秀明会は布教を止めた?

 下記の写真を見ていただきたい。
 この写真は、「秀明ファミリーウエブ」という、秀明会の信者だけが見ることのできるホームぺージ内にある、「各部からのお知らせ」というメニュー画面の一部である。
 各部署の、「詳しく」の文字にはリンクが張ってあり、これをクリックするとそれぞれの詳しい解説ページへ飛ぶようになっている(この画像はリンクしていない)。


 写真左上に、「布教部」という表示があるが、具体的項目はなく、「特にありません」という文字が記されている。布教部の、「詳しく」の文字をクリックすると画面は変わるのだが、表示されるのはヘッダーとフッターだけで中身は空白のページだ。
 善意に解釈する方は、「たまたまこの時期は掲載するような活動が布教部としてはなかっただけだろう」と思われるかもしれないが、そうではない。
 布教部以外の各部署のページには長期間にわたる活動の様子が書かれており、青年部などは2004年からの活動の詳細が紹介されている。部署によってはかなり活発な活動がされているところもあるようだ。
 中でも、「国際部」や、「海外」等の部署での活動報告を見るとかなり活発に活動をしている様子が紹介されており、秀明会が海外での活動を重視しているのがよくわかる。

 そうした活発に活動している部署がある一方で、「布教部」の活動報告が、「特にありません」の一言だけで空白のページしかないのは、神慈秀明会では、ここ数年は特に紹介するような布教活動をしていないことを意味している。
 「宗教法人・神慈秀明会」という看板を掲げていながら、やっていることは、”自然農法”、”NPO”、”NGO”、”海外活動”などばかりで、肝心の宗教活動、布教活動は休業状態である。
 宗教団体が自らが信ずる宗教を広める布教活動を何ら行わず、もっぱらその他の活動にばかり力を入れているのは正常な姿ではない。
 彼らが信ずる、”明主様信仰”によって、彼らがいう、”地上天国”実現の道筋が少しでも見えているのかというと、全くそのような状況ではなく、神慈秀明会の名前などは一般人は誰も知らないに等しい状態である。これはひとえに彼らの努力不足であり、宗教団体が布教活動を忘れてその他の活動にばかりいそしんでいたのでは、その教えが世界どころか日本にも広まることはあり得ない。
 宗教団体が布教活動をしないのは、魚屋が魚を売らず、八百屋が野菜を売らないのと同じことだ。その本分を忘れ、付随する作業にばかり目を奪われているのは本末転倒である。

 では、彼らはなぜ布教活動をしないのか?
 それは、現会長・小山弘子の指示である。
 平成18年度の会長による年頭所感にあるのは、自然農法拡大の話ばかりであり、布教活動の必要性については一言も触れていない。
 彼女は秀明会が宗教活動を前面に打ち出して活動をするのを嫌っている。以前のように街頭で通行人を呼び止め、「あなたの健康と幸せを祈らせてください」と言って浄霊を行うのことは、現在の秀明会では禁止されている。
 なぜ禁止したかというと、それを行うと秀明会が、「カルトだ」と言われてしまうからである。
 厳密にいうと、”浄霊”という、”手かざし”そのものがカルトなのではなく、”カルトと言われて当然のことをしてきた神慈秀明会の活動”があり、手かざしを行うことによって自分たちがそのカルトであることがバレてしまうから手かざしを街頭で行うことができないのである。
 そうした事情があるので対外的には浄霊(手かざし)を禁止したが、秀明会内部では現在も浄霊は正規の宗教動作であり、会員同士では堂々と行われている。
 現役信者を引き留めておくためには浄霊を禁止することはできないし、内部的には別段禁止する必要もないからである。
 世間に向かっての布教活動、浄霊は止めておきながら、会の内部ではそれが続けられているのは、”井の中の蛙”、”マスターベーション宗教”を絵に描いたようなものであり、外部の人間の目には滑稽にさえみえる。
 こうした状況では布教部が布教活動を行おうとしても何もできないのは当然であり、空白のページしか作れないのも合点がいく。布教部独自の判断で勝手に布教活動を行えば、「勝手なことをするな!」と責任追及がされるだけに終わるだろう。

 しかし、宗教法人として最も重用視されるべき布教活動が全くなされず、自然農法や海外の団体との交流、現役信者を集めての”集金集会”にばかり熱が入っている現在の秀明会の活動を見て、これが正常と思っている信者は少ない。
 現に、信者の中からはこうした秀明会の姿勢に対する批判の声も強く、私の所へその窮状を訴えてくる現役信者もいるほどである。

 秀明会が彼らの言うように、「世界に羽ばたく宗教」として全人類に受け入れられるためには、彼らの信ずる信仰を前面に掲げた布教活動なしに宗教団体として認められることはない。
 私が現役秀明信者であれば、「神慈秀明会は堂々と街頭布教を行うべきだ!」と訴えるだろう。自分たちが信ずる信仰に迷いがないのであれば、それを堂々ともっと多くの人たちに広める活動を行うのは当然のことだからである。
 それができない神慈秀明会という団体。彼らが信じている信仰にはこうした多くの矛盾が山積しているが、敢えて彼らはそれに目を向けようとはしない。
 人間は解決できない大きな矛盾に立ち向かったとき、思考を停止し、その矛盾は目に入らないように装うことがある。
 こうした自己矛盾に気付こうとしない団体、言葉を変えると、「はだかの王様」状態にあるのが神慈秀明会という団体である。

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