(短編小説) ラ・ジュール

1、ラ・ジュール
 菜名子と夫の義幸は、港区のマンション、”ラ・ジュール”の玄関ホールにいた。
 このマンションは菜名子がここ2年間ほどの間、足繁く通った場所だ。
 このマンションはオートロックになっており、部外者は侵入できないようになっている。訪問者は1階の玄関ホールに設置されたカメラ付きインターホンに向かって部屋番号をプッシュし、居住者が訪問者を確認して室内からロック解除ボタンを押さないと玄関は開かない。
 義幸と菜名子は手さげ式の紙袋を持ち、その中からノートを取り出し、手にはペンを持ってなにやら打ち合わせをしているようだった。
 しばらくすると宅配便のトラックが玄関前に止まり、運転者が小脇に小さな荷物を抱えて玄関ホールに入ってきた。中元商品の配達にきたようだ。
 宅配業者の若い男は手慣れた手つきで部屋番号をプッシュし、居住者と二言、三言言葉を交わした後、内部へ通じるオートロックされた大きなガラス扉の前に立った。
 義幸と菜名子は顔を見合わせ、一瞬うれしそうな顔をした。大きなガラス扉がサッと左右に開き、宅配業者は駆け足で中へ入って行った。一旦開いたガラス扉は数秒間はそのまま開いている。義幸と菜名子はその間に悠々と中に入ることができた。

 義幸と菜名子はマンションの郵便受けが設置されている場所に向かった。
 郵便受けは、営業ビラやピンクチラシなどの無秩序な投入を警戒して、管理人室から投入口がよく見える位置に設置してあったが、この昼休みの時間は昼食をとるため管理人が管理人室の奥の机に移動して食事をすることも前もって調べてあった。
 二人は誰にとがめられることもなく、紙袋に入れて持ってきた80枚余りのビラを80戸全部屋と管理人室の郵便受けに楽々と投入することができた。

 ビラを入れ終わった二人はすぐにエレベーターホールへ向かった。エレベーターホールに到着した二人は、目の前にあるエレベーターのボタンは押さず、その横に設置された階段へと向かった。
 階段をやや駆け足で3階まで上がってきた。階段から廊下へ出て、右に曲がったすぐのところに301号室のドアがあった。


2、301号室
 このマンションはなぜかあまり人の気配がない。繁華街に近いせいか、居住者は単身者などが多く、昼間は住人が少ないのかもしれない。301号室のドア付近にも生活を感じさせるようなものは何もなく、ドア横の銘板には、「301号室」と書かれたプレートが取り付けられているだけで、その横の居住者名を表示する場所には何も書かれていない。知らない人が見ればこの部屋は空き室なのかと思うだろう。

 菜名子と一瞬目を合わせた後、義幸は気持ちを落ち着けるためにゆっくり息を吸い込んでからドア横に取り付けられているインターホンのボタンを押した。
 遮音性が高いのか、室内にインターホンの呼び出し音が鳴ったのかどうかは確認できなかった。もう一度押そうかと一瞬思ったが、思いとどまり、様子を見ることにした。
 30秒ほど待ったがインターホンは静まりかえったままで何の応答もない。
 少しイライラしてきたので、もう一度インターホンのボタンを押そうとして右手を上げたとき、室内で人が動いたような音がした。「誰か出てくる」菜名子が小さな声で言った。

 金属製の黒光りする301号室のドアが、”ガシャ”という音とともに外側に開けられ、かなり化粧の濃い女がいぶかしそうな顔をしながらこちらに向かって目を見開いている。無言である。「なぜこの女は何も言わないのだろう?」。義幸がそう思ったとき、「あーら、菜名子さんじゃない。こんな時間にどうしたの? 予約なかったよねー?」。化粧の濃い女が頭の先へ抜けるような高い調子の声を発した。
 「私ね、きのうから目の調子が悪くてコンタクトをしていないの。排泄かなー。だからちょっと離れてしまうと誰が誰だかわからなくってー」と菜名子の方に向かって一方的にしゃべった。菜名子のすぐ横にいる義幸のことなど眼中にないようだ。
 この女が、柏木敦子(42才)。このサロンの責任者だ。

 菜名子はこの柏木敦子から神世界のことをいろいろ教わってきた。いまになって見れば、それは、”教わった”というよりも、”植え付けられた”と言った方がいいかもしれない。
 菜名子は目の前に立っている敦子に飛びかかってやりたい衝動を感じたが、必死で自分を抑えた。
 柏木敦子が菜名子に話しかけている間に義幸は開けられたドアにそっとに近づき、ドアハンドルに外側から手をかけ、右足をドアの内側に割り込ませた。これでこのドアは簡単には閉めることはできなくなった。
 開けられたドアから室内の様子が少し見えるが、他の者が中にいる気配はなさそうだった。


3、特技
 義幸は高校、大学ともに野球部に属していた。高校も大学も、それほど強い学校ではなかったので甲子園にも神宮にも行くことはなかったが、野球の練習を通して精神的には随分自分が強くなったように感じていた。
 そして、なによりも野球を通して鍛えられたのが、”声の大きさ”だった。
 高校時代は3年間キャッチャーだった。キャッチャーは、グラウンドに広がっている部員全員に大きな声で指示を出さなければならない。先輩から教わったのは野球の技術もあったが、いかにしてよく通る大きな声をしっかり出すかについての指導を随分受けた。
 人間不思議なもので、大きな声が思いっきり出せるようになってくると、それだけでなんだか自分が少し成長したように感じたものだった。
 大きな声を出すためには、発する言葉の内容に確信を持っていなければダメで、中途半端な思いでは声にも迫力がなくなってしまうものだ。
 確信があって大きな声が出せたのか、大きな声が出せるようになって確信が増したのか、いまとなっては義幸もよく分からない面もあったが、とにかく大きな声を出すことにかけては自信があり、義幸も自分の特技として認識していた。

 柏木敦子が義幸の方に目を向け、「あら、ご主人?」と菜名子に尋ねた。
 菜名子は心の中では、「ええ」と答えたつもりだったが、高まる緊張のためか、それは声にはなっていなかった。

 義幸は体をまっすぐに柏木敦子に向け、一呼吸置いて声を発した。
 「あなたはここの責任者か?」。その声には冷静さが保たれてはいたが、怒りが込められていることが語調で分かった。
 腹の底から響くような義幸の大きな声はマンションの階段を伝わり、上下の階にまで響いたかと思うほどだった。
 突然の大きな声に、柏木敦子は一瞬ピクンと体を震わせた。
 「自分は攻撃の対象にされている」。直感的にそう感じた。自分の目の前にいる二人の男女は、自分に対して激しい怒りを持った二人であるということが、怒りを込めた義幸の大きな声によって直感した。
 「逃げよう」反射的にそう思った。いまこのサロンには自分一人しかいない。この怒りに満ちた二人の人間に対して、自分一人で対応するのはあまりにも分が悪すぎる。
 柏木敦子は握っていたドアノブを思い切り内側に引き、ドアを閉めようとした。しかしなぜかドアはびくとも動かない。何かがひっかかっているのかと思ってドアの下を見て、閉まらない理由が分かった。そこには義幸の黒くて大きな革靴が立ちはだかっていた。

 靴が偶然そこに置かれたものではないことは柏木敦子にもすぐに分かった。「この二人に私は何らかの危害を加えられるのか」と柏木敦子は心の中に怯えを感じた。
 人間はあまりにも大きな心理的衝撃を受けると、失禁(おもらし)することがある。
 敦子も実はこのとき、義幸のあまりにも大きな声、それは単なる声などというようなものではなく、音が分厚い壁となって自分に迫ってくるような圧迫感に圧倒され、思わず失禁しそうになった。
 敦子はそのような自分の身体の反応に驚きつつも思った。「排泄・・・。でもこんな場面で漏らしたら恥ずかしい・・・」。
 ドアは敦子がいくら引っ張ってもビクともしない。身長180cmはあろうかという義幸の身体は横幅もかなりあり、体重は80s以上はあるだろう。身長155cm、体重45kgの小柄な敦子の力ではどうにもならないことは明らかだった。

 助けを呼ぼうにも敦子は大声を出すことはできなかった。それは日頃から上司である市川花江に騒ぎを起こすことを厳しく注意されていたからだ。
 この部屋は会社組織となっているサロンの代表者・大場聡子の名義で契約されており、個人の住居として月35万円で賃貸されているものだった。賃貸契約はあくまでも個人が居住するためとして交わされており、サロンの営業をしていることは家主には内緒であった。
 そのことは敦子も上司である市川花江から繰り返し聞かされており、ここでこうしたヒーリングサロンの営業をしていることが家主にバレれば契約違反としてこの部屋を退去しなければならなくことは分かっていた。
 都内でこうしたマンションを借りるのにはかなりの金がかかる。あまり古い建物はダメで、ある程度立派で見栄えがする新しいマンションを借りないと客に心地よさ、優雅さを提供することができない。
 もし万一このマンションを撤退しなければならないことになったら、その被害は甚大なものがある。契約時に支払った礼金は戻らないし、新たな部屋が見つかるまでの間は、トランクルームを借りて家財道具を保管しておかねばならない。
 もちろんその間は客からの収入も途絶える。営業が一時期途絶えることによって客が逃げてしまわないように、たくさんの電話やメールを打たなければならないのも頭痛の種だった。実はこれまでにも同じようなことが何度かあったので、その苦労を敦子はよく分かっていた。


4、管理人
 このマンションの1階には管理人室があり、日中は管理会社から中田という初老の男性が管理人として派遣されていた。
 中田は管理人としては誠に立派な人物だった。少しでも廊下が汚れていればすぐにきれいにし、エレベーターの中に子供が落書きをした時などは徹底した調査を行い、落書きをした子供を突き止め、親に厳しく注意するといったありさまで、住民からは少々煙たがられるほど熱心に管理業務に当たっていた。
 以前にも契約に違反してマンション内でネールサロンの営業をしていた部屋があり、それを見つけた中田は有無を言わさず家主に報告し、発覚から数日でこのネールサロンは店をたたんで退去することになった。
 ここで敦子が大声を上げて助けを呼べば、それはすぐに中田に伝わり、その後どうなるかは敦子の頭の中でネールサロンの出来事とダブってはっきり見えており、大声を上げて助けを呼ぶことは出来なかった。

 義幸は胸のポケットに手を入れ、何かを取りだそうとした。敦子は義幸がポケットから何らかの凶器を取り出し、その凶器で殴打されるのかと恐怖心を高めた。
 しかし、義幸がポケットから取り出したのは、折りたたんだ紙の束だった。
 その紙はA4のコピー紙を数枚糊でつなぎ合わせたもののようで、かなり大きな文字で何かが書かれていた。
 義幸は、折りたたまれていた紙をパラパラと開き、文字が印刷されている面を自分の方に向けると、先ほどと同じく拡声器を使っているのかと思うような大きくよく響く声でそこに書かれている文面をゆっくりと読み上げ始めた。

 「私の妻は、このマンションの301号室に約2年間通っていた」。
 「マンションの皆さん、この301号室で何が行われているか知っていますか?」
 「ここでは通行人にビラを配ったり、客に友人を連れて来させたりして、ヒーリングサロンの営業をしている」。
 「それも普通のヒーリングサロンではなく、神様を騙ったいかがわしいヒーリングサロンです」。
 「ここに通っていた多くの女性が1年足らずの間に100万円、200万円という金を吸い取られています」。
 「言葉巧みに女性を誘導し、金を出さないと幸せになれないと女性を脅し、多額の金を搾り取っています」。
 「私の妻は約2年間で300万円以上の金を・・」
その時、階段を駆け上ってくる足音が聞こえた。

 階段を駆け上がってきたのは管理人の中田だった。
 中田が駆け上がって来たのとほぼ同時に、それまで人が住んでいる気配がなかった302号室、305号室のドアが開き、怪訝そうな顔でこちらを見つめる住人の目があった。
 時間の経過とともに現場を取り巻く人の数が増えてくるのを義幸と菜名子は確認し、一瞬顔を見合わせた。いま事態は、あらかじめ二人が想定した筋書き通りに進行しており、互いに言葉は交わさなかったが、互いの目は事態の進行に満足していることを示していた。
 柏木敦子は中田が階段を駆け上がってきた姿を見たとき、「ああ、このサロンはもうおしまいだな」と心の中で思った。

 中田の手には、先ほど義幸と菜名子が郵便受けに投入していたビラが握られていた。郵便受けはこのマンションの全戸数分と管理人室の分があり、管理人室のポストにもビラは投入してあったので、投入してすぐに中田が気づきそれを持参したようだった。
 ビラにはこの301号室のことや、神世界という団体によるヒーリングサロンを舞台にした詐欺犯罪のことが詳細に書かれていた。


5、玄関ホール
 この騒ぎがあった翌日、マンション前には車体に大きな熊の絵が描かれた引っ越し業者のトラックが止まっていた。301号室から次々と荷物が運び出され、トラックに積み込まれていった。
 台車に乗せたダンボール箱をエレベーターから運び出す途中でバランスが崩れ、3個のダンボール箱が玄関ホールの床に投げ出されてしまった。投げ出されたダンボール箱は、箱の上部をしっかりテープで留めていなかったため、箱の中身がほとんど全部箱から出てしまい、床にばらまかれた。
 運び出し作業を見守っていた市川花江と敦子はあわててその場に駆け寄り、床に散乱したダンボール箱の中身を拾い集めた。ばらまかれたのは、これから客に売る予定だった神書、ライセンス、額などの商品だった。
 床に散乱したライセンスを拾い集めながら、敦子は、「批判サイトに書いてあったことはやっぱり本当なのかな? この引っ越しが終わったら、もう一度あの批判サイトをよく見てみようかな?」と思い始めていた。

(完)

2007.08.29





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