はだかの王様

 神慈秀明会の問題点の根本は、教条主義と形式主義にある。
 すべての問題を深く掘り下げず、信者の率直な声は「不平・不満」として圧殺し、核心に迫る追及からは、「明主様がこう言っているから」と逃げ、原理原則を絶対のものとして会の運営をしてきたのが神慈秀明会である。
 宗教が教義の解釈においてある程度教条主義に走ることはやむを得ないとしても、日常的な諸問題までを全てその宗教の原理原則で解決しようとするのは現実を無視した教条主義である。
 この現実社会での問題処理能力にことごとく欠けているのが神慈秀明会である。この重大な欠陥が秀明会の命取りとなる。なぜ、秀明会が問題処理能力に欠けているかというと、秀明会が主体性に欠けた人間の巣窟だからである。こういうとすぐに、「主体は明主様であり、明主様に優る主体などあるはずもない」と反論される御仁があるかも知れないので、念のため申し添えると、神としての主体性を論じているのではなく、組織としての主体性がないことを論じているのである。秀明会に一定期間在籍していた者であれば、秀明会の組織運営に主体性が確立されていなかったことは皆、実感している。
 宗教団体であろうとも、日々の組織運営は神ではなく人間が行っている。決して神様が組織運営までやってくれている訳ではない。しかし秀明会では、その組織運営にまで神様を持ち出し、組織運営上の問題点や矛盾点が発生してもそれを人間が解決する努力を怠り、明主様の神意という形式主義で押さえ込んできた。ここに重大な欠陥があり、秀明会幹部はこうした神意を逃げ口上に利用した論点すり替えを行う態度を徹底的に改めねば信者の信頼を失うだけである。こうした組織運営上の問題を解消しないかぎり、秀明会の体質が改善されることはない。

 なぜ、神慈秀明会が教条主義や形式主義に陥ったかというと、その根本は「離脱の神意」にある。「離脱の神意」を絶対のものとし、何がなんでも「離脱の神意」は正しいものとして信者に押しつけてきた。一部の聡明な者の間では、離脱当時から数々の問題点が指摘されていたが、近年になってインターネットを通じて「離脱の神意」にまつわる「真相」が暴露され、「離脱の神意」が虚構に満ちたものであったことは多くの者が知るところとなった。
 「離脱の神意」に端を発する教条主義に凝り固まった秀明会幹部は、こうした事実を前にしてもそれを事実として認めないばかりか、その真偽を確かめようともしない。このように、教条主義の手本のような思考回路を身にまとっているのが秀明会幹部である。
 教条主義者・神慈秀明会幹部は秀明会の強引な献金強要や自己放棄という名の強制労働によって多くの信者が生活を破壊され、彼ら信者とその家族が貴重な人生を台無しにされた事実にも目を配ろうとしない。このような重大な人権侵害が現代日本で行われてきたのは驚異ですらあるが、秀明会では日常茶飯事のごとく普通の出来事であった。
 教義を盾にして反社会的行為を正当化する行為は罪悪であって信仰などではない。教義を盾に真実を著しく歪め、信者を欺き、金をまきあげ、自己放棄という強制労働に駆り出す行為は決して許されるものではない。
 神慈秀明会幹部にとって大切なのは信者の幸福ではなく、秀明会の存続と発展であり、秀明会の発展の為であれば、信者が犠牲になってもそれを是としてきた。
 秀明会幹部が信者の幸福よりも秀明会という団体の擁護に主眼を置き、我が身の保身と収入源の確保を優先した時点で、すでに秀明会は宗教団体としての目的を逸脱し、衰退への道をたどっている。

 企業でも、各種団体でも、宗教団体でも、「組織」にとって最も重要なのは、その組織が社会に受け入れられる存在となれるか否かである。今、神慈秀明会を社会は受け入れてくれるであろうか。
 宗教団体としての目的を逸脱し、集金団体と化したエセ宗教団体を受け入れてくれる社会など存在する筈もないのは明白である。
 危機管理能力に欠けた組織が、問題が生じた際の対応を誤った為に社会から排除される姿を、近年我々は数多く見てきた。現実を見ようとせず、教条主義に凝り固まった思考しかできない者に危機管理能力はない。つまり、神慈秀明会に危機管理能力は無いに等しいと言える。危機管理能力がないが故に、ここまで秀明会は自らを危機に追い込んだといっていいだろう。
 神慈秀明会の異常さに気付いた信者が次々と会を去っていく中で、新たな信者を獲得することは非常に難しい現状がある。インターネットを利用した「秀明の悪行暴露」がそれに拍車をかけているが、こうした秀明会の衰退という現実ですら、教条主義者である秀明会幹部はそれを認めようとしない。

 「はだかの王様」という寓話がある。王様が裸であることは皆、気付いていたが、王様の機嫌を損ねないように皆、「気付かないふり」をして、「王様、すばらしい服ですね!」とおだてていた。
 神慈秀明会という「はだかの王様」の実態に気付いていながら、信者はおろか秀明会幹部も誰一人としてその問題点を指摘しようとしない。このような態度は問題の解決を先送りにするだけであり、このような組織には発展はおろか、存続の道も残されていない。

 もし、秀明会に迫ったこうした危機から組織を守る「救世主」にならんとする者がいたならば、その者は秀明会に課せられた解決しなければならない諸問題を直視し、現実的な解決策を早急に講ずるべきである。
 小山一族に牛耳られた組織に、救世主として新風を吹き込むことができる卓越した人間がいればの話であるが・・・。
 「私には、到底そのように組織を改革する力はない」というのであれば、一刻も早くこの秀明会という名の「はだかの王様」世界から離れ、「まともな社会生活」への道を模索することが賢明な判断である。

 カルトは宗教ではない。神慈秀明会というカルトにあなた自身が存在することが、あなたの大切な家族にどれだけ苦痛を与えているかを考えて頂きたい。
 信仰は大切なものである。しかし、神を信ずるものが信仰者なのではない。たとえ一つでも自分の中に神の光を輝かせる時間を持つことが真実の信仰者の姿である。そのためには自分の頭で考えることが欠かせない。本当の神仏は、その人の生き様の中から滲み出てくる光の中にこそある。カルトを盲信することは破滅への道をたどるだけである。

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