御神床改造

 「御神体改造」を公開したところ、秀明信者の方から一通の投稿を頂いた。
 投稿者Aさんによると、「御神体改造」の記事の中にあった玉手山支部の御神床(御神前の神様をお奉りする場所)が、教祖が指示した建設当時の形とは違った形に造り変えられているというのだ。
 その投稿を紹介する前に、玉手山支部について少々予習しておきたい。

 この神慈秀明会玉手山支部は、一部の秀明会関係者の間では「明主様設計の御神殿」等と言われているが、それは間違いであることはすでに秀研において下記のように指摘されている。

@明主様は玉手山支部を設計していない。誰かが設計した図面を見て、ご指示されただけのことである。




A移築されたときの増築、老朽化に伴う改築で明主様が来られたときとは間取りが大幅に変更されている。
左側の写真は現在の玉手山支部の玄関。右側の写真は旧京都本部時代の玄関。
○印をつけた屋根中心部の換気口の位置を基準にすると、玄関の位置が左右逆になっている。


B白蟻に食われて、平成13年に大改修した後の玉手山支部には移築当時の材木はほとんど残っていない。
平成13年の大改修で、ほとんどの部材が新調された。
移設当時の部材が残されたのは、上記のようにごく一部だった(楽苑12号)。

 神殿の設計者に関する認識違いは、飛天をあまりよく読んでいない秀明幹部が誤った事実を信者に伝えた結果だろう(あるいは意図的?)。
 建物の老朽化に伴い、改築の必要が生じたことは一定理解できるが、それ以前に京都から玉手山に建物を移築した際、最も肝心な「御神床」という神様を奉る場所の形状を明主様の指示とは違う形に作り変えたのはなぜなのだろう? 今回の投稿者Aさんの指摘もその点を厳しく指摘している。
 私のように神慈秀明会の信者ではない者でも、”御神床の造り変え”というのは、「宗教的に、そんなことしていいのかな?」と思うが、明主様信仰をしてきた秀明信者にとってそれは大変な問題であるようだ。

 下記二枚の画像を見ていただきたい。

明主様御在世中の御神前

上記写真は京都旧本部の御神前。御神体のすぐ横に明主様の御尊影を安置し、この
二つで一つの御神体とする「二位一体」という教祖在世中の正しい奉斎方式の御神前。


明主様御昇天後に改造された御神前

上記写真は京都本部を解体した後、玉手山支部にて復元された御神前。御神体
だけが御神床に残り、明主様の御尊影は御神床の外の脇床に安置されている。
この写真は(旧)楽苑14号掲載のものだが、誤った説明がつけられている。



 こうした御神床改造工事が、救世教の傘下にあった他の教会でも行われていたのかを確認してみたところ、同時代に建てられた他の教会ではこうした御神床改造は行われておらず、二代、三代教主の時代にも御神床の形に変更が加えられることなく、明主様御在世中と同じ形を堅持されていた。三代教主とも近しい関係にある教会にてこうした事実が確認されている。
 このことから、秀明会の玉手山支部の御神床の改造は、救世教の命令によって行われたのではなく、秀明教会(現在の神慈秀明会)の独断により行われたことが分かる。

 以上の事実を踏まえた上で、Aさん(秀明信者)から寄せられた下記の投稿をお読み頂きたい。

 御神前の御神床といえば神様をお奉りする場所であり、教会の最も重要な心臓部ではないのか?  それをいとも簡単に破壊して、別の形にしてしまう秀明会とは・・・。
 玉手山支部が移築されたときに増築もされ、明主様のご指示とは異なる間取りに変更されていることはすでに秀研で暴露されていたが、肝心の御神前の御神床まで、すでに明主様のご指示に反する姿になっていたとは!
 秀明会にとって、明主様は本当に教祖なのか?
 そんな素朴な疑問を抱くのは、私だけではあるまい。明主様がご指示された御神前をぶち壊し、そこに、切り貼りの偽造御神体を入れ、御尊影は御神床の外の脇床に追いやり、祭事・献せんも明主様がはっきりと禁止していた大本教のやり方で行う秀明会!
 なぜ、これほどまでに、秀明会や小山家は、教祖であるはずの明主様を嫌うのか?
 明主様信仰をしてしまうと、小山家に何か不都合なことでもあるのか!?



 Aさんからの投稿は以上であるが、御神体改造、おひかり改造、教義改造に続いて神様を奉る御神床まで明主様の指示とは違う形に改造してしまう秀明会とは、本当に「明主様信仰」をしている宗教なのだろうか?
 秀明会が行ってきたことは、ことごとく教祖・岡田茂吉が禁じてきたことばかりだ。
 Aさんが言うとおり、秀明会はむしろ明主様信仰を意図的に拒否しているのではないだろうか?
 「神慈秀明会は明主様信仰ではなく、会主様信仰をしているのだ」という声はかねてからささやかれていたが、その会主様信仰の中身は明主様の力を封印し、小山美秀子が思い描く「小山教」を作ることにその真意があったのではないだろうか。
 「離脱の神意」とは、世界救世教からの離脱だけでなく、「明主様信仰からの離脱」を謀り、小山教へと変貌するための方便だったのではないだろうか。



 以上の記事を公開したところ、世界救世教の信者の方?と思われる方から下記のような投稿を頂いた。
 それによると、玉手山支部以外にも明主様御設計の御神床が改造されてしまった御神前があったようであるが、それを後世の人々がどのように受け止め、対応していったのかが分かる。

投稿(世界救世教では)

 神慈秀明会の玉手山支部での改造事案と同じようなことが世界救世教でも過去にありました。
 明主様御在世中に建設された箱根のご面会場所(世界救世教本部参拝施設)である「日光殿」の御神床を、救世教二代教主が大本教式の御神床に改造してしまったのです。
 ところが四代教主推戴後、川合輝明氏は再建派全職員の前で、「今までの二代様、三代様のご指導は全て間違いでした。このため、明主様のみひかりが今まで閉ざされていました。これからは、すべて明主様ご在世中通りに戻します」と発言し、「日光殿」の御神床を明主様御設計の通りの形に復元したのです。

 これって、秀明会にも見習って欲しいことですよね?



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