手を告訴するのですが、数回公判を行ってみると到底勝ち目のないことが分かり、告訴を取り下げるようです。
 神慈秀明会はとにかく、「世間から注目されたくない」という意識が強く、マスコミからの取材要請には一切応じず、裁判によって内情が暴露されるのを恐れているのか、私を告訴することもありません。

 告発は事実に基づいて冷静に行うことが大切で、単なる誹謗中傷では何の解決にもなりません。相手が公人であっても不穏等な表現は処罰の対象になり得ますので慎重な言葉遣いが望まれます。
 しかし、事実に基づいて神慈秀明会という社会の福祉に反する団体を告発することは公共の利益につながる行為であり、何らためらう必要はありません。


著作権と引用
 相手を告発したり批判するために、相手が発行した書類や著作物、インターネットのホームページに記載された内容を引用して紹介することは著作権法に違反する行為だろうか?
 これに関しては、「転載・複製」「引用」の違いを知っておく必要があります。

【転載・複製】
 他人が著作したものを「転載・複製」する場合は著作者の許可が必要です。例外として転載・複製が認められるのは、「私的利用」の場合です。
 私的利用とは、その名前の通り、個人もしくは家庭内で利用する程度までであり、社内で回覧したり会合で資料配布をすることは違法になります。インターネットのホームページに著作物をそのまま掲載するのも私的利用の範囲を超えているとされます。
 IDやパスワードを設定し、特定の者だけが閲覧できるようにした場合でも、それは「私的利用」の範囲を超えているとされます。

【引用】
 転載・複製については上記のように著作者の許可が必要とされる場合が大半ですが、「引用」については著作権法第32条に、「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲で行なわれるものでなければならない。」と定められています。

 このように著作権法では一定の条件内であれば他人の著作物を著作権者の許可なしで使用することを認めています。
 「引用の目的上正当な範囲」とはどのような範囲であるかを把握しておくことが大切です。一般的には、下記のようなことが求められています。

  1. それを引用することが、本文を表現するためには必要であること。
    (他人の文章などを引用することで、自分の書いた文章の趣旨がより明確になるなど、引用することが有用と認められること)

  2. 自分が書いた文章が量的にも質的にも主であり、引用部分はそれに従ずるものであること。
    (引用部分が大半で、自分が書いた文章が少ない場合は引用ではなく、『転載』(無断転載)となって著作権侵害になると判断させる場合があります)

  3. 引用部分と本人が書いた文章との見分けが明確にできること。引用文は改変しないこと。
    (引用部分の色を変えたり、「 」や” ”で囲む等して引用部分であることが明確に分かるようにしておく必要があります。引用部分の内容を勝手に変更すると「改変」とみなされますので、その必要がある場合は著作権者の承諾が必要になります)

  4. 引用に当たっては、引用する内容が著作された著作物の出典を明示すること(著作権法第48条)が義務づけられています。


 以上により、秀明紙や聖教書、飛天、神慈秀明会教修、秀明会のホームページに記載された内容等を引用して批判することは、何ら法に違反する行為ではないのです。
 愚かな秀明幹部は、私がこうした秀明の著作物を引用して批判していることを捉えて、「著作権法違反だ!」とエキサイトしているそうですが、岡田茂吉の著作物を改編して信者に教えたり、ご神体とされる観音像を金ピカで真似て作ったりしている秀明会の方がよほど著作権法を勉強すべきで、アホな教えばかり勉強していないで、著作権法くらいはもう少し勉強してから出直してきてほしいものです。

 著作権法(昭和45年5月6法律第48号、最終改正:平成16年12月1日法律第147号)では著作権の存続期間について、その第四節(保護期間の原則)で、
第51条  著作権の存続期間は、著作物の創作の時に始まる。
2 著作権は、この節に別段の定めがある場合を除き、著作者の死後(共同著作物にあつては、最終に死亡した著作者の死後。次条第一項において同じ。)50年を経過するまでの間、存続する。

 となっているが、
第57条(保護期間の計算方法)
 第51条第2項、第52条第1項、第53条第1項、又は第54条第1項の場合において、著作者の死後50年、著作物の公表後50年若しくは創作後50年又は著作物の公表後70年若しくは創作後70年の期間の終期を計算するときは、著作者が死亡した日又は著作物が公表され若しくは創作された日のそれぞれ属する年の翌年から起算する。

 という計算方法が定められているため、岡田茂吉は昭和30(1955)年2月10日に死去しているので、昭和31(1956)年1月1日が起算日となり、それから50年を経過するのは、2005年12月31日となるので、2006年1月1日からは、秀明会も救世教に気を遣わずに岡田茂吉の著作物を出版できることとなる。しかし、秀明会ではこれまでも岡田茂吉のみ教えの内、カルトに都合のいい部分だけしか信者に伝えてきていなかったので、著作権がフリーになったからといって他のみ教えを信者に公開するようなことはしないだろう。

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