神世界新聞
(下記は、2010.11.19更新)
神世界新聞 第9号(2010.11.1発行)を見て
神世界新聞第9号(2010.11.1発行)
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神世界新聞第9号がいつもの、「御霊光はすばらしい」というサイトに公開されていた。
第9号の記事はこれまでとほぼ同じような内容の繰り返しで、特に目新しいものはない。強いて特徴を上げるとすれば、第9号ではこれまで以上に「神世界新聞はいかに霊験あらたかなものであるか」を自画自賛した記事が多くなっている点が目につく。誰も評価してくれないので自画自賛するしかないのだろう(笑)。
もし仮に神世界がもう少しまともな宗教であれば、こうした機関紙には、自分たちが信ずる教えを広く社会に浸透させるために客(信者)は何をしなければならないか等、自分達と社会との関わり方について説くのが一般的だ。しかし神世界新聞にはそうした、”外部に目を向けた活動”を推し進めるための記事は皆無であり、現在の神世界新聞は、囲い込んだ客(信者)の目を神世界に釘付けにすることに躍起になっている姿勢が強くうかがえる。神世界は警察や被害者及び弁護団を敵視し、客(信者)には”奇跡のシャワー”を浴びせ続けている。こうした神世界の姿はオウム真理教が末期に見せた症状を彷彿とさせるものがあり、カルト特有の危険性を感ずる。
神世界新聞に掲載された記事の端々から見えてくるものは、神世界が如何に世間と乖離した団体であるかという怪しさばかりであり、このような新聞を発行し続けることは自らの首を絞める愚かな行為でしかないのだが、そうした客観的判断ができないのが神世界幹部なのだろう。
このように陳腐な新聞の内容についていちいち論評するのもバカバカしいことだが、このまま放置しておいて神世界の実態を知らない人が誤った判断をしても危険なので、第9号の記事の中から問題点を数点を取り上げて指摘してみよう。
■冒頭の3名
第9号でも1面に登場しているのは日原、宮入、和田の3名であり、これまでと同様だ。えんとらんすやE2の経営者は創刊号から第9号まで一度も登場していない。えんとらんすが活動を続けていることは紙面でも紹介しているのだからえんとらんす経営者も一言ぐらいは発言があってもよさそうなものだが彼らは全く紙面に登場してこない。
神世界事件が発覚した当時、大勢の記者を集めてケーキまで配り、”クリスマス会見”を行ったE2の杉本も神世界新聞の紙面には一度も登場していない。杉本は損害賠償訴訟の口頭弁論にも出廷しておらず(第1回から第3回口頭弁論までは杉本は代理人を立てていなかったので本人が出廷する必要があった)、どこに雲隠れしているのだ?
コソコソしているのは疾しいところがあるからだろうが、内容がないとはいえ、神世界の上記3名の経営者は紙面で意見を述べているのだから、えんとらんす経営者やE2経営者も一言ぐらいは意見を述べるべきだ。神世界がやっていることに整合性がないのは今に始まったことではないが、読者(信者)もたまには他の者の意見も聞いてみたいだろうから次号ではぜひ新たな経営者の声を聞かせてもらいたいものだ。
第9号での上記3名の記事は申し合わせたかのように、「神世界新聞から御霊光が・・」といった内容の記事を載せているのが笑える。編集会議でそのような方針が申し合わされたのだろうか?
日原は一面に掲載された「神」の文字のことを書いているが、あの場所の写真が現在の「神」になる前は岡田茂吉が描いた千手観音像だったことには一言も触れていない。宗教を標榜する団体が御神体を変更したのであればそれに対して然るべき説明があるのが普通であろうが、変更した理由があまりにも恥ずかしい理由なので沈黙しているのだろうか? 1〜7号までは裏面全面に薄く印刷されていた”武装解除された千手観音像”の絵は今回も印刷されていないが、その件についても一切の説明はない。都合の悪いことには一切触れないのが神世界流なのだろう。
和田は御霊光のおかげでどこかの子供が良い方向に変化した話を書いているが、和田は我が子の実態を見れば、御霊光をたっぷり浴びている筈の我が子が期待した通りには全くなっていないことに大きな途惑いを感じていることだろう。あるいは「知らぬは親ばかりなり」なのだろうか?
■「神書紹介」から「私の一言」に格下げ
神世界の顧問弁護士である尾崎幸廣弁護士はこれまで毎回、「神書紹介」と題する囲み記事を書いていたが、今回は表題が「神書紹介」から「私の一言」に変わっている。これまで尾崎氏が書いていた神書紹介もピント外れの感が強かったが、今回の内容は全くもってどうでもいいようなものでしかなく、さすがに編集者もこの文章に「神書紹介」との表題は付けることができなかったのだろう。
尾崎氏が活け作りが苦手なのは個人の勝手であるが、弁護士ともあろう者が、「生き物を生きたまま丸呑みするような食べ方をすれば、その生き物の怨みが怨霊化してマイナス化現象が発生し、胃癌などの原因になり得る」とか、(生きたまま調理したものを食べるような人には)祟りが生じても当然と私は思う」などの意見を述べることは、弁護士という職業の品格を貶めるばかりだ。
尾崎氏は弁護士になる前は30年間検事をしており、退職時は検事正だったというのだから、検事の常識とはこの程度のものなのかと呆れてしまう。
中国漁船が海上保安庁の巡視艇に衝突した事件に関して尾崎氏が「元検事正」として平成22年10月25日の国民新聞に投稿した記事を読むと、尾崎氏は中国人を平気で○○人と呼称している。○○人という呼称が差別用語であるか否かは諸説あるが、弁護士バッチを付けた者が安易にこのような言葉を使うのはいかがなものかと思う。
また尾崎氏はこの記事の中で大阪地検特捜部の前田元検事が証拠を改ざんした事件についても言及しているが、尾崎氏は事件を内部告発した検事を「悪者」扱いしている。その論法たるやこれが正義を貫く立場にいた元検事の発言かと目を疑う。その中で尾崎氏は内部告発した検事の行為を「五斗米に節を曲げた」と揶揄しているが、それを言うなら「五斗米の為に腰を曲げた」が正しい。「五斗米の為に腰を折る ( ごとべいのためにこしをおる)」というのは僅かな金のために権力にへつらうことを言うが、神世界のような怪しげな団体の為にちょうちん記事を書く行為こそが「五斗米の為に腰を折る」行為だ。
尾崎氏の人となりが明らかになるにつれ、この弁護士を顧問弁護士として雇った神世界と尾崎氏は誠に”お似合い”であると頷ける。
■周囲の人への感謝を忘れた愚か者
裏面上段の記事は今回も”奇跡話”のオンパレードだ。強制捜査前にもサロン内には多数の”奇跡話”をプリントしたものが置かれていたが、後になってそれらの文章を書かされた者が証言したところでは、”他の人が見たときに感動をおぼえる内容になるまで何度も書き直しを命じられた”と述べている。カルトの”奇跡話創作方法”は手口が共通しており、些細な出来事がとんでもない奇跡話に化ける例は枚挙にいとまがない。神世界の奇跡話も、「鼻血がなかなか止まらなかった」というだけの話が、「鼻血が洗面器一杯でた」という針小棒大な内容に”創作”され、鼻血を出した当人が驚愕した例もある。洗面器一杯分も出血すれば出血多量で死亡する。奇跡話のこうした裏事情を知っている私としては、神世界新聞に書かれた奇跡話の記事が100%本人の意志で事実に基づいて書かれたとは思えない部分も多々あるが、そうした疑問はここでは置いておこう。
今回の7点の”奇跡話”を読んで私が感じたのは、書かれているような病状改善は人間の自然治癒力から考えれば何ら不思議なことではなく、当然起こりうることだと感じた。人間の体の状態は心と密接につながっており、難聴の多くは心因性である場合も多い。北海道の女性の軽難聴が回復したのは、理解のある夫と結婚することができ、生活が安定したことで心が楽になり、それが難聴の症状改善に大きく役だった可能性がある。心理的安定が病状改善につながったとする改善例は多数報告されており、この女性が本当に感謝しなければならないのは、自分を優しく見守ってくれている家族に対してである。病状が改善した背景には、医師による治療が徐々に効果を上げてきた可能性も十分考えられる。自分を取り巻く家族や病院関係者の尽力に対する感謝を忘れ、病状が改善したのは神様のおかげと思い込んでいるのは滑稽かつ愚かなことである。
■「宗教行為がなぜ」
神世界新聞の裏面下部には、毎回「宗教行為がなぜ?」と題した記事を掲載しているが、この表題自体がきわめて大きな欺瞞である。神世界に多くの被害者が騙されてきた背景には「ここは宗教ではない。会社です」という言葉がある。客を勧誘する際には「ヒーリングサロン」や「デトックス」などと称し、宗教色を隠して客に近づき、ある程度客がなじんでくると「霊」や「先祖」の話を持ち出した上で不安を煽り高額な金を出させてきたのが神世界商法だ。神世界の祭典に出席し、御神体に向かって深々と平伏させられたことで疑問を深めた客が「ここは宗教か?」と尋ねても、神世界関係者は平然として「ここは宗教ではない。会社です」と虚偽の説明を続けてきた事実がある。
それにも係わらず、事件が公然化し、裁判が始まった途端にこれまでの発言を180度翻し「神世界は宗教だ」と言い始めた。
ここまで平然と嘘をつく人間に私はこれまで会ったことがない。神世界がやってきたことへの責任追及をかわす目的で宗教の壁の中へ逃げ込もうとしているのだろうが、そのような嘘を平然とつくことに良心の呵責は感じないのか? 自分の子供にどう説明するのだ? 「嘘つきは泥棒の始まり」と子供に教えておきながら、親が大嘘をついている姿を子供が見たとき、子供が悲しむとは思わないのか?
■国語の勉強をし直せ
私は国語の教師ではないが、日本語の極端な間違った使い方を放置できるほど寛容でもない。神世界新聞第9号裏面の「法律解説・宗教活動がなぜ?」と題した記事の中に、「石の上にも3年という言葉がありますが・・」という書き出しの質問文が掲載されている。この書き出しに続く文章を読んでいくと、そこに書かれている内容は、どう考えても最初に「石の上にも3年」という文言を述べるような内容ではない。「石の上にも3年」というのは、「冷たい石でも3年座り続けていれば温まってくるものだ」という意味があり、そこから転じて、「しんぼう強くがんばれば、やがて報われるものだ」という人生訓を述べた言葉だ。この言葉は辛い環境下にあっても自分に課せられた課題を果たすべく頑張り続けることの大切さを教える言葉であり、何も努力しないで3年間漫然と待っているような者に使う言葉ではない。
被害者はこの3年間、辛抱強く神世界関係者が逮捕される日が来ることを待ち望み、捜査協力や損害賠償訴訟提訴、神世界に係わったことで失った職や信用を回復させるために大変な努力をしてきた。神世界関係者はこの3年間何を辛抱し、どのような環境改善に向けた努力をしてきたのだ? 神世界関係者は、「早くほとぼりが冷めて再び以前のような荒稼ぎができる日が来てほしい」と願ってきただけでしかなく、あれだけ多くの被害者を出しておきながら何ら社会的責任を果たす努力をしていない。自堕落な神世界にこの諺を使う資格はない。
更に言えば、「石の上にも3年」というのは、人間として真っ当な道を目指すときに使う言葉であり、被害者を出すような非人間的行為の復活を願うときに使う言葉では更々ない。
諺を使うのであれば、その意味をきちんと調べた上で正しく使わねば常識を疑われるだけだ。神世界関係者に常識を期待することが間違いだと笑われるかもしれないが敢えて苦言を呈しておく。
■宗教法人・神世界
神世界新聞には「宗教行為がなぜ?」などというふざけた表題の記事を毎回掲載し、神世界がやってきた行為は宗教行為だが、有限会社という形態をとってきたために霊感商法という”誤解を受けた”などと抗弁している。
このシリーズで彼らは今後の対策として、神世界の宗教行為を行う部門は宗教団体として再構築し、宗教活動にともなう現業部門では会社組織を残した形態に移行しようとしているようなことを述べている。
このような発言は神世界がやってきたことは宗教行為だと装うためのポーズに過ぎないと思われるが、百歩譲って神世界が「正式に」宗教団体としてやっていけるものかを考えてみたい。
神世界関係者は、また以前のような荒稼ぎができる日が来ることを首を長くして待っているのかもしれないが、神世界の手口は警察の捜査によってすでに暴かれており、今後神世界が以前のような荒稼ぎができる可能性は全くない。もし神世界が以前のような犯罪行為を再び行えば、警察は新たな証拠が得られたと喜んで関係者を検挙するだろう。警察に犯罪者集団として目をつけられた神世界が再び甘い汁を吸える可能性は全くない。
霊感商法を行ったとして警察の強制捜査を受けた怪しげな団体が、有限会社から宗教団体へと変身の術を講じてみたところで信者を獲得できる見込みなどありはしない。もし単純に”宗教団体になれば神世界は元のような「活気」を取り戻すことができる”と思っている者がいるとしたら、それは相当脳が侵されている証拠だ。神世界のように怪しげな団体が新たな宗教団体をでっち上げたところで何一つとして人を引きつける魅力などなく、信者が集まることなどあり得ないのは自明の理だ。神世界本部に設置されていた、「21世紀は神世界」の看板を塗り潰した行為が象徴しているように神世界は消滅への道を歩んでおり、「宗教法人・神世界」は絵に描いた餅でしかない。
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