奴隷

 私はこれまで数多くの秀明に関する事実を見てきたが、その中でどうしても理解できない部分があった。
 それは、「小山一族や秀明幹部はどうしてここまで悪人になりきれるのだろう、この人たちに人間としての良心、人を案ずる気持ちの持ち合わせはほんのわずかもないのだろうか?」という疑問だった。

 普通の人間であれば、他人が困窮するようなことを平気で相手に次々と押しつけたりできるものではない。万が一にも自分が原因で他人の生活が破綻したことを知れば、それを無視して平然としてなどいられるものではない。
 一人の人間の人生を狂わせただけでも大変なことなのに、秀明では数え切れないほど多くの人たちが秀明のために人生を狂わされ、その家族も巻き込んで多くの人間が涙を流す結果となっている。
 サリン事件に巻き込まれた被害者、尼崎でのJR脱線事故に巻き込まれた被害者も大変な数だったが、秀明被害者の数はその数倍、いや数十倍、家族も含めれば数百倍にのぼる。
 秀明が完全なる犯罪者集団というのなら、こうした膨大な数の被害者が発生するのもうなずけるが、仮にも秀明は宗教団体である。人を救うはずの宗教団体が、なぜこのように人を傷つけることを平気で繰り返すことができるのだろうか・・・?
 「カルトだから」という一言で片づけることもできるかもしれないが、それだけの理由で終わらせてしまったのでは、本当の意味での秀明問題解決にはならないというジレンマを私自身が感じていた。
 現象としての秀明被害、秀明のカルト的側面は十分認識している私ではあったが、なぜ秀明がこのような加害者になり得たのか、その背景が私には謎だった。


 ある日、私の所へ1通のメールが送られてきた。
 そのメールを読みながら、私は深く深くうなずき、上記疑問が氷解するのを感じた。そのメールは、次のような内容である。

(前略)
 秀明会がなぜこのようなカルト教団になったのか、その源泉について説明させて頂きます。

 秀明会の経営者は、信者を奴隷のように取り扱っており、信者は小山家のために永久に献金を続け、無償の肉体労働を続けるものと考えています。そして、これを当然と考えています。これは、秀明会発足当時も今も変わらない秀明会経営者の経営理念です。

 普通の人間であれば、こんなことは考えません。
 「秀明会の経営者は最初から詐欺師だっただけなのだ」、と結論づけてしまったのではここで議論が終わってしまいます。
 感情的な一般論を振りかざすと論理的な客観的分析ができなくなります。私はこれから、秀明会経営者である小山家の人間たちが、なぜこのような人を人とも思わぬ傲慢な人間になってしまったのかについての客観的な経緯を書かせて頂きます。

 神慈秀明会会主・小山美秀子は明治43年5月51日、河崎孝造・ツネの二女として大阪府で出生した(当時の名前は俊子。美秀子は後に改名した名前)。
 美秀子の生家、河崎家は、戦前、男爵で大金持ちだった。
 彼女は小さい頃から、自分の周りの人間はすべて自分の奉仕人であり、自分の家来にすぎないという無言の教育を親から受けてきたのです。確かに、戦前の華族制度の下ではこの考え方は正しかったのでしょう。
 しかし、敗戦により憲法が改正され、こういった不平等な制度が日本から駆逐されたにもかかわらず、小山家のこの女あるじは、殿様根性を捨てきれず、一生、殿様でい続けました。
 なぜか? 彼女は終戦より前に、宗教団体のトップになり(当時は被包括法人でしたが。子会社の社長といった立場です)、世間の法律の及ばない自分だけの団体、自分が法律の団体の長になっていたからです。世間の法律が及ばないのですから、敗戦で法律がどのように変わろうが、彼女にとっては関係なし。彼女は信者と名前を変えた奉公人を秀明会という名前のミニ国家の奴隷として(家畜といったほうが適切)支配し続けたのでした。
 だから彼女は秀明会の「御用」が原因で信者が離婚しようが、借金地獄になろうが、家庭崩壊しようが平気だったのです。彼女にとって信者は、自分と対等な人間ではなく、奉公人、召使、奴隷にすぎないのですから。
 奴隷貿易をしていた頃のヨーロッパ人は奴隷の家が崩壊しても、なんとも思わなかったでしょう。というか、奴隷を家畜と考えていたんですよね。小山家の女あるじも同じです。彼女は秀明会の奉仕者が病気になり、動けなくなると、浄化者室という監禁部屋に閉じ込めていました。しかし、自分が怪我をすると、こっそり病院に行っていました。これは、彼女が信者を奴隷と考えていた何よりの証拠です。

 『し・か・し』、なのです。その一方で、小山家の人間が信者の幸せを真剣に『祈っていた』のも、また事実なのです。
 「明主様、どうか、秀明会の信者一同が御守護頂きますよう伏してお願い申し上げます。」と本気で祈っているのです(別に私は小山家の行為を肯定しているのではありません。最後まで、読んでください)。
 信者を小山家の犠牲にしているのに(離婚、借金地獄、家事放棄、学業放棄、仕事放棄)、なぜ、信者の幸福を真剣に祈れるのか? これって、第三者から見るとすごく矛盾してますよね。
 実は、小山家の人たちの祈りは、『祈るという行為それ自体』に意味があるのであり、それによって実際に信者が幸福になるという結果の部分は捨象(しゃしょう)されているのです。分かりやすく言えば、小山家の人たちは、自分の祈っている行為に酔っているだけなのです。

 「私はこんなに人の幸福を祈っているんです。この私の祈る姿は崇高で美しいんです。だから、私は正しい人間なんです。だから、私の今までの人生は正しかったんです。私は正しい、正しい、正しい、正しい・・・」

 小山美秀子、荘吉、弘子の三者の礼拝、祈りを現場で見たことのある人に対して、「小山家は信者を奴隷と考えている」と、いくら訴えても、「いや、そんなことはない。会主様、会長先生は信者の幸せだけを考えていてくださる」と反論してくるでしょう。ある意味この反論は正しいのです。
 確かに、彼女らは真剣に祈っているのです。ただ、『祈り』の意味が違うのです。『祈るという行為』に意味があるのであり、現実に信者が幸福になるかどうかは、絶対に触れない、考えないのです。
 他者の幸福を真剣に祈りながら、その人間の財布の中身をすべて奪い取る。このコメディーのような行為こそが、小山家の祈りなのです。ですから、祈りという言葉の意味が小山家と世間では違うのです。

 そして、信者は自分の為に存在する奉公人なんだから小山家にすべてを差し出して当然。そして、小山家にすべてを差し出せばお徳を積むことができ、罪穢れが消え去り、霊界で救われる。明主様は現界にもういないのだから、小山家だけが明主様の代理。明主様は神様なのだから、その代理である小山家にすべてを差し出すことだけが唯一のお徳を積む方法。だから、有り金全部を献金しなさい。
 そして、貧乏でぼろぼろになった信者を見て、この人は救われたと本気で考えていたのです。本気で・・・。
(後略)


 『奴隷』・・・・、『 ど れ い 』・・・

 『家来』・・・・、『 け ら い 』・・・

 『信者』と名前を変えた『奉公人』・・・・、『ほう こう にん』

 『召使い』・・・・、『 め し つ か い 』・・・・

 『家畜』・・・・、『 か ち く 』・・・・


 人間が、自分と同じ人間をそこまで蔑視できるものなのだろうか・・・。
 やはり彼ら、彼女らは尋常ではない。
 尋常ではないからこそ、ここまで秀明被害が拡大したのだろう。
 信者の人間としての尊厳を踏みにじり、多くの、本当に多くの人々の幸せを奪ってきた人間に「会主」や「会長」等を名のる資格はない。
 彼ら、彼女らの根底には人間に対する差別思想が色濃く横たわっており、そのような信者蔑視の思想を根底に持ちながら自己陶酔の祈りを繰り返しても、それは単なるマスターベーションでしかない。

 マスターベーションの祈りを繰り返すだけでは、自己満足は得られても、信者に本当の幸せを具現することはできない。
 もし彼女らの祈りが本物であると強弁したいならば、これほど多くの秀明被害者が現実に存在している事実をどう説明するのか。
 このような者が神慈秀明会のトップに君臨している限り、秀明信者が救われることはあり得ない。

 もし、私のこの結論づけが誤りだと言うのであれば、嘘で塗り固められた『離脱の神意』、神をも冒涜するご神体の切り貼りやねつ造、偽ダイヤや偽ゴールドによる騙し行為、おかげ話のねつ造、等々のインチキ行為をどのように説明するのか?
 これら一連のインチキ行為の根本は全て同じだ。その根本にあるのは『アホな奉公人(信者)は簡単に騙せる。下等な人間は騙されたことにすら気づかない』、『追及されたら神様のせいにしておけばいい』という信者蔑視の思想だ。

 人を人として扱わない者に、これ以上ついて行ってはいけない。
 これを読んでくれている秀明信者の方は、一日も早く秀明会を離れることがあなたの本当の幸せに繋がることに気づいてほしい。

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