神慈秀明会の御神体である、「光明」や「大光明」の掛け軸は明主様直筆ではなく、おひかりの文字に切り貼りや拡大縮小といった加工を加えて作られたものだと秀研やリセットで指摘がされている。
この件に関する問い合わせのメールが来ているが、秀明会の信者ではない私(fujiya)がこうした御神体という神聖なものについて論評を下すのは少々荷が重い仕事である。しかし、信者の皆さんにとっては重要な、「御神体ねつ造疑惑」を放置しておくのはこうした活動をしている私自身のサボタージュでもあるので、手持ちの資料とネット上から入手した資料、現役信者の方からのサポートを得て、御神体ねつ造疑惑の真偽を確認してみた。
信者の方から見ると不適切な点もあるかも知れないが、私が未信者であるということでご容赦頂きたい。
「おひかり」の種類
神慈秀明会の御神体について語るとき、「おひかり」についての十分な知識が必要になる。その理由は下記をお読み頂くとお解り頂けるだろう。
おひかりには、
@「光」(一般信者用)
A「光明」(活動信者用)
B「大光明」(教師用)
の三種類がある。
現在、秀明会の信者が身につけているおひかりの中に入っている「光」が書かれた紙片は、長辺が15cm程度の小さなものであるが、教祖(岡田茂吉)が在世中に書いていた「光」は半紙より少し大きい紙、「光明」は半紙2倍弱の紙、「大光明」は掛け軸に使うような大きな紙におひかりの文字を書いていた(このサイズは昭和26年7月24日以降のもの。昭和22年8月30日から25年7月までは、「光」ですら、半紙二枚弱あった。なお、教祖在世中は、おひかりのことを「お守り」と言っていた)。
そして、それを一生懸命に小さく畳んで、セルロイド(当時、プラスチックは普及していなかった)のケースに入れ、それをさらに絹袋に入れて首からかけていたのである。
まず、この「昔のおひかりは大きかった」ということを頭に入れておいて頂きたい。
おひかりを書く作業は、聖教書の「私の光」にもあるように、「私はその“おひかり”の文字をかく場合、祈りもせずなんら変わった事はやらない。ただ一枚ずつ頗る(すこぶる)スピーディにかく。まず一枚かくのに七秒平均であるから、一時間に五百枚は楽である(昭和27年5月25日)」と教祖自身が述べている通り、一度にたくさんのおひかりを書いていたことも併せて頭に入れておいて頂きたい。
「元々のおひかりは大きかった」、「一度にたくさんのおひかりが書かれた」ということを頭に入れておかないと、これから先の内容が理解して頂けないので、敢えて最初におひかりの解説をさせて頂いた。
「光明」の改造
下記4枚の写真を見て頂きたい。左上は活動信者用の「光明」のおひかりで、大きさは長辺が約15cmほどに縮小されている。現在はほとんどのおひかりがこのサイズで作られている。
右上は昭和49年3月17日に旧広島支部で開設された第1回信徒大会の写真であるが、人物の後ろにある「光明」の御神体の文字は左上のおひかりの文字と全く同じであるが、大きさは全く違い、人間の大きさと比べてみても分かる通り長辺は1メートル程あるだろう。
左下のクレストンの御神体、右下の旧香港支部の御神体も人間の大きさと比較してみると旧広島支部のものとほぼ同程度の大きさである。
以上により、こうした「光明」の御神体とおひかりは、元は同じ文字を拡大、もしくは縮小したものであることが分かる。そしてよく見ると文字は全く同じだが、「光」と「明」の文字間はおひかりは狭く、御神体ではかなり広くなっている。
ということは、こうした御神体やおひかりは、「光明」の文字を拡大・縮小しただけでなく、文字を切り離して再配置していることが分かる。
教祖が書いた文字を切り離すという行為が宗教的に許されるのだろうか?
私のような門外漢から見てもこうした行為は教祖に対する冒涜ではないかと思われるのだが・・・。
おひかりの「光明」 「光」と「明」の間がかなり狭いことに注目 |
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旧、広島支部の「光明」 |
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クレストンの「光明」 | 旧、香港支部の「光明」 |
「大光明」への変更
香港支部の御神体は当初は上記でも紹介した「光明」の文字であったが、新しい香港支部に建て替えた際に「大光明」に変更された。
下記に示す写真が香港支部の新しくなった「大光明」の御神体(右)と京都の古美術洛南のホームページに掲載されている明主様直筆の書とされるものを一緒に並べて見た写真だ。
上記写真の左側に貼り付けた「大光明」の掛け軸は、教祖直筆のおひかり(昭和26年7月24日以降の教師用)を教祖死亡後に白絹の袋から出して、掛け軸に表装したものだ。なぜそんなことが断言できるかというと、この左側の「大光明」の書には引首印(関防印)と呼ばれる右上の押印(○に主の文字)があり、落款(サイン)と落款印(左下の押印)がないからだ。
教祖・岡田茂吉は○に主の引首印をおひかり、色紙、短冊のみに使用しており、御神体やその他の掛け軸、扁額には使用しなかった。また、教祖がこうした揮毫(きごう)で落款や落款印を使用しなかったのは昭和26年以降のおひかりだけだったからである。
私は最初見たとき、この二つは同じものかと思ったが、良く観察すると非常に似てはいるが文字間隔が直筆の方が狭いのと、光の文字の右下のタッチが微妙に違っていること、明の月の部分の右上のタッチも僅かに違い、両者は別のものであることがわかる。なぜこれ程までに両者が酷似しているかというと、「おひかりの種類」に書いたように、おひかりを書くときは、まとめて一気に数十枚から数百枚を大急ぎで書くために同じような書体のものができあがるのである。この二つの大光明が酷似していることから、この二つは同じ時に書かれたおひかりであることがわかる。
つまり、右側の香港支部の御神体も教祖がおひかりとして書いた大光明の複製であると断言して差し支えないであろう。もっとも、秀明会のこの御神体からは教祖の引首印が消されているが、これは引首印を残しておくと、これがおひかりであったことが一目瞭然となるため、意図的に削除されたものと思われる。
下記はいずれも教祖・岡田茂吉の書である。こうして並べて見たとき、左側の3つに比べて右端の「大光明」は何となく素っ気ない文字に見えないだろうか。下記の写真は全て掛け軸の体裁をなしているが、左側3つは「書」として意識して揮毫されたものだが、右端の「大光明」は元々はおひかりとして書かれたものを掛け軸に表装し直したものである。
これは、おひかりであれば袋に入れて首からかけるものであり、外からは見えず、体裁を気にする必要もないことから、教祖はきわめて事務的にスピーディーにおひかりの文字を書いたためである。おひかりの文字は、元々見ることを前提に書かれていないので、こうした素っ気ない文字なのである。
昭和26年7月24日以降のおひかりには、右上の引首印だけは押されていたが、落款も落款印もない。これは当時の教団がメシヤ教になり、信者の数が膨大になったため、おひかりの作成を量産体制にする必要があったことから採られた簡略化の結果だ。
以上により神慈秀明会香港支部やSSAの「大光明」の御神体は、おひかりを御神体としたものであり、それがバレるのを防ぐために引首印を削除するなどの「改造」を施していることが分かる。
この香港支部やSSAで御神体とされている「大光明」の文字は、この後で説明する京都支部(現在は神苑本部)に奉納されている「大光明」とは違う書体のものである。
神苑の御神体
昭和58年5月1日、信楽に完成した教祖殿にて、「御神体御遷座祭」が行われた。この席上、当時の会長・小山荘吉は、「昭和45年12月22日、明主様のご神体をご奉斎してからの願いだった」と述べ、下記写真のようにしてご神体が教祖殿に奉納された。
秀明紙第361号によると、昭和45年12月22日に京都支部で行われた御神体奉斎は「世紀の祭典」と呼ばれ、「明主様ご神筆のご奉斎が行われました」と書かれている。
「ご神筆」とは言っているが「ご直筆」とは言っていないところに実は深い意味が隠されているのかも知れないが・・・。
それまで神慈秀明会の本部は京都支部にあったので、昭和58年5月1日に教祖殿に移設されたのは京都支部に奉斎されていた御神体であるのは間違いない。下記写真を見ても横幅が1m程度のものであることが分かり、下記写真に示す京都支部にあった御神体が神苑の教祖殿に移設されたのである。
神苑での御神体の写真は一切公開されていないので、御神体が京都支部にあった時の写真を用いて検証をしてみよう。
まず、下記の写真を見て頂きたい。これは、ネットでは「有名」になった黄島支所の御神体である。
なぜ「有名」になったかは、皆さんご存じと思いますが、まだご存じない方もおられるかも知れませんので解説を付け加えると、「大」の文字と「光明」の文字がかなりずれており、また「光」の一角目のタッチがかなり強く、こうした強いタッチは通常最初の文字を書く時に用いられることなどから、この「大光明」は切り貼り合成したものではないかとの疑惑があることで有名になっている。
これに関しては秀研に非常に詳しい解説が掲載されているので、まだご覧になっていない方は是非ご覧頂きたい。
この黄島支部の御神体の写真はやや斜め方向から撮影されており、御神体の画像が歪んだ形となっているので、これを写真修正ソフトを使って正面から見た画像に修正します(便利な道具があるんですねー!)。
これをまっすぐな 画像に変換すると →→→→ |
こうして得られた「大光明」のまっすぐな文字を京都支部で撮影された御神体に重ね合わせてみる。
京都支部の「大光明」の文字は、上部が御簾に隠れているが、よく見ると「大」の文字の下端が御簾から透けて見えているのが分かる。
下記写真のように黄島の御神体と京都支部の御神体を重ねてみると、黄島支所の「切り貼り疑惑付き大光明」の文字と完全に一致することが分かる。
ただし、全体の大きさは京都支部の御神体と黄島の御神体では全く違う。黄島の御神体は通常の掛け軸の寸法であり、通常の掛け軸の高さは大きいものでも189cm程度だ。
ところが、京都支部の「大光明」の御神体の寸法はそれよりも並はずれて大きい。
どれくらい大きいのかは次の写真を見てもらうと分かる。
写真の下の方に一升瓶が数本写っている。最近は一升瓶を使うことは少なくなってきたが、昔はよく使った。
一升瓶の寸法は高さが402mmある。これを物差し代わりに御神体のまわりに並べて御神体の寸法を測ってみる。
縦方向に一升瓶が6本並んだので、402mm×6=2,412mmで、高さは2.4m、幅は1m弱と言いたい所だが、一升瓶の置かれている所は御神体よりかなり手前なので一升瓶を御神体の位置まで遠ざけると実際はもう少し小さくしなければならない。その分を考慮すると「少なくても高さは2.5m以上、幅は1mはある」といっていいだろう。
秀研やリセットでも指摘されている通り、教祖が健在であった時代にこのように大きな掛け軸をかけられる一般家屋など存在せず、この大きな「大光明」の御神体は、後の時代になってから京都支部の御神床に合わせて拡大コピーして作られたものであり、教祖直筆の御神体ではない。
以上により、京都支部の以前の御神体は黄島と同じ書体(切り貼り疑惑濃厚な)であり、なおかつ、大きさも御神床の大きさに合わせて拡大コピーされたものであることが分かった。
現在は、この「大」と「光明」の位置がづれ、拡大コピーされた御神体が神苑の神殿奥深くにアンチ(失礼、安置)され、信者の皆さんはそれに向かって礼拝をしている。
下記に示すように、玉手山、金沢、神崎、名古屋、姫路、近江八幡など多くの支部や出張所でもこの黄島と同じ書体の御神体が奉斎されている。
玉手山支部の「大光明」 |
金沢出張所の「大光明」 |
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神崎支部の「大光明」 | 名古屋支部の「大光明」 |
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姫路出張所の「大光明」 | 近江八幡出張所の「大光明」 |
コピー商品は世の常
以上のような結論は、すでに秀明信者の皆さんはご存じなのだと思う。
長くなるので、今回は触れなかったが、もちろんおひかりの「光」も切り貼りコピーで作られている。
「神苑の本部の御神体が、拡大コピーの模造品で何が悪い?」、「たとえ、本部の御神体が明主様の直筆でなくても、会主様は明主様の直弟子であり、その会主様が入霊しているんだから、いいではないか」という方も多いのではないだろうか?
「鰯の頭も信心から」と言われているように、コピーであろうと、切り貼りされていようと、模写されていようと信者自身がそれでよければ他人がとやかく言う必要はないのだろう。
露天で買ったグッチでも、他人が離れて見れば分からない。自分が「私はグッチを持っている」と虚栄心を満足させることができればコピー商品だって立派に役にたっていることになる・・・。
しかし、オリジナルを切り貼りして作ったコピー商品を本物と偽って数万円、数十万円で信者に売る行為は詐欺だ。
とは言っても、恐怖信仰を操って数百万円、数千万円の献金を信者に強要してきたのと比べれば金額的には小さい詐欺だが・・。
以上の記事は、秀研及びリセットから多くの題材を参考として使わせて頂きました。
秀研:https://shuken.sonnabakana.com/
リセットゼロ:https://web.archive.org/web/20080210011716/http://kyoto.cool.ne.jp/resetzero/mokuzi.html